時は30年ほどさかのぼります。
斉明6年(660)、唐は、新羅の求めに応じて、蘇定方(そうていほう)を将軍に任じ、山東半島から13万の軍勢に海を渡らせて、百済に上陸し、百済王都を占領しました。
百済の義慈王は、熊津に逃れるけれど、間もなく降伏し、この年の6月7日、百済国は滅亡しました。
4世紀から6世紀の朝鮮半島

この時点における唐の最大の敵は、軍事大国であった高句麗です。
高句麗は、唐の前の王朝である隋との度重なる戦いに勝利を重ねており、このために隋が滅んだという歴史があります。
従って唐としては、なんとても高句麗を抑え込むか、あるいは滅ぼしてしまわなければならない。
そこで唐からみて、高句麗の後背地にあたる新羅もしくは百済と結び、高句麗を挟み撃ちにしようとしました。
これを「遠交近攻」といいます。
ところが百済は倭国にべったりであり、唐から見て新羅はその先にある国です。
そこで海から唐の軍隊を百済に上陸させ、新羅とともに百済を挟撃することで、朝鮮半島南部を唐と新羅の連合軍で固め、その上で高句麗を挟み撃ちにするという戦略が建てられたわけです。
こうして百済が滅ぼされます。
百済の遺臣は、鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、日本に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立(ようりつ)して百済の復興をはかりました。
百済は倭国への朝貢国です。
朝貢国は、倭国に背かない意思表示として、国王の後継ぎの王子を倭国に人質として送ります。
これは神功皇后の三韓征伐以来のしきたりです。
その代わり、倭国は百済を保護国としているという関係です。
百済が滅ぼされたとあれば、倭国としては兵をあげざるをえない。
このときの倭国の体制は、女性の天皇である斉明天皇のもとで、皇太子である中大兄皇子が政治上の最高権力者となっていました。
中大兄皇子は、当時68歳だった斉明天皇に働きかけて、朝鮮半島出兵の勅許をいただくと、斉明天皇らとともに九州に渡り、筑紫国の朝倉宮(現在甘木市宮野村)を行在所に定めて、そこに大本営を設置しました。
そして大宝律令に基づいて全国から九州一帯から、20歳から60歳までの男子およそ9千人を徴兵しました。
このとき九州の八女郡(やめこおり)から、兵のひとりとして徴用されたのが、大伴部博麻(おほともべのはかま)です。
大伴部(おおともべ)の「部」は、古代の部民制を意味します。
従って大伴部博麻という名前は、九州の豪族である「大伴氏」に属する何らかの職業集団(部民)の一員であった博麻(はかま)という名前の男子といった意味になります。
さて、いよいよ百済へ出陣という斉明7(661)年、斉明天皇は朝倉宮で崩御(ほうぎょ)されます。
ちなみに斉明天皇が崩御される少し前に詠まれた歌が、有名な
熟田津(にぎたづ)に
船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ 今こぎいでな
です。
この歌は、一般に額田王の歌として紹介されていますが、実は斉明天皇の御製であると『万葉集』に書かれています。(詳しいことは拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』(
https://amzn.to/34cLFq0)をご高覧ください。歌の意味も巷間言われているものとは全然違います。)
天智天皇として即位された中大兄皇子は、征新羅将軍に、阿部比羅夫(あべのひらふ)を任じます。
阿部比羅夫という人は、この百済遠征軍の大将をおおせつかる4年前、水軍180隻を率いて、蝦夷を征伐した実績のある将軍です。
征新羅軍は、那の津(博多港)から3班に分かれて朝鮮半島に出発します。
先遣隊 1万余人 661年5月出発
主力隊 2万7千人 662年3月出発
後続隊 1万余人
という編成です。
日本の戦闘構想は、まず先遣隊とともに豊璋王を帰国させ、百済復興軍の強化を図る。
そして主力軍の参入により、新羅を撃破したあと、後続隊の到着を待って唐軍と決戦するという考えです。
天智2(663)年、倭国軍は百済南部に至り、唐軍を駆逐します。
戦いは三年余続きますが、663年、豊璋王が待つという白村江の王城に軍を進めた倭国軍は、海からやってきた唐の水軍と、海上の倭国水軍が戦闘となり、ついにおよそ千隻余りの倭船のうち400隻余りを炎上させられて、大敗します。
この戦いで百済の豊璋王が脱走してしまい、これ以上半島で戦いを継続する意味無しとみた倭国軍は、半島から撤兵します。
これが白村江(はくすきのえ)の戦いで、このとき唐軍の捕虜となった倭国兵のなかのひとりが、大伴部博麻でした。
捕(とら)らえられた大伴部博麻は、唐の都の長安に連れて行かれます。
連行された博麻らは、捕虜とはいえ拘束されることなく自由に長安を往来できたようです。
そんななかで博麻はある日、
「唐の軍隊が日本襲来を計画している」
との情報を耳にします。
唐の軍隊が日本に攻めてきたら大変です。
それは日本にとっての一大事だからです。
「なんとしてもこのことを、
日本に知らせなければならない」
とは思うのですが、日本にまで渡航する旅費がない。
そこで博麻は、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝の子の4人の仲間に、
「俺を奴隷に売れ。
そのお金でおまえたちが
日本に帰れ。
そして唐による
日本襲来計画のことを
伝えてくれ」
と頼みます。
こうして博麻は奴隷に売られ、その売却代金をもとに、4人は衣服、食料、旅費を調達して、日本に向かいます。
天智10(671)年、ようやく対馬に上陸した4人は、ただちに対馬守にその報告をし、対馬守は直ちに「筑紫国大宰府政庁」にこれを報告、直ちに天智天皇に奏上されまました。
情報は生かされ、天智天皇は、大宰府沿岸の警備を強化し、また都を近江に移して、国土の防衛を図ります。
一方、博麻は、ひとり唐の地にとどまること20数年、知り合いの唐人から、日本に行くが一緒に来ないかと、声をかけられ、日本書紀によれば、持統4(690)年10月、ようやく博麻は30年の歳月を経て日本に帰国しました。
この、己(おのれ)の身を奴隷に売ってまでして情報を伝えた「大伴部博麻」の国を想(おも)う忠誠に、時の女帝・持統天皇が、博麻に贈ったのが、上の勅(みことのり)と、階位と報償の数々です。
この勅の中にある「愛国」の文字は、これで「国を愛(おも)ふ」と読みます。
「愛」とは「おもふ」こと。
そして「忠」の字は「まめなるこころ」と読みます。
冒頭の碑文は、
「尊朝愛国(そんちょうあいこく)
売身輪忠(ばいしんゆちゅう)」
と書かれています。
「尊」とは、「とうとぶ」ことであり、
「愛」とは、「おもふ」こと。
「輪」とは、「めぐらす」こと。
「忠」とは、「まめなるこころ」です。
すなわち、
尊朝 朝(みかど)を尊(たうと)び
愛国 国(くに)を愛(おも)ひ
売身 身を売りて
輸忠 忠(まめなるこころ)を輸(めぐらせ)た
「愛国」の二字は、何も「先の大東亜戦争で軍部が生(う)んだ戦時用語」ではありません。
そもそも「軍部」というのはどこの誰のことを言っているのかさえ曖昧です。
それに「愛国」を「アイコク」と音読みすれば、私達には意味がぼやけてよくわからなくなりますが、これで「くにをおもう」と読むなら、それは神武天皇によって我が国家として開かれた時代から続く我が国の伝統であり文化の根幹であることがわかります。
親が子をおもい、子が親をおもい、妻をおもい、夫をおもい、子をおもい、愛する人をおもい、自分の所属する会社や団体をおもい、郷里をおもい、国をおもい、人類の未来をおもい、地球をおもう。
愛はすべてに通じます。
国への「おもい」だけを否定するなどということは、本来できないことですし、あってはならないものです。
ならぬことは、ならぬのです。
また、国家の危機を救い、歴史上唯一、一般人でありながら天皇から直接勅語(みことのり)を賜った古代の英雄は、特別な力を持ったスーパーヒーローでもなければ、敵を何百人人も打倒して蛮勇(ばんゆう)を奮(ふる)った武闘家でもありません。
身を奴隷に落としてまでも誠意誠実を貫き通した、どこにでもいるただの男だったのです。
つまりこのことは、誠意さえあれば、誠実をつらぬくことこそが、我が国における英雄への道であることを示します。
そしてそうした大伴部博麻を顕彰された持統天皇は、本当に素晴らしい天皇であったと思います。
なぜなら7世紀という、世界の国家の黎明期において、武力ではなく、誠意を顕彰の対象とすることで、我が国臣民の道を明確に示されておいでになるからです。
持統天皇は男系女子の天皇(女性天皇)ですが、その持統天皇は、武力による支配を望まず、どこまでも教育と文化によって国家を形成しようとされた偉大な天皇です。
また、それまで皇位継承をめぐる争いが、たびたび流血騒動に発展したことを踏まえ、二度とそうした争いが起こらないように皇位継承順位を明確に定められた天皇でもあります。
そしてこの教育と文化による国つくりこそ、我が国の大きな伝統文化として育つのです。
(追記)後の南北朝時代は、この皇位継承順位に鎌倉幕府が横槍を入れることで皇位継承順位が崩れたことによって発生しています。
※この記事は2010年2月の記事のリニューアルです。
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コメント
にっぽんじん
韓国が日本に対して「謝罪」と「賠償」を求めている「歴史問題」を全て「捏造」だと批判する内容だから読者は驚いたと思います。
これまでの通説を覆す批判本だから韓国政府やマスコミは驚きを超えているのではないでしょうか。
しかし、韓国政府もマスコミも、日本の親韓マスコミや良心的日本人からも何の反応もありません。
沈黙に徹しています。
騒ぐと余計本の宣伝になることを恐れているのではないでしょうか。
「反日種族主義」がこれからの韓国や日本にどれだけ影響するかわからないが、期待しています。
中央大学の堤義明氏の名前も出てきます。
読んだ後の「読書感」を知りたいものです。
2020/01/07 URL 編集