日本書紀の記述は「三歳になっても脚(足)が立たなかった」とあり、これでは骨がないわけではなさそうです。
さらに「ヒルコ」は、大日靈貴、月神のあとに生まれています。
大日靈貴、月神はそれぞれ太陽と月を意味し、「ヒルコ」の次に生まれる素戔嗚尊もまた、その漢字の意味は「大元の鳴動」を意味するご神名です。
それならやはり「ヒルコ」もまた創生の何かを象徴している神様であって、骨なし人間という解釈は成り立ちません。
古事記の記述は国生みの最初の子がヒルコであって、その後には淡路島や四国、九州、本州といった陸が生まれています。
つまり「人生み」ではなく、「陸生み」なのですから、やはり骨なし人間という解釈は妥当性を欠きます。
では「ヒルコ」とはいったい何を指しているのでしょうか。
ヒントになるのが、古事記の書く「水蛭子」と、日本書紀にある「天磐櫲樟船に乗せて流した」という記述です。
古事記が「ヒルコ」と書きたいのなら「蛭子」でも良かったはずです。
にもかかわらず古事記は意図して「水蛭子」と「水」の字を付けて書いています。
つまり「ヒルコ」は何らかの水に関係した事柄を意味しているといえるわけです。
さらに日本書紀では「天磐櫲樟船に乗せて流した」というのですが、櫲樟(よしょう)というのは、くすの木のこと、「磐」というのは、櫓(ろ)の付いた船のことを言います。
わかりやすい例を挙げるなら、古代において地中海交易で活躍した舷側にたくさんの櫓(ろ)の付いたガレー船です。(下図)

図を御覧頂いたらわかりますが、ガレー船は舷側に櫓のための穴が開いていますから、地中海のような波のない内海では活躍できますが、大西洋や太平洋のような波の高い外洋での航海には適しません。
ですから大航海時代になって外洋航海が盛んに行われるようになると、船の形も櫓のない帆船に変化しています。
つまり、「ヒルコ」を乗せて流した「天磐櫲樟船」は、何らかの波のない海を往来していた船を意味すると考えられるわけです。
さて、我が国の歴史は、遺跡としては12万年前の旧石器時代にまでさかのぼるものなのですが、人が神話を持ち始めるのは、磨製石器が登場するようになってから以降のこととされています。
どういうことかというと、磨製石器は、誰かが専門に石という硬いものを磨かなければならないからです。
そのためには、集団がある程度の大きさにならねばならず、石器を削ったり磨いたりするという社会的分業を営なむことができるだけの集団は、その集団を保持するための基礎となる集団がなぜ集団を形成しているのかという神話が必要になるとされています。
ですから西欧の文明はおよそ8千年前のシュメール文明における磨製石器の登場にまでさかのぼるとされており、我が国ではこれが世界最古で、およそ3万年前の磨製石器の時代にまでさかのぼることになります。
ということはつまり、記紀に書かれた神話は、3万年前からの長い歴史を、きわめて短い言葉に圧縮して述べているとみることができます。
ところが、万年の単位で歴史を考えるときには、ひとつの注意が必要です。
それが「地形が今と違う」ということです。
2万年前を例に取ると、その頃は地球気温が今よりもずっと低くて、海面は今より140メートルも低かった時代です。
そうなると、いま海中にあって大陸棚になっているところは、ほぼすべて地上に露出します。
気温というのは±1℃違うと、仙台と鹿児島の気温が逆転します。
それが−10℃ともなれば、日本列島は、かなり寒かったであろうということになりそうなのですが、これが実はそうでもないのです。
下の図はベーリング海峡ですが、図の薄い水色のところが現在の大陸棚で、その大陸棚は2万年前には陸地だったところです。
ユーラシア大陸と北米大陸が陸続きだったことはよく知られたことですが、2万年前には、先端部分がほんのちょっとくっついているというようなものではなく、二つの大陸はガッチリと陸続きになっていた様子を図から見て取ることができようかと思います。
図の薄い水色のところが、かつて陸地だったところです。
ベーリング海峡

このベーリング海峡が、いまは開いている(陸続きでない)ことから、日本列島には北から北極海の冷たい水が南下しています。
これが親潮で、暖流の黒潮と日本列島近海でこの二つの海流が衝突し、そこが素晴らしい漁場になっていることは、みなさまよくご存知の通りです。
ところがベーリング海峡がふさがっていると、日本列島周辺に北極圏の冷たい水が南下しません。
代わって赤道方面から北上する暖流が日本列島を北上してアリューシャン列島方面に抜けることになります。
つまり、日本列島付近は、とても温暖になるのです。
それでも地球気温がいまより10℃も低いのです。
そうなると日本列島よりも、いまの琉球諸島のあたりの方が、ずっと住みよくなります。
ところが、その琉球諸島あたりの地形が、いまとは、これまた全然異なるのです。

上の図は、その琉球諸島あたりの地形ですが、図をご覧いただくと、大陸がいまよりもずっとせり出していて、東シナ海はほぼ全域が陸地となります。
そしてそのあたりには名前がついていて、これを北東亜平野と言います。
大陸と日本列島は陸続きで、黄海はまだなく、朝鮮半島は、人が住みにくい奥地の山岳地帯となっている様子が伺えます。
一方、琉球諸島は、いまのように小さな島が点在しているのではなくて、まるで外洋から東亜平野を護るような巨大な岬を形成し、岬と平野部の間には、細長い内海が形成されています。
この内海には、誰が付けたのか「曙海」という名前が付いています。御覧頂いてわかりますように、外洋とつながる塩水湖であり、浅い海です。
2万年前は海もいまよりずっときれいで透き通っていたことでしょうから、この曙海は水底まで太陽の光が降り注ぎ、海藻も豊富で魚たちの天国であるかのような素晴らしい漁場となっていたことは、簡単に想像が付くことです。
そして人間は塩を採らなければ生きていくことはできませんから、こうした漁場があり、しかも波の静かな内海であり、氷河期といえども暖流によってとても暖かな気候を持つこの海の周囲は、人々がとても生活しやすく、しかも豊富な漁場に恵まれることで、相当な人口も養うことができる場所であったであろうことが容易に想像できます。
そしてこの曙海の形をよく見ると、まるで山蛭(やまびる)のような形をしています。
静岡県にある浜名湖は、やはり外洋とつながる塩水湖ですが、名前は浜名湖と「みずうみ」としてのあつかいで、ここもまた、とても波の静かな内海です。
つまり古い日本語(やまとことば)では、陸に囲まれた海を「こ(湖)」と呼んでいたわけで、そうであれば、蛭のような形をした曙海が、かつては「ひる湖」と呼ばれていた可能性も否定できないのではないかと思います。
また、もともとこの曙海(ひる湖)の沿岸に祖代の人々が暮らしていて、その子孫が日本人であるとするならば、海面の上昇によって同族だった人たちが日本、China、Koreaに分かれて暮らすようになったとしても、十分に説明が付きます。
これらの人々は「モンゴロイド」だと言われますが、「モンゴロイド」という言い方は18世紀のドイツの人類学者のヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach)が考案したもので、13世紀にモンゴルの大軍がモンゴル平原からヨーロッパに攻め込んできたから、モンゴルのゴビ砂漠のあたりを根城にする人々という意味でネーミングされたものです。
要するに13世紀の話であって、万年や千年の単位で歴史を考えるときには、まるで関係ない思想です。
もっとも、ChineseとKorean、日本人は、それぞれ外見は多少似ているけれど、DNA的にはまったく種類の異なる人々であることが、近年の研究で明らかになっています。
Chinaの歴史は、王朝の交替の都度、人工の3分の1から半数以上が入れ替わるという歴史です。
曙海(ひる湖)周辺から日本列島とChinaに人々が分かれ住むようになったのは1万年以上も前の話であり、かつ8世紀に書かれた契丹古伝によれば、Chinaの理想郷としての古代の周王朝以前の殷や神話の時代を形成した人々は、皆「倭種なり」と書かれています。
つまりもともとは日本人と同じ種だったわけです。
ところが王朝交代の都度、外来王朝によって激しい殺し合いがあり、その結果、中原と呼ばれるあたりは、外見こそモンゴロイドであっても、DNA的にはまったく種類の異なる人達になってしまう。
そしてそうした殺し合いを嫌ってChinaの周辺の山岳地帯に逃げ込んだ人々の末裔が、Chinaのいわゆる少数民族で、この人達は外見も、性格も日本人と同じで「奪う文化」を持たず、またおもしろいことにその民族衣装は、近年の研究で明らかになった縄文時代の日本人の民族衣装とまるで同じです。
このことが何を意味しているかといえば、大昔にChinaに住んでいた人たち(その人達がいわゆる長江文明の担い手と言われています)が、なぜ倭人(つまり日本人)と共通の同じ人達であり同じ文化を共有していたのかといえば、それはもともと曙海(ひる湖)の周囲で暮らしていた、同じ種であったから、とみることができるわけです。
さて、「ひる湖」の周囲で暮らしていた人々が、気温の上昇とともに、それまで住んでいた土地が水没したために、およそ1万年かけていまの陸地の形状に移り住んだといえるだけの証拠が整いました。
ちなみに与那国島にある海底遺跡は、これは自然に形成された海底地形にすぎないとする説が有力です。
倭人たちの文化というのは、石組みの文化ではなく、古来、木を多用した文化で、木は腐食によって原型をとどめなくなるし、しかも万年の単位の昔のものということになると、考古学的証明はなかなか難しいことです。
しかし地形や気温などからを考えれば、祖代の歴史はこれまでとまったく異なる物語が見えてきます。
古事記、日本書紀は、契丹古伝と同じ、8世紀の初頭に書かれた書です。
そうした太古の昔に人々が住んでいた曙海(ひる湖)が失われ、倭人たちが海によって分けられたという事実を、
Chinaの古代王朝は皆倭種なり(契丹古伝)
水蛭子は葦舟に入れて流した(古事記)
蛭児は天磐豫章船に乗せて流した(日本書紀)
と書いているのではないでしょうか。
古典に書かれていることを、いまの常識で「実話ではない」などと決めつけるのは、知識不足な現代人の傲慢です。
そこから謙虚に学ぶという姿勢を持つとき、はじめて古典は私達の前に歴史を展開してくれるのです。
人は傲慢になってはいけません。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
Toshiro Akizuki
2019/07/04 URL 編集
うなぎ
浜名湖の古名は「遠津淡海」とされており、淡水湖だったころは「海」だったのです! まあ、縄文時代までさかのぼれば、海だったものが堆積物などで次第に海から切り離されて湖になったものと推定されております。
2019/07/02 URL 編集
takechiyo1949
そんなの…読めないよ~!
ついこの間まではそう思っていましたが、ねず本「古事記 壱~参」と出会い、一気に読みました。
『ねずさんはこう考えました。皆さんはいかがですか?』
分厚い本のページからは、読者目線の優しい声も聞こえてきました。
全く素人の私ですが「ねずさんの切り口は面白いな~」と引き込まれた訳です。
ねずブロを探せば、どこかに詳しい解説もあり、倭塾や講演会でお話も聴けます。
更に、ねず本を繰り返し読んで自分でも考えてみる…そのことの素晴らしさも分かりました。
学会が認めない?
学者でも無いし権威も無い?
ねず本とねずさんを批判する狭い論考やサイトがあります。
え~っ!
書いちゃいけないこと?
そんな筈はありませんね。
記紀の解説…書き方や読み方は色々あっていいと思います。
ねず式現代語…私達を古代に導く道標…ねずさんは既に立派な学者だと思います。
2019/07/02 URL 編集
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ヒルコは国、または人々の集合体として存在していたけど、統治に失敗したか、アトランティスのように沈んだか、だと考えていました。
2019/07/02 URL 編集