ちなみに近年の歴史学会では、過去の天皇について、神武とか持統、後醍醐といったように、天皇という敬称を付けずに呼ぶのが慣習化しつつあると聞きます。
とんでもないことだと思います。
なるほど一般人については、歴史上の人物に敬称を付けないのがならわしです。
ですから信長とか秀吉、家康のように呼び、いまどき右府殿(うふどの)とか、関白様(かんぱくさま)、東照大権現様などと読んだり書いたりすることはありません。
しかし我が国において、天皇だけは特別な御存在なのです。
そこを臣民が履き違えてはいけないと思います。
さて、古来我が国では、天皇は国家最高権威であり、政治的権力者ではありません。
もちろん古代における一時期、天皇親政が行われた時代もあったし、天皇自らが軍をひきいたり、政治的意思決定をされたことも何度もあります。
けれどその結果、我が国において、最高権力者としての皇位をめぐって、血なまぐさい数々の争いが起こったことも事実なのです。
天武天皇ご自身、壬申の乱(じんしんのらん)において、兄の天智天皇の後継者であった大友皇子を討ち果たしたという経緯を持ちます。
このことを、持統天皇のお立場からみると、父と夫が互いに内戦したようなものです。
個人的には、実際にはこの壬申の乱は、国内を統一するための天智天皇と天武天皇の談合による壮大な「やらせ」であったと観ています。
しかし、たとえそうであったとしても、持統天皇のお立場からすれば、そういうことをしなければならないということ自体が、とても残念なことであったことと思います。
そこで持統天皇が決められた仕組みが、「皇位継承権は、母親の地位と生まれた順番によって機械的に決まる」という仕組みです。
また、天皇と政治権力を切り離し、天皇は国家最高権威として祭祀を司(つかさど)り、政治権力はその下の臣下が行うという仕組みを定着させることで、常に権力と責任が一体となるという仕組みを定着させたのもまた、持統天皇です。
これによって、それまでの時代にあった皇位継承をめぐるご皇族同士の戦いは、その後、南北朝の時代まで、まさにピタリとなくなっています。
それだけでもすごいことですが、さらに持統天皇は、記紀の編纂や万葉集の編纂にもふかく関わっています。
もちろん記紀は、天武天皇の680年の詔(みことのり)によって編纂が開始されたものだし、古事記の完成が712年で元明天皇の時代です。
日本書紀も同じ詔(みことのり)からスタートして、720年に元正天皇に献上されたものです。
万葉集の完成は、780年頃で光仁天皇の時代とみられています。
けれど万葉集は、全20巻のうち、巻一と二は柿本人麻呂によって編纂されたことはよく知られたことです。
その柿本人麻呂を起用し、編纂された歌集に意味を持たせたのが持統天皇です。
また、天武天皇が680年に詔されたとき、持統天皇は天武天皇の皇后でした。
そして天武天皇の時代における文化事業を事実上担っていたのが、当時は皇后であられた持統天皇です。
この時代における最大の課題は、唐の日本侵攻の危険を抱える情況の中にあって、いかに日本をまもりぬき、また日本全体をいかにして統一国家にしていくかです。
世界中、歴史上のどの国においても、王朝の支配は、征圧と粛清によります。
つまり国内の反対勢力や抵抗勢力を、常に武力で制圧し、あるいは討滅し、皆殺しにすることで権力を確立する、というものです。
けれどそれはとってもかなしいことです。
だからこそ持統天皇は、教育と文化によって、日本を統一していこうとなされたのです。
そのために、我が国を神話の時代から歴代天皇のご事績をあらためて書にし、また大和言葉で詠まれる和歌を、意図して漢字で記(しる)すという文化を、中央となる朝廷で行うという事業を開始されました。
大和言葉を漢字で記すという事業そのものは、父親の天智天皇の時代の「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)によって、はじめて全国的な戸籍が漢字で記されるという制度がスタートしています。
戸籍そのものは、すでに6世紀の中頃に欽明天皇が最初、渡来系の人たちの掌握のために開始されたことが明らかになっていますが、これを日本人の全戸にまで拡大したのは、天智天皇の時代です。
すでに「いかるがのさと」と呼ばれていた地域を「斑鳩」と表記するようなことは、それ以前から事例があったわけで、天智天皇のこの制度の開始は、決して当時として画期的なものであったわけではありません。
すでにある程度定着しているものを、さらに固めた、というのが正し見方であると思います。
こうした過去の事例に基づき、持統天皇はそれを歴史や文学の分野にも拡大し、我が国の史書や歌を漢字で記載し、そうすることで、大和言葉だけではわかりにくいこと、あるいはそこに重ねるべき思いを、大和言葉に漢字を重ねることで表現されようとしたわけです。
そしてこうした中央発の文化が全国に波及すれば、中央は常に文化の発信源となり、全国の求心力が高まることになります。
もっというなら、神と歴史と文化を、中央で統御することによって、中央の指揮下にあるすべての臣民が、同じ大和民族として《大和と書いて「やまと」と読み、日本という表記もまた「やまと」と読みました》、ひとつの集団を形成していく。
そしてその際に、天皇が民衆を「おほみたから」とする、という「しらす」の概念も共に普及していかれたわけです。
これが何を意味しているかというと、現代まで続く日本文化を、日本文化とよべるほどにまで高め、日本人を形成する原点となった偉大な天皇が、持統天皇であられたということです。
歴代天皇は、それぞれ偉大な功績をお持ちですが、なかでも持統天皇の功績は、群を抜いて大きなものであったといえると思います。
持統天皇の御在位は、690年から697年という短い期間でしたが、その功績は時代を越えて、燦然と輝くものなのです。
その持統天皇の御製が、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』に掲載されています。
素晴らしいです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
takechiyo1949
全二十巻四千五百首は、色々な階層の方々が詠んだ歌で、その半分近くが「詠人知らず」と言いますから驚きですね。
どの歌も私達の心に響きます。
新元号「令和」の出典は、ご存知の通り万葉集の一文です。
その令和を生きる私達。
どっちを向いて歩いて行けば良いのか?
日本とは?
権威とは?
権力とは?
ねずさんの「…万葉集」を読みながら、改めて深い想いに耽っています。
2020/02/08 URL 編集