日本では、神武天皇以前が神話の時代、神武天皇以降が伝承の時代で、つまりある程度の根拠性が認められる実際にあった逸話として、神武天皇のご事績が語られています。
つまり神武天皇の物語は、神話ではなく、語り継がれたご事績(事実)であるということです。
その神武天皇の東征の逸話の中に、八咫烏(やたがらす)が登場します。
古事記では単に「八咫烏」と記述していますが、日本書紀では「頭八咫烏」と書いて、これで「やたがらす」と読むとされています。
「八」は霊数で、たくさんの。
「咫」は尺の旧字で、長さの単位(一尺はおよそ30cm)
「頭」は、棟梁(親分)のことです。
つまり「頭八咫烏」は、諸説ありますけれど、おそらく身の丈8尺(2メートル近い大男)で、カラスのように真っ黒な肌を持つ集団の頭(親分)だと書いているわけです。
ちなみに、記紀ともに、どこにも三本足とは書いていません。
神武天皇の物語を日本書紀を通じて読んでみますと、九州の宮崎を出発して瀬戸内で農業指導を行い、3期分のお米を蓄えて畿内に入った神武天皇の一行は、長髄彦(ながすねひこ)の一団に突然襲撃されます。
神武天皇は、日に向かって戦ってはいけない(日の神の子孫である民と戦ってはいけない)と、軍を引くのですが、長男の五瀬命(いつせのみこと)が、長髄彦の襲撃の際の矢傷がもとで死去、さらに船が途中で嵐に遭って、次男の稲飯命(いないのみこと)、三男の三毛入野命(みけいりのみこと)までも、相次いで亡くなってしまいます。
ちなみに、稲飯は、稲のご飯、ミケは食料のことですから、どちらも食料を意味していて、要するに兄を失っただけでなく、シケ(海の嵐)によって、船に積んでいた食料さえも失(な)くなってしまうわけです。
飢えは病を生み、熊野の荒坂津(あらさかのつ)に着いたときには、兵たちも病んで元気を失ってしまう。
ところがここで熊野の高倉下(たかくらじ)に救われます。
高倉というのは、高床式の蔵(くら=倉)のことで、お米を備蓄する施設のことですから、その下(もと)にあるということは稲作をする人という意味です。
つまり、熊野にも稲作をする人たちがいたわけで、その人たちによって、食料を与えられ、元気を回復するわけです。
そして神々は、高倉下を通じて、神武天皇に韴霊(ふつみたま)の剣(つるぎ)を授(さず)けます。
「韴」というのは悪を断ち切るという意味で、これを神々が授けたということは、悪には断固として戦え!と神々が意思表示されたことを意味します。
こうして元気を回復し、神力を持った剣とご神意を得た一行ですが、どうしても大和盆地への山越えができない。
困っていると、天照大御神が夢に現れて、
「これから頭八咫烏をつかわすから、それに付いていきなさい」と申されます。
それで付いていくと、山道の中から、長髄彦を始めとする盗賊団に食料を奪われて困っている人たちが次々と現れてくる。
その人達とともに、悪い奴らと戦って勝利していくわけです。
霊剣は、超強力な武器を象徴します。
いまでいうなら、超強力核弾頭付ミサイルを得たようなものです。
戦うためには、圧倒的な武力が必要になる。
けれど神々の御意思は、
「超強力な武器を得たからといって、
単独で(ひとり)で戦ってはいけない。
戦う時は、
その戦いによって受益者となる
みんなとともに戦え」
ということです。
だから八咫烏が派遣されています。
こうしていよいよ戦いが始まります。
神武天皇が岡山から持ってきたお米は、すでに嵐に遭ってありません。
高倉下の備蓄米も、大軍を養うのに十分なものではありません。
だから戦いのさなかに、食料が失くなって、みんなお腹を空かせます。
そこで神武天皇は、以前に稲作の指導をして、備蓄米をたくさん持つようになった瀬戸内の人々に、お米を運んできてもらうのです。
そしてこのことが、
1 狩猟採集生活のその日暮らし
2 村々での稲作による災害時の食料備蓄
3 村々の備蓄食料の融通による全国的な相互扶助
と発展し、新しい国つくりの基礎となります。
こうして勝利した神武天皇は、橿原宮で初代天皇として即位する。
神武天皇の時代というのは、全国で26万人あった日本の人口が、8万人にまで減少した時代です。
原因は、食糧不足です。
人は食べ物の分しか人口を維持することができないからです。
これを心配された神武天皇は、あらためて稲作を中心として食料備蓄のできる国作りを目指されたわけです。
そして地域を越えて相互に助け合うシステムに目覚め、これを公正に行うために、橿原の地に都を定めて、全国的なお米の管理と流通を実現されます。
これが「四方八方をおおうひとつ屋根の下で暮らす家族のように、日本全国互いに助け合って、災害の多い日本で、誰もが安心して暮らせるようにしていこう」という八紘一宇(はっこういちう)の日本の建国精神です。
神武天皇によって、日本の人口は8万人から、短期間のうちに67万人にまで増加しました。
人口が増加し、子供たちの遊ぶ声が村々にこだまして、人々が食糧不足に苦しむことがないことは、国民にとってとても幸せなことです。
だからその幸せをもたらした神武天皇は、崩御の後、
「やまとの神と呼ばれた男」と呼ばれるようになりました。
それが「神倭伊波礼毘古命」という贈り名の意味です。
我が国は国家の黎明期において相互扶助を基幹とする国作りをしていこうとされた神武天皇という偉大な指導者を得ました。
それは我が国の国民にとって、まことに幸せなことであったというだけでなく、おそらく人類史においても、偉大で貴重なな出来事であったといえることです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
ケイシ
橿原神宮は私が大阪に移住して
初めて訪れた神宮で、とても好きな場所です。奈良~生駒山を背景にする土地には神武天皇様の行幸された場所や建立された神社が数多くあります。祭事、政治(まつりごと)の神を祭る枚岡神社もその一つです。混迷を深める現代ですが、神々様のお導きを頂く謙虚な姿勢が日本の政治家には必須です。
与党自民党議員も野党も儲かれば良いと、シナ中国共産党に肩入れしている場合じゃないですよ。
2020/01/13 URL 編集
カラスの行水は勝手でしょ。
扶桑の記述は種々の古典にあり、『淮南子』にも一度ならず登場しますが、大抵は「ほとり」ではなく、「はるか東海上」のイメージです。「世界の東端」の意味で語れることもあります。東海上にある島・国のほとり、その島・国にある泉・湯谷(暘谷)のほとりというような表現がされることはあります。
> 口から火を吐き出したものが、太陽となっていた。
太陽はカラスを載せている(逆に太陽は鳥に載せられていると訳している例もある)、太陽の中の(鳥)という記述が通例。ここから太陽そのものを日烏、火烏、金烏などと表現することがあります。Wikipediaにもあるけど、「口から吐き出す」の出典ってどこなんですかね。
> 羿(すい)という弓の名手に命じて
日本の音読みでは普通は「ゲイ」です。
> 屈原が書いた『楚辞・天問篇』にも注釈として
この注釈というのは王逸の『楚辞章句』(漢代に書かれた注釈)だと思いますが、原文は
「堯命羿仰射十日、中其九日、日中九烏皆死、墮其羽翼、故留其一日也。」、すなわち「堯は羿に命じて十の太陽を射させ、そのうちの九の太陽に命中した。太陽の中の九羽のカラスは皆死んでその翼は堕ちた。ゆえに太陽は一つだけになった」ぐらいの意味で、「太陽のなかに十羽のカラスがいて」とはちょっとニュアンスが違います。
このカラスを「太陽黒点」だとする説があり、これだと「太陽の中に10羽の黒いカラスがいる」の部分は説明できますが、全体としては「9個の黒点が射落とされたので太陽は1つになった」となってしまい、如何に神話といえども不合理です。
なお、『楚辞章句』のこの部分は「淮南言」で始まっており、『淮南子』からの引用だと思われます。もっとも、現在『淮南子』として残されている史料に同じ文章はないそうです。
2020/01/13 URL 編集