これについて、長安が当時人口200万を要する世界最大の都市だったからだ、という説がありますが、これまたかなり嘘くさいものです。なぜなら長安がそれほどの人口を擁した古代の大都市であったとは、どうにも考えにくいからです。
実際、長安の都市図は、さまざまなところで紹介されていますが、その規模は、誰がどうみても200万の人口を擁する町に見えません。

そもそも当時の食糧生産力から考えて、長安の周辺で200万人分の食料を生産することは不可能です。
それにこの時代、唐の国全体の人口でさえ、たったの5000万人です。
現代Chinaの人口は13億3972万人(2010年)なのだそうですが、昔の長安、いまの西安の人口は987万人です。
比率がいまも昔も変わっていないとすれば、唐の時代の長安の人口は最盛期でもようやく40万人程度です。
Chinaは白髭三千丈の国で、だいたい半値八掛五割引すると実数になるという特徴がありますが、200万を半値八掛五割引すると、まさにぴったり40万になります。
ちなみに下の図は奈良の都の復元図です。
往年の奈良の都の人口は20万人。
20万人でも、この規模になるという見本です。
奈良の都・奈良市市役所にある復元模型

長安は、唐の全盛期には人口200万を擁したが、その後、唐が衰退すると人口は元の20万に戻った・・・などと説明されていますが、そうではなくて、そもそも人口が最初からずっと20万であり、都が置かれた唐の時代の最盛期がおそらく倍の40万といったところなのではないでしょうか。
いずれにしても、単に人口が多いだけの政治都市ならば、世界中、他にいくらでもあったわけで、やはりペルシャ商人たちにとって何の魅力もありません。
ところが、ペルシャからやってくるシルクロード商人というものが、実在したことはたしかなことです。
その事実は、我が国の正倉院の宝物などでも証明されています。
では、ペルシャ商人たちは「どこを目当てに、どうして、どうやって」やってきたのでしょうか。
自動車や航空機のなかった時代のことです。
荷物を持った人の移動に際しては、川を使うのが、もっとも適していることは、あたりまえのように理解できることです。
そしてこの時代のペルシャは、ササン朝ペルシャの時代で、その領土はいまのトルコからイラン、アフガニスタンに至る広大な地域でした。
その東の外れにあるのがインダス川です。
そしてインダス川をさかのぼれば、ガンダーラを経由して、パミールやカシュガルに至り、そこからタリム盆地の砂漠地帯を避けてオアシス沿いに北上すると、キルギスのイシク・クル湖に到達します。
そこからバイカル湖方面に抜けて、川を下って渤海国に入るとウラジオストックに抜けることができます。
ウラジオストックは、昔は東京龍原府と呼ばれていたのですが、そこまで商品を運んでくると、日本から来た商人たちが金(Gold)と商品を交換してくれたのです。
日本では、東北地方はお米が取りにくい。
けれども税は、租庸調で、米か布か、その他金属類です。
貨幣経済はまだ銅銭が出たばかり。まだまだ物々交換が主流の時代です。
金(Gold)も、いまほどの交換価値を持ちません。
その金が、東北地方ではたくさん産出しました。
地元の人たちにしてみれば、川の水をすくえばいくらでも採れる、ただの金色をしたきれいな砂粒、あるいは山の鉱物に混じった金色の帯でしかありません。
ところがその砂や石を東京龍原府に持っていくと、ペルシャの商人たちが大喜びして貴重なガラス製品などと交換してくれます。
そしてペルシャ製品を貴族に献上すると、これがまたたいへんによろこばれ、税の免除などをしてもらえる。
東北地方はお米が取れないから、これは本当に助かることだったのです。
一方、ペルシャでは、砂漠に自然現象によってできたガラスの塊(かたまり)が、あちこちに転がっています。
ガラスは、少し熱を加えるだけでいろいろな形に変形させることができるものですから、これを様々な形にした食器や壺やお皿が普及しました。
つまりそれは、砂漠の民であるペルシャの人たちにとって、簡単に原始取得(元手をかけずに自然から入手できるもの)できるガラスを用いた二次加工品であったわけです。
ガラスが石英などの鉱物を加工して人工的に作られるようになるのは、もっとずっとあとの時代のことです。
そして砂漠がない日本には、ガラスはありませんし、当然、ガラス製品もありません。
代わりに日本では、山で餅鉄(もちてつ)が手に入りました。
これは山の鉄鉱石が、山火事などで溶け出して固まったもので、これを利用して古来さまざまな鉄器が作られるようになりました。その代表格が日本刀です。
同様に日本では、特に東北地方において、川の水をザルですくえば、金色の砂(砂金)がいくらでも手に入りました。山に行けば、金色の層(純金)を持った岩石がいくらでも手に入りました。
これはいまで言うならば、たとえば河川の上流に行けば、川底に丸いきれいな石がいっぱい転がっていますが、その石が海外ではひとつ10万円化けるようなものです。
要するにペルシャでは原始取得のガラスがいくらでも手に入り、日本では原始取得の金(Gold)がいくらでも手に入ったわけです。
いくらでも手に入るモノというのは、その土地の人たちにとっては二束三文の品でしかありません。
けれど、地球の反対側の人たちにとっては、それはものすごく貴重なものです。
まさにWin-Winの関係です。おかげでシルクロード商人たちは列をなしてやってくるし、日本国内では金が大量に掘られることになる。
そして窓口のなっている渤海国は、濡れ手に粟で大儲け、となりました。
もっとも濡れ手に粟の渤海国は、あまりに経済成長いちじるしかったため、奥地にいる契丹にヤキモチをやかれて、契丹によって滅ぼされてしまいます。
はるばるペルシャからやってきた商品は、貴族たちに献上され、貴族はまた天皇に献上しました。
そして当時の品々は、いまも国宝として正倉院に大切に保存されています。
以上は、従来唱えられてきた説とだいぶ異なります。
しかし「シルクロードはペルシャから唐に至る交易の道」という固定概念を外してみると、なんとシルクロードと呼ばれていた交易路は、なんと「ジャパンロード」と呼んだほうがはるかにふさわしい路であったことが見えてきます。
歴史は、過去の出来事を合理的かつ客観的、論理的にストーリーにしていく学問です。
つまり、考える楽しみのある学問分野なのであって、単なる暗記科目では本来ありません。
学問は、本来自由であるべきものです。
私は常に自由でありたい。そのように思っています。
お読みいただき、ありがとうございました。
人気ブログランキング↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、
メールでお申し出ください。nezu3344@gmail.com
コメント
四文字
2019/07/11 URL 編集
疑問
東国の官僚や豪族たちが、金に糸目をつけずに、東北の名馬を買い漁り、公金を不正に流用したり、朝廷から支給された貴重な武器や武具を東北の名馬と交換したりするので、度々「禁止令」が出されたようです。
香取神宮の摂社(側高神社)には、東北から何千頭もの馬を捕らえて帰る時、陸奥の神(陸奥守ではない)が「やっぱり、お前に馬はやれない」と怒って追いかけてきたので、潮干珠や潮満珠を使って、「香取の海」の水を干上がらせたり、溢れさせたりして敵を追い払ったという言い伝えがあるそうです。
古代東北の人々は、普通に田畑も耕すし、名馬を飼育し乗り回し、交易で財を成す人々もいたようですが、「貧しい狩猟民」的なイメージが強固に植え付けられてしまっているのは困ったものです。
もっと、馬とか、金とか、農耕とか、交易とかが注目されてもよいのにと思います。
2019/07/11 URL 編集
岡義雄
今日も拝読させていただきました。シェアさせていただきました。
ありがとうございます。
面白いですね!仰る通りだと本当に面白いですね!
でも、真実味があります。平安の頃にはかなりのペルシャ系の人たちが我が国に住んでいたようですし、「平」性を名乗っていたとも言われていますね。古代イスラエルの失われた10士族の話しとか、正に不思議の国「JAPAN」ですね!
2019/07/10 URL 編集
takechiyo1949
大陸に行った時、砂漠を眺めて来ました。
見渡す限り太陽光パネルが並んでいました。
1時間も居られませんでした。
砂漠の旅などとんでも無いな~と思いました。
2019/07/10 URL 編集