涙の杉坂峠と石黒小右衛門



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日本の武士の忠義を、主君のためだけのものと考えると大間違えします。
主君に対する忠義は、あくまでもそうすることが結果として民のためになると思われるから、そうしているだけのことで、忠義の本質はあくまで民への忠義におかれています。
なぜなら日本は「天皇の知らす国」だからです。
このことは、鎌倉時代も、室町時代も、戦国時代も、江戸時代も変わりません。
そして武士道が、国民の道となった明治、大正、昭和においても、官の忠義は、常に民のためにある。
そのように考え、行動してきたのが、日本人であり、日本の武士です。


20190425 杉坂峠
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


石黒小右衛門(いしぐろ こえもん)は、非常にまじめで有能な官吏として京都所司代の土岐丹後守頼稔(ときたんごのかみよりとし)に見出され、延享元(1744)年に、勘定吟味方に出世した人です。
この職は、与力の中でも最重要な要職です。
そして寛政2(1749)年、60歳のときに美作国・鹿田(現・岡山県真庭市落合町鹿田)の4代目代官を拝命し、そこに赴任しました。

代官に赴任して七年目、宝暦5(1755)年9月のことです。
中国山地を襲った大雨が、瀬戸内海に流れ出る旭川を増水させて、堤防が決壊し、各地に大規模な水害が発生したのです。
とくに被害が大きかったのが、向津矢村(むかつやむら)で、37戸のうち2戸が残っただけで他は全壊、しかも収穫間近の田畑も全滅し、村人や家畜も多くが命を奪われました。

石黒代官は各所の被災地を回って村を指揮して復旧に努めるのですが、限られたお蔵米では、壊滅的な打撃を被った向津矢村をどうにもできない。
もはや幕府の救いを求める以外に、被災地救助の方法がない状況になりました。


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20190317 MARTH



石黒小右衛門は、江戸に使いを送り、向津矢村の災害救助のためのお米の支給を願い出ました。
ところが一日千秋の思いで待った幕府の指示は、
「向津矢村の復興はあきらめよ。
 村民全員、遠く離れた
 日本原へ移住せよ」
というものでした。
要するに、ある程度田畑が残った村であれば、お蔵米の放出による被災地救助は、当面の補填で足りるのです。
けれども田畑が全滅し、その復興期間と、次の作物が出来るまでという長期に渡ってお蔵米を放出し続けることは、財政的に無理がある。
だから田畑が健在でむしろ人手が足りない日本原に移住させよ。
そうすれば、近々には作物を得ることができるようになり、向津矢村の人たちの命は救われる、という内容です。

ところが村人たちは、先祖が眠り、長い間耕し守り続けてきた土地を捨てるのはあんまりだ、なんとしても向津矢村の復興をしたいと、石黒代官に願い出ます。
けれど近隣の村々からの救援物資も底をつき、わずかな余裕すらもありません。
「それでも」と村人たちは石黒代官に迫りました。

彼は向津矢村の結神社(むすびじんじゃ)に、村民を集めました。
そして、代官所が全責任を負って向津矢村の復興を何としても成しとげること、復興へのめどが付くまで租税を半分免除すると言い渡しました。
「働くことは一村一家を、
 もう一度立て直すための原動力である。
 真に家業に精を出せば
 神は必ず守ってくださる」
と訓示し、

 心だに 誠の道に叶ひなば
 祈らずとても 神や守らん

という歌を村人たちに渡しました。

村人たちは、石黒代官のこの言葉と歌に感激しました。
そして村人たちは一致団結して、まさに昼夜を問わない復旧作業に取り組み、その努力が実って、およそ一年後には荒れ果てていた農地もほぼ被災前の姿を取り戻しました。

ところが石黒代官の行動は、実は幕府の許可なしに行ったものでした。
彼は事情を幕府に報告し、あらためて許可を受けようと、江戸に向かいました。
石黒小右衛門は、誠意を込めて幕府の役人に事情と経過を説明しました。

その帰り道でのことです。
石黒代官を乗せた駕籠(かご)が、杉坂峠に差し掛かったとき、一台のかごが追い抜こうとしてきました。
当時の習慣では、武士の乗った駕籠は、みだりに追い越すものではありません。
みだりに追い越せば、斬り捨て御免もやむなしとされていたのです。

石黒小右衛門は、追いついてきた駕籠を停め、行き先と用件をたずました。
それは「代官罷免」の幕府の命令を伝える早駕籠でした。

たとえそれが善い行いであったとしても、結果が良かったとしても、お上の命令に背いたとあれば、処罪に値します。
罷免後の処遇がどのようなものになるかは、この段階の石黒小右衛門にもわかりません。
もしかしたら、ただ更迭となるだけで、身分や俸禄は安泰で済むかもしれません。

けれど、たとえ更迭で済んだとしても、自分を代官にとりたててくれた京都所司代の土岐丹後守さまには、迷惑をかけることになります。
あるいは後任の代官によって、お上の命令が年遅れで実行されて、彼らが日本原に移住となれば、これまでの村人たちの努力は水の泡になってしまいます。
また、代官罷免の処分が、切腹を伴うものであれば、それは上意による切腹です。
この場合、石黒の家は閉門となり、石黒家の一同は俸禄を召し上げられ、家族は明日から露頭に迷うことになります。

石黒小右衛門は、決意します。
そして駕籠の中で腹を斬りました。

人間、腹を斬っても、そう易々と死ぬものではありません。
だから普通は、介錯人がいて、途中で首を刎ねるのです。
長く苦しませないようにします。
けれど石黒小右衛門は、せまい駕籠の中で、ひとり、介錯なしで切腹して果てました。

石黒代官の亡きがらは、遺言どおり、鹿田村の太平寺に手厚く葬られました。
知らせを聞いた向津矢村の村民たちは、石黒代官の厚い恩に報いるべく結神社の境内に末社(神社に付属する小さい神社)を建て、そこを石黒神社と名付けました。

それから三百年が経ちました。
村人たちが参拝を欠かさなかった結神社は、明治42(1909)年に垂水神社に統合されたけれど、いまでも鹿田踊りの一節にも歌われ、人々は石黒代官の遺徳を讃えています。

さて、石黒小右衛門の「腹を切る」という行為が、武士の忠義から出たものであることには、議論の余地はないものと思います。
忠義の「忠」というのは、その字の通り「まんなかの心」です。
いきるうえでの中心となる心が「忠」です。
「義」は、羊編に我と書きます。羊は古代において神への捧げものでした。その捧げものに我を捧げる。つまり不自惜身命の心が「義」です。

ならば、その忠義は、なんのための忠義だったのでしょうか。

(1) 石黒小右衛門は幕臣だから幕府に対して忠義をたてて腹を切った。
(2) 世話になった京都所司代の土岐丹後守の立場を守るための忠義として腹を切った。
(3) それとも村人たちへの忠義のため、腹を切った。

正解は、実は(3)なのです。

先日ご紹介しました福井文右衛門も、村人の食を守るために働き、そして腹を切りました。
今回ご紹介した石黒小右衛門も、村人のために働き、腹を切りました。

実は、これが日本の忠義なのです。

諸外国では、忠義というのは、常に領主に対して行われます。
領主は、国王であったり、上司の貴族であったり、あるいはChinaなら皇帝であったりするのですが、忠義心というものは、常に領主に対してのみ発揮されるものとされています。

領主は領民の支配者であり、領民は臣下であっても、民衆であっても、それらはすべて領主の私有民です。
ですから忠義は、常に領主のためにだけあるわけです。
つまり、領民は領主のためだけに存在しています。
主役は領主ですから、忠義は領主のためだけにしか存在しません。

ところが日本では、逆です。
領主は、領民のためにあります。
領主はあくまで天皇のおおみたからを預かる立場です。
武士は領主のために、ときに命をかけて働きますが、それは領主のためにはたらくことが、結果として最大に尊重すべき領民のために働くことになるからです。
あくまで主役は領民たちなのです。

石黒小右衛門にしても、福井文右衛門にしても、領主や世話になった上司に対しては迷惑をかけています。問題を起こしたのです。
けれど腹を切ったのは、「迷惑をかけたから」ではありません。
あくまで、村人の窮状を救うために、その責任を一身に背負って腹を切ったのです。
つまり自分が治める領民たちのために、腹を切ったのです。

これは実はすごいことです。
世界中のあらゆる国家が、忠義は領主に対してだけのもの、つまり上下関係の中にあって、常に目上に対して発揮されるものであるという中にあって、日本では、まったく逆に領民のために忠義が発揮されているのです。
それが日本の忠義です。

日本の国の形は、簡単にいえば、「公・臣・民」という三層構造になっています。
「公」は、天皇です。。
「臣」は、政治を司る者です。
「民」は、一般の民衆です。

世界中、どこの国おいても、「臣」は「公」のためにのみ存在します。
そして公は臣を私有し、臣は民を所有(私有)しています。
つまり、公→臣→民の順番で、私有関係が構築されています。

ところが日本の公は政治権力を持ちません。
政治権力は臣が持っています。
そしてその政治権力は、民のためにのみ発揮されます。
そうすることが、結果として公に尽くすことになるからです。

戦時中、日本の軍人や武士の「ハラキリ」は、諸外国の人たちにはまったく理解できないことでした。
彼らには、それは日本人の異常行動にしか見えなかったのです。
なぜなら、兵も騎士も武官も軍人も、その忠義はあくまで国家や上長のためにのみ発揮されるものであると、彼らが考えていたからです。

けれど日本は違うのです。
日本の武士も、政治権力者も、常に陛下の民である民衆のために尽くすことこそが忠義だったのです。
その民衆を守れなかった、役割を充分に達することができなかった。
だからその責任を一身に荷なって腹を切ったのです。

この民こそを大事とする日本の考え方は、すくなくとも7世紀には、わがくにの国体として明確に確立されたのです。
7世紀ですから、いまから1300年も昔です。
その古い時代から、「臣は民のためにこそ存在する」というのが日本の常識でしたし、その感覚は現代日本人の中にもそのまま受け継がれています。
官は民のためにこそある。日本人なら誰でも普通にそう思っています。

ヨーロッパで市民権が確立されたのは18世紀後半以降のことです。
それより千年以上も前から、日本では民こそが国の大事とされてきたのです。
それが日本の、すでに血肉となった常識なのです。

だからこそ、石黒小右衛門も、福井文右衛門も、民のために忠義を尽くし、腹を切りました。
それが武士の道だと信じたから、彼らは腹を切ったのです。

日本の武士の忠義を、主君のためだけのものと考えると大間違えします。
主君に対する忠義は、あくまでもそうすることが結果として民のためになると思われるから、そうしているだけのことで、忠義の本質はあくまで民への忠義におかれています。
なぜなら日本は「天皇の知らす国」だからです。

このことは、鎌倉時代も、室町時代も、戦国時代も、江戸時代も変わりません。
そして武士道が、国民の道となった明治、大正、昭和においても、官の忠義は、常に民のためにある。
そのように考え、行動してきたのが、日本人であり、日本の武士です。

もちろん世の中は「分布」ですから、そうでなくて主君への忠義という狭量な考えしかもてない、眼が二つとも上についているヒラメのような武士もなかにはいたことでしょう。
しかしそればかりであるならば、武士が、自身の担当する領土のことを「知行地(知らすを行う地)」と呼んだことの説明が付きません。
個人差はあっても、全体として我が国の武士は、どこまでも民を守るための武士であるという基本認識は、我が国共通のものであったといえるのです。

その意味で、武士道とか武士の生き方などということも、江戸時代には一部、葉隠などを除いては、それほど議論もされていません。
武士は一所懸命。
自身の担当する知行地とそこに住む人々は、天子様の大御宝であり、これを守り抜くためには、名誉どころか命さえも惜しまない。
その不自惜身命の心得こそが、武士の武士たる所以(ゆえん)であったし、それが当然のことであり、ごくあたりまえの常識とされてきたのです。

最近では、西洋かぶれ、左翼かぶれのごく一部の人が、教育の現場においても、あるいは映画やドラマ、小説などの娯楽の分野でも、忠義は主君のためにあったとか、職業人が家族を犠牲にするのは当然のことだなどと、嘘八百がまき散らかされているようです。
しかしそれは、日本の武士道を諸外国の職業軍人と混同した、大間違いの大嘘です。

それが大嘘であることは、今回の石黒小右衛門の行動が、主筋にあたる幕府への忠義だけでは決して説明がつかないことでも、おわかりいただけようかと思います。

日本は「シラス国」です。
「ウシハク国」ではないのです。


※この記事は2010年4月の記事をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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03-02 見立てると成り成りて
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コメント

takechiyo1949

國體(くにぶり)は、正に由々しき状態です
心だに誠の道に叶ひなば
祈らずとても神や守らん

杉坂峠は、石黒小右衛門が腹を斬った後、竹が茂ったそうです。
「武」は「竹(たけ)る」です。
農と民を護る…平成の大災害は未だに復興を果たしていません。
右往左往して能書きばかり!
そんな政治家や官僚が今も跋扈しています。
國體(くにぶり)は、正に由々しき状態です。
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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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