天御柱(あめのみはしら)は、前にご案内しましたが神々との交信施設です。
従いまして、天御柱を回る行事というのは、神事であって、神々の前で御魂を結ぶための、今風に言ったら婚礼の儀です。
その婚礼の儀に際して、イザナキは、
「お前は右から回れ。私は左から回る」
と述べています。
地球は反時計回りに自転していますから、これを上から(北から)見たとき、右から回れば地球の回転と同じ方向に回ることになりますので、仮に地球の自転と同じ速度で回るなら、イザナミは、一箇所から動いていないのと同じことになります。
一方男性であるイザナキの側は、自転とは逆方向に進むので、すばやく目的地に到達できます。
そういう意味からしますと、「お前は右から回れ。私は左から回る」という表現は、物事の合理性を示しているように思います。
合理的であることが、道理であり、正しいことなのだという理解が背後にあるわけです。
そしてこのことは、次の段でご説明しますが、万年の単位での古い伝承を、きわめて短くまとめたものであるという見方ができます。
回り終えたとき、先に女性神であるイザナミの方から、
あなにやし えをとこを
「阿那迩夜志愛(上)袁登古袁」
と声をかけています。
これは「あら、良い男だわ」といった意味です。
(上)というのは、上声といって、そこを強調して読みます。
ですから音節のうえからは、
「えぇオトコ!」といった感じになります。
そこでイザナキは「女性が先に声をかけたのはよくなかったのではないか」と心配するのですが、結局「久美度迩興(くみどにおこし)」て子を生むわけです。
「くみど)」は女陰のことという説もありますが、そうではなくて、普通に「組所(くみど)」、つまり夫婦の寝所のことを指していると思います。
夫婦で寝所を設けたことを、寝所を「興した」と書いているわけです。
ところが生まれた子は「水蛭子(みずひるこ)」であったと書かれています。
「水蛭子」は、こう書いて単に「ヒルコ」と一般に読みくだすとされますが、このくだり(久美度迩興而生子水蛭子)を七五読みしようとすると、「みずひるこ」と読まないと、どうしても字余りになってしまいます。
そこで「くみどにおこし うめるこは みずひるこ」としたのですが、蛭のような軟体動物ということを言いたいだけであるならば、「水」という字を付ける必要がありません。
むしろここは、「蛭のような形をした水辺を持つ所で、現在は失われている場所」を意味しているのではないかと思います。
なぜなら、そもそもここは「国生み」を描いているところなのです。
つまりここでイザナキとイザナミが生もうとしているのは、明らかに国土であって、軟体動物ではありません。
我が国は、一度も滅ぼされることなく文化伝承がずっと継続している国です。
そして古事記が書かれた七世紀という時代には、もっとはるかに古い、もしかしたら万年の単位の古い伝承が、ちゃんと残っていた可能性があります。

上の図は2万年前の地形を簡単に描いたものですが、当時の地形は今とは全然異なっていて、図の青線で示したのが海岸線となっていました。
これは地球全体が寒冷化していて、海面がいまよりも140メートルほども低かったために、いま大陸棚となっているところが地上に露出していたのです。
そしてこの時代は、とても気温が低い時代だったのですが、ありがたいことに日本列島周辺は、北側のベーリング海峡が陸続きとなって北極海から流れ込む寒流を防ぎ、南からは暖かな暖流が流れ込んできていましたから、いまの琉球諸島のあたりはたいへんに温暖で、人々が住むにはちょうどよいところであったようです。
そして図の「曙海」と書いたところは、後に琉球諸島となるところが自然の堤防となり、波おだやかで、何より地形からいえることは、魚が豊富であったであろうということです。
そしてこの曙海、形を見ると、私だけかもしれませんが、どうにも「ヒル」のような形に見えます。
まさに「水でできたヒルの湖(こ)」なのです。
そしてこの子は、葦船に入れて流し去った(此子者入葦船而流去)と書かれているのですが、海面が上昇して水没すれば、それはまさに流しさられたと同じことになります。
さらに次に「次に生まれた淡島も子のためしに入れず」とあります。
人々が住んでいた場所が水没していく過程で、次々と島に移り住んだけれど、それらも泡のように水没してしまったとすれば、まさに万年の単位の古代史を、古事記は短い言葉で、しっかりと描いていることになります。
ここにおいては ふたはしらかみ はかりていはく
於是、二柱神議云
いまあがうめる こよからず
「今吾所、生之子、不良。
ゆゑによろしく あめにてかみの みもとにまをす
猶宜白天神之御所」
すなはちともに まゐりのぼりて
即共参上
あめのかみの みことをこひき
請天神之命
しかしてあめの かみのみことを もちゐるに
尓天神之命以
ふとまににて あひうらなへば
布斗麻迩尓(上此五字以音)ト相
これをのらさく
而詔之
をみなまずいふ よりてよからず
「因女先言而不良
またかへりて あらためていへ
亦還降改言」
ゆゑにしかして かへりをりては
故尓、反降、
さらにその あめのみはしら さきのごと ゆきめくる
更往廻其天之御柱如先
ここにおひて いざなきみことの まずいうは
於是伊耶那岐命先言
あなにやし えをとめを
「阿那迩夜志愛袁登売袁」
あとにいざなみ まをさくは
後妹伊耶那美命言
あなにやし えをとこを
「阿那迩夜志愛袁登古袁」
天の御柱を回るという婚礼の儀において、女性神である伊耶那美の方から先に声をかけることによって水蛭子が生まれてしまったことが「よくなかった」と考えた二神は、天の神様に事の次第を相談してみようと協議しているところです。
かように神様が協議することを「神議(かむはかり)」といいます。二神はここで、
「共に参りのぼりて(即共参上)、
天の神の命(みこと)を請いき」
とあります。
二神は、天の神様のもとに参上して、天の神様の指導を請うたわけです。
ところが古事記は続けて、
「しかして天の神の命をもって、
不占(ふとまに)で占った」と書かれています。
二神が揃って神様のもとに行って、直接神様から教えを請うてきたはずなのに、神様の声を太占(ふとまに)で占ったというわけです。
太占(ふとまに)というのは、鹿骨占いのことをいいます。
鹿の骨を焼いて、できたひび割れによって、様々なご神意を得ようとするものです。
要するに何を言っているのかというと、肉体と魂と両方の存在を古事記は念頭において、ここの記述をしていると考えられます。
イザナキとイザナミが肉体を持つことは、この前の段で「成成りて成り余るところあり」などの記述で明らかにしています。
けれども同時に二神は、神様でもあるわけです。
これが何を意味するかと言うと、イザナキとイザナミの肉体には、それぞれイザナキの御神霊、イザナミの御神霊が宿っているわけです。
その御神霊が、天の神様のもとに、教えを請いに行っています。
けれど、肉体の方のイザナキとイザナミは、その答えを御神霊から直接聞くわけにいきませんから、太占で、答えを得ようとしています。
このように古代の日本人にとって、肉体に魂が宿っているということは、ほとんど常識といって良いものであったと考えられます。
むしろ御魂の方が本体であって、肉体はその乗り物にすぎない。
そして誰もが、肉体だけでなく、御神体としての魂を持っていると考えられていたのです。
そして魂は、御神体ですから、神様の声を直接聞くことができます。
けれども肉体にはその声は聞こえませんから、その結果を神様に教えていただくのではなくて、神様のもとにお伺いして聞いてきた自分の御魂に聞くのです。
それが太占(ふとまに)です。
この太占の答えは、鹿の骨のひび割れのパターンですが、そのパターンは50通りに分類され、それぞれのパターンごとに意味が付せられていました。
そのパターンを記号化したものが、神代文字です。
神代文字には、ひび割れとは似ても似つかない文字もありますが、それらは50個あるそれぞれのひび割れの保つ意味を記号化したものといえます。
つまり神代文字には、
(1)ひび割れのパターンそのものを記号(文字)にしたもの
(2)そのパターンの持つ意味を記号(文字)にしたもの
の2通りの種類があるのです。
イザナキとイザナミは、こうして神々から聞いてきた答えを太占(ふとまに)で得ます。
果たしてその答えは、
をみなまずいふ よりてよからず
「因女先言而不良
またかへりて あらためていへ
亦還降改言」
というものでした。
イザナキが予測した通り、天の御柱を回るという婚礼の儀に際して、先にイザナミの側から声をかけたのが、やはりよくなかったのです。
そこで二神は、あらためて婚礼の儀をやり直し、今度は先に男性であるイザナキから、「おお、いとしい女性よ」と声をかけるわけです。
この「男性から声を掛ける」ことの説明が、実は、上の段にあった「天御柱を右から周る、左から回る」の記述です。
「右から、左から」というのは、物事の合理性を説明したものであると書かせていただきましたが、実は男性から声をかけるということもまた、合理的なことなのです。
これはドーキンズの『利己的遺伝子』論で明かされたことですが、男性が理論上は無尽蔵に子種をまく事ができるのに対し、女性には生理期間と妊娠期間があり、このため生涯の出産回数に制限があります。
ですから女性ができるだけ良い遺伝子を遺すためには、男性を選り好みしなければなりません。
このため多くの動物では、男性が女性に選ばれようとして立派な姿(ライオンや孔雀などを想像してみてください。オスの方が立派な外見をしています)になるのですが、人間の場合、お化粧をして身ぎれいに飾るのは女性の側です。
この状況で誘うのも女性ということなってしまうと、男性は出産回数の制限がありませんから、誘われたら種をまくだけの、ただの女性の下僕になってしまいます。
けれど人類の場合、男性には(子供を含めて)女性を守るという義務と責任があります。
とりわけ妊娠期間中や子が幼いうちは、女性は自ら食料を得ることが出来ませんから、食べ物を運ぶのはもっぱら男性の役割になります。
このとき男性に「自分が選んだ女性なのだ」という自覚があると、それだけ男性の責任感が増し、妊娠期間中や子供が幼いうちの女性の側のリスクが減ります。
そしてそのために女性は、自らお化粧をしながら男性からの誘いを何度も断わり、男性が生涯その女性に尽くすと誓うようになってはじめて、クミドを承知するわけで、これは実に理にかなったことということができます。
こうしたことを踏まえて、古事記は「男性から声をかけなさい」と説いているのではないでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
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あなにやし えをとめを
「阿那迩夜志愛(上)袁登売袁」」
女性神のイザナミが、えをとめを、と言っては変です。ここはえをとこを、でしょう。
2019/04/09 URL 編集
takechiyo1949
それが歴史を學ぶ事?
マニアックな方々を大勢見掛けますが、そういう事なのでしょうか?
御先祖様の様々な経験や判断。価値の根元を教えとして學ぶ。
と…ねずさんは仰っています。
しかし…いきなり古事記や日本書紀に取り付いても荷が重すぎます。
ねずさんと一緒に歩きながら、それを実感し続けています。
「寅さん」は言いました。
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いいかい?
ハイ。
並んだ数字がまず一つ。
物の始まりが一ならば、国の始まりが大和の国、島の始まりが淡路島、泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、助平の始まりがこのオジサンっての。
ね。
笑っちゃいけないよ。
助平ってわかるんだから…目付きみりゃ。
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先ずは大雑把な捉え方で入ってみる…それも子供の頃から!
大切な事だと思います。
2019/04/08 URL 編集