ちなみに平均身長が15メートルに達する巨神ネフィリムのような巨大人種は、現代の地表では存在できないといわれています。
これは恐竜などもそうなのですが、それら巨大生物が生きた時代というのは、地表の酸素濃度がいまよりもずっと高かったためです。
御存知の通り、多くの動物は、ひとつの心臓で血液を全身に送り出します。
その血液の中の赤血球が酸素を全身に運ぶのですが、酸素濃度が薄いと、酸素を全身に行き渡らせることができなくなるのです。
いま地球儀を見ると、アフリカのサハラ砂漠から中東、チャイナにかけて、黄色い砂漠が広がっています。
赤道からの距離や、エジプト文明、メソポタミア文明、チグリス・ユーフラテス文明、黄河文明などの古代文明の発祥の地が、そのあたり一帯に広がっています。
現代の地表の4割が砂漠

人は、食べなければ生きていくことができませんし、食べるためには森の緑が必要です。
要するに古代においては、いま砂漠化しているあたり一帯のほとんどは、まさに緑の大地であったわけで、それだけ広大な土地から緑が消え失せたのは、人類が鉄の武器を作るために森の木々を伐採してしまったためだといわれています。
現在、砂漠地帯は地球の陸地の40%を占めているといわれています。
もし仮に、その40%のすべてが緑の木々に覆われるようになったら、緑は二酸化炭素を吸って酸素を吐き出しますから、地球上の酸素濃度は、いまよりもずっと濃くなります。
地球の大気中の酸素濃度の変化
岩波講座 地球惑星科学〈13〉地球進化論

ちなみに現代の酸素濃度は、およそ21%ですが、いまから3億年前の石炭紀には、酸素濃度が35%に達していました。
このため地上には、まるで映画アバターの世界のような、高さ千メートルに達するような巨大樹が茂り、米国のデビルスタワーなどの柱状節理のある巨大な岩山は、そうした巨大樹の残骸であるともいわれています。
映画『アバター』で描かれた巨大樹

デビルスタワー(アメリカ合衆国ワイオミング州北東部に存在する岩山)

3億年前といえば、人類が誕生するよりもずっと以前ですが、4千万年前頃でも地表の酸素濃度は27%ほどもあり、そうなるとあらゆる生物は巨大化するわけです。
人類の誕生は、猿から分化したのが600万年前、原人誕生が150万年前、ネアンデルタールなどの旧人類が誕生したのが20万年前、新人類(現生人類)が誕生したのが5万年前で、その意味では、だいぶ最近のことなのですが、短期的にも酸素濃度はかなり大幅に変動するので、もしかするとその酸素が濃かった時代があり、その濃かった時代には、巨神ネフィリムのような身長15メートルに達する巨人たちが地上にいたのかもしれません。
ちなみに酸素は空気よりも重たいので、酸素濃度は、高度が増すほど低くなり、逆に高度が下がると高くなります。
イスラエルに有名な死海がありますが、そこは海抜がマイナス400メートルです。
そこにある岩山の上に、マサダ砦の跡地があるのですが、高さ200メートルくらいの砦まで、階段で登っても、ほとんどの人は息切れしません。
理由は、海抜以下の土地なので、酸素濃度が微妙に濃いからです。
ですから、もし、巷間言われているように、巨神ネフィリムのような巨人が、もし今も生息しているなら、それは地中奥深い所ということになります。
たまにネットなどで、目撃談が掲載されたりしていますよね。
さて、話を戻しますが、ボトルネック効果によって、同質性の高い人種ができあがるということは、ご理解いただけたかと思います。
とにかく7万5千年前に、世界の人口が1万人にまで減少したのです。
これによって人類の同質性が高まり、せいぜい肌の色の違いくらいしかない、現代に生き残る人類が誕生したということができます。
実はそうしたボトルネック効果は、およそ2千年余り前の日本にもありました。
それが縄文晩期の人口急減です。
縄文時代の人口は、日本列島全域でおよそ26万人だったといわれています。
それがその時期に、なんと8万人にまで減少しました。
理由は、はっきりしたことはわかっていません。
ただおそらくは、南海トラフの大地震か、あるいは火山の噴火、長期に続いた雨などの天変地異によるものでしょう。
これによって食糧事情が悪化し、なんと人口が3分の1に減少したのです。
縄文晩期の人口減少

3人のうち2人が死亡する。
それも目の前で、飢えて痩せてガリガリになって死んでいく。
親兄弟や配偶者、あるいはわが子や孫の死を目の当たりにすることほど、つらく悲しい出来事はありません。
そこで「なんとかしなければならない」と立ち上がったのが、初代天皇である神武天皇です。
神武天皇は
「天下の政を行う。なお東へと征(ゆ)かんとぞ思ふ」
として、九州の高千穂から旅立ったと記紀に書かれています。
「征」とは「正しきを行う」こと、「政」もまた「正しいことをするために、歪みを正すこと」を意味する漢字です。
そして飢えに苦しんだこの時代において、天下の政、東への征とは、何を意味するのかといえば、それは戦争でしょうか。
明らかに違うと思います。
戦乱よりも恐ろしい飢餓のさなかなのです。
どんな環境にあっても、食べていくことができるようにしていく、ということこそ、この時代における最大の正義です。
我が国では、縄文時代は狩猟採集生活であったことは、よく知られています。
狩猟採集生活は、実は一日3時間ほどの労働で、十分に日々の暮らしが成り立つ生活であったと研究結果が出ています。
一日、たったの3時間で、十分に家族を養っていけるのです。
ある意味、とても幸せな生活であったということができます。
ところが一点だけ、困ることがあります。
何らかの天変地異があって、食料確保が困難になったとき、狩猟採集生活では、食料の備蓄が、せいぜい3ヶ月から半年程度しかできないのです。
まだ冷蔵庫のない時代です。
肉や魚は長期保存がきかないし、野菜もまた長期の保存は無理です。
木の実は、そのままでは干からびてしまうので、天日干しして乾燥させ、石臼でひいて粉末にすることで、最長の半年程度の食料の備蓄ができるようになりました。
ちなみにこの粉末は、水で溶いて焼いて食べます。
それが、縄文クッキーで、いまでは観光土産品になっていますが、嘘みたいにおいしい食べ物です。
縄文時代には、それがお父さんのお弁当になっていたようです。
けれども、天然の災害によって年をまたいだ食糧難が襲ったとき、これでは食料を確保できません。
一方、稲作は、いまから8千年前には、すでに始められていたことがいまではわかっています。
稲によってできる米は、常温で4〜5年の備蓄ができます。
つまり災害発生時の備蓄食料として、実はこの時代にもっとも有効な食べ物でした。
けれども稲作をするためには、まことに手間がかかる。
平時ならば、狩猟採集生活の方が、はるかに楽に食っていくことができるのです。
また、主なタンパク質も、海の魚から取るのであれば、嵐がおさまってくれれば、なんとか漁に出ることができるわけで、その意味でも、何も苦労して田植えやら草取りやら、腰をかがめての収穫などしなくても良い。
けれど、長期に渡る気象状況の変化が起きると、そうした生活手段では、飢えに苦しむことになってしまうのです
そこで大切になるのが、食料の備蓄です。
神武天皇は、まさにその備蓄できる食料の確保とその指導を、高千穂から畿内全域にかけて行うことで、人々を飢えから救い、まさに大和の国の神として、「神倭伊波礼毘古命」の名を諡(おくりな)として、初代天皇となられたわけです。
その神武天皇の農業指導によって、何が起こったかというと、縄文晩期に8万人に減少した人口が、またたく間に増え、弥生初期の人口が、なんと67万人にまで増加するのです。
分母が8万人と考えれば、これはおよそ8倍の人口増加です。
誰もが神武天皇をお慕いした歴史が生まれたことは、想像に難くないと思います。
日本全国で人口が8万人に減少した、それもたいへんな不幸を誰もが経験したあとに、我が国にこうして神武天皇がご出現あそばされたということは、我々日本人にとって、たいへんな幸せであったと思います。
なぜなら、この人口急減期に、農業を通じて災害対策のための食料の備蓄を行うということが、ひとりの指導者によって行われ、その結果、人口が67万人まで急激に増加する。
その時代の世の中は、たくさんの子供たちがいて、まさに日本が元気そのもの、少し前の時代にたいへんな不幸を経験しているだけに、誰もがそのことの幸せを噛みしめることができたであろうし、そのことが我が国において、神武天皇の「国中がひとつ屋根の下に暮らす家族のように」という和の精神を完全に育む結果となったといえるからです。
子供たちがおおい時代というのは、団塊の世代がそうであったように、その子供たちの間には、一定の競争関係が自然発生します。
子供たちは、たくさんの子供たちの中で、たがいに競いあうからです。
そしてその子供たちが大人になったとき、人々は半島や大陸にも進出したことでしょうし、そうなると半島や大陸の殺し合いを目の当たりにしたりもするわけです。
こうして我が国の男たちは、腰に剣を下げるようになっていきます。
弥生時代の埴輪(はにわ)が、帯刀しているのは、そのためであったことでしょう。
この帯刀は、縄文時代の土偶等には存在しなかった習慣です。
ところがここでも不思議なことが起こります。
男たちが帯刀するようになっても、それは武威を張って、「俺強え〜!」と威張るようにはならなかったのです。
それ以前に根本的なところで、災害対策のために食が大切であり、そのために和が大切であるという文化がボトルネック効果によって根付いていた日本では、武も、どこまでも歪みを正すためのものとして成長していくことになるのです。
このことは、西洋史や東洋史全般において、武力を持つものが王となって君臨して近隣の住民から搾取をしてきた歴史を考えると、きわめて稀有なこと、いわば人類史上の奇跡ともよぶべき文化となりました。
そしてこうした伝統は、歴代天皇へと引き継がれ、第16代仁徳天皇の時代には、大規模な新田開発や、堤防作りが行われ、第33代推古天皇の時代には、いざというときのために、日頃から「和をもって貴しとなす」という我が国の国柄が明文化され、第37代斉明天皇の時代には、田んぼではたらく庶民こそが、我が国の「おほみたから(公民)」と規定されていきます。
また全国に国司が派遣されるようになりましたが、その国司たちは、幼年期を全員、都で過ごしているわけです。
つまり全国の国司たちは、たがいに親しい関係にありますから、仮にAという国司の治める国が凶作となれば、豊作だった他の国の国司(B)から備蓄米を融通してもらう。
結果として、日本全国規模での相互扶助が、国司と都の朝廷を経由してできるという国の体制が出来上がるわけです。
日本人は、顔形がかなり違う人々が集った国です。
そうでありながら、等しく日本人としてのマインドをいまなお共通させているのは、まさにボトルネック効果の時代を天皇とともに生き抜き、日本全国万民がひとつ屋根の下に暮らす家族のように互いに助け合うということを、長い歴史の中で築いてきたことによるのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
Toshiro Akizuki
2019/11/09 URL 編集