視点の違いというのは、古代の人はオクレた存在だ、オクレた知識しか持ち合わせていなかったのだ、という先入観で万葉集を読むのか、同じ日本人としての血のつながったご祖先の偉大な功績として、尊敬の気持ちを持って読むのかの違いです。
どんな先生に従ったとしても、どんな古典や現代文学に接したとしても、それらはすべて人のすることですから、100%正しいということはないです。
ですからその正しくないところをとりあげて、「そこは正しくない、ここは間違っている」などとばかり主張したとしても、その「正しくない、間違っている」と感じた側が、実は間違っているのかもしれない。
それならばむしろ、万にひとつでも良いから、そこから良いところをありがたく吸収させていただくほうが、よほど建設的です。
我が国の古典文学について、ご専門に研究されている先生方の中にも、自分の読み込みの浅さを棚に上げて、批判を先行させる方もおいでになります。
たいへんに残念なことだと思います。
尊敬と敬意を失い、上から目線でものを見るということは、実は、幼稚園児が大学生を上から目線で見るようなものです。
1+1の整数の足し算程度の知識では、微分積分がわからない。
あるいは知識があっても、目が曇っていたら真実は見えない。
そして感動する心がなければ、美しさが見えない。
本にも書きましたが、古語では「をかし」と「おもしろし」は区別して用いられていました。
吉本漫才のような瞬間芸を見て「あはは」と笑うようなものが「をかし」です。
悲しい映画を観たあとでも、「今日の映画おもしろかったねえ」というときに用いられるのが「おもしろし」です。
後者は感動をあらわします。
最近では、日本人のような顔をして日本語を話す日本人でない人が増え、そういう人たちがメディアを牛耳っているために、日本語の表現がかなり不自然なものになっています。
単語がまったく異なる使われ方をするのです。
そしてその異なる使われ方の視点で、我が国の古典を読んだら、それは違った解釈になって当然です。
たとえば「子供達(こどもたち)」という表現があります。
「供」は複数を表す接尾語で、「達(たち)」もまた数を表す接尾語です。
これでは「子たち、たち」と言っているようなものです。
正解は「子たち」あるいは、単に「子供」で良い。
加えて近年では、批判をすることが正しいことであるような錯覚があります。
けれどもそのことが結果として1+1しかわからない幼稚園児が微分積分を解いている高校生を批判するような不自然さを招いています。
『万葉集』は、目下の危機をあおるものではありません。
ですが、重要なことを私達に教えてくれます。
たとえば世の中には、
緊急のこととそうでないこと、
重要なこととそうでないこと
があります。
下の図です。

出典:https://innovarth.co.jp/mind/dai2.htmlネットでも、目下の時事問題が人気です。
それは「緊急かつ重要なこと」だからです。
しかし大事なことは、そうした目先の問題に振り回されるのではなく、本来もっとも大切なことを、しっかりと伸ばしていく(図でいえば第二象限を膨らませていく)ことであろうと思います。
そしてそのために、日本とは何か、取り戻すべき日本の形とは何かを『万葉集』を通じて学んでいく。
そこに日本再生のヒントがあるように私は思います。
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
takechiyo1949
そんな方々が溢れてる時代?
気になって仕方ありません。
想像でものを言うな!
証拠を出せ!
ソース出せ!
証拠って何?
監視カメラ?
ドラレコ?
古文書?
これが事実だ!
疑わず信じろ!
考え事など必要無い!
事実は曲げられない!
双方共にこんなやり取りに終始してます。
実に乱暴な流れだな~と思ってしまいます。
想像とは「考えて見当を付けること」です。
根拠の無い妄想とは違います。
想像逞しく建設的に考え抜いて備え、未来に引き継ぐ。
先人の教えですよね。
ねずさんと共に古典を紐解きながら、そんな先人の生き様に接してきました。
想像力は養い続けたいです。
ねずさんの末永いご健勝とご活躍を祈りあげます。
2020/01/19 URL 編集
広島のアンノウン
かつてトーマス・エジソンは「1+1=2」と教える教師の目の前であらかじめ用意した泥団子をくっつけて『「1+1=1」では?』と疑問を呈したと聞きます。そのあと教師から『生意気だ』とばかりにムチ打たれた事も。
せっかく、歌の背景を学習して素直な心で解釈した視点の違いが評価されているのに「1+1=2」の例え話は台無しです。
世の中で“正しい”と思う事でも、心に違和感を感じたら自分なりに調べて合点を得たい…私は、そんな生き方を常々心がけています。
2020/01/18 URL 編集
氏神二番
古代において「子等」「吾兄子」「我妹子」は親しい人、愛する人に対する呼び掛けだとされるが、実際に血縁にある(だから親しい)か、血縁者同様に親しい、愛しいという意味だったのではないか。
神社の氏子というのは、氏神(祖神)に対する子であり、家子(けご、いへのこ)は奈良・平安時代には良家の子弟を、鎌倉時代には武士団トップの惣領の一族(庶流)を言った。ご先祖様・氏長者・棟梁・惣領に対して、その子孫である血縁者集団が自分たちをややへりくだって、「子共/子供」と称したのであれば辻褄は合う。
しかし、現在氏子会などがある地域でも、自分たちが血縁関係者だと思っているところはほとんどなく、地縁組織に変質してしまっている。氏族意識がなくなってしまったのだ。そのため「子供」の表現が行き場を失い、若年者/未成年を表す語にシフトしてしまったのではないか?
2020/01/18 URL 編集
欒樹
ねずさんの百人一首の本はとても素晴らしかったです。
ブログに紹介された後、本が出版されたのですぐに購入し、
その後何度も読み返しています。学生時代に読んだ百人一首解説本は
本当に退屈で、それは百人一首自体が面白くないから
解説が面白くないのは当然で、
しょせんは古代の人達の歌と思っていました。でも
ねずさんの解説本を読んで、現代の私たちと繋がっている人たちの
歌であり、私たちが色恋ばかりでないのと同じように
古代の人々も様々な悩みを歌にしているのだと初めて知りました。
古事記の本も買いました。ただ、これは私には難しく、
壱で降参してしまいました。また、いつかもう一度、手にとって
読んでみたいと思います。
万葉集は、まだ読んでいませんでした。投稿を読んで
ぜひ読んでみたくなりました。手に取るのが楽しみです。
2020/01/18 URL 編集