そして御家人達の生活破綻は、実はそのまま御家人達が行う庶民への行政サービスの停止を招きます。
そこに大地震が起こります。
しかし災害が発生しても、御家人にも幕府にも、被災地支援を行うための財政の裏付けがありません。
結果、庶民の間に飢饉が起こり、多くの人が死に至ります。
ところが人が死んでも埋葬する行政サービスが機能していない。
すると街中いたるところに、腐乱屍体が転がり、その屍体を媒介にして伝染病が蔓延(まんえん)します。
ますます多くの人が亡くなるわけです。
こうした事態を受け、ひとり立ち上がったのが第96代後醍醐天皇です。
「もはやこれ以上、財政破綻に陥った幕府に政治を委ねるわけにはいかない!」
後醍醐天皇は、倒幕のための準備を進めていきます。
ところが後醍醐天皇は、ひとつ大きな問題を抱えていました。
それは実は後醍醐天皇よりも、もっとずっと前の第88代後嵯峨天皇の時代のことです。
もともと皇統は、第41代の持統天皇の時代に、もっとも霊統の濃い男系男子の長子が、機械的に次の天皇になると決められていたのです。
これは、皇位をめぐって血で血を洗う争いが起きないようにするためです。
ところが鎌倉時代、源氏の将軍が頼朝、頼家、実朝の三代で絶えてしまったため、4代将軍、5代将軍と摂関家である藤原家から将軍を向えていたのです。
これを「摂家将軍」といいます。
ところが次の6代将軍を決めようということになったとき、幕府の北条時頼が、次の将軍として、後嵯峨天皇の長男を要求したのです。
こうして生まれた将軍のことを「宮将軍」とか「一品(いっぽん)将軍」といいます。
「一品(いっぽん)」というのは、御皇族に対してのみ与えられる律令制のもとでの最高位です。
ところがこのことは、「霊統上位の長男が次の天皇となる」という古代からの慣習を破り、その(本来天皇になるべきはずの)長男が、鎌倉将軍職に下るということを意味します。
次の天皇は、もちろん次男の後深草天皇です。
ということは、次の次の天皇は、後深草天皇の子という順番になるはずです。
ところが、そうなると鎌倉に下った長男は面白くない。
なぜなら自分の子が、本来なら天皇になるはずだからです。
その怒りを逸らすために、後深草天皇の子にあとを継がせず、後深草天皇の次の将軍には三男の亀山天皇が即位します。
しかし、そうなればなったで、ではその次の天皇に誰がなるかが問題になります。
鎌倉将軍となった長男の子か
次男の子か(これを持明院統といいます)
三男の子か(これを大覚寺統といいます)
結局、話し合いの結果、以後の天皇は持明院統と大覚寺統で、交互に皇位に就くということで、とりあえずの決着をみるのですが、さらにそのまた子(つまり孫)の世代になると、皇位継承権者が、今度は4人に増えてしまうのです。
これは次の世代では、8人、その次には16人。
順番に皇位を交互に継ぐとはいっても、これはおよそ不可能なことになります。
もともとそういう問題を抱えているところに後醍醐天皇がおいでになったわけです。
後醍醐天皇は、上の三男の血筋、つまり大覚寺統です。
後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の協議は、通報があって六波羅探題に知られるところとなり、関係者は全員逮捕、後醍醐天皇は隠岐の島に流罪、次の天皇は、幕府の推薦によって光厳天皇が即位されます。
しかし、これもまた問題だったのです。
そもそも後醍醐天皇は、我が国のスメラミコトであり国家最高権威です。
その最高権威を、天皇の臣下である将軍が逮捕し流罪にしてしまったわけです。
「これはとんでもないことだ!」
と怒る武士たちがいたのです。
そのなかのひとりが児嶋高徳で、児嶋高徳は隠岐島に流罪となって護送される後醍醐天皇をなんとか奪回しようと、二百の決死隊を率いて護送団を追うのです。
けれど護送団がどうしても見つからない。
そこで児島高徳は、せめて志だけでも伝えようと、杉坂峠の天皇の宿所の庭の桜樹の幹を削って、十字の詩を書きました。
それが、
天莫空勾践
時非無范蠡
という漢詩です。
意味は、「天が古代中国の越王・勾践を見捨てなかったように、このたびのことでも范蠡の如き忠臣が現れて、必ずや帝をお助けする事でしょう」というもので、この話は忠臣児島高徳の故事として、戦前は学校の教科書でも紹介され、日本人なら誰もが知る「日本の常識」となっていました。
文部省唱歌もあります。
尋常小学唱歌第六学年用に掲載されているもので、
♪ 船坂山や杉坂と、
御あと慕ひて院の庄
微衷をいかで聞えんと、
桜の幹に十字の詩
天勾践を空しうする莫れ。
時范蠡無きにしも非ず
とっても難しい漢字がいっぱい使われている歌詞ですが、こうした歌が唱歌として歌われ、小学生でさえ、その意味をちゃんとわかっていたというのは、実にすごいことだと思います。
現代のゆとり教育とはずいぶん違う。
大切なことは、子たちに単に漢字の意味がわかるかわからないかということではなく、こうした歌を幼いうちに覚えれば、長じてその意味がわかるようになったときに、社会の役に立つ、まさに「大人になる」ということです。
そのときに意味がわからなくても、ずっと後年になって意味がわかるということは、数多くあるものです。
児島高徳の漢詩にある勾践(こうせん)というのは、中国の故事に出てくる越王のことです。
勾践は、古代中国の春秋戦国時代の越王で、隣国の呉の王の闔閭(こうりょ)を破ります。
闔閭の子の夫差(ふさ)は、お家再興を誓い、毎日寝苦しい薪(たきぎ)の上に寝て、悔しさを忘れないようにしました。
これが「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の「臥薪(がしん)」の逸話です。
そして再起した呉王の夫差は、見事、越王勾践を会稽山(かいけいざん)で打ち破ります。
敗れた勾践は、愛する妻を夫差に妾(めかけ)として差し出すという屈辱を受けます。
このときの悔しさを忘れないようにと、「勾践」は野良仕事の毎日の中で、いつも苦い「胆」をそばにおいて、これを噛み、「会稽山の恥を決して忘れない」と誓い続けます。
そして努力を重ね、ついには夫差を滅ぼす。
これが「臥薪嘗胆」の「嘗胆(しょうたん)」の逸話です。
勾践には、信頼する部下がいました。
それが范蠡(はんれい)で、范蠡は、敗戦の屈辱を受け、何もかも失った越王勾践に富めるときも貧しいときも常に変らぬ忠誠を誓い続けて勾践を守り続けます。
そして勾践が決起したとき、見事夫差を討ち滅ぼしています。
この逸話が、
「会稽(かいけい)の恥をすすぐ」という忠臣物語です。
つまり児島高徳は、自分を「范蠡」になぞらえて、自分の気持ちを後醍醐天皇に伝えようとして、上の漢詩を書いたわけです。
ところが桜の木に書かれたこの文字を見つけた鎌倉の後醍醐天皇護送団は、誰ひとり、詩の意味がわからない。
実際はどうだったのかはわかりませんが、『太平記』は、後醍醐天皇を支えた反鎌倉方の忠臣となった武士たちを、非常に教養の高い武士たちとして描写しています。
おそらく、我が国が天皇の知らす国であることを、教養として身に付けているのかいないのか。
そのことが、後々の世まで影響する大事であるという基本認識のもとに『太平記』が書かれているからであろうと思います。
いま日本は、建国以来の危機にあると言われています。
その日本を守り救うのは、我が国の歴史伝統文化の中に根付いてきた本来の日本の形を常識化することにあります。
ただ外国批判や、国内の一部政治勢力批判だけでは、決して国は変わらない。
古いものと新しいものを融合し、よりよい日本を築いていくこと。
そのために必要なことは、正しい知見であろうと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
コンボ
霊統とはいわば「皇統そのもの」の事であるので、天皇に即位した時に初めて継げるものです。
即位もしていない一介の皇族に霊統はありません。
>>>ところが次の6代将軍を決めようということになったとき、幕府の北条時頼が、次の将軍として、後嵯峨天皇の長男を要求したのです。(中略)古代からの慣習を破り、その(本来天皇になるべきはずの)長男が、鎌倉将軍職に下るということを意味します。<<<
>>>次の天皇は、もちろん次男の後深草天皇です。ということは、次の次の天皇は、後深草天皇の子という順番になるはずです。<<<
>>>ところが、そうなると鎌倉に下った長男は面白くない。なぜなら自分の子が、本来なら天皇になるはずだからです。その怒りを逸らすために、後深草天皇の子にあとを継がせず、後深草天皇の次の将軍には三男の亀山天皇が即位します。<<<
これらの箇所も事実と違います。
まず後嵯峨天皇の長男(第一皇子)である宗尊親王は、父帝より寵愛されていたものの、生母の身分が弟たち(後深草天皇・亀山天皇)の生母よりもずっと低く、元から皇位継承は絶望的だと思われていたのです。
皇太子として立てられる事もない事を不憫に思った父・後嵯峨天皇の意向で、征夷大将軍として鎌倉に送られたのですから、生涯皇位とは縁のない事など、宗尊親王本人も承知の上でした。
なのでその後の皇位継承に関して、自分の子が継げない事などは元から当然だったので、不満など抱く筈もありません。
そして確かに順当に行けば、「(後深草天皇の)次の次の天皇は、後深草天皇の子という順番になるはず」だったのですが、これを捻じ曲げた張本人は、父である後嵯峨上皇その人です。
御嵯峨上皇が年長の子である後深草天皇をあまり愛さず、年少の子である亀山天皇を依怙贔屓したので、本音では後深草天皇よりも亀山天皇の方に譲位したいと望んでいました。
なので上皇となってからも、治天の君としての権力を行使して、短期間で後深草天皇に弟(亀山天皇)に皇位を譲るように迫りました。
そういう運びで亀山天皇は即位したのです。
更には後深草天皇の子ではなく、亀山天皇の子が次の皇太子に立てられたのも、これまた後嵯峨上皇の意志です。
つまり全ては後嵯峨上皇の偏愛に基く横車だったのです。
この横車こそが持明院統と大覚寺統の両統迭立、南北朝時代の遠因となった訳です。
時の幕府執権・北条時頼が慣習を破って、一方的宗尊親王を要求したかのように言われていますが、これは前述の通り北条時頼だけでなく、後嵯峨天皇自身が望んだ事でもあるのです。
時の朝廷最大の実力者で、朝幕両方で威勢を振るう九条道家という公卿がいました。
九条道家と言えば、まず道家の娘・九条竴子(くじょうしゅんし/よしこ)が後堀河天皇の夫人の一人で、この竴子が四条天皇を生みました。
つまり道家は天皇の岳父であり、外祖父でもありました。
更には鎌倉で三代将軍・源実朝を最後に、源氏将軍の血統が途絶えた後、道家は息子の藤原頼経(ふじわらのよりつね)を鎌倉幕府の四代将軍に就任させる事に成功しました。
その次の五代将軍は頼経の嫡子・藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)に受け継がれました。
このように九条道家は天皇の舅・外祖父という立ち位置の他に、鎌倉の将軍の実父・実祖父という立ち位置にもあったので、京(朝廷)と鎌倉(幕府)の両方で強い権勢を振るっていました。
朝廷では独断専行が甚だしいばかりか、将軍の実父・実祖父であるのをいい事に、幕府の方にまで色々と干渉して来る、そんな両者にとって目の上の瘤であった道家を、後嵯峨天皇も北条時頼も疎ましく思っていました。
それで鎌倉での政争により、道家の息子と孫が相次いで将軍の地位から失脚し、後嵯峨天皇と北条時頼は九条家排斥に成功したので、晴れて皇太子になれない宗尊親王を新しく将軍職に就任させたのです。
つまり宗尊親王が六代将軍となったのは、朝廷でも幕府でも九条家の影響を排除したいと望み、両者の利害が一致したからこそ実現した話です。
鎌倉側(北条時頼)が一方的に無理な事を要求した訳ではありません。
2020/01/16 URL 編集
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子孫が何もしないでいれば、ということが前提です。二代目の代が新規の事業の設立を考えず、親の代から引き継いだものを維持するだけで、三代目以降も同じであれば、誰もが貧乏になります。昔の農業国で新たな事業といっても限りがあるような時代ではそうだったかもしれません。
しかし現代では新たな技術が次々に生まれ、事業の形態も素早く変化してゆきます。この状態で先代から受け継いだものにすがって生きてゆくスタイルをとれば、競争力の低下につながってしまいます。
2020/01/14 URL 編集