ラクシュミー・バーイーは1835年に、インドの小さな城塞都市国家、マラータの貴族の子として生まれました。
インドは、日本でいう室町時代である1526年に、ムガール帝国が起こり、全インドが統一されています。
それまでのインドは、小さな城塞都市国家が集合するエリアだったのですが、そこにモンゴルの大帝国の末裔が現れ、全インドを統一しました。
ちなみに「ムガール」というのは、インド語の「モンゴル」のことです。
ムガール帝国は、厳格なイスラム主義国です。
インドは、もともとカースト制で有名なバラモン教や、ヒンズー教、仏教などの宗教が入り混じる国ですから、インド各地で反乱が起こり、帝国は徐々に衰退していきました。
そうした国内の混乱に目を付けたのが英国です。
英国は1600年頃から次第にインドに入り込み、大量の機械製綿織物をインドに流入させました。
このためインド国内では、伝統的な綿織物産業が破壊されてしまいます。
ラクシュミー・バーイーが生まれたのは、ちょうどそんな時代です。
彼女は幼名を「マナカルニカ」と言いました。
これはガンジス川の別名で、心に悠久の母なるガンジス川が流れるような、凛々しく、おおらかな女性に育ってほしいという願いを込められて付けられた名です。
幼い頃から父にたいへん可愛がられ、剣術や乗馬も好む、ちょっとおてんばな少女に育ちました。
ところがマラータ王国が英国と戦闘となり、敗北した父は戦死してしまう。
城を追われ、流浪の身となったラクシュミーの一家は、苦難の中、母も他界してしまいます。
そんな苦労の中でも美しく凛々しい娘に育ったラクシュミーは、1850年、15歳で中央インドの小さな城塞国家であるジャーンシー王国のガンガーダル・ラーオ王に嫁ぎました。
ジャーンシー王国は、古くから交通の要衝として栄えた国です。
王妃となった美しいラクシュミーは、ジャーンシーの民衆からたいへんに愛されました。
やがてラクシュミーは、念願の男の子を出産しますが、王子は、わずか三カ月でこの世を去ってしまう。
父の死
母の死
愛する我が子の死・・・。
悲嘆に暮れるラクシュミーに、天はさらなる試練を与えました。
英国が「後継ぎのいない国は、東インド会社に併合する」という無嗣改易政策を押し付けてきたのです。
世継ぎがいなければ、王家の存続を認めない、というのです。
そうなれば王家は廃絶され、王宮は英国東インド会社の領事館として明け渡され、王室や貴族は四散しなければならなりません。
そして王国の民は、奴隷になる。
ラクシュミー王妃とラーオ王は、後継ぎに養子を迎え、なんとかして王家の存続を図ろうとします。
しかし無理難題を押し付ける英国との交渉ははかどらず、心労を重ねたラーオ王は、1854年にあえなく他界してしまう。
夫を失ったラクシュミー王妃のもとに、英国は、まだ喪も明けないうちから、ジャーンシー王国の城塞の明け渡しを強硬に求めてきます。
「このままでは、国が滅んでしまう。」
悩んだラクシュミー王妃は、英国の総督のもとに自筆で何度も手紙を送りました。
「インドの伝統を無視し、
一方的な「法」を押し付けても、
私たちの社会に通用するものではありません。
かえって英国領事の
無知、無教養、狭量をさらけ出すだけです。
どうしても養子ではいけないとおっしゃるのなら、
誰もが納得のいく説明を求めます。
国の力が強大であれば、
それだけ自分の気ままに行動したり、
間違いを侵すことを認めなくなるものです。
ジャーンシー王国の併合は、
強い大国の、弱い小国に対する
権力の発動でしかありません・・・。」
このときのラクシュミー王妃の書簡は、彼女がインドだけでなくヨーロッパの法律や外交や歴史にも通じていた事を示しています。
当時の英国の役人でさえ、その鋭い説得力に感嘆したといいます。
ラクシュミーは、東西の学問に通じる群を抜いて聡明な女性でもあったのです。
しかし英国の、力によるインド支配の目的のもとでは、王妃の論説は、いかに正しくても蟷螂の斧です。
ラクシュミー王妃の書簡は、英国の総督によって完全に無視され、その年のうちに英国は軍を動員してジャーンシー王国を併合してしまいます。
そしてラクシュミー以下、城内の貴族ら全員、王宮から追い出されてしまう。
その日、ラクシュミー王妃は、居並ぶ英国の将兵の前で、決然と顔をあげ、
「私は決してジャーンシーを放棄しない!」
と言いました。
英国の将兵たちは、鼻で笑いました。
その3年後、セポイの乱が起こりました。
セポイたちの叫びは、圧政に苦しむ全インドの民衆運動へと広がりました。
運動の炎は、ジャーンシー国にも燃え移ります。
決起したジャーンシーの民衆は、城に駐屯していた少数の英国軍を攻め、これを降伏させました。
さらに英国に対して徹底抗戦をしようと考えたジャーンシーの男たちは、城内の武器で武装し、デリーにあるセポイ反乱軍の本体と合流するため、城を後にします。
そしてこのとき、男たちは城内に残る英国人の将兵を虐殺してしまいました。
城内に残るのは、ラクシュミーをはじめ、女子供や老人と、わずかに残った体の弱い男性ばかりです。
この時点で、城には戦力と呼べる兵はいません。
一方、歴史というのは複雑なものです。
ジャーンシー王国が滅亡して、英国がこれを摂取したとき、積極的に英国側に付くことで特別な利権をもらい、大儲けして新たな利権を手にしていた人たちがいたのです。
当然のことながら、彼らにとってはジャーンシーの復国はおもしろくない。
彼らはすでに女子供しか残っていないジャーンシー国を、自分たちで攻め滅ぼすことで、英国に恩を売り、さらに自分たちの権力基盤を固めようとしました。
そして傭兵を集め、ジャーンシー城の奪還を図ろうとしたのです。
城に残った人たちは、元王妃であるラクシュミーのもとに集まりました。
どうしていいのかわからない。
戦うと言っても、女子供ばかりなのです。
ラクシュミーは、城内にいる老人や女子供全員を城に集めました。
そして古くから伝わるカースト(階級)の差別なく、全員に等しく食事を与え、城内に残るすべての者たちで、徹底抗戦することを説きました。
わけ隔てのないラクシュミー王妃姿勢と、王妃の強くて固い決意に、城内の人々全員の心がひとつになります。
いよいよ敵が攻めてきました。
王妃は、兵士や民衆の先頭に立って指揮をとり、最前線に立ちました。
さらに激しい戦闘の中で、人々に食べ物を配り、傷を負った者に手厚い看護も施しました。
王妃の細やかな気遣いに、城内の戦意と結束はますます高まりました。
ジャーンシー城内にいるのは、婦女子というだけではありません。
カーストによる身分の違いに加え、ヒンズー教、イスラム教、バラモン教、それぞれの信徒がいました。
宗教対立さえあったのです。
しかし彼らは、そうした日ごろの信仰の違いさえ超えて、ラクシュミー王妃のもとに団結しました。
そして圧倒的な兵力で攻めてくる戦争のプロの屈強な傭兵たちの軍団を、彼女たちは次々に撃破したのです。
ついにジャーンシー城の人々は、女子供だけで屈強な傭兵軍団を打ち破りました。
戦いに勝利した王妃ラクシュミーは、一躍(いちやく)反英闘争の旗手として全インドにその名が知られるようになりました。
こうなると英国としても本気にならざるを得ません。
英国は、ラクシュミーを危険人物として、翌年、英国軍の本体によって、ジャーンシー城への総攻撃を行ないます。
傭兵軍団と異なり、英国軍本隊は、近代装備による圧倒的な火力と兵力を持つ、訓練を受けた軍隊です。
ラクシュミー王妃は、私財を投げ打って傭兵を雇い、さらに城内の女子供全員にも訓練を施し、なんと英国軍の圧倒的な火力の前に、半月の間、頑強な抵抗を続け、その間に幾度となく英国軍を撃退しました。
英国軍は、女子供に苦戦しているのです。
余りの惨状に、英国軍の指揮官であるローズ少将は次のように書き遺していました。
「理由は十分すぎるほど明らかである。
彼らは王妃のために、
そして自分たちの国の独立のために
戦っている。」
ラクシュミー王妃たちは、寝る間も惜しんで戦いました。
けれど多勢に無勢です。
英国自慢の大砲の前に、城壁は破壊され、城門は破られ、ついに城は陥落してしまう。
戦いに敗れたラクシュミー王妃は死を決意します。
ところが周囲がそれを許さない。
なんとしても祖国と民衆のために生き抜いてほしいという。
仲間たちの懇願に押された王妃は、養子の男の子を連れ、少数の護衛兵とともに馬にまたがって絶壁を駆け降り、城を脱出します。
このときラクシュミー王妃の一団は、一昼夜で160キロを走り続けたと伝えられています。
途中でいちど英国軍の検問に引っ掛かって逮捕されたのですが、警護の英国士官をラクシュミーは、手にした剣で、抜く手も見せない早業で斬殺し、全員をそこから無事に脱出させています。
そして一団はカールビー城に到着する。
ラクシュミーはカールビー城内の反乱軍とともに、徹底抗戦を主張しました。
しかし英国の強大な火力に怖れをなしたカールビー城の指導者たちは、闘いを前にしてすでに腰砕けになっていました。
英国と和睦の道を探るべきと主張する。
意見が対立したラクシュミーは、年若い女性ということもあって、ついにはカールビー城で孤立してしまいます。
そこに英国軍がやってきました。
大軍です。
指導者が腰砕けになっているカールビー城塞は、あっけなく陥落してしまう。
そして中途半端に和睦の道を探っていた城の指導者たちは、英国軍にとらえられ、みせしめとして大砲の先にくくりつけられたあげく砲弾を発射され、五体をバラバラにして全員殺されてしまう。
戦うべきときに戦えない腰ぬけや、卑怯なゴマ摺りは、結局のところ、敵からも信用されないのです。
ラクシュミー王妃は、再び城を脱出し、計略を以って近くの城塞都市グワーリオル城を、無血奪取します。
そしてここを拠点に、全インドの民衆に徹底抗戦を呼びかけました。
陸続と同志たちが集まってきました。
グワーリオル城は、ラクシュミー王妃を盟主とする闘う大軍団となる。
衝撃を受けた英国軍は、軍の本体をグワーリオル城に差し向けます。
迫ってくる英国軍の本体に対し、ラクシュミー王妃は、騎馬隊を編成し、最前線に立って英国軍に果敢に突入しました。
騎乗のラクシュミーたちの一団がやってくるたび、英国軍は、蹴散らされました。
とにかく騎馬の利点を活かしたラクシュミーは、神出鬼没です。
あるときは夜陰にまぎれ、あるときは早朝の眠りの中を、突然現れては、英国軍を蹴散らしました。
たまりかねた英国軍は、ついに、奸計をもってラクシュミー王妃をおびき寄せ、これを遠くから狙撃をして、王妃の命を奪います。
こうして1858年6月17日、ラクシュミー王妃は、23歳の若い命を散らせました。
指揮者を失ったグワーリオル城の反乱軍は、散り散りになり、ついに反乱軍は鎮圧されてしまう。
戦いのあと、英国軍のローズ少将は、貴人に対する礼を以て彼女の遺体を荼毘(だび)に付したといいます。
それだけ彼女の勇敢な戦いは、英国軍にとっても脅威であり、尊敬に値するものだったのです。
こうしてセポイの反乱は、鎮圧されました。
そして英国のインド植民地支配は、ますます強められていきました。
インドの民衆は、ラクシュミーの死を嘆き悲しみ、そしてインドの自由と独立のために戦った彼女の鮮烈な生涯を、熱い追慕の思いを込めて語り継ぎました。
英国は、ラクシュミー王妃の生涯を描いた本は、すべて見つけ次第、焚書処分にしました。
しかし彼女の勇敢な行動は語り継がれ、インド独立の志士たちの、かけがえのない心の支えとなりました。
そして89年後の昭和22(1947)年8月15日、インドは英国からの独立を果たします。
インド各地に、ラクシュミーの名前の付いた「通り」や「女子大学」が数多くあります。
ラクシュミー・バーイーの名は、インドの人々の心に、今なお生き続けています。
アメリカインディアンにおけるアパッチ族の戦い、大東亜戦争における日本軍の戦い、そしてインドにおけるラクシュミー・バーイーの戦い。
正義のための勇敢な戦いは、時代を越えて語り継がれます。
一方、その場をうまく処理しようとした卑怯卑劣は、結局のところ敵にも信頼されず全員が処刑される。
もちろん、人と人とが互いに殺し合うことでしか正義の実現ができなかった20世紀以前の世界と、あらゆる情況がネットを通じて世界にさらされる21世紀では、時代が異なると言ってしまえばそれまでです。
ただ、ひとついえることは、その場で正義とされたこと、あるいは正しいとされた選択は、何年か経って歴史の選択によって様々なことが再検証されていくと、結局のところ間違いであり不正義であることが多いということです。
ラクシュミーの件でいえば、このとき正義とされたのはもちろん英国の側であり、ラクシュミーの行動は英国からすれば悪そのものです。
しかし、長い歳月を経てみれば、結局の所、事実関係、つまり正義がどちらにあったのかといえば、これはもうラクシュミーの側に軍配を上げざるを得ません。
要するに、いま正義とされていることは、何年かすると実は嘘であったとわかり、いま敵とされているものが(あるいは悪とされているものが)、何年かすると実は正しかったとわかる。
かなしいことに人間は、その場の成功や、その場の勝利を追うあまり、意外と大切なことを見落としがちです。
そして、本日の物語だけでは、すこしわかりにくいことかもしれませんが、いまこの瞬間の利得のために用いられる正義(本日の物語でいえば英国軍の正義とそれに味方したインド人たちにとっての正義)は、実は正義の名に値しない。
一方、どこまでも真実を求めようとする者は、そのときの社会からは排除されることになることがおおい。
これまでの世の中は、そういうものであった、ということです。
このことは、ネットによる情報化が進んだ現代においても、実は同じです。
別な言い方をするならば、主流派と反主流派ともいえます。
主流派は、いまこの瞬間の利益を代表します。
従って、世の中の圧倒的多数は、主流派の味方です。
一方、反主流派には二通りあって、でたらめな主張を繰り返して、主流派の足を引っ張るだけの人たち。
これらは主流派になれなかったストレスを、反対派になることで解消しているだけのわがままな人たちでもあります。
もうひとつは、普遍の真実に生きようとする人たちです。
そういう人たちは、いつの時代にあっても、少数派です。
けれど、時代を拓くのは、常にその少数派だったりします。
世の中はおもしろいものです。
※この記事は2010年11月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
よみひと知らす
「セポイの反乱」は言葉として知っていたぐらいで、
クラシュミー・バーイーは知らなかった。
巻頭の絵、インド人・インド国民の心象が出ているようで好きです。
1958.6.17 殉国
2020/01/17 URL 編集
祈る人
ムガル帝国は成立した時点の版図は、パンジャーブからデリー周辺とそのすぐ南隣のアグラ(タージマハルで有名)ぐらいまで。しかも第2代皇帝フマーユーンは一度は国土を失い、ペルシアに亡命しています。再興されたムガル帝国は第3代皇帝アクバルの下で北インドからベンガルに領土を拡大。それが全インドに及ぶのが第6代皇帝アウラングゼーブ(在位:1658年 - 1707年)の時代です。彼はデカン戦争を起こしてデカンのムスリム諸王朝や南インドのタミル諸王朝を征服し、最大版図を達成します。しかし、各王朝の残党やマラーター勢力(ヒンドゥ)との抗争は続き、パンジャーブではシク教が勃興、北インドやベンガルでも反乱が相次ぎ、皇帝不在のデリーでは離反者が続出。アウラングゼーブ帝が前線の陣営で亡くなると、すぐに衰退の過程に入ります。
2020/01/17 URL 編集