祖国遥(はる)か

この物語は、何度ご紹介しても長春駅前での三人の女性の死のところでは、不覚にも涙でパソコンの画面が見えなくなってしまいます。
お地蔵さんが建立されている青葉園は、さいたま市にあって、その中央に「青葉慈蔵尊」があります。
何度か献花に行かせていただきました。
また村田春樹先生をはじめ、いまもゆかりの人たちが毎年集って慰霊祭を行っています。


満洲時代の長春駅
20200305 長春駅
画像出所=https://aucfree.com/items/p716623530
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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


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最初にこの物語をブログでご紹介したのは2011年のことです。
すると不思議なことにネット上で、
「この話は嘘っぱちだ」
「ただの作り話にすぎない」
などといった批判が相次いで起こりました。

私自身は、もちろんその時代に居合わせたわけではありませんし、被害に遭われてお亡くなりになられた看護婦の方々と直接お会いしたわけでもなければ、その場を見てきたわけでもありません。
ですからどこまでが史実で、どこまでが創作なのかはわかりません。

ただこのような物語があり、そしてその短くも悲しい生涯を惜しんで、さいたま市の青葉霊苑に慰霊塔が建てられていることは事実です。
そしてその慰霊塔には、いまもご遺族の方々等による献花が絶えずに続いています。
そのさいたま市の霊園にある慰霊塔が、上にあります「青葉慈蔵尊」です。

お地蔵さんならば普通は「地蔵」と書くところを、その像は「慈蔵」と書いています。
そこに語り継がなければならない何かがあると私は思います。

同様のケースは、他にも多々あったものと思われます。
実際にはもっと悲惨な現実がたくさんあったのが事実です。
そしてこの物語には、伝えなければならない大切なものがぎっしりと詰まっているように思います。

本稿は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただいた2011年3月の記事のリニューアルです。
また、物語のご紹介に際して「看護婦」という用語を用います。
いまでは「看護師」と呼びますが、ほんの何十年か前までは「看護婦」という呼び名が普通だったからです。

 *

お地蔵さんの建立には、堀喜身子(ほりきみこ)さんという元看護婦の婦長さんだった方が深く関係しています。
掘喜身子さんは、幼い頃から病人を看護することが大好きな女の子でした。

彼女は昭和11(1936)年に女学校を出ると、すぐ満洲に渡り、満洲赤十字看護婦養成所に入所しました。
そこで甲種看護婦三年の過程を修め、郷里の樺太・知取(シリトリ)に帰って樺太庁立病院の看護婦になっています。

昭和14(1939)年の春、彼女は医師の堀正次と結婚しました。
結婚して1年目の春、堀喜身子さんのもとに、召集令状がやってきました。
令状を受けた一週間後には、彼女は単身で、任地の香港第一救護所に出発しています。

まもなく彼女の任地は上海に移り、次いで満洲国牡丹江、さらにソ連との国境に近い虎林(こりん)の野戦病院へと移りました。
野戦病院には、他に48名の看護婦がいました。


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虎林の病院に勤務して半年ほど経ったとき、その野戦病院に夫の正次(まさつぐ)も令状を受けてやってきました。
二人は医師と看護婦の夫婦として、毎日前線から送られてくる傷病兵の治療を続けました。
そしてこの病院勤務の頃に、長男の静夫(しずお)さん、長女槇子(まきこ)さんの二人の子宝にも恵まれました。

終戦間近となった昭和20(1945)年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破って満洲に攻め込んできました。
それは厳しい戦いでした。
虎林の野戦病院の患者は全員、長春に移ることが上から決定されました。

患者のうちの70余名は伝染病の重患であったために、動かすことができません。
そこで野戦病院では、軍医中尉であった夫の堀正次と、他に2名の軍医、それと5名の兵隊さんと重患者が残ることになりました。
掘喜身子さんは、夫からもらった将校用の水筒を肩に長春に向かう組に配属になりました。
二人は、これが今生の別れとなりました。

 *

虎林を出発した病院の一行は牡丹江(ぼたんこう)を過ぎ、ハルピンを通過して、一週間目の8月15日に長春にたどり着きました。
そしてここで終戦の玉音放送を聴きました。

日をおかず長春はソ連軍に占領されました。
ソ連軍は、看護婦や将校夫人や女子児童76名を合宿所に入れました。

そこで身上調査が行われました。
調査の結果、掘喜身子さん以下虎林の野戦病院から来た看護婦34名は「長春第八病院に勤務せよ」との命令を受けました。

月給はひとり200円でした。
34名の看護婦は、その給料をみんなでまるごと出し合って、一緒に収容されている兵隊さんの家族を養う費用にアテました。
物価はあがる一方でした。
生活は苦しくなるばかりでした。
堀喜美子さんの体も次第に痩せ細って行きました。

昭和21(1946)年春、第八病院の婦長をしていた堀喜身子さんのもとに、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、一通の命令書が来ました。
内容は、
「看護婦の応援を要請。
 期間一か月。
 月給300円」
というものでした。

いくらソ連軍とはいえ、世界各国で公認されている赤十字を背負う看護婦に間違った扱いなどしないだろう。
ましてソ連陸軍の発令による公的な「命令書」です。
堀婦長は一抹の不安はおぼえながらも引率者である平尾勉軍医と相談して、看護婦の中でも一番のしっかり者の
大島花枝看護婦と、やはりしっかり者の細川たか子、大塚てるの3名の看護婦を選びました。

出発の日、堀婦長は三人に、
「決して無理はしないように」
と言い聞かせました。

大島花江看護婦は元気いっぱいの笑顔で、
「婦長、心配はいりません。
 敗戦国であっても、
 世界の赤十字を背負う看護婦として、
 堂々と働いてきます!」
と答えました。

「大島さん、
 細井さんと大塚さんのことも
 お願いね」
と気遣う婦長に、細井、大塚両名は、
「あら、大塚さんばっかり。
 私たちはいつまでたっても
 一人前じゃないようだわ」
「ほんとうに、失礼しちゃうわね」
と明るく冗談を言い合い、みんなで明るく笑いました。

堀婦長は出発する3名にきちんと制服(当時は看護婦の白衣の他に軍看護婦としての制服があった)を着せました。
そして制服の右腕に赤十字の腕章を付けさせました。
どこからどうみても「赤十字の看護婦」であることがひとめでわかるようにしたのです。

こうして白羽の矢をたてられた三名は元気に一か月の別れを告げて出かけて行きました。

ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に到着した三人は、それぞれ離れた場所に別々の部屋を与えられました。
部屋は個室でベットもありました。
大部屋暮らしだった大島看護婦たちにとって個室はまさに夢のような部屋でした。

やがて一か月が経過しようとしたとき、同じ病院からまた3名の追加の命令書がきました。
日本側は、
 荒川静子、
 三戸はるみ、
 沢田八重
の3名を第二回の後続としてソ連陸軍病院第二赤軍救護所に送りました。

もうまもなく最初の三名が交代して帰ってくる。
誰もがそう思っていました。

ところが最初の3人は帰ってきません。
やがてさらに一か月が経過しました。
するとまた3名の追加の命令が、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所からもたらされました。

堀婦長は心配になりました。
そして引率者の平尾軍医に、命令を断るように談判しました。

一か月という約束で看護婦を送っているのです。
最初の3名が行ってから、もう3か月経過しています。
2回目の看護婦が行ってからも2か月です。
にも関わらず、誰も帰してもらっていない。
おかしいのではありませんか?。
向こうが約束を反故にしているのです。
普通ならそんな約束も守れないようなところに、大切な部下を送ることなんてできないことです。
しかも6名とも行ったきり音信不通です。

けれど相手はソ連軍です。
命令に背けば、医師や看護婦だけでなく、患者たちまで全員殺されてしまう危険があります。
病院としては命令に背くことはできない。

やむなく、
 井出きみ子、
 澤本かなえ、
 後藤よし子
の3名が送り出されることになりました。

仏の顔も三度までといいます。
4度目の命令がきたら、こんどこそ絶対に拒否してやろう。
先に行った者たちが心配でたまらない堀婦長がそう決意を固めていた矢先、
また一か月後、誰ひとり帰らないまま、4度目の命令が来ました。
今度もまた
「3名の看護婦を出せ」
というものです。

なんという厚顔無恥。
残る看護婦は、婦長の堀喜美子の他22名です。
その中から4度目の3名を選出しなければなりません。
堀婦長の心の中には、暗澹とした不安がひろがっていました。

 *

その日の夜、堀婦長は次に向かう3名を呼びました。
明後日出発すること、先に行った看護婦たちに手紙で状況を報告するようにと伝えるように言い聞かせました。

その日の夜のことです。
すっかり夜も更けたころ病院のドアをたたく音がしました。
「こんな時間になにごとだろう・・・・」
堀婦長が玄関の戸を小さく開けました。
すると髪を振り乱し、全身血まみれになった人影が、
「婦長・・・」
とつぶやきながらドサリと倒れこんできました。

みればなんと最初に出発した大島看護婦でした。
たいへんな重体です。
もはや意識さえも危うい。
全身11か所に盲貫銃創と貫通銃創があります。
裸足の足は血だらけです。
全身に鉄条網を越えたときにできたと思われる無数の引き裂き傷があります。
脈拍にも結滞がありました。

なにがあったのか。
堀婦長は、とっさに
「そうだ。
 こうまでしてここに来なければ
 ならなかったのには、
 理由があるに違いない。
 その理由を聞かなければ」
と思い立ちました。
そして、
「花江さん!、
 大島さん!
 目を開けて!」
と、大島看護婦を揺(ゆ)り動かしました。

重体の患者です。
ふつうなら揺り動かすなんて絶対にありえないことです。
他の看護婦が
「婦長!
 そんなことをしたら
 花江さんが!」
と悲鳴をあげました。

けれど堀婦長は毅然と言いました。
「あなたたちは黙って!
 花江さんは助からない。
 花江さんの死を
 無駄にしてはいけない!」
と声を荒げました。

大島看護婦が目を覚ましました。
そして語りました。

「婦長。
 私たちはソ連軍の病院に看護婦として
 頼まれて行った筈ですのに、
 あちらでは看護婦の仕事を
 させられているのではありません。
 行ったその日から、
 ソ連軍将校の慰みものにされてしまいました。

 半日たらずで
 私たちは半狂乱になってしまいました。
 約束が違う!と泣いても叫んでも、
 ぶっても蹴っても、
 野獣のような相手に通じません。
 泣き疲れて寝入り、
 新しい相手にまた犯されて暴れ、
 その繰り返しが来る日も来る日も
 続いたのです。

 食事をした覚えもなく、
 何日目だったか、
 空腹に目を覚まし、
 枕元に置かれていた
 パンにかじりつき、
 そこではじめて
 事の重大さに気が付き・・

 それからひとりで泣きました。
 涙があとからあとから続き、
 自分の犯された体を見ては、
 また悔しくて泣きました。

 たったひとりの部屋で、
 母の名を呼び、
 どうせ届かないと知りながら、
 助けを求めて叫び続けました。
 そしてどんなにしても、
 どうにもならないことが
 わかってきたのです。

 やがておぼろげながら、
 一緒に来た二人も
 同じようにされていることが
 わかりました。

 ほとんど毎晩のように
 三人か四人の赤毛の大男に
 もてあそばれながら、
 身の不運に泣きました。

 何度も逃げようとして、
 その都度、
 手ひどい仕打ちにあい、
 どうにもならないことが
 わかりました。

 記憶が次第に薄れ、
 時の経過も定かではなくなった頃、
 赤毛の鬼たちの言動で、
 第八病院の看護婦の
 同僚たちが
 次々と送られて
 きていることを知って、
 無性に腹が立ち、
 同時に我にかえりました。

 これは大変なことになる。
 なんとかしなければ、
 みんなが赤鬼の生贄になる。
 そんなことを許してはならない。
 そうだ、
 たとえ殺されても、
 絶対に逃げ帰って
 婦長さんに
 ひとこと知らせなければ・・・

 赤鬼に汚された
 体にも命にも
 いまさら何の未練も
 ありませんでした。

 私は二重三重の
 歩哨の目を逃れ、
 鉄条網の下を、
 鉄の針で服が破れ、
 肉が引き裂かれる
 痛みを感じながら
 潜り抜けて、
 逃げました。

 後ろでソ連兵の叫び声と
 銃の音を聞きながら、
 無我夢中で逃げてきました。

 婦長さん。
 もう、人を
 送っては
 なりません・・・・」

そこまで話して大島花江看護婦はこときれました。

なんという強靭な意志の持ち主なのでしょう。
蜂の巣のようにされながら、この事実を伝えようとする一心だけで、まさに使命感だけで、
彼女はここまで逃れてきたのです。

病室内に、
「はなえさん・・・」
「大島さん・・・」
という看護婦たちの涙の声がこだましました。
こうして昭和21(1946)年6月19日午後10時15分、大島花江看護婦は堀婦長の腕の中で息をひきとりました。

どんなに勇敢な軍人にも負けない、鬼神も避ける命をかけた行動です。
大島看護婦の頬は、婦長や同僚の仲間たちの涙で濡れました。
あまりにも突然の彼女の死を、みんなが悼(いた)みました。

翌日の日曜日の午後、遺体は満洲のしきたりにならって土葬で手厚く葬られました。
彼女の髪の毛と爪をお骨代わりに箱に納め、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置しました。
花を添え、水をあげ、その日の夜、一同で午前0時ごろまで思い出話に花をさかせました。
すべて懐(なつ)かしくて楽しかった内地(ないち)の話ばかりでした。

翌日、堀婦長が出勤時刻の9時少し前に病院の看護婦室に行くと、そこに病院の事務局長の張(チャン)さんがいました。
張さんは日本の陸軍士官学校を卒業した人です。
張さんはひどく怒っていました。
看護婦たちがだれも出勤していないのです。
こんなことは前代未聞です。

「変ですね~」
と最初、気楽に答えた堀婦長は、その瞬間はっとしました。
そして3階の看護婦たちの宿所に走りました。

いつもなら、若い女性たちばかりでさわがしい宿所です。
それが今朝はシーンと静まり返って、もの音一つしません。
堀婦長の胸にズシリと重たいものがのしかかりました。

宿所の戸を開けました。
お線香の匂いがただよっていました。
内側の障子が閉まっていました。
婦長が障子を開けました。

部屋の中央に小さなテーブルがありました。
テーブルの上には大島看護婦の遺品と花とお線香、そして白い封筒が置かれていました。
そしてその周囲に、きれいに並んだ22名の看護婦たちの遺体が横たわっていました。

机の上に遺書がありました。

「22名の私たちが、
 自分の手で
 生命を断ちますこと、
 軍医部長はじめ
 婦長にも
 さぞかしご迷惑のことと、
 深くお詫びを申し上げます。

 私たちは、
 敗れたとはいえ、
 かつての敵国人に
 犯されるよりは
 死を選びます。

 たとえ生命はなくなりましても、
 私どもの魂は
 永久に満洲の地に止まり、
 日本が再び
 この地に帰ってくる時、
 ご案内をいたします。

 その意味からも、
 私どものなきがらは、
 土葬にして、
 この満洲の土にしてください。」

遺書の終わりには、22名の名前がそれぞれの手で記されていました。
遺体は、制服制帽の正装。
顔には薄化粧。
両ひざはしっかりと結ばれ一糸乱れぬ姿でした。

その中でたったひとり、井上つるみの姿だけは乱れていました。
26歳で最年長だった彼女は、おそらく全員の意志をまとめ、衣服姿勢を確かめ、全員の死を見届けた上で、
最後に青酸カリを飲んだと推定できました。
畳を爪でひっかいた跡にも、顔の表情にも、それは明らかでした。

現場には、通訳を連れたソ連軍の二人の将校と二人の医師がやってきて、現場検証が行われました。
婦長は逮捕されてもいい覚悟で、国際的にも認められている赤十字の看護婦に行った非人道的行為を非難し、事のてんまつを訴え、泣き崩れました。

これには彼らもしばらくは無言のままで、事態の重大さがわかったようでした。
この22名の集団自決による抗議に、ソ連軍当局も衝撃を受けたらしく、翌日、
「ソ連の命令として
 伝えられることで
 納得のいかないことがあれば、
 24時間以内に
 ゲーペーウー(ソ連の秘密警察)に
 必ず問い合わせること」

「日本の女性とソ連兵が、
 ジープあるいは
 その他の車に
 同乗してはならない」
という通達が日本人の宿舎にまわってきました。

22名は死ぬ前に全員が身辺をきれいに整理整頓していました。
彼女たちが「土葬」を遺言したのは、婦長や引率の平尾軍医などにお金がないことを気遣ってのことです。

「それではあまりに
 22名の看護婦たちが
 かわいそうだ。
 火葬にしたうえで
 分骨し、
 故郷の両親に
 届けてあげれるように
 しようじゃないですか」
と、張さんが、当時ひとり千円もする火葬代を出してくれました。

日本が負けて立場が変わっても、陸士出身の張さんの温情は変わらなかったのです。
張さんは
「せめてこれまで
 朝夕親しく一緒に働いた人たちへの、
 これがささやかな供養ですから」
と述べてくれました。

 *

こうして22名の骨壺がならび、初七日、四十九日の法要もお経を唱えて手厚く執り行われました。
その四十九日のときのことです。
張さんが亡くなられた看護婦さんたちにせめてお饅頭でも作ってあげたら?と、饅頭を作る材料費を出してくれたのです。

そこで堀婦長は、張春のミナカイという市場に出かけました。
そこは当時、東京でいえば銀座のような、張春一番の繁華街でした。

堀婦長は、そのミナカイで、ふとしたことから噂話を耳にしました。
長春第八病院に向かった9名の看護婦のうち、亡くなった大島花江を除く8人が生きているというのです。
場所は張春市内にあるミナカイデパートの跡で、地下のダンスホールにソ連陸軍病院第二救護所に送られた8名が
生きてダンサーをしているというのです。

堀婦長は矢も楯もたまらず、その足でダンスホールに向かいました。
ダンスホールは、中は十畳ほどの広場になっていて、客はソ連人、働いているのはソ連人と中国人で、ダンサーは日本人、朝鮮人、中国人でした。

入口から中に入ろうとすると、ソ連人がそこにいて入室を拒みました。
どうしても彼女たちが気がかりで会いたいと思う堀婦長の迫力に圧倒されたのでしょうか。
入り口にいたソ連人は、隅にある小さな部屋で待っていろといいました。

部屋でひとり待っていると、ガチャリと音がして扉が開きました。
肌もあらわで派手なパーティドレスを着た女性たちが部屋に入ってきました。

「ふ、婦長・・・」
「婦長さん!!」

「みんな・・・」

堀婦長にも彼女たちにも言葉はありませんでした。
互いに会うことができた。
それだけで涙があふれました。

しばらくして落ち着くと堀婦長は言いました。
「大島さんがね・・・」
「知っています。
 同僚たち22名が
 集団自決したことも
 聞いています。」
「だったら、
 こんなところにいないで、
 早く帰ってきなさい!!」
「・・・・」
「あなた達の気持ちは、
 痛いほどわかるわ。
 だけど帰ってきてくれなかったら、
 救いようがないじゃないの」

8名の看護婦たちは婦長の言葉にうつむいたままでした。
堀婦長は気付きました。
眉を細く引き口紅を赤くしたひとりひとりの顔は以前の看護婦に違いないのです。
しかし8人ともまるで生気がありません。
それどころか目をそらして堀婦長の目から逃れようとさえしています。

堀婦長は心を鬼にして言いました。
「どうして黙っているの?
 どうして返事をしないの?
 そう、
 あなた達は、
 そういうことが
 好きでやっているのね」

ひとりが答えました。

「婦長さん、
 そんなにあたしたちのことを
 思っていてくださるのなら、
 お話します。

 私たちは、
 ソ連軍の病院に行った
 その日から、
 毎晩7、8人の
 ソ連の将校に犯されたのです。
 そして気づいてみたら、
 梅毒にかかっていました。

 私たちも看護婦です。
 いまではそれが、
 だいぶ悪くなっているのが
 わかります。

 もう私たちはダメなのです。
 もう・・・
 みなさんのところに帰っても
 仕方ないのです。

 仮に幸運に恵まれて
 日本に帰れる日が来たとしても、
 こんな体では
 日本の土は踏めません。
 この性病が
 どれほど恐ろしいものか、
 十二分に知っています。

 だから、
 だから私たちは、
 梅毒をうつしたソ連人に、
 逆にうつして
 復讐しているのです。

 今はもう、
 歩くのにも
 痛みを感じるようになりました。
 ですから
 ひとりでも多くのソ連人に
 うつしてやるつもりで
 頑張って・・・」

もう何も受け付けない。
もう何を言っても彼女たちには通じない。
彼女たちを覆っているのは、もはや完全な孤独と排他と虚無しかない。
彼女たちの言葉を聞いた堀婦長は、流れる涙で何も言えなくなりました。

私が人選した。
責任は私にあるのだ。
彼女たちが負った傷の深さ過酷さを思えば、彼女たちが選択したことに否定や肯定どころか、何の助言さえもしてあげれないわ。
堀婦長はただ自分の無力さに悔(くや)し涙が止まらないまま、この日さいごは気まずい雰囲気で部屋を後にしました。

「でも、このままでは
 済まさないわ。
 なんとしても彼女たちを
 助けなければ!!」

堀婦長はその日の夜、ひっそりと静まり返って誰もいなくなった薬剤室に入り梅毒の薬を持ち出しました。
そして翌日、ふたたびダンスホールへと向かいました。

通されたのは、昨日と同じ部屋でした。
女ばかり9人が、そこに集まりました。
婦長はせいいっぱい元気よく明るく彼女たちに声をかけました。

「みんな!
 今日はお薬を
 持ってきてあげたわ。
 みんなの分、
 たくさん持ってきたよ。

 あなたたちはまだ若いわ。
 復讐する気持ちはわかるけど、
 それでは際限がない。
 それより、
 この薬を飲んで、
 一日も早く体を治そうよ。
 そして気持ちを立て直して、
 生きることを目標に
 努力しようよ!」

「婦長さんのお心は
 ありがたいです。
 だけど婦長さん。
 そのお薬は
 日本人が作ったものです。
 そんな貴重なものは、
 私たちには使えません。
 私たちのことは、
 もういいんです。
 本当に、
 もういいんです・・・・」

「そんなことを言ってはダメ!
 お願いだからあきらめないで!
 お薬、ここに置いていくわね。
 それじゃ、帰るわね・・・」

「婦長さん。
 そんなに私たちの気持ちが
 わからないのなら、
 わかるようにしてあげます。」

彼女の中のひとりがそう言ってスカートをたくしあげて自分の性器を露出しました。
梅毒は性器全体に水泡ができてそこがただれて膿が出ます。
さらに尿道口も膿が出て、排尿困難、歩行困難が起こり、性器が腐っていきます。
広げた足の間には典型的な梅毒の症状がありました。
あまりにむごい姿でした。
もはや手遅れかもしれない。
けれど病気は弱気になったら負けです。

堀婦長はきっぱりと彼女たちに言いました。
「この程度なら、
 時間はかかるけど、
 必ず治ります!
 根気よ!
 薬は十分あるのだから、
 あなた達も、
 絶対に良くなるんだという
 強い気持ちで治療するのっ!
 いいわね!」

「治らない、
 治りっこないなんて、
 勝手な思い込みはやめなさい!
 もう商売はしてはダメよ。
 良くなるのよ。
 毎日お互いに
 声をかけあって、
 手抜きしないで
 治療するの。
 いいわね!」

こうして彼女たちは、わずかでも「治る」という希望を持って治療を受けると約束してくれました。
薬の調達は容易ではありません。
ただでさえ日本人の医師や看護婦が扱える量は少ないのです。

それでも堀婦長は彼女たちを助けたい一心で薬をすこしずつ確保し、貯めた薬が一定量になる都度、彼女たちのもとに、お饅頭と一緒に薬を届けに通い続けました。
お饅頭と、堀婦長の誠意、そして日いちにちと軽くなる体に、彼女たちの目にも少しずつ光が宿りはじめました。

このような彼女たちとの関わり合いは、帰国命令の出る昭和23年まで続きました。
そしてまる2年越しの交流の中で堀婦長は、彼女たちがひどい仕打ちを受ける以前よりも、彼女たちにたいして
より深い愛情を持つようになっていきました。

「一緒に日本に帰ろうね」

その言葉を彼女たちにどれほどかけたでしょう。
けれど敗戦の混乱が続く日本に帰ったとしても、楽な生活が待っているはずもありません。
それでもみんなと仲良くしながら、苦労をわかちあい、助け合って生きていくんだ。
みんな私が面倒みてあげるんだ。
堀婦長はそう固く決意していたのです。

 *

昭和23(1948)年9月、張さんが病院にバタバタと駆け込んできました。
長春にいる在留邦人に帰国命令が出たというのです。

「その日の午後7時に
 汽車が出るから、
 一週間分の食料持参で
 南新京駅に集合するように」

急な話です。
「時間がないわ。
 あの娘たちに
 知らせなくちゃ」

堀婦長は二人の子供たちに、とにかく準備をするようにと言い残し、自分の身支度も忘れて、彼女たちのもとに走りました。
「みんな一緒に日本に帰れるんだ」
走りながら堀婦長の目には涙が浮かびました。

ダンスホールに着きました。
彼女たちに面会を求めました。
「午後7時に南新京駅に集まるように」
と話しました。

「わーい、帰国命令だ。
 良かったぁ~!!」
彼女たちは、満面の笑顔で答えてくれました。
ほんとうにうれしそうでした。

「きっと来てくれるわね?」

「婦長さん、
 ありがとうございます。
 7時までには準備して、
 必ず参ります」

「必ずよ!
 準備をして、
 必ず来るのよ!」

婦長もうれしくてたまりません。
みんな一緒に帰れる。
こだわりはあることでしょう。
ないはずなんてない。
「だけど私がなんとしてでも
 彼女たちを立ち直らせてみせるわ。
 絶対に立ち直らせてみせる!」

堀婦長は子供たちと身支度を整えました。
心配でたまらず集合時間の2時間も前に南新京駅に行きました。
そこで彼女たちを待ちました。

まさか・・・とは思いました。
でも彼女たちは
「時間までには行きます」
と約束してくれました。

「その言葉を信じよう。
 きっと来てくれるわ。」

貨車が到着しました。
長春にいた日本人たちが、
続々と貨車に乗り込み始めました。
堀婦長は、それでも彼女たちを待ちました。

そろそろ出発の時間になりました。
来ないかもしれない・・・そう思った時です。
「婦長さ~ん!!」
と明るい声がしました。

どこにいたのか意外と近くに、ワンピースにもんぺ姿の細井、荒川、後藤の三人の姿が見えました。
三人とも、とっても嬉しそうな顔をしていました。

「こっちよ~~、早く~~!」
「あとの娘たちは?」

「大丈夫です。
 あとから来ます。
 それより、これ、
 食糧のたしにしてください。」

「ええっ!こんなにたくさん?!
 こんなことしたら
 あなた達が困るじゃないの」

「いいんですよ、婦長さん。
 私たちの分は、
 あとからくる娘たちが
 持ってきます。
 だから、これ、みなさんで。
 それから、
 ほんの少しですけれど、
 何かに使ってください。」

「何なの?」

「アハハ、あとでですよぉ~。
 じゃあ、あたしたち、
 澤本さんたちを探してきますね」

「わかったわ。
 でも、もう
 あまり時間がないから、
 早くしてね。急ぐのよ」

「はいっ!」

そのとき振り向いた、彼女たち3人の笑顔を堀婦長は生涯決して忘れない。
忘れようがないです。
三人ともとても明るい、ほんとうに何事もなかったかのような明るくてさわやかな笑顔だったのです。

堀婦長が彼女たちが戻ると安心して貨車に乗る順番の列に並んだときです。

バン、バンと2発の銃声がしました。
そしてすこし遅れて、バンと3発目の銃声が響きました。
列車への乗車を待っている
日本人たちが騒ぎ始めました。

「おいっ!自殺だ」
「若い女3人みたいだ」

「!」

三人とも即死でした。
後藤さんと荒川さんの体を覆うようにして、倒れていた細井さんの右手にピストルが握られていました。
申し合わせてのことでしょう。
細井たか子が先に二人を射殺し、最後に自分のこめかみを撃ったことがわかりました。

頭部からはまだ血が流れていました。

「わかる。
 わかるわ。
 あなたたち、
 こうするほかなかったのね。
 ごめんね。
 ごめんね。ごめんね。
 はやく気が付いてあげれなくて。
 もう、なにもかも忘れて、
 楽になってね。
 今度生まれてくるときにはね、
 絶対に、
 絶対に、
 絶対に、もっとずっと強い
 運を持って生まれてくるのよ・・・・・」

「お母さん、お母さん!」
子供たちの叫ぶ声で我にかえり堀婦長は汽車に乗りました。

結局、澤本かなえ、澤田八重子、井出きみ子の三人は、姿を見せませんでした。
このほかに二人、どこにいるのか行方知れずに終わりました。
ひとりはソ連将校が連れ帰ったという噂でした。

 *

引き揚げ列車は南下していきました。
それぞれの悲劇と過酷な過去から逃れるように、祖国日本へ向け鉄路を南へ向けて走りました。
こうして堀喜身子婦長が、長男静夫(5歳)と、長女槇子(3歳)を連れて九州の諫早(いさはや)で日本の土を踏んだのは、昭和23年11月のことでした。

親子三人を待っていた日本の戦後社会は、想像を絶する混乱の社会でした。
戦争に負けた。
それだけのことで人の心が変わりました。

それまでの日本は、国全体が家族のような国家でした。
人々が地域ぐるみ家族ぐるみで助け合い支えあって生きることがあたりまえの社会でした。

終戦によって180度変わりました。
人の情けがなくなりました。
支えあうという考えも人々から失われていました。

堀喜身子婦長はソ連に抑留されている夫の正次氏の故郷である山口県に向かいました。
かつての日本社会では、いったん嫁に入ったら夫の家の家族と考えられていました。
だから自分の生家に帰ろうとは思わない。
終戦までそれがあたりまえでした。

ところが親子で夫の実家に到着すると、夫の母(お姑さん)は
「引揚者は、家に入れられない」
といいました。
敷居の中にさえ入れてくれませんでした。

当時いろいろな噂があったのです。
引揚者の女性は穢れているとかです。
堀喜身子さんは看護婦であることが幸いし、引揚げに際して不埒な真似に遭うことはありませんでした。
けれど、
「世間体がある、
 何があったかなんて
 わかりゃあしない」
と姑は納得してくれませんでした。

はるばる山口まで来て自尊心をズタズタに引き裂かれ、泊まるところもなく、とほうにくれた堀さんは、二人の子供の手をひきながら堀家の菩提寺を訪ねました。

ご住職に事情を話すと、
「わかりました」
と、一夜の宿と、命に代えてもと持ち帰った23名の看護婦のご遺骨を菩提寺の墓所で預かっていただくことができました。
堀さんは、ようやく肩の荷を少しだけおろすことができた気がしました。

翌日、親子は堀さんの母の住む北海道の帯広に向かいました。
帯広では幸い看護婦として市内の病院に就職することができました。

けれど終戦直後です。
未曽有の食糧難の時代です。
勤務の制約もあり、給料も少なく、生活費をぎりぎりに切りつめても末っ子の槇子まで養うことができません。
涙ながらに因果を含めて、大事な娘を親戚の家に預かってもらいました。

苦しい生活を送りながらも、堀元婦長の脳裏を片時も離れないもの、それは、命を捨ててまで事態を知らせに来てくれた大島花江看護婦と、井上つるみ以下自決した22名の仲間たちのご遺骨のことでした。
年長者でも26歳、年少者はまだ21歳の若い女性たちでした。

年が明け、昭和24年の6月19日の命日がやってきました。
するとこの日、彼女たちが堀婦長のまわりにやってきました。
そして言うのです。
「婦長さん、紫の数珠をくださいな」

紫の数珠というのは、終戦の年の冬の初めにあったできごとです。
その日、張春の第八病院にモンゴル系の女性が担ぎ込まれてきました。
妊婦でした。
難産でした。

助産婦の資格をもつ堀婦長が軍医とともに診察しました。
すでに重体でした。
もはや妊婦の生命は難しい状態でした。
あとはせめて赤ちゃんの命だけは、という状態でした。

その日のうちに嬰児はなんとか取り上げました。
けれど出産で妊婦は瀕死になりました。

そこから二日三晩婦長と看護婦たち、みんなで献身的に看護をしました。
それは
「なんとかして
 命だけでも助けてほしい」
と何度も哀願するご家族たちが、
「ここまでやってくれるのか」
と感激して涙を流すほどの真剣な看護でした。

妊婦は一命をとりとめました。
一部始終を見ていた妊婦の身内の中に、モンゴルで高僧と言われた老人がいました。
妊婦の生命をつなぎとめた神業のような看護を、驚異の眼で評価した高僧は、生涯肌身離さず持ち続けるつもりでいたという紫の数珠を、お礼にと堀婦長に差し出してくれました。

その紫の数珠は紫水晶でできていて、2連で長さ30cmほどのものです。
見た目もとても美しいのですが、それだけではなくひとつひとつの珠に内部が透ける細工が施してありました。
透かしてみると、ひとつひとつに仏像が刻まれていました。

その日からお数珠は看護婦たちの憧れの的になりました。
やまとなでしことはいえ若い娘たちです。
美しい宝珠に興味津々でした。
婦長は何度も彼女たちにせがまれて何度も見せてあげていたのです。

ある日、婦長はみんなに、
「いっそのこと、
 数珠の紐を切って、
 みんなで分けようか?」
と提案しました。
このひとことで看護婦たちは大騒ぎになりました。

彼女たちが亡くなったとき、婦長は彼女たちに誓いました。
「私の命に代えても、
 みんなの遺骨は、
 必ず日本に連れて帰る。
 日本に帰ったら
 必ず地蔵菩薩を造って、
 みんなをお祀りする。
 その地蔵菩薩の手に、
 この紫の数珠を
 きっとかけてあげるね。」

けれどまだ地蔵菩薩はありません。
彼女たちの遺骨は菩提寺とはいえ無縁仏にちかい形で置かれたままです。

婦長はなんども心の中でみんなにお詫びしました。
「ごめんね。
 いまの私には
 どうすることもできない。
 でもきっと、必ず、
 お地蔵さんを造って
 お祀りする。
 だからもう少し
 待っていてね・・・。」

どうすることもできない境遇です。
そのことを思う都度、婦長の眼からは涙があふれました。
帯広で生活するようになってしばらくしたとき、徳山の夫の生家から夫の正次が戦死したとの公報があったと知らせが届きました。
こうなると北海道にいる堀婦長にとって遠い山口県とはご縁が遠くなります。

「なんとかしなければ」と
思う堀婦長の心に23名のご遺骨のことは重い負担となり続けました。

なにもしないでいるわけにいかない。
堀婦長はあちこち手立てを講じました。
元の上官であった平尾軍医と手紙で連絡をとり、
二人で地蔵菩薩の建立費を積み立てようと決めました。

そして堀婦長から平尾元軍医にあて毎月送金することにしました。
たとえ少額でも、たとえ一回に少しのことしかできなくても、こうして積み立てていれば、いつの日か必ず地蔵菩薩を建てられる。

そうと決まると月給は少しでも高いにこしたことはありません。
堀元婦長は、給料の良い職場を求めて静岡県の清水市にある病院に就職しました。

 *

戦後の何もない時代、庶民の唯一の娯楽といえばラジオくらいしかありません。
なかでも謡曲や浪花節はとても人気が高くて、
この時代に広沢虎造や春日井梅鶯などが庶民の人気をさらっていました。

その春日井梅鶯の弟子に、将来を嘱望された
「若梅鶯」という浪曲師がいました。
その若梅鶯が熱海で口演をしたときのことです。

旅館のお帳場でお茶を頂いていると、旅館の社長さんが週刊誌を手にしてくるなり言いました。

「いやあ、すごいものですねえ。
 満洲の長春で、
 ソ連軍の横暴に抗議して、
 22人もの看護婦が
 集団自決したんだそうですよ。
 終戦の翌年のことだけどね・・・」

若梅鶯は旅館の社長さんからその週刊誌をひったくると、むさぼるようにしてその記事を読みました。
読みながら、若梅鶯は全身に鳥肌がたちました。

「こんな酷いことが
 こんな辛いことが
 あったのか・・・」

若梅鶯こと松岡寛さんは敗戦時に樺太と関わりを持っていました。
その樺太でソ連軍による殺戮や略奪、暴行、強姦の実態をつぶさに知らされていたのです。
だから長春の看護婦たちの話も他人事には思えませんでした。

松岡さんは一座の者に堀婦長の居場所を探させました。
するとなんと熱海からほど近い清水に堀婦長がいることがわかりました。

その日のうちに松岡さんは清水へと向かいました。
堀元婦長の勤務する病院で面談を申し込みました。
そして地蔵菩薩の建立に資金的な協力をしたいと申し出ました。

けれど堀元婦長はあっさりと断りました。
ただお金があればいいというものではない。
そんな思いが婦長の心にあったからです。

けれど松岡氏も真剣でした。
「ならば、
 自分は浪曲家です。
 この語り継ぐべきこの悲話を、
 大切に伝えて行きたい。
 ぜひそうさせてください」

松岡さんの真摯な態度に堀婦長の心は動きました。
終戦から復員にかけての混乱の中で亡くなった看護婦たちの身元がわからなくなっていたのです。
浪曲家である松岡氏が物語にしてこれを全国で口演してまわれば、もしかすると彼女たちの身元がわかるかもしれない。

堀婦長は当時の様子を松岡氏に話しました。
松岡さんは誠実でまじめな人でした。
堀元婦長から聞いた話を、従軍看護婦集団自殺の物語として浪曲に仕立てました。

そしてこの物語を語るために世話になった師匠に事情を話して、春日井若梅鶯の芸名を返上し、師匠の一座を離れて、無冠の松岡寛として、白衣の天使たちの悲話の語り部として後半の人生を生き抜く決意をしました。

いくら人気浪曲師の一番弟子とはいっても独立すれば会社の看板のなくなったサラリーマンと同じです。
なんのツブシもきかない。
ラジオのゴールデンタイムの人気浪曲家だった若梅鶯は、
名前も変えて、まるまる一から地方巡業でのスタートをきることになりました。

終戦の悲話が直体験として日本中に数多くあった時代です。
白衣の天使の集団自決の浪曲が売れないはずはありません。
松岡さんの口演は、またたくまに全国でひっぱりだこになりました。

その松岡師匠は、浪曲の中で必ず
「皆様の中で
 心当たりの方は
 いらっしゃいませんか?」
と問いかけてくれました。

三年余りの口演によって、実に23名中、19名の身元が判明したのです。
19名のご遺骨は、ようやくご両親のもとに帰ることができました。

松岡氏がこうして巡業をしながら看護婦たちの身元を尋ねて回っていたころ、堀婦長は、自分の給料の中から、実家にいる子供たちと、元上司の軍医のもとへと毎月少なからぬ積立金の送金を続けていました。

その金額もある程度のものになったと思われたので、そろそろお地蔵さんの建立をと思って元上司に電話をしました。
すると、元上司は
「それなら前にもお話した
 群馬県邑楽郡大泉村に
 建てましたよ」
という。

群馬県大泉村というのは、看護婦たちが満洲へ向かう前に厳しい訓練を受けたところです。
彼女たちにとって出会いとゆかりの場です。

そこにお地蔵さんが建った。
ほんとうなら、これほどうれしいことはありません。

ちょうど彼女たちが亡くなってから7周忌にあたる年でした。

堀元婦長は松岡師匠にこの話を伝えました。
松岡師匠もたいへんに喜んでくれて、
「それなら私が見に行ってみましょう」
と請けあってくれました。

師匠はさっそく群馬県大泉村の役場をたずねました。
地番を探してその場所に行きました。
そこはあたり一面、草ぼうぼうの原っぱでした。
何もありません。
役場にとって返して聞いてみたけれど、地蔵なんて話は聞いたこともないといいます。

堀元婦長にその話をすると、どうしたことだろうということになって、元上司に問い合わせをすることになりました。

すると、よんどころない事情でお金を遣いこんでしまったというのです
思い当たることはありました。
その上司の奥さんが結核で入院していたのです。

間が抜けていたといえばそれまでのことです。
汗水流して貯めた貴重な地蔵尊建立基金は、こうして霧散してしまいました。

その同じ年、埼玉県大宮市に山下奉文将軍の元副官で陸軍大尉だった吉田亀治さんという方が自己所有の広大な土地に、公園墓地「青葉園」を開園しました。
昭和27年11月のことです。

そしてそこに沖縄戦の司令官である牛島中将の墓を設け、
さらに園内に青葉神社を建立し、鶴岡八幡宮の白井宮司によって鎮座式も行なわれました。

青葉園が開園して間もない頃、地元の大宮市(現・さいたま市大宮区)で松岡寛師匠の浪曲の口演がありました。
演目はもちろん
「満洲白衣天使集団自決」です。

この口演の際、吉田亀治さんは松岡師匠から直接、
「堀元婦長は存命で、
 いまも看護婦たちの
 身元を探している。
 命日になると、
 亡くなった看護婦たちが
 寄ってきて、
 お地蔵さんの建立をせがむ」
などの話を聴きました。

吉田亀治さんは松岡師匠を介して堀元婦長に面会しました。
そして、地蔵尊の制作と青葉園へのご安置を引き受けてくれたのです。

埼玉県大宮市は、命を捨てて危険を知らせに来てくれた亡くなった大島花枝看護婦の出身地です。
なにやらすくなからぬ因縁さえ感じます。
資金は、すべて吉田氏が引き受けてくれました。

こうして大宮市の青葉園のほぼ中央に、彼女たちの慰霊のための
「青葉慈蔵尊」が建立されました。

地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれました。

(五十音順)
荒川さつき 池本公代 石川貞子 井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ 大島花枝 大塚てる 柿沼昌子 川端しづ 五戸久 坂口千代子 相良みさえ 滝口一子 澤田一子 澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ 杉まり子 杉永はる 田村馨 垂水よし子 中村三好 服部きよ 林千代 林律子 古内喜美子 細川たか子 森本千代 山崎とき子 吉川芳子 渡辺静子
看護婦長 堀喜身子

【後日談】
夫と死に別れた堀元婦長は、その後お二人の子を連れ、寡婦としてがんばっていましたが、松岡師匠の温厚さと誠実さにふれ、後年、お二人はご結婚され、堀喜身子は、松岡喜身子となりました。

~~~~~~~~~~~~~

以上が、満洲従軍看護婦の物語です。

この物語は、何度ご紹介しても長春駅前での三人の女性の死のところでは、不覚にも涙でパソコンの画面が見えなくなってしまいます。
お地蔵さんが建立されている青葉園は、さいたま市にあって、その中央に「青葉慈蔵尊」があります。
何度か献花に行かせていただきました。
また村田春樹先生をはじめ、いまも毎年、ゆかりの人たちが集って慰霊祭を行っています。

美しい公園墓地です。
牛島中将のお墓もあり、敷地内には戦争の祈念館もあります。
お近くの方は一度お出かけになってみられたらいかがでしょうか。

国家が崩壊したとき、どのようなことが起こるのか。
国というものが、いかに国民にとって大切なものなのか。
本稿を経由して、少しでもお感じいただけたら幸いに思います。

お読みいただき、ありがとうございました。


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Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
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執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
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動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
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