wakaさん、ありがとうございます。
本の中で、有間皇子のあたりは、あっさりと書いてしまっているので、真意を読み取っていただけるか実は不安だったのですが、見事に文意を汲み取っていただき、とてもうれしく思います。
有馬皇子は、素晴らしい人格者であったと思うのです。
有間皇子を処刑したとされる中大兄皇子も、事情をわかって有間皇子を処罰せざるを得なかったのであろうと思います。
ただ、これは私の想像ですが、おそらく有間皇子は、実際には処刑されていないのではないかと思っています。
処刑したことにして、出家してお坊さんになって、どこかの住職として余生をまっとうしたのではないか。
有間皇子も、その方が気楽に余生を送れたであろうし、殺したとみせかけて裏でこっそり逃がそうとしたということこそ、いかにも中大兄皇子らしいやり方だと思うのです。
そもそも我が国は、死を穢れとして忌む習慣がありました。
一方、秩序維持のためには、反逆者を赦すわけにはいかない。
こうした2極化した狭間(はざま)にあって、仏教の持つ「出家をすることは、今生に別れを告げることになる」というシステムは、たいへんに便利なものであったと思います。
ただ、そうは言っても、出家によって命を永らえたことを奇貨として、再び反逆の狼煙(のろし)を挙げて秩序を乱すような者の場合、これはやはり本当に処刑するほかはありません。
中大兄皇子の場合、乙巳の変で蘇我氏を武力によって制圧した経験を持ちます。
ですから手を汚すことは、厭わない。
けれど、そのままこれをどこまでも推し進めるならば、我が国は武力によって秩序を図る国柄になってしまいます。
二度と皇室を軽んずるような豪族を出してはならない。
けれど、その一方で、簡単に武力に訴えるような国柄は、我が国の文化として許容してはならない。
このことをいかに実現していくかが、中大兄皇子の時代から、弟の大海人皇子(後の天武天皇)、その妻の持統天皇に至る時代の、最大の懸案事項でした。
大化の改新も、記紀の編纂も、歌集の編纂も、そうした文化的政治的背景のもとで生まれた一連の改革のためのものです。
そしてこうした一連の改革の基礎となる考え方を明確に打ち出されたのが、中大兄皇子の父であられる舒明天皇でした。
我が国の歴史を、あたかも権力者による血塗られた横暴の歴史のように考えることは間違っています。
我が国には、権力者が自分が逃げるためにと、大型のダムを決壊させて100万人もの民間人を一気に水死させたり、大統領が自分が逃げ伸びるために漢江に架かる橋を、まだ民衆が避難のために橋を渡っているのに、橋にいる民衆ごと橋を爆破するような残虐な文化は、歴史上まったく存在しないのですから。
お読みいただき、ありがとうございました。

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