たとえば先生と生徒の間の関係のようなものであっても、そこにあるのは、人として仲間としての「対等」な関係です。
もちろん、先生と生徒ですから、教える者と教えられる者、指導者と指導を受けるものといった、立場や役割の違いはあるし、先生はある種の尊敬を得ています。
けれど先生も生徒も、人として、あくまで「対等」な関係がそこにあります。
世界的なヒットとなっている北斗の拳は、もちろん主人公はケンシロウですが、けれどよく見れば、ケンシロウには少年少女や同じ拳士としての仲間たちがいます。
ドラゴンボールでは、孫悟空が主人公ですが、彼は仲間たちといつも一緒です。
ワンピースも、青年海賊の仲間たちの物語です。
機動戦隊ゴレンジャーシリーズも、戦隊仲間たちのドラマです。
どれもみんな「仲間たち」です。
その主人公の「仲間たち」の中には、強い者もいれば、弱い者もいます。
男もいれば、女の子もいます。
そして面白いことに、強大な敵と戦って勝って帰ってきた腕力の強い主人公を、腕力はまるでダメな女の子のキャラクターが、簡単にやっつけたりもします。
主人公は、たいていの場合、強いキャラとして描かれますが、その主人公のグループをよく見ると、腕っ節なら主人公よりも上のキャラが必ずいます。
頭の良さだけなら、主人公よりもはるかに優れたキャラがいます。
そして互いの特徴を活かしあいながら、お互いが「対等な仲間たち」として描かれています。
一方、これらのアニメ等には、必ず敵対勢力があります。
これら敵対勢力は、これまたおもしろいことに、どのアニメにおいても、共通した設定があります。
それが、「上下関係による支配と隷属」です。
なぜか敵キャラには必ず支配者がいて、その部下たちは支配者に隷属しています。
敵キャラたちは、自らの意思で主人公グループを攻撃する場合もありますが、その場合においても、かならずきっかけは、命令によるものです。
これは実におもしろい対比といえます。
どの日本アニメも、「個性や役割の違いがあっても人として対等な仲間たち」が、「支配と隷属の関係によって構成されている敵」と戦っているのです。
こうした傾向は、実は昭和50年代以降に現れた傾向です。
同じ日本のマンガでも、日本マンガ創世記の「のらくろ」シリーズや、その後に登場する鉄腕アトムや、鉄人28号、明日のジョー、黄金バット、赤同鈴之介、巨人の星、柔道一直線など、昭和30年代、40年代のアニメや漫画では、むしろ対等な仲間たちよりも、その中で必死に努力するヒーローが喝采をあびていたわけです。ウルトラマンや仮面ライダーなども、同じ延長線上です。
ところが昭和50年代以降にヒットしたアニメ、とりわけ最近、世界中で大ヒットとなっている日本アニメには、こうした特定のヒーローものとはまるで様子が異なります。
主人公だけが、特別なヒーローなのではなくて、いろいろな実力を持つ仲間たちが、互いに互いを認めあって、力を合わせて活躍しています。
何がこうした違いを産んでいるのでしょうか。
そのこたえも、「個性や役割の違いがあっても人として対等な仲間たち」が、「支配と隷属の関係によって構成されている敵」というプロットにあるように思います。
「対等」というのは、「平等」とは異なる概念です。
「平等」は没個性ですが、「対等」は彼我の違いを認識しています。
運動会のかけっこで、順位をつけたらいけないからと、全員を一等賞にするのが「平等」です。没個性にみんな一緒にしています。
ところが、あいつは勉強はできるけど、運動会のかけっこでは俺が一等賞だい! これが「対等」です。
つまり「対等」は、彼我の違いを認識してたうえで、むしろ違いをもって並ぼうとします。
「あいつは勉強ができる」と認めた上で、「俺は成績は悪いけれど、駆けっこだったら誰にも負けないぞ」と努力して並ぶわけです。これが「対等」です。
男と女はを「対等」と「平等」でみると、その違いは明確です。
男には男の機能と役割が、女には女の機能と役割があり、その違いを互いに認めた上で、互いに協力しあおうとするのが「対等」です。
男と女は、実は違いがあるのに、無理矢理おなじと「みなし」て、着替えからトイレまで一緒にさせようとするのが「平等」です。実におかしな理屈です。
さらに男と女とどっちが上かという「上下関係」にたって、どちらかがどちらかを支配し、どちらかがそれに隷属させられる。
とんでもない話ですが、これが支配と隷属の関係です。
実は、西欧諸国の言語には、この「対等」と「平等」の違いがありません。
どちらも「イコール(Equal)」です。
西欧においては、人は神のもとに「イコール(Equal)」だと説かれます。
けれど人間、実際には生まれたときから不平等です。
ですから、「イコール(Equal)」だと言われればいわれるほど、逆に個性を主張したくなる。
そして強烈な個性のもとに、自由をもとめようとし、結果として、人々はその強烈な個性のもとに、隷属させられてしまう。支配されてしまう。
そして最後は、「力」だけがものをいう社会ができてしまう。
こうしてうまれたのが、支配と隷属の上下関係に基づく社会です。
ひとにぎりの王や豪族が民衆を支配する。
民衆は、王や豪族の私有民です。
私有民というのは、王や豪族の私物です。
私物ですから、生かすも殺すも、奪うも犯すも王や豪族の思うがままです。
なぜなら私有民は、私物であり、私物というのは、人でなく、ただの動産だからです。
これに対する民衆の抵抗が、自由を求める民主主義です。
けれど、民主主義だ、自由主義だといいながら、実は、社会は支配と隷属による関係になっています。
法によって、殺したり奪ったりはできなくなったものの、上下関係がないと社会共同体は営めないからです。
これがChinaやKoreaになると、もっと悲惨です。
ChinaやKoreaには、西欧にある「神のもとの平等」さえないからです。
あるのは、支配と隷従だけです。
ですからたとえばChinaでは、幼いころから「どんなに親しい友人であっても「一緒に井戸をのぞくな」と教えられます。
上下関係のない親友なら、なおのこと、上下関係がない分、井戸に落されてしまう危険が濃厚だからです。
さらに朝鮮では、親は子に対して、どんなことをしてでも、とにかく「人の上に立て」と教えます。
下にいたら、収奪されるばかりだからです。
逆に上に立てば、ありとあらゆる贅沢が許されると考えます。
なぜなら、下の者は私有物だからです。
そのため彼の国では、手段方法を問わず、人の上に立つことが人々の人生の目的となります。
そして上になれば、ありとあらゆる支配が許容されると考えますから、昨日まで部下だった者が、今日から上司になれば、その瞬間からまさに「手のひらを返した」ように威張りはじめ、それまで上だった者に陰惨な復讐をはじめます。
実は、世界中の多くの国々が、こうした上下関係、支配と隷従の関係から、いまだ抜け出せずに四苦八苦しています。
いくら自由だ平等だといっても、社会関係においては、上下関係が必要だからです。
せいぜい「支配」に一定の規制を加えることくらいしか、他に方法がない。
ところが日本は、すくなくとも7世紀に、これに対する答えを明確にしていました。
そのことだけとっても、実に日本は凄い国だなあと思うのですが、その回答とは、天皇の民、公民という概念です。
太政官、公地公民制というのが、制度上に現れたその答えですが、実はこれらが制度化されるはるか以前から、我が国では、これが事実上の国のカタチ(仕組み)となっていました。
それがどういう仕組みかというと、民衆は天皇の民(皇民)であり、権力者(中央の太政大臣や地方の国司など)も、天皇によって権力が与えられるという仕組みです。
これは実に不思議なカタチです。
たとえばいま、みなさんの手元にコーヒーカップがあるとします。
そのコーヒーカップは、みなさんご自身のものです。
自分の物ですから、割ってしまおうが、捨ててしまおうが、別なカップに取り替えようが、それはみなさんの自由です。
つまり、みなさんご自身と、そのコーヒーカップとの関係は、王や豪族と、それに支配される民衆(私有民)と同じ関係です。
では、そのコーヒーカップが、会社の備品だったらどうでしょうか。
みなさんは、そのカップが気に入らないからと、勝手にそのカップを処分したり捨てたりできません。
なぜなら自分の物ではないからです。
民衆が天皇の民となるということは、これと同じです。
民衆は天皇の民であるがゆえに、王や豪族たちがほしいままに民から収奪したり、民を殺したり、民を捨てたりできないのです。
それをしたら、王も豪族も、その権威を剥奪される。
つまり、日本における民衆は、天皇という存在によって、ひとりひとりが権力者の私有民とならず、どこまでも人としての尊厳を認められた存在となっていたのです。
ですから、民衆は、自分たちの人としての尊厳を認め、与えてくれている天皇という存在に対して、心からの敬愛をしてきたのが、日本という国のカタチです。
日本における権力者にも、このことはあてはまります。
権力者は、天皇の民(皇民)を預かるという立場です。
いっけん支配者のように見える権力者は、絶対的権力者、支配者ではなく、天皇から民を預かっている立場です。
いわば企業における中間管理職です。
だからこそ、日本では古来、権力者と民衆は、その役割に違いはあるけれど、人としては誰もが「対等」という関係を構築してきたのです。
これは支配と隷属の関係とは、まったく異なるものです。
しつこいようですが、ここが大切なことなので、もう少し述べます。
要するに日本は、天皇という存在によって、民衆が天下の公民となり、民衆に人としての尊厳がまず与えられていたのです。
だからこそ民衆は安心して互いに個性を発揮することができたし、互いに役割分担をしながら、よりよい社会を構築しようとしてきたし、そういう共同体としての社会的風土を構築してきたのです。
これを皇道主義ともいいますが、実は、民衆のひとりひとりに、人としての尊厳が与えられた社会という意味において、これこそ、究極の民主主義といえるのではないかと思います。
ここでたいせつなことは、権力者の上位に天皇という存在があり、民衆がその天皇の民とされていたということです。
我が国において民衆が権力者によって隷従させられる動産ではなく、人としての尊厳が認められる存在となっていたのは、一方において天皇という存在があったからです。
つまり「天皇という存在」と、「民衆の人としての尊厳」はセット、もしくは車の両輪だということです。
だからこそ私たちの祖先は、天皇を「天子様」「御門(みかど)」といって敬い、大切にしてきました。
なぜならそれは、自分や自分の家族の「人としての尊厳」を守り通すことでもあったからです。
ですから天皇の存在が日本社会の中で空気のようにあたりまえだった時代には、マンガやアニメといった大衆娯楽作品においても、特に「対等な仲間たち」をうたいあげる必要などありませんでした。
そんなことをしなくても、そもそも人は対等な存在であり、それが空気のようにあたりまえのことでしたから、あえてそのようなことをテーマやプロットにする必要さえなかったのです。
ところが戦後教育が行き渡り、天皇の存在を否定するような社会風潮が蔓延してくると、日本の世の中の様子が違ってきます。
天下の公民であったはずの日本人が、学校でも職場でも、ただの支配と隷属の動産に落ちてしまったのです。
このことが社会風潮となりだしたのが、昭和50年代以降、とりわけバブル崩壊後の平成の世の中では、まさに支配と隷属という体制が、世の中に蔓延するという情況になっています。
それによって人が殺されたりしないのは、かろうじて法による規制があるからにすぎません。
日本社会に、天皇の民(皇民)という概念が、あたりまのこととしてあった時代には、あえて「対等」という観念を打ち出したアニメや漫画は必要なかったのです。
むしろ、鉄腕アトムのように、「おいらはロボットで人間じゃないけれど、人間以上に知恵と力と勇気をもって戦うぞ!」といった、一定のハンデがありながらも、対等かそれ以上に努力を惜しまない姿に、多くの子供たちが共感していたわけです。
ところが、天皇の存在を軽んじるような風潮が現れて来ると、天下の公民という概念が社会から薄れてしまいます。
そうなると、残っているのは、上下と支配、支配と隷属、王と私有民のような関係しか、社会に残らなくなります。
学校においても、かつては、たとえ子供たちであったとしても、未来を担う大切な天皇の皇民(これを「おおみたから」といいます)であったはずのものが、気がつけば、生徒たちは、ただ教室という檻に入れられ、教師や学校に支配され、隷属させられている存在にすぎないことになってしまったのです。
両親や祖父母の時代には、たとえ子供であっても天皇の民であり、天下の公民であったものが、自分たちの世代では、ただの奴隷です。
そんなフラストレーションが、アニメや漫画という大衆娯楽ないし、少年少女たちの娯楽のなかで、あえて昔の日本では、あたりまえにすぎなかった「対等な仲間たち」を主題にするものが好まれるように変化していきました。
ある意味、これは由々しきことです。
なぜかというと、日本社会の中に空気のようにあたりまえにあった「究極の民主主義」が崩れてきているということだからです。
ところが、このことは、日本国内だけにあった「対等な仲間たち」という概念が、アニメという形態をとおして、世界に普及するきっかけとなりました。
おもしろいことに、世界各国では、「対等」と「平等」の区別がありません。
たとえば英語圏なら、「対等」も「平等」も、おなじ「Equal(イコール)」です。
天皇という概念がないのですから、これは当然のことです。
あたりまえですが、天下の公民という概念もない。
概念がないものを説明するというのは、実はたいへんなことです。
説明しても、なかなかわかってもらえることではない。
ところが、日本アニメは、それを物語、ストーリー仕立てで、世界に普及してしまったのです。
これは「対等観」という概念をもたず、支配と隷属、上下関係があたりまえだった世界の若者達に、まさに新鮮な感動を呼び起こしました。
だからこそ、コスプレまでして日本のアニメを尊び、感動をもって受け入れているのです。
そして彼らは、かつて日本にあたりまえのようにあった「対等で個性を活かしあって役割分担をする仲間たち」という概念を、いまでは共有するようになってきています。
日本が再生するために、日本を取り戻すために、私達にとって、いま何が必要なのかが、ときおり議論されることがあります。
いま、「日本を取り戻す」という言葉が、ある種の流行語になりつつあります。
ではそのために何が必要なのかといえば、それは、日本社会の根幹にある天皇の存在のありがたさを、私達がいまいちど認識しなおすということなのではないかと思います。
日本は、「神のもとの平等の国」といいつつ、実は支配と隷属によって構成されている国ではなくて、「天皇によって人々が皇民として対等に暮らす国」という人類史上、希有な国家体制を築いてきた国民でだからです。
ちなみに韓国では、日本アニメのヒットを受け、国をあげて日本アニメを研究し、アニメやマンガによる韓流情報発信をしようと、ずいぶん以前から、国家的プロジェクトを実施しきました。
大学でも日本アニメを研究するアニメ学科などがずいぶん作られています。
けれど残念なことに、韓流アニメも韓流マンガも、世界でまったくヒットしないどころか、世界中どこに行ってもまるで相手にされません。
あたりまえです。彼らは、日本アニメにある「対等意識」というものをまったく理解していないからです。
だからむしろ主人公たちが、上下関係や支配と隷属の関係を築いてしまう。
これではただの同士討ちです。
おもしろくもなんともない。
だから、世界でまるで評価されない。
ドラマ「水戸黄門」は、黄門様と助さん、角さんが活躍する物語です。
その物語では、民衆を支配し隷属し、食い物にしようとする悪代官を、役割分担はあるけれど互いに人としての尊厳を大切にしている黄門様とその仲間たちが、毎回、懲らしめていました。
こうした「対等」という意識は、日本が災害対策国家として、庶民の知恵と力が災害対策にもっとも必要かつ重要な柱になるということが、それこそ神話の昔から大切にされてきたことに依拠します。
日本列島は災害列島です。
その災害列島で生きるためには、対等意識は不可欠の要素です。
なぜなら災害復興に際して必要な力は、働かないお金持ちの力ではなくて、民衆の労働力にあるからです。
二宮尊徳は、これを「推譲(すいじょう)」と呼びました。
富者が自分の富を増やすために投資して回収するという経済モデルではなく、
みんなで働いて得た富を、みんなのために使うという経済モデルです。
推譲は「推(お)して譲(ゆず)る」ことですが、日本における経済モデルは、推譲でなければいざというときの災害復興ができないのです。
西洋型の経済モデルでは、日本では生きていくことができない。
日本は、戦後に構築されたすべての社会システムを、いちどごハサンにして、もういちど基礎から立て直すべきです。
いつまでも、災害が起きてから、ただ「たいへんだ、たいへんだ」と騒ぐばかりで何も進まないということではいけないのです。
※この記事は2013年1月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
ハルキ
明日のジョー→あしたのジョー
赤同鈴之介→赤胴鈴之助
あと、脱字アリ。
※入力がGoogle日本語入力なので名称に強い。
読んでて考えされられました。
アメコミといえば何故ヒーローモノなのか。規制の問題もありますが、日本のように個人制作ではない。ドラマ等の映像化へ流れやすいせいかもしれないと思いました。
2020/01/22 URL 編集
takechiyo1949
それだけでイイじゃん?
多様性なんて面倒臭い?
近頃のNet空間では、ひと様への理解や寛容さがどんどん消滅している気がします。
誰が何を好みにしようが、今は許されています。
許されていても簡単に対立し、正義を気取るバッシングやバン祭りが起きます。
後出しジャンケンは自殺行為?
そう感じていますが、そんな自覚も無い風潮です。
やり易い時代になったもんだ!
しめしめとほくそ笑む政治家も大勢いるでしょうね。
多様性と対等意識。
OFF日の早朝から、ねずブロを読んで考え込んでいます。
2020/01/22 URL 編集