この歌はその護送途中の和歌山県日高郡南部町の海岸で食事休憩となったときに詠んだ歌です。
取り調べによって得られる結果は二つ。
ひとつは有馬皇子に謀反の心がないことが立証されて、蘇我赤兄らが処罰される。
もうひとつは有馬皇子ひとりが処罰され、蘇我氏が安泰となる。
では歌を読んでみましょう。
【有間皇子自傷結松枝歌二首】
いはしろの 磐白乃
はままつのえを 浜松之枝乎
ひきむすひ 引結
まさきくあれは 真幸有者
またかへりみむ 亦還見武
けにあれは 家有者
けにもるいひを 笥尓盛飯乎
くさまくら 草枕
たびにしあらは 旅尓之有者
しひのはにもる 椎之葉尓盛
▼歌の意味本当はこう読み解ける!
【有間皇子がご自分で悲しまれながら松の枝を結んだ歌二首】
護送される途中、和歌山県日高郡南部町の海岸沿いの岩代というところで、浜にあった松の木の枝を結びました。思いが通じるというおまじないです。運が幸いして訊問(じんもん)を見事にかわすことができたなら、きっとこの松の木のもとにまた来ようと思います。
家にいたなら食器に盛る飯を、草を枕に寝る旅の途中なので椎の葉に盛りつけています。まだまだ評定が定まったわけではないのだから、四角い法定で述べる言い分を、旅の途中のいま、思いのままに考えてみよう。
▼私は全容を知らない
この二つの歌は、一般に「悲嘆に暮れる有間皇子が、これから処刑される哀かなしみを詠(よ)んだ」とされています。
しかし万葉集はこの歌を「挽歌」に分類しています。
「挽歌」は誰かの死を悼いたむ歌ですから、悪人として処刑されたはずの有間皇子に、万葉集は同情を寄せていることになります。
なぜなのでしょうか。
はじめの歌は「おまじないまでして必ずこの松の木のもとに帰ってこよう」という歌です。
次の歌は「自分なりに充分に事実関係の言い分を述べて最後まで前向きに戦おうという決意を込めた歌」といえます。
ところが日本書紀によれば、有間皇子は中大兄皇子の
「何故謀反《なにゆえ謀反を起こしたのか》」
という質問に、たったひとこと、
「天与赤兄知、吾全不解《天と蘇我赤兄が知っている。私は全容を知らない》」と答えただけでした。
そしてそれ以外のことを一切語らずに、従容として処刑されています。
つまり有間皇子は、枝を結んだ松の木のもとに戻ることはなかったのです。
歌では「また戻ってくるよ」「ちゃんと答弁するよ」と詠んでいた有間皇子は、ではどうして、なにも語らずに処刑を受けられたのでしょうか。
この時代は唐という軍事大国が虎視眈々とわが国を狙っていた時代です。
その力は強大です。
これに抗するためには、なにが何でもわが国を統一国家にしていかなければならない。
防衛網も整備しなければならない。
その一方で、強引な改革には異論反論も続出するという難しい政局の時代です。
反対派の人たちは、皇位継承権のある有間皇子を担ごうとすることでしょう。
けれど国論を分裂させることは、結果として国のためになりません。
ですから有間皇子は暗愚(あんぐ)になったフリまでして、自分が皇位継承者に担ぎ出されて政争の具にされないようにしていました。
国を護るために暗愚になったフリをするというのは、スケールは違いますが、後年徳川幕府に睨まれないように、わざと鼻毛を伸ばして暗愚を装った加賀藩の二代目藩主の前田利常がいます。
▼無私から生まれる愛の心
ところがそうまでしても有間皇子は、その血筋ゆえに政治利用されてしまうわけです。
利用された以上、責任は上に立つ者、つまり有間皇子にあります。蘇我赤兄のせいにはできないのです。
ですから有間皇子は他人に嵌められた濡れ衣であったても、利用された不徳を恥じて、一切の釈明をしないまま、処刑を受け入れられました。
そもそも臣下とは、出世のためにそういう裏切りや欺罔(ぎもう)、欺瞞(ぎまん)をするものであって、人の上に立つ者はいちいちそれを恨(うら)んではいけない。
それが人の上に立つ者の在り方であり、皇族の在り方であり、人としての在り方なのだという、これは生まれたときから人の上に立つように定められた人の無私(むし)の心です。
真実を述べることは、今度は蘇我赤兄以下、多くの人々を罪に落とすことになります。
唐の脅威に抗するための大切な一族とその兵力と、自分ひとつの命と、どちらを採るべきか、つまり公と私と、どちらを優先すべきかという問いなのです。
誰だって生きていたいし、理不尽な濡れ衣なら、なおさら生きることを選択したいものだけれど、国の利益を考えたときに自分がどうあるべきかを考えるときの結論は明らかです。
生きたいという渇望と、無私の心で罪を受け入れるという葛藤のなかで、おそらく有間皇子は、ひとつの命として「生きたい」という渇望を、この二首の歌に託たくしたのです。
そして託することで、心に踏ん切りをつけた有間皇子は、裁さばきの場では、言い訳をしないで、ただ「天と赤兄が知っている」とだけ述べて刑死の道を選ばれたのです。
それは有間皇子の、どこまでも国の平穏を想う心のなせる選択です。
これが日本のご皇族の無私から生まれる愛の心です。
この記事は拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』からの引用です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
dau
けにあれは 家有者
けにもるいひを 笥尓盛飯乎
くさまくら 草枕
たびにしあらは 旅尓之有者
しひのはにもる 椎之葉尓盛
の解釈は、『家にあれば笥にもって供えるのに、旅の(護送される)途中なので椎の葉に盛って(神に祈る)』と言う意味です。有馬皇子はすでに死を覚悟しており、自分が罪に落とされることは分かっていました。だからこそ、中大兄皇子に一切の弁解をされなかったものです。
2020/02/19 URL 編集
にっぽんじん
例年なら季節インフルエンザ対応でマスクをしているのに誰もマスクをしていません。
幸い、今年はインフルエンザが拡散していないが、コロナ肺炎対応が心配です。
マスクは使い捨てで、毎日新しいものを使用するのが基本です。
が、マスクの品不足を考えると、リサイクル使用も必要ではないでしょうか。
私は使ったマスクをハイター液で消毒後、「キレイキレイ液」で洗って再使用しています。
不衛生だなどと言っている場合ではありません。
マスクが容易に買えるようになるまではリサイクル使用を勧めます。
2020/02/19 URL 編集
takechiyo1949
今風だと「あり得ない!」
理不尽極まりない出来事で、物凄い違和感があります。
嵌められても国を想って自らを糺す…そういう境地だろうな~と感じる為政者っていますか。
2020/02/19 URL 編集
kinshisho
今回のお話を読んでいて思わず涙が出てしまいましたが、もしかして、当時皇室一同も有馬皇子の思いを察していた可能性もあるかもしれず、あくまで刑死したことにして、出家して別の名で何処かでひっそりと生きていたかもしれませんね。
話は逸れますが、源平合戦にしても、最終的に平家は壇ノ浦の戦いで滅亡し、安徳天皇は入水したことになってますけど、もしかしたら本当は生きていて何処かでひっそりと出家なされていたかもしれません。また、平氏と源氏はルーツは同じ皇族であることを考えると、壇ノ浦で決着したと見て生き残っているのが多数いたことが分かっていながら見逃していた可能性もありますし、平氏の生き残りも大勢は決したと見て復讐の機会を窺うこともなく一平民として生きることを選んでいたのではないかと思うのですよね。
ねずさんが以前何処かで言われていたような気がするのですが、出家は当時は俗世間から離れる、所謂社会的な死を意味していましたから、処刑したことにしておいて出家したのを死んだとしても建前上は嘘にはなりませんし。
今にして思えば日本社会における建前と本音は日本らしい深い考えによる思い遣りのようにも見えます。
まあ、個人的な解釈に過ぎないのですけど、皇室が有馬皇子の心中を察していないとはどう考えても思えないのですよね。
で、もしかしたら歴史上汚名を着た者や、或いは悪名高い人物こそが敢えてそうした汚れ役を買うことで国を救おうとした、真の愛国者だった可能性もあるかもしれないと思いました。祖国のために、敢えて汚名を着る覚悟なんてそうそう出来ることではありませんし。
2020/02/19 URL 編集