ところが明治9年に「日朝修好条規」が結ばれると、情況が一変します。
それまで日本と交渉にあたっていた朝鮮の官吏たちは、国王の命令によって、
「日本に対して私利を図るために不誠実な交渉をした」という理由で、全員、斬首刑に処されています。哀れなものです。
ちなみに明治7年4月、日朝交渉をしていた日本側代表が、ある朝鮮の文書を入手しています。
それが『朝鮮 人待日本人六条』です。
日本の江戸時代中期(元禄時代)頃に当たる頃に書かれたものとされるのですが、おそらく今も同じではないでしょうか。
***
《朝鮮 人が日本人をあつかうの6ヶ条の秘訣》
1 遜辞・・自分を低くして接し言葉遣いも雰囲気もうやうやしくおだやかにする。
2 哀乞・・困りきったような情をあらわして憐みを乞う。
3 怨言・・精神を失ったかのように激しく怒り、はらわたから激しい怒りを表す。
4 恐喝・・威圧を加えて脅し、先手をとって威嚇する。
5 閃弄・・時に乗じて日本人をおもいのままにもてあそぶ。
6 変幻・・同じ態度を継続しないで、態度をコロコロ変えて眩惑し、日本人がコチラの心理を推し量れないようにする。
(原文)
《朝鮮 人待日本人六条》
一 遜辭 屈己接人辞氣温恭
一 哀乞 勢窮情迫望人見憐
一 怨言 失志慷慨激出怒膓
一 恐喝 将加威脅先試嚇動
一 閃弄 乗時幸會翻用機関
一 変幻 情態無常眩惑難測
右元禄年
***
さて、朝鮮との以上の交渉が、どこで行われていたかというと、実は朝鮮国内です。
この時代まで、釜山の港湾内に「倭館」と呼ばれる、およそ6万坪の石垣で囲んだ城郭様式の対馬藩の館がありました。
6万坪といえば、長崎の出島のおよそ15倍の面積です。
そこには対馬藩士や日本の商人などが常時数百人滞在していました。
この館は、明治新政府の廃藩置県(明治4年)後、日本政府の領事館として、「釜山草梁公館」と呼ばれるようになるのですが、朝鮮側との交渉は、ずっとここで継続されています。
ところがその「釜山草梁公館」の門番宛に、朝鮮の官吏が示した日本批判があります。
「日本は無法の国である」
「恥知らずである」
「洋装洋服は、衣服容貌ともすでに日本人ではない」
「(明治維新など)天下の笑うところである」
(亜細亜歴史資料「公文別録」の「朝鮮始末(一)」p19)
これが何度も繰り返されました。
普通、他国のいわば大使館に、こうした文書をその国の政府が行えば、それは挑発行為として開戦理由となります。
つまりそれらの文は、宣戦布告に等しいものでした。
けれど日本政府は動かない。
戦争をどこまでも避けようとしたのです。
もちろん、こうした李氏朝鮮の態度に、日本国内にも敢然と腹を立てる人たちはいました。
それが征韓の議論で、このままでは、武士たちが収まらないから、自分が大軍を率いて李氏朝鮮に直談判に行くと言い出したのが、西郷隆盛でした。
おそらく西郷隆盛の、この建議が通っていれば、その後の侮日政策はピタリと止んだものと思われます。
けれど、明治新政府が行ったのは、むしろ西郷隆盛を、中央から追い払うというものでした。
明治9年に至って、朝鮮側の態度が急変したのは、李氏朝鮮内部の権力闘争によります。
彼の国では、自国内の権力闘争が激化すると、力のあるよその国を巻き込むのです。
こうして日本と清国が、次第に彼の国の権力闘争に巻き込まれ、気がついたら日本と清国が戦争をしていた。
それが日清戦争です。
それにしても、昔も今も変わらない。
お読みいただき、ありがとうございました。
更に詳しいお話は、
《明治開化期の日本と朝鮮(1)》に詳しいです。
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi012.html

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コメント
Toshiro Akizuki
2019/11/02 URL 編集
無名
2019/11/02 URL 編集
にっぽんじん
しかし、自衛権については規定はなく、否定はされていない。
9条の条文は「侵略戦争」を禁じるものであって自衛戦争を禁じるものではない。
それは最高裁でも認められている。
野党の憲法改正反対は何に反対するのか目的がわからない。
「自衛戦争」も否定するのか。
面白い解釈があった。
イタリアに倣えば憲法を改正しなくても自衛隊を自衛軍に出来るというものだ。そのための法律さえできれば良いという。
自衛のための戦争を合法化する特例法をつくり、自衛隊を軍にするとよい。
これなら憲法改正も国民投票も不要になる。
憲法に違反している外国人への生活保護費支給を厚生省の通達を根拠にしているのだから前例がないわけではない。
国会で一度取り上げていただきたいものだ。
2019/11/02 URL 編集
猪之助
> のが、西郷隆盛でした。
岩倉使節団外遊中の留守政府で「朝鮮出兵」を主張したのは板垣退助です。それを宥める形で、軍隊抜きに自分が直接交渉に行くと言い出したのが西郷でした。
「征韓論」自体は対馬藩に代わって外交を担当することになった外務省の中で佐田白茅らが数年前から唱えていたもので、明治6年5月になって大日本公館(旧草梁倭館)への物資搬入を朝鮮側が制限すると、6月の閣議に外務少輔・上野景範が朝鮮撤退か、武力行使かの裁断を求める議案を提出します。
板垣は征韓論に同調、西郷は遣韓大使を主張し、5月に欧州から早期帰国していた大久保は東京には寄り付かずに岩倉らの帰国を待ち、かつて征韓論を支持していた木戸は7月に帰国すると出兵反対の立場を取りました。
以降はわりと有名なので割愛。
2019/11/02 URL 編集