国司というのは、中央から派遣された、いまでいう県知事です。
戦後の体制の中にあっては、県知事は、その県の人達が選挙によって選ぶとされていますが、戦前までは、古代王朝時代に倣って、中央からの派遣でした。
江戸時代においては、地方の総責任者である大名は、参勤交代で年替わりで江戸詰めでしたし、大名同士で、血縁関係を結ぶなどしていましたから、全国のお殿様たちは互いによく知る間柄でした。
どうしてこのような、県知事同士が互いに顔見知りの親しい関係であることが求められたかというと、そこに大きな理由があります。
日本が「災害大国」だからです。
万一、自国全域が何らかの災害や凶作で食糧不足に陥った場合、豊作となった他国から、お米を融通してもらわなければならないし、またその逆もあるわけです。
畿内が凶作でも、関東が豊作なら、関東からお米をまわす。
関東が凶作で、畿内が豊作なら、畿内からお米を融通してもらう。
日本全国がひとつ屋根の下に暮らす家族のように、そうやって互いに助け合うことができる体制を、社会的な仕組みとして保持しておかなければ、我が国では人が生き残ることができないのです。
そしてこのことは「日本全国天下万民がひとつ屋根の下で暮らす家族のようになって」と述べられた神武天皇の日本建国の詔に記されたことでもあります。
♪トントントンガラリっと隣組〜〜
という発想は、何も隣近所のことだけでなく、大名同士、国司同士で、国を越え地域を越えて助け合いを行なう。
それこそ、災害列島で生き抜く、生活の知恵であり、日本の知恵であったわけです。
国司は、税を取りますが、払う側からしてみれば、凶作などのいざというときには、自分たちが払った何倍ものお米を支給してもらえることになるのです。
その意味では、国司というのは、災害対策保険事務所の所長さんみたいなものといえるかもしれません。
国司たちは、青年期までを中央で過ごします。
そして成人すると、国司の助手として地方勤務になり、長じて国司を拝任します。
つまり、全国の国司同士は、互いによく知る間柄であるわけです。
こうした人間関係が、いざというときに、どれだけ多くの人の命を救うことになるか。
災害は、凶作だけでなく、地震や津波、水害、土砂災害、大火災など、多岐にわたります。
そして被災すれば、復興に莫大な費用と人手がかかるし、復興するまでの民衆の食の確保は、本当に大切な課題といえるのです。
「そうしなければ、日本列島では生きていくことができない」
このことは、我が国の歴史を考える上において、とても大切なことです。
では『貧窮問答歌』を読んでみます。
わかりやすいように、現代語に訳したものを、先に掲げます。
*****
『貧窮問答歌』山上憶良 万葉集巻五
風交(ま)じりの雨が降る夜や、
雨交じりの雪が降る夜は
どうしようもなく寒いので
塩をなめながら
糟湯酒(かすゆざけ)をすすり、
咳をしながら鼻をすする。
少しはえているヒゲをなでて
自分より優れた者はいないだろうと
うぬぼれているが
寒くて仕方ないので
麻の襖(ふすま)紙をひっかぶり
麻衣を重ね着しても
やっぱり夜は寒い
俺より貧しい人の父母は
腹をすかせてこごえ
妻子は泣いているだろうに
こういう時、あなたはどのように暮らしているのか。
天地は広いというけれど
私には狭い。
太陽や月は明るいというけれど
我々のためには照ってはくれない。
他の人もみなそうなんだろうか
それとも我々だけなのだろうか
人として生まれ
人並みに働いているのに
綿も入っていない
海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけ
つぶれかかった家
曲がった家の中に
地面に直接藁(わら)を敷いて
父母は枕の方に
妻子は足の方に
私を囲むようにして
嘆き悲しんでいる
かまどには火の気がなく
米を炊く器にはクモの巣がはり
飯を炊くことも忘れてしまったようだ
ぬえ鳥のようにかぼそい声を出していると
短いものの端を切るとでも言うように
鞭(ムチ)を持った里長の声が
寝床にまで聞こえる
こんなにもどうしようもないものなのか
世の中というものは。
この世の中はつらく
身もやせるように
耐えられないと思うけれど,
鳥ではないから
飛んで行ってしまうこともできないのだ
*******
ご一読しておわかりいただけるように、あまりに悲惨な民衆の姿が描かれています。
その民衆は、いったいどこの国の民衆なのでしょうか。
従来説では、これは「筑前の民衆の生活を描いたものだ」というのが定説です。
しかし山上憶良は、筑前の国司です。
つまり筑前の民衆の生活について、全責任を担った筑前の長です。
その筑前守が、「俺の国の民衆は、こんなに貧窮しているのだ」と、自慢気に歌を遺すでしょうか。
それでは筑前の国司が、自分の責任を全うできていない、自分は国司として能無しであるということを、世間にアピールするようなものです。
果たして、筑前の国司ともあろう人が、そのようなことをするでしょうか。
さらに不思議があります。
歌の中に、
「つぶれかかった家
曲がった家の中に
地面に直接藁(わら)を敷いて」
という描写が出てきます。
原文は「布勢伊保能 麻宜伊保 乃内尓 直土尓 藁解敷而」です。
地面に直接ワラを敷いているというくらいですから、稲作はしているわけです。
(稲作がなければ、ワラもありません)
そして稲作をするなら、普通、家屋は高床式になります。
なぜなら、水田は水を引くため、地面に穴を掘る竪穴式住居では、床に水が染み出してしまうからです。
不思議はまだあります。
「つぶれかかった家、曲がった家」とありますが、日本は地震が頻発する国です。
つまり「つぶれかかった家、曲がった家」では、生活できないのです。
また、高床式住居の場合、柱や梁(はり)が、しっかりしていないと、地震のときに家屋が簡単に倒壊してしまうのです。
ですから古来、日本の家屋は、たいへんにしっかりしたつくりをするのがならわしです。
そして「しっかりした家屋」は、各家族では建てるのも維持するのも大変だから、古民家も大家族で住むように設計され、建造されてきたのです。
これが災害列島で住む人々の知恵です。
「いや、そんなことはない。これは筑前の都市部の民衆の話だ。都市部ならつぶれかかった家、曲がった家もあり得るだろう」という方がいるかもしれません。
けれど我が国は、仁徳天皇が「民のカマドの煙」を見て、税の免除をされるような国柄なのです。
民衆がカマドの煙どころか、「米を炊く器にはクモの巣がはり」というような状況を、一介の国司が招いたとするならば、それこそ責任問題になることです。
加えて『貧窮問答歌』に出てくる人物は、どうやら庶民ではないらしい。
なぜならその人は、「ヒゲをなでながら自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれ、俺より貧しい人がいる」人であるわけです。
つまり最下層の人というわけでもない。様子からすると、貴族階級の人のようにも思えます。
ところがそういう人であっても、竪穴式のつぶれかかって曲がった家に住んでいるわけです。
これって筑前国のことなのでしょうか。
そもそも日本のことなのでしょうか。
山上憶良の時代のすぐ前には、半島で百済救援の戦いがあり、また白村江事件で日本人の若い兵隊さんたちが大量に殺されるという事件もありました。
そしてこの歌が詠まれた時代の、わずか60年前には、高句麗が滅亡し、半島は新羅によって統一されています。
筑前には、ご承知の通り大宰府があります。
大宰府という名称は、「おおいに辛い(厳しい)府」という名前です。
この時代の日本は、渤海国との日本海交易も盛んに行っていますが、渤海国との交易のための港には大宰府など設置されていません。
単に国司のいる国府が、その交易管理にあたっていただけです。
それがどうして筑前だけが「辛い府」なのかというと、そこが新羅や唐の国という敵性国家との窓口にあたる場所であったからです。
唐や新羅への警戒から、日本は都を奈良盆地から近江に移したくらいですから、大宰府がいかに国防上の重要拠点とみなされていたかは明白です。
しかも、大陸も半島も、伝染病の宝庫といえるところです。
ですから、出入りする船も、厳しく監督しなければ、病原菌を日本に持ち込まれたらたいへんなのです。
山上憶良は、その大宰府の長官であった大伴旅人とも親しい間柄でした。
そしてこの時代、かつては倭国の一部であった半島南部が、新たに半島を統一した新羅によって、きわめて過酷な取り立てと圧政が行われていたことは、歴史の事実です。
そうした背景を考えれば、この『貧窮問答歌』に歌われている民衆の姿というのは、かつては倭人の一部であった半島の人々の姿であると見るのが正解といえるのではないでしょうか。
つまり、山上憶良は、政治ひとつで、あるいは国の体制ひとつで、ここまで民衆の生活が犠牲になるのだということを、この『貧窮問答歌』であらわしたのではないでしょうか。
幕末から明治初期にかけての李氏朝鮮の様子は、たくさんの写真が伝えられています。
「我が国を絶対にこのような国にしてはいけない!」その固い決意と信念あればこそ、山上憶良は、あえてこの『貧窮問答歌』を詠んだのではないでしょうか。
『貧窮問答歌』には、短歌が一首付属しています。
その短歌です。
世間(よのなか)を
う(憂)しとやさしと
おも(思)へども
飛び立ちかねつ
鳥にしあらねば半島と筑前の間には、海峡があります。
船便が禁止されていれば、倭国へと移動する手段もありません。
だから「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」。
これで意味がすっきりと通ります。
内容的にあまりに過激なので、新刊の『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』からはこの解説を削除しましたが、私個人としては、本日書いた内容が、この『貧窮問答歌』に関する
真実であろうと確信しています。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
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令和命名者の中西進氏の「山上憶良は朝鮮からの渡来人である」との説への反論が掲載されています。
神功皇后を讃え大和への愛国心溢れる歌を作った憶良は、百歩譲っても幼少時に父に連れられ百済から引き揚げてきた「引揚者」だったのではないかと、おっしゃっています。
小名木様のおっしゃる通り、山上憶良は、幼少時自らも体験し父からも聞いていた朝鮮での民衆の悲惨な状態を、貧窮問答歌として著したのではないでしょうか。
2019/12/13 URL 編集
質問ですが
2019/12/07 URL 編集
銀母金母玉母奈尓世武尓
律令制における経済・生産に関する制度は、公地公民制・班田制という生産手段(土地)の国有化を実施した、まるっきりの「社会主義」ですから、社会主義を実践すると民衆が貧窮するという解釈になりますが、日教組さんはそれでいいんでしょうかね?
国司は中央からの派遣ですが、郡司や里長は現地有力者が任命されるものなので、舞台が帰化人の集落であればボスがムチを持っているのも分からないでもありません。
2019/12/06 URL 編集