伊勢神宮(皇大神宮・豊受大神宮)
天神地祇
神武天皇の陵(みささぎ)
先帝三代の陵(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)
武蔵国一宮(氷川神社)
山城国一宮(賀茂神社)
石清水八幡宮
熱田神宮
鹿島神宮
香取神宮
そして次の祈りを捧げられます。
賊冦之中過度我身
毒魔之中過度我身
毒気之中過度我身
毀厄之中過度我身
五急六害之中過度我身
五兵六舌之中過度我身
厭魅之中過度我身
万病除癒
所欲随心
急急如律令
この祈りの言葉の「中過度我身」について、これを「我が身だけには降りかからないようにしてくれ」と願っているなどというくだらない解釈をする人がありますが、どこにも「降りかからないように」を意味する文字は使われていません。
使われている「度」という字は、「かならず」と同じ意味の漢字です。
少し詳しく申しますと、「度」は、「广+廿+又」で成り立つ字です。
「广」は、建物の中。「廿」は、器、「又」は、人が手を交差しているところです。
屋内で器を前に人々が手を交差して何かをしているわけです。
そこから「のり」とか「おきて」、あるいはモノサシなどで計る度量衡や尺度などを意味する言葉になりました。
従って「度」は、「のり」とか「おきて」として「かならず」という意味で用いられている漢字です。
また「中」は、「百発百中」という言葉がありますが、要するに必ずと同じ意味で、また「中毒」という言葉に代表されるように、「毒などを受ける」といった意味を持つ漢字です。
そこから「中過度我身」は、「かならず我が身の中を過ぎよ」という意味の言葉とわかります。
つまり天皇は、新年の初頭にあたり、まだ暗いうちに四方の神々を宮中に呼び出して、あらゆる厄災は、誰よりも先に、まず自分にふりかけて下さいと祈られるのが、四方拝なのです。
このことは、最後に
萬病除癒(万病を取り除き癒せ)
所欲随心(欲するところは神の御心のまにまにあり)
急急如律令(その成就よ速まれ)
と祈られていことでもわかります。
「降りかからないこと」が「急急(はやまれ)」では、意味が通じませんし、「随心(神の御心のまにまに)」という意味ともつながりません。
要するにあらゆる災害は、民衆がその厄災を受ける前に、まずは我が身を通してください。
そして万病を取り除いてください。
自分の心は常に神々の御心のまにまにあります。
そして「急急如律令(その成就よ速まれ)」と祈っておいでなのです。
陛下は、新年のはじまりにあたって、誰よりも早く起きて、
ありとあらゆる厄災は、自分の身にこそ降りかかれ。
そして万病が取り除かれ、民が癒やされるよう
自分の心は神々のまにまにあるのだから
厄災は我が身にのみ先に降りかかれ、
と祈られているわけです。
では、その厄災とは何かといえば、「賊冦、毒魔、毒氣、毀厄、五急六害、五兵六舌、厭魅」です。
「賊冦」は、危害を加えようとする悪い賊です。
「毒魔」は、この世に毒を撒き散らす魔です。いまの時代ならメディアかも。
「毒氣」は、人に害を与える悪意です。
「毀厄」は、人を傷つける苦しみや災難です。
「五急」は、五が森羅万象を示す五行(木火土金水)、これが急というのですから突然発生する自然災害のことです。
「六害」は、十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の中の二つの支が、互いに争う害を言います。要するに先輩後輩や世代間の争いなどですから、ひとことでいえば人災です。
「五兵」は、戈戟鉞楯弓矢のことで、戦火のことです。
「六舌」は、二枚舌どころか六枚舌ですから、外交による害のようなものです。
「厭魅」は、「えんみ」と読みますが、人への呪いのことをいいます。
四方拝では、今上陛下が神々に、
「これらの厄災は、
まっさきにまず我が身に
振りかかるようにしてください」
と祈られているのです。
そして、この四方拝が、皇居において元旦の早朝に行われたあと、夜が明けると、一般の民衆(臣民)が、氏神様に初詣に行きます。
天皇がすべての厄災をお引き受けくださったあとですから、人々に残るのは「良いこと」だけです。
ですから新年の参拝のことを「初詣(はつもうで)」と言います。
「初詣」は、「拝み参らせる=参拝」ではなく、
「詣でる」という字が使われます。
「詣」は、言偏が魚偏に変わると「鮨」という字になりますが、「旨」は、匙(サジ)で食べ物を掬う姿の象形文字で、美味いものがあるところに行く、といった意味の字です。
新年においしいものが神社にあるということではなくて、おいしいものを食べさせていただけることへの感謝を捧げに行くから「詣でる」になります。
初詣に行くと、良いことがあるよ〜というのは、そこから来ているわけです。
世界中に、王や皇帝と名のつく人は、古今東西、歴史上枚挙に暇がないほど、数多くいたし、いまもいます。
けれどそれらすべての王侯貴族は、ことごとく「支配者として君臨する人」です。
これを古い日本語で「ウシハク」といいます。
ところが日本の天皇は、神々の御意思を臣民に知らし、神々の「おほみたから」である臣民の豊かで安心して安全にくらしたいという思いを神々にお伝えする役割です。
つまり天皇は支配者ではなく、無私の大神官です。
その天皇を頂点とする体制を、これまた古い日本語で、「シラス(知らす、Shirasu)」といいます。
ですからシラス統治のもとでは、民衆が神々の「たから」となります。
神々のたからであるということは、民衆に国家として最高の尊厳が与えられているということです。
つまり究極の民主主義といえる統治が、シラス(知らす、Shirasu)です。
日本は、神話の昔から、このことを基本にできあがっています。
ただしシラス国であるためには、民衆の側にも高い民度が求められます。
そうでなければ民は我執我欲に走り、なかでも飛び切り欲の深い者が富や政治を私物化して独占し、他の民から収奪をはじめてしまうからです。
ですから知らす統治には、そうしたゆがみを正す機能が必要です。
それが荒魂(あらたま)です。
まっすぐにすることを「たける」といい、漢字で書いたら「武・健」です。
世界中、どの国の言語でも、武は攻撃(アタック)か防御(ディフェンス)のためのものです。
しかし我が国ではどこまでも、歪みを正してまっすぐにする(たける)ために用いるのが武です。
人々が私的な欲を自ら抑えこみ、誰もが公徳心を持って真っ直ぐに生きることができるならば武は必要ないかもしれません。
けれど、そのようなことは人間社会ではあり得ませんから、歪みを正す武(たけ)るが必要となるのです。
いまの日本に欠けているのは、その武です。
そもそも歪みを正すための「武」と、他人の迷惑を顧みない暴力とでは、まったく意味も方向も結果さえも異なるものです。
ともあれ、高い民度を保たなければならない国に、私たちは生まれました。
これはとてもたいへんなことです。
ひとりひとりにルールが求められるからです。
赤信号ならば、誰もいなくても、ちゃんと停まらなくてはならない。
それは誰もいなくても監視カメラがあるからではなくて、天が見ているからです。
そしてどこまでも謙虚に、自分の幸せだけでなくみんなの幸せを願っていく。
天皇陛下が率先して、元旦の早朝から、そうしておいでになるのです。
国民もまた、互いの「愛」を大切にする。
そうすることで、互いに信頼しあえる国を築いていく。
それが日本です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
takechiyo1949
さて、神々の「たから」である民衆のひとりとして、高い民度を保っているか?
自信はありませんが、まぁまぁかな?なんてね。
それにしても、ねずブロとその読者を潰す狙いのサイトや自称論客はウジャウジャいます。
豈國…よろこび溢れる楽しい国を取り戻す!
ねずさんの不屈の継続にはホントに頭が下がります。
今年も引き続き善きご指導のほど、お願い申し上げます。
2020/01/02 URL 編集
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2020/01/02 URL 編集