【緊急告知】
3月20日に開催を予定しておりました第70回倭塾は、新型コロナウイルスの問題から、まことに残念ながら開催を中止とさせていただきます。
3月6日 小名木善行私には霊能力もないし、心霊現象も見たことがないので、超能力のようなものや霊力なるものが実際にこの世に存在するのかどうかは、正直なところよくわかりません。 ただ世間の評判がどうであれ、その人が書いたものに「学ぶべきもの」があれば、それは素直に受け入れるし、わからないことは「わからないまま」頭の中にとどめておいて、いつかわかる日が来る時まで、頭のなかに大事にとっておくことにしています。 学ぶということは、頭ごなしに否定することではなくて、自分が成長していく糧(かて)を得ることだからです。 |

画像出所=https://www.youtube.com/watch?v=uuUq5r_5_vg
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『小桜姫物語(こざくらひめものがたり)』というものがあります。
昭和12年のものです。
一種の霊媒能力をもった女性に、小桜姫という城主の息子の嫁さんが降りてきて、霊界の様子を生々しく語り、これを浅野和三郎が「書き取った」というのが、そのあらましです。
内容は、様々なエピソードが書かれており、そのひとつひとつが本当であるのかどうか、そういうことは私にはわかりません。
けれどその中に、とても重要なことなのでは、と思わせられたものがありました。
小桜姫は霊界で修行中に様々な人に出会うのですが、ある日、たいそう美しい立派な娘さんに出会うのです。
その娘さんは、実は6歳のときに亡くなって霊界に来て修行を積んでいる方でした。
そして小桜姫は、ある日その娘さんの母親に、霊界で会うのです。
小桜姫は母に
「あなた様は御生前にたいそう厚い仏教の信者だったそうでございますね」と問いかけました。
母は、次のように答えます。
「私は別に厚い仏教の信者というのでもなかったのですが、可愛い小供を失った悲しみのあまり、阿弥陀様におすがりして、あの娘がはやく極楽浄土に行ゆけるようにと、一心不乱にお経をあげました。
あの頃の私たち夫婦は、まるきり迷いの闇に閉ざされ、お経を唱えていさえすれば娘が救われると思い込んでいたのでした。
こちらの世界の事情がすこしわかってみると、それがいかにあさはかで勝手な考えであるかがよく判わかりました。」
母親は、愛娘が亡くなった悲しみと、娘の冥福を祈りたい気持ちから、一心に御仏にすがりついたのです。
もう毎日毎日、念仏を唱え続けました。
他のことは一切しない。
朝から晩まで、念仏を唱え続けたのです。
これはいまでいったら、おかしな宗教活動にはまり、朝から晩までお題目を唱え続けたり、宗教活動にばかり専念して、社会性を失ってしまう人、あるいはそういう宗教団体に共通する信者たちの姿に似ています。

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母が、亡くなった子のために、一心に祈る気持ちはよくわかるのです。
けれど武家の妻であるこの母には、妻としてやらなけばならない日常のことが、多々あるのです。
そういう日常のことをまったくやらないで、この母は、ただひたすらに仏にすがったわけです。
周囲の人は心配してくれて、この母に何かと声をかけてくれました。
けれど子を思う母の気持ちは、ただひたすらに御仏にすがるばかりで、人の言葉など、まるで耳に入りません。
仏様を信じて自分がひたすらに念仏を唱えさえすれば、娘が生きて帰ってくることはないにせよ、娘のあの世での冥福がきっと守られる、そう固く信じていたのです。
結局、その母も衰弱して死んでしまいます。
そしてあの世(霊界)に行く。
霊界では、ひとりにひと柱の神様が付いて、心の修行をさせてくれるわけです。
母は、同じ霊界にいる娘に会いたいと神様に申しました。
けれど神様は、「あなたの修行次第じゃ」と答えて、なかなか会わせてくれません。
母は娘に会いたい一心で、霊界での修行に取り組みました。
修行は何年も何年もかかりました。
そして母は、ようやく気づくのです。
自分は、娘のことを思うあまり、我儘(わがまま)になってしまっていたと。
仏様にお縋(すが)りすること自体が良いとか悪いとかではなかったのです。
祈って縋っていさえすれば「自分の」願いが叶うと思っていた。
そのために他のことを何もしないで、周囲の人達に迷惑をかけていたことにさえ、まるで気づこうとしなかった。
ただ自分の満足のいく答え(娘の冥福)だけを祈り続けていた。
そんな自分の勝手な我儘(かってわがまま)で、周囲の人たちをどれほどまでに困らせていたのか。
自分勝手だったのか。
そのことに気づくわけです。
母の思いは、純粋な娘への愛です。
けれど、それが度を越した信心になり、他のことを何もしない、周囲に心配をかける。
そうなってしまえば、それは愛ではなく、我欲(がよく)になるのです。
生前の母には、それがわからなかったのです。
自分さえ良ければ、自分さえ納得できればということは、我欲です。
そして誰もが我欲に走れば、世の中は混乱し、人は争い、上下関係や支配と隷属の世に至ります。
1%の人が、残りの99%の人を支配する世の中になる。
誰しも幸せになりたいと思うし、誰にも欲望はあります。
欲望があるから生きていけるのです。
時間になったら腹がへるのが人間です。
欲望そのものは、悪いことではありません。
けれども、自分だけが腹をふくらませることができれば、周囲の人はどうなったって構わないというのでは、それは我欲です。
いわゆる新興宗教と呼ばれるものの中には、そうした我欲を、むしろ煽(あお)り、信仰すれば願いが叶うと言い、願いを叶えたい、我欲を通したいと思う人間の心の弱さに付け込んで、教団勢力を伸ばして、いわゆる大手宗教団体と呼ばれるようになる団体もあります。
けれど、よく考えてみれば、すべての人の、すべての我儘な願いが全部叶うなんてことは、ありえないことです。
今日はどうしても晴れてほしいと願う人もあれば、今日こそ雨が降ってくれなければ困るという人もいるからです。
物語に出てくる母は、領主の妻なのですけれど、領主はみんなのために「おほみたから」を預かる存在です。
その妻が自分や亡くなった自分の娘のことしか考えず、念仏をあげる以外、一切他のことに気を配らなくなってしまっては、困るのは領主である夫であり、領民です。
信仰を持つことは素晴らしいことです。
しかし信仰だけに縋りついて現実を見失えば、それは人として失格をもたらします。
信仰する心、信仰のための行動は、とっても貴重なものです。
願いを叶えたいと思う心も、そのためにこそ様々な努力が生まれることを考えれば、それはとても良いことです。
けれど、それも度を越してしまえば、我欲になるのです。
そして我欲は、周囲に迷惑をかけ、和を乱し、結いを崩壊させ、絆を断ち切ってしまう。
人は蓮(ハス)の花だと言った人がいました。
蓮は水面に美しい花を咲かせます。
けれど根っこは水中のドロドロした泥の中にあります。その根っこがレンコンです。
そして水面の美しい花と、地中のレンコンは、一本の細い茎でつながっています。
昔の人は、人間をそんな蓮の姿に例えたそうです。
レンコンは肉体です。
その肉体は世間という泥の中にあります。
けれど精神は蓮の花です。
水面にあって美しい花を咲かせることができます。
その肉体と精神は、一本の細い糸(茎)でつながっています。
精神は、どんどん浄化させていくことができます。
けれどそのために肉体は泥の中で暮らさなければなりません。
ただ泥の中だけで一生を終えるか、それとも心の花を咲かせるか。
それは、その人自身の選択です。
根がなければ、花は咲きません。
けれど根が、泥の中で我欲に走れば、根腐れを起こします。
そうなれば花は咲きません。
生きるって、とってもむつかしいことです。
けれど、生きているからこそ、心に蓮の花を咲かせることができます。
『小桜姫物語』を書いた浅野和三郎は、大正から昭和初期にかけて活躍した心霊運動家です。
茨城県の代々続く医者の家系に生まれ、東京帝国大学を卒業後、海軍の機関学校の英語教師をし、後に心霊研究に勤(いそ)しみました。
と、こういう説明より、映画や小説で有名になった恐怖映画(小説)の「リング」の主人公の貞子を発見し、彼女の持つ超能力を研究した学者の先生、と言ったほうがわかりやすいかもしれません。
「リング」は小説ですが、現実において浅野和三郎は、各方面からインチキ学者呼ばわりされ、世間から非難中傷を浴びました。
たいへん辛い人生を送った人でもあったわけです。
いまも、浅野和三郎という名を出しますと、ある程度詳しい方は「ああ、あのインチキ学者ね」とおっしゃいます。
私には霊能力もないし、心霊現象も見たことがないので、超能力のようなものや霊力なるものが実際にこの世に存在するのかどうかは、正直なところよくわかりません。
ただ世間の評判がどうであれ、その人が書いたものに「学ぶべきもの」があれば、それは素直に受け入れるし、わからないことは「わからないまま」頭の中にとどめておいて、いつかわかる日が来る時まで、頭のなかに大事にとっておくことにしています。
とっておいて損になるわけじゃなし、その人がたとえどんな変人であろうと、そこから学べるものがあるなら、謙虚に学んで吸収します。
学ぶということは、頭ごなしに否定することではなくて、自分が成長していく糧(かて)を得ることだからです。
そういう意味では、99素晴らしい論説を述べていても、1のおかしな部分があったら、その人の全てを全人格的に否定してしまう人というのは、もったいない人生を歩いているように思います。
※この記事は2015年3月の記事の再掲です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
湘南童子
以前にも御挨拶させて頂きましたが、改めて感謝申し上げます。
『小櫻姫物語』、『シルバー・バーチの霊訓』や『ホワイト・イーグルの霊言・霊示』と共に
人類の魂を大きく開き給う書物であります。
ブログ主様の仰る通り、何事も糧と存じます。
それでは、失礼致しました。
日ノ本の大和たる日本そして日本人を始め
私たち生きとし生ける全ての物の天命が完うされますように
2020/03/08 URL 編集
kinshisho
これは所謂スピ系にも通ずるお話ですね。私はどちらかというと日月神示を支持してますけど、過去には色々とスピ系を読んでみたこともあり、そこから思ったことは、あの世でも実はこの世同様にその解釈を巡って喧々諤々しているのではないかということです。
スピで最も知られているのは恐らくシルバーバーチの霊訓であるはずで、私も一通り目を通しましたけど、確かに道徳としては良いかもしれませんが、内容的には現実を無視した理想論という感じで、一部では創作なのではとの疑いを持つ方もおられ、私もそのような気がしてなりません。
日月神示は所謂神々の行動予定表のようなものですから、押しつけがましくもなく、それでいて合理的にも思えるのですけど、シルバーバーチはこの世よりもあの世を重視し、上から目線で絶対的な善悪を決めていて、まさにキリスト教的なのですよね。というか、内容的に共産主義的発想というか、現実には助け合うべき範囲は最小は家族であり、最大は国ですけど、シルバーバーチにとっての最小は隣の他人であり、最大は地球、というより国や人種、民族を越えて全ての者が同胞という考え方をするところにあります。
他のために人生を捧げよ、他のために己の全てを捨てよというのはおかしな話です。そしてそうやって徳を積むことによりあの世で幸せになれると言い、あの世の幸せはこの世の幸せとは比べ物にならないと言います。そこまでしなければ手に入らない幸せなどいらないと思いましたね。
確かに自分さえ良ければそれでいいというのも問題ですし、互いが互いを思いやるのは大切なことでもあります。世界が仲良く出来ればそれに越したことはないので否定はしません。
しかし、それは時と場合によってであり、いつもいつも徹底して他を優先しなさいというのもおかしな話であり、そのために家族を犠牲にしなさいというべき記述は受け容れられるものではありません。中には助けてはいけない者だっています。それを受け容れることで共同体が破壊され、犯罪に遭わなくて良い者がその巻添えになる。今の欧州はまさにシルバーバーチの霊訓に従った成れの果てとも言え、多分シルバーバーチに言わせればそれはカルマの清算というに違いありません。
忠実に従った結果に対する責任は決して取らないのです。それが神と言えるでしょうか?
このため私はシルバーバーチってバカじゃないの?と思っていたこともあります。記述的には正しい面もあるけど、全体には到底受け入れられるものではありませんでした。死刑も何の解決にもならないと言って反対してますし。死刑にすると霊魂はあの世に行き着くこともできず、この世とあの世の間を彷徨いしかもこちらも手に負えないそうで、あの世をメチャクチャにする行為だからやめてくれだそうで、これってウソだろうと思いました。そもそも死刑判決を受ける程の凶悪犯罪をやらかしている以上、被害者に報いるためにも当然だろうがと思う訳です。しかし、シルバーバーチはそんな者にも寛容と慈悲の精神で接しなさいとか、ふざけてるのかと。そうすることで深く反省するようになるそうなのですが、現実には本当に反省する死刑囚は全体の1~2%程度なのをどう説明するつもりなのか。これは無期懲役囚でもほぼ変わらないのに。
何故そこまで現実を無視して出来もしない理想論を説くのか。
そこから浮き上がってくるのは、きっとあの世にも様々な考えの神がいて、実はこの世同様に揉め事に満ちた世界ではないかと思うのです。尤も、それは神々の間での話で我々霊魂には影響は及ばないかもしれませんが。
実はあの世にさえ絶対はないということなのです。
2020/03/08 URL 編集