四度あった南京事件

【緊急告知】
3月20日に開催を予定しておりました第70回倭塾は、新型コロナウイルスの問題から、まことに残念ながら開催を中止とさせていただきます。
 3月6日 小名木善行


南京事件だの虐殺だのという議論になったら、みなさまにお願いがあります。
それを言う方に対して
「どの南京虐殺事件のことなの?」
と質問していただきたいのです。
そうして事実をきちんと調べ上げれば、日本軍による南京大虐殺など起こりようがなかったし、実際には同じChina人による南京に住むChina人への虐殺、暴行、陵辱、収奪、強姦、殺戮の歴史がおのずとあきらかになってくるからです。


日本軍占領当時に良民証をつけた南京の子供の笑顔
20200306 良民証をつけた南京の子供
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中共がいう南京大虐殺はねつ造です。
ただし南京には、実際に起こった虐殺事件があります。
こちらは史実です。

その南京虐殺事件とは、以下の4つです。

1 第一次南京事件(大正2(1913)年)
  張勲軍が南京に乱入し、城内の民間人に対して
  虐殺、強姦、略奪を行った事件
2 第二次南京事件(昭和2(1927)年)
  国民党の国民軍が騙し討ちのような形態で南京
  に入り込み、
  城内で虐殺、強姦、略奪を行った事件。
3 第三次南京事件(昭和12(1937)年)
  南京に陣取った国民党軍が、
  日本軍がやってくるからと城内で
  虐殺、強姦、略奪を行った事件。
4 第四次南京事件(昭和24(1949)年)
  中共軍が南京を制圧し、資本家らを襲い虐殺、
  強姦、略奪を行った事件。

1~2では、在留邦人も被害にあいました。
3は、中共政府が宣伝する南京大虐殺よりも「前」にあった出来事です。
4は、昭和24年ですから、すでに大東亜戦争も終わり、日本とはまるで関係のない中で起きた事件です。

以下、順にその概要をみていきますが、これを見ると、いかに大陸の流儀というのが、被害者を加害者に、加害者を被害者にすり替えるいい加減なものかがわかります。

ちなみにこの「四度あった南京事件」の記事は、2012年3月8日に当ブログ書いた記事ですが、おかげさまでその後動画にもなり、またあちこちのサイトに転載され、いまでは結構、知られるようになりました。



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第一次南京事件
大正2(1913)年
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この事件は、大正2(1913)年8月に起こりました。

清朝が辛亥革命(しんがいかくめい)によって倒れたあと、孫文の後を受けた袁世凱(えんせいがい)が新政府の大統領に就任しました。
ところが袁世凱の狙いはChinaの民主化とはほど遠くて、単に自らが皇帝となろうとするという卑しいものであったため、これを不服とする孫文派の革命功績者たちが、袁世凱と激しく対立しました。

その対立者たちを押さえこむために袁世凱が軍事力にものを言わせるのですが、この年の8月31日に南京城内に乱入した袁世凱派の張勲(ちょうくん)は、南京城内で約一ヶ月にわたり虐殺、強姦、略奪の限りをつくしています。

この事件で、南京城内では、China人の市民に数千人におよぶ死者がでました。
さらに張勲らは外国人居留区にまで侵入し、そこで日本人商店も襲撃して、少なくとも日本人10数名を殺害しています。

このとき襲われた商店はちゃんと日章旗を掲げていました。
日章旗を掲げるということは、そこが日本人の居住宅であって、要するに彼らにとっては外国人の居宅なのだから、本来、国際的に一切の攻撃をしてはいけない先です。
にもかかわらず張勲らは日本人を襲撃し、日本人商店で働く邦人を虐殺し、女性を強姦し殺害しています。

当然のことながら日本国内の世論は激昂しました。
けれどChinaとの紛争を回避したい日本政府は、あくまで穏便にと報復措置をとらず、
「襲われたのは張勲軍の
 何かの手違いに
 すぎなかったのではないか」
などと理屈にもならない答弁をしています。

このため怒った人々によって、9月5日には阿部政務局長が日本国内で斬殺されるという事件まで起こっています。
当時としては、まさに国論を揺るがす大問題だったのです。

本来ならこのときに、日本政府は張勲らに対する徹底した国際的糾弾と、Chinaへの一切の支援の放棄、同盟国へのChinaへの共同軍事活動を呼びかけ、張勲らに対する徹底した軍事行動Chinaにいる邦人居留民の徹底した保護行動などの処置をとるべきだったのです。

実際、欧米諸国はすべてそのようにしていました。
自国民が被害にあった場合、即時、断固とした報復行動を採っていたのです。

ところが日本政府の行動は真逆でした。
「穏便な事態の収拾を図る」と称して、軍の動員をしていません。

このことが後日China人たちを増長させ、さらに被害を拡大する要因となったことは、歴史に学ぶ大きな反省事項だと思います。

さらにいうと、この第一次南京事件の主犯である張勲は事件後、なんと功績者として江蘇都督に昇格し、次いで長江巡閲使となり、挙げ句の果てが定武軍元帥にまで出世しています。
日本ではとても考えられないことです。

日本人の感覚では、戦(いくさ)でもないのに、無辜の市民を欲しいままに虐殺、略奪、強姦しまくるような不埒な人物は、どんな場合でも尊敬などされることはないし、そうした人物が政府要人として、あるいは軍の幹部として出世することなどまずあり得ないことです。

歴史をひもといても、そうした極悪非道な人物が、日本史において成功者となったという事例はまったくありません。
こう書くと信長が比叡山の焼き討ちをしているじゃないか、という声が上がりそうですが、当時の比叡山は僧兵を抱えた一種の仏教軍閥です。
そしてこれを討つ信長には、ちゃんとした大義名分が備わっています。

他方、Chinaという国は、権力者ないし軍事強者が弱者を虐殺、強姦、略奪するのは、むしろあたりまえの風習です。
秦の始皇帝の時代から、その歴史は繰り返され続けています。

暴れ出したら虐殺強姦収奪が当たり前のChina社会に対し、あくまで国家として軍は正々堂々とあるべきであり、
奉勅があってはじめて軍が動員されるという日本社会。
両者のこの違いは、さらに東亜を共倒れにして漁父の利を狙おうとする欧米諸国に付け入る隙を与え、政情をますます複雑なものにしていったのです。

──────────
第二次南京事件
昭和2(1927)年
──────────

第一次南京事件が、ある意味、堂々と南京城に攻め込んだ張勲一派が、城内で略奪等をほしいままに行った残虐な事件とするならば、この第二次南京事件は、その不法行為にさらに「騙し討ち」の要素が加わった悪質きわまりない事件です。

昭和2(1927)年3月24日の早朝、国民軍総司令の蒋介石が率いる北伐軍が南京城に入城しました。
China国家の独立、未来の民主政権の樹立を謳う蒋介石軍は、当初、きわめて平和裏に南京城に入城したのです。

ところが入城した蒋介石軍は、南京城内で反帝国主義を叫び、外国人居留区に乱入して領事館や居留地などを突然襲撃し、各国の領事らを暴行し、掠奪と破壊の限りを尽くしました。

この事件で、
 日本人1名、
 英国人2名、
 米国人1名、
 イタリア人1名、
 フランス人1名、
 他1名
の死者が出、さらに2名の行方不明者が出ています。

29日の東京日々新聞に、このときの模様が詳しく報じられています。
~~~~~~~~~
弓削南京特派員二十九日発

24日午前5時頃、
国民第二軍、第六軍、第四十混成旅団の
各軍から選抜された約2000名の決死隊は
南京南部の城門を押開き侵入して来た。
市民は各戸に「歓迎北伐軍」の小旗を掲げ
爆竹を揚げて歓迎した、

われ等在留日本人は
「南軍(蒋介石軍)が入った以上もう大丈夫だ」
と安堵の胸を撫でていた矢先、
6時半頃、平服隊や左傾派学生に手びきされた
約百余名の国民軍が
突如我が領事館に向って一斉射撃を行い、
餓狼の如く闖入して来た。

そしてピストル、銃剣を突きつけて、
第一に現金を強奪し、
眼鏡や時計、指輪をはじめ、
身に着けたものは着物まで剥ぎ取った。
入り代り立代り入って来る国民軍兵士。
それに勢を得た群衆まで交って、
手に手に領事館内の畳から便器、
床板に至るまで一品残らず持ち去った。

かくて領事館内は阿鼻叫喚の巷と化し、
居留民は数家族ずつ一塊りとなって
何等の抵抗もせず、
婦女子をかばいつつ身を全うするにつとめた。

国民軍の闖入と同時に(陛下の)御真影は、
金庫の中に奉安したが、
これを警護申上げていた木村警察署長は
第一番に右腕に貫通銃創を負い、
さらに右横腹を突かれた。

病気で臥床中の森岡領事は、
二回にわたって狙撃されたが
幸いに命中しなかった。
また根本駐在武官は
銃の台尻で腰をしたたか打たれた上、
左横腹をつかれ
二階から地上に墜落して人事不省に陥った。
~~~~~~~~~~

新聞記事にある根本駐在武官は、このとき乱入したシナ人集団に素手で立ち向かい、乱闘の中で眼鏡を奪い取られ、目が見えないままの状態で二階から飛び降りたところを、国民党軍の兵士に腹と足を刺されて重傷を負っています。

さらに日本領事館に侵入したChina人たちは、銃を突きつけて身体検査を行い、
「金を出さねば皆殺にする」と威嚇し、金品を強奪し、あろうことか領事夫人を強姦しています。

当時、南京城内に居住していた日本人は約500人だったのですが、その家屋は軒並み襲撃を受けました。
そして約200名が生死不詳となっています。

被害を受けたのは日本人だけではありません。
このとき英、米、仏その他の外国人全部が惨澹たる被害を受けました。

英国領事館では、チャイルズ領事が足に重傷を負い、領事館職員4名が射殺され、多数の負傷者を出し、米国は金陵大学長が射殺され、数名が負傷しています。

このことは当時、日本だけでなく諸外国で報道された事実です。

──────────
第三次南京事件
昭和12(1937)年
──────────

次に起こったのが、第三次南京事件です。
第二次南京事件からちょうど10年後の出来事です。
そしてこの第三次南京事件のあとに起こったとねつ造されているのが、いわゆる「南京大虐殺」です。

第三次南京事件には前段があります。
それが第二次上海事件です。

第二次上海事件については、以前このブログで詳しく書いていますので、ご興味のある方は、その記事をご参照ください。
◆第二次上海事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-780.html

概要をかいつまんで申し上げると、
まずこの年の7月7日に盧溝橋事件が起こっています。
事件の詳細については以前の記事にあります。
◆盧溝橋事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-710.html

当時のChinaは、清国政府が倒れて無政府状態になっていました。
しかも欧米列強の駐留に対し、一方には露骨な外国人排斥運動がありました。
諸国は治安維持と自国民の保護のためにChinaに駐留軍を国際協調で置いていたのです。

そうした中で、露骨な日本への挑発行為として起こったのが盧溝橋事件で、この事件のあと近衛内閣はChinaへの
華北地区への派兵を決定しています。

ただしこの派兵は、すでにChinaに駐屯していた兵力の移動だけで、内地からの派兵は行っていません。
つまりこの派兵は、あくまで戦闘の不拡大を目的としたChinaへの既存の派遣軍の移動にすぎないものだったのです。

ところが日本のこうした戦闘の不拡大方針を「甘い」と見て取った蒋介石は、すかさず北京で日本兵が乗っていたトラックを爆破し、日本人4人を殺害しました。

それでも戦闘不拡大を唱える日本の近衛内閣をさらに「甘い」と見て取った蒋介石は、
「日本の出方次第では徹底抗戦する」
とオダをあげています。

これは非常に政治的な言い回しです。
日本が戦闘行為を行わないと宣言したから、日本と戦うぞと宣言しているのです。
国際社会で「舐められる」というのは、こういうことを指します。

さて昭和12年の日本は、なんとかChinaとの和平の道を探ろうと外交上の努力をしていたのですが、盧溝橋事件のわずか12日後には、再び盧溝橋で今度は日本軍に対して一斉射撃が仕掛けられています。

さらに7月25日には、郎坊駅で国民党軍が少数の日本兵を襲撃するという事件が起こりました。
これが「郎坊事件」です。

7月26日には、国民党軍の「依頼を受けて」広安門付近の居留民保護に駆けつけた日本兵が、広安門で国民党兵に襲撃されるという「広安門事件」が起きています。
この事件などひどいもので、China側の市当局とちゃんと交渉して、居留民保護のために日本兵が26台のトラックに分乗して、現場に向かったのです。
城砦都市の門が閉められていたので、城砦側の国民党と交渉し、ちゃんと了解を得て門を開けてもらい、トラックを中に進ませたのです。
すると半分強のトラックが城門をくぐったところで、突然、城門が閉ざされたのです。

城門をくぐるトラックというのは、門の外で終結し、一台ずつ城門から城内にはいります。城内に入ったトラックは、後続車を待つために、門の内側に集結していたのです。

つまり、塀の高い城門の、中と外に日本兵の乗ったトラックが分断された情況で、突然城門が閉ざされ、城門の上やら、塀の上から、不意打ちに国民党軍が手榴弾や機関銃で猛射を浴びせてきたのです。

この事件で日本側は、兵士15名が死亡し、他に民間人の通訳、新聞記者など4名、合計19名が命を失っています。

そしてさらに3日後の7月29日に起こったのが「通州事件」です。
通州事件については、詳細記事を載せていますので、是非、一度お読みください。
◆通州事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.html

この事件では、北京にほど近い通州で、China軍が三千名の大軍で、過半数が婦女子だった日本人居留民420名を突然襲い、約230名を虐殺しました。
これにより通州特務機関は全滅し、女性は子供から老婆まで全員強姦され、裸体のまま膣部にほうきを刺すなどして殺害され、腹から腸を出されて殺害されている者、針金で鼻輪を通された子供、両手を合わせて針金を通されて結ばれ、10本の指を全部切断されている子供など、あまりにも酸鼻極まりない姿で嬲り殺しに遭っています。

ここまで日本を挑発すれば、日本はついにChina大陸に攻め込んでくるに違いない。
これを待ち受け徹底して日本を叩こうとする蒋介石は、ドイツから豊富な最新式兵器の供給を受け、上海に部隊を集結させたのです。

本来、当時の上海は昭和7年の多国間上海事変停戦協定によって、国際的に「非武装地帯」に指定されていたのです。
ところがドイツ軍によって指導された蒋介石軍は、日本軍を上海に上陸させ、ここで大殲滅作戦を展開しようと、上海の港から市街に至るエリアに、なんと2万カ所もの重武装したトーチカを築き、日本を待ち受けました。

そして8月19日午前10時半、上海商務館付近にいた国民党軍が、突然日本軍陣地に機関銃射撃を行って来たのです。
このとき、上海にいた日本軍は、海軍陸戦隊の4千名です。
これを包囲して機関銃を撃ち込んで来た蒋介石軍は、なんと5万の兵力です。

機関銃をめくら撃ちに撃ちまくる国民党軍に対し、それでも日本の海軍陸戦隊は応戦していません。
戦闘状態になることを防ごうとしたのです。
ですからChina軍の爆撃機が超低空飛行で、日本の陸戦隊を挑発したときも、日本側は対空砲火をしていない。

そんな日本軍の姿を見て、蒋介石軍は、午後4時54分には、市内各所の橋を爆破してしまいます。
日本軍の戦車などの援軍が来れなくなるようにし、日本海軍陸戦隊を孤立させるためです。
そして日本の海軍陸戦隊4千名を包囲し、猛烈な砲撃を開始してきました。

このままでは日本側は全滅してしまいます。
やむなく午後5時、大川内上海特別陸戦隊司令官は、陸戦隊全軍に戦闘配置を命令しました。

けれどChina軍は最新鋭の重装備の5万の兵力、包囲された日本の海軍陸戦隊はわずか4千の兵力です。
戦力差はあきらかで、このままでは4千の兵士全員が死んでしまうのは時間の問題です。

そこで8月22日、日本は、ここまできてようやく松井石根大将率いる上海派遣軍三個師団を、上海北部沿岸に上陸させます。
けれど上陸した上海派遣軍が海軍陸戦隊が立てこもる上海租界地まで到達するには、China軍が構築した2万個のトーチカ群を突破しなければなりません。
しかもChina軍の兵員は、中央軍の精鋭14~15師であり、トーチカはドイツ参謀部が詳細に検討して構築した、網の目状に張り巡らされた火点です。

それだけではありません。
China軍は、追加兵力を次々と投入し、ついにその数、60万の大軍に膨れ上がります。

松井石根大将は、その中でおよそ2ヶ月半果敢に戦い、死者2,528名、負傷者9806名というたいへんな損害を被りながら、ついにChina軍を蹴散らします。
そしてなんと11月9日までに、China軍60万の兵力のうち20万人以上を倒し、China軍をほぼ壊滅させてしまう。
そして11日までに、上海からChina軍を全員追い払ってしまいます。

ところがこのときひと悶着が起こります。
China軍は、退却の際に上海市内で徹底した掠奪、破壊、強姦をしぬいているのです。

China軍は、撤退する際には、掠奪や強盗・強姦を行うのが常態です。
あるフランス将兵によると、彼はChinaの住民側も掠奪されるばかりではなく、数で勝る住民側が国民党兵士たちを袋叩きにして殺害する光景を何回も見たと記録にあります。

また、Chinaの敗残兵によって、上海のフランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵や便衣兵らと、フランス人の警官隊が銃撃戦を行ったという記録もあります。
要するにこれらは事実なのです。

そして国民党兵士たちが去った後、上海の「英字新聞」には、次のような記事が載りました。
~~~~~~~~
国民党軍の撤退によって、
上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が非常に小さくなった。
我々は日本軍に感謝すべきである。
~~~~~~~~

こうして上海の治安は回復されました。
そして上海を追われた蒋介石以下のChina軍の兵士たちが、次に向かったのが「南京」だったのです。

China軍(China軍最強の訓練され最新式装備を施された正規軍)の兵士たちは、南京に向かって落ちのびる途中、民家を襲っては、略奪、殺戮、強姦をほしいままにしています。

11月25日の湖州での出来事を書いた記事があります。
湖州は、上海から南京に向かう途中の小さな都市です。
以下に引用します。

~~~~~~~
湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。
城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、
殆ど瓦礫の巷と化していた。
とくに商店街は影も形もなく、
処々に多数のChina兵の死骸が
生々しい姿で倒れ転がっていた。
誠に見るも無残な有様であった。

街には人影がみられない。
それでもどこからか若い女が3人でてきた。

我々の姿を見ると、
彼女らは我々を
ぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、
いち早くズボンを脱ぐと、
進んで下半身を丸出しにした。
助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。
我々は3名で巡察の途中で
思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。

一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。
それでも恐怖に怯え、
彼女ら3人はおののいて、
脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。
体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、
これに越したことはないと観念していたかに見えた。

また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、
下半身を露出して指さして示し、
何かわからぬ言葉を喋っていた。
China兵は逃亡の際、この女性に迫り、
拒絶されると腹を立て、
銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。
夥しい出血で苦しんで訴えている。
すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して
看護員を連れてきた。
さて助かったかどうか。

このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
~~~~~~~~

まことにもって痛ましい限りです。

上海に集結した国民党軍は約60万の兵力でした。
そのうち20万が我が軍に敗れて死傷し、残りの40万の兵力が南京方面に向かって逃走したのです。

逃走した国民党軍のうち10万は、途中の街に隠れ、追撃する日本軍と応戦し、5万が死傷し、5万が逃散しています。
そうして南京には30万の国民党軍がなだれ込んだのです。

武力を持たない南京市は、この敗残兵を城内に招き入れるしかなかったといいます。
国民党の正規軍なのです。
よもや非道はするまいと考えたのです。

その甘さが悲劇を招きました。
南京城内に入り込んだ国民党軍は、そこにいる市民の誰もが
「漢奸(日本びいきの人々を彼らはそう呼んだ)」に見えたのです。
そして南京市民を虐殺し出しました。

当時の南京市民たちは、
そういう国民党軍を恐れ、多くが南京市から逃げ出しました。
そして逃遅れた者たちは、国民党兵士に捕まり、ある者は虐殺され、ある者は城外のトーチカに縛り付けられ、またある者は強姦され、家屋には侵入して財物を片端から強奪され、挙げ句、市民の住むエリア全部に火をつけられ
一切合切を燃やされてしまいました。

そういうところに、12月4日、上海にいた松井岩根(まついいわね)大将率いる帝国陸軍中China方面軍12万が到着したのです。

到着した日本軍は、使者を送り、国民党南京守備隊に降伏勧告を行いました。
けれどなんの反応もないので、やむなく松井大将は、9日の正午に、南京城内に飛行機で和平開城勧告文のビラをまいています。
そして10日の午後一時まで、投降を待ちました。
けれど、城内からは、何の回答も反応もなかったのです。

南京城を囲んだのが12月4日です。
そしてこの日が10日です。
もう6日も待ったのです。

その間、南京城の城外では、一部の国民党兵士からの発砲もあったし、便衣兵(民間服を着て、民間人を装ったChina兵士)による執拗な攻撃も受けています。

けれど松井大将は、待ちました。
つまり松井大将は、6日間もの間、南京城に立て篭もる国民党に対し、和平と降伏の呼びかけを続けたのです。
戦場において、これほどの相手に対する誠意はありません。

そこまでして、それでもなんの反応もないから、やむなくこの日の午後から、日本軍は総攻撃を開始したのです。

日本国内では、松井大将が4日に南京を囲んでいるのだから、もうとっくに南京城は陥落したものだろうと、なんと11日には、全国的な南京陥落の祝賀行事などが行われています。
けれどその日は、現場ではまだ南京城外で、激しい攻防戦が行われている最中でした。

そして13日、南京城は陥落し、日本軍が南京城内に入城しました。
入城した日本軍は、兵を城内の左右いっぱいに横一列に並べ、城内を前進しました。
城内の敵の掃討のためです。

この「城内を横一列で」という部分には注意が必要です。
本来なら城内には民家が建ち並び、横一列での行進は無理なのです。
けれどそのときの南京城内は、民家がすべて焼き払われ、焼土と化した状態にありました。
だからこそ日本軍は、横井一列による前進ができたのです。

こうして東西と南から城内に入った日本軍に対し、国民党軍の兵士たちは南京城の北側の下関と呼ばれる門から、いっせいに逃げ出そうとしました。
そこは南京城が揚子江と接しているところで、川を渡って逃げ延びようとしたのです。

ところが川に浮かんでいた筈の船は、総大将の蒋介石や、
南京城の防衛司令官だった唐生智らが、戦いの最中にそくさくと逃げ出した際、後ろから日本軍が船で追いかけて来たら困るからと、そこそこの大きさの船は、みんな底に穴をあけて沈めてしまっていました。

つまり、下関には小舟しか残っていなかったのです。
そこに国民党の兵士たちが逃げようとして押し寄せました。

船に乗れずに舷側に捕まろうとする者、多人数が舷側につかまったら船が沈んでしまうからと、そのつかまる仲間の手を切り落とす者、すさまじい地獄絵図となりました。

一方日本軍は、13日から15日までの3日間、城内掃討(ほとんど戦いらしい戦いはない)を実施して、城内の平穏を確保したあと、17日に陸海軍合同で南京城入城式典を行っています。

当日は南京の避難民たちにも、お菓子や煙草が支給され、町中が笑顔と万歳の声にあふれました。
このときの写真は、いまもちゃんと残っています。
いったいどのへんが大虐殺なのかと言いたくなります。

さらに18日には、両軍の死者を弔うための合同慰霊祭を行い、敵味方の区別なく慰霊を捧げています。
このあたりも、実に日本の武士道精神の発露です。
そしてその翌日には上海派遣軍の各部隊は、部隊毎にそれぞれ他の戦闘地域への移動を開始しています。

また日本軍の入城によって治安が回復した南京城には、もともとそこに住んでいて城外に避難していた避難民たちが続々と帰って来ています。
そうして帰還したChina人たちに対し、日本軍は無償で医療を施し、食事を与え、子供達にはお菓子まで配っています。
南京城に、笑顔が戻ったのです。

この昭和12(1937)年の南京事件において、日本軍による南京大虐殺が行われたと主張する者たちは、12月13日の日本軍の南京入城直後から、約6週間にわたって日本軍が無辜の市民30万人を大量虐殺したと主張しています。

けれど攻城戦が行われる前の時点で南京にいた市民の数は20万人。
戦闘開始前に、市民の多くは城外に避難し、日本軍の入城後に城内に帰って来ています。

そして近隣の都市からも安全と安心を求めて避難民が集まり、南京の人口は25万人に膨れ上がりました。
どこでどうやったら、そこで30万人の虐殺が行われたことになるのか、さっぱりわかりません。
要するに日本軍による南京虐殺など「なかった」のです。

──────────
第四次南京事件
昭和24(1949)年
──────────

昭和12年の日本軍の南京城入城によって治安が回復した南京市では、日本軍に勤務する若い女性が、ひとりでショッピングのために市場に出かけても、まったく安全で、豊かな経済生活が行われる普通の街に戻りました。

当時南京にいた方々のお話を聞くと、戦時中、内地(日本国内)では食事が制限され、国民はひもじい生活を余儀なくされていたと聞いているが、自分たちは食べ物も豊かで、明るく安心な南京生活を楽しむことができて、なんだか申し訳ない気がする、などとおっしゃいます。
これは私が実際にその当事者から聞いた話ですから、間違いない事実です。

けれどそうした治安の保たれた南京市も、大東亜戦争の終戦によって様相が一変します。
第四次南京事件が起こったのです。

昭和20(1945)年8月15日、日本は大東亜戦争における戦闘行為を終結させました。
これに先だつ8月14日、蒋介石率いる国民党は、中ソ友好同盟条約を締結しています。
要するに日本と対立するために、ソ連と同盟関係を結んだわけです。

この頃の蒋介石軍は、米英から軍事物資等の豊富な援助を得ていました。
米英にとって、人種の平等、民族の自立を主張する日本は、白人種が有色人種を支配し収奪する
植民地主義を維持するにあたり、ひらたくいえば「邪魔な存在」だったのです。
だから同じく有色人種であるChina人の蒋介石に武器弾薬、食料、資金を与え、双方を疲弊させる戦略を採っています。

おかげで蒋介石率いる国民党は、連合国の一員であり、戦後は戦勝国として高い地位を与えられ、東京裁判においても判事を出す国となっています。

ところが、ではこの当時において、Chinaが蒋介石率いる国民党軍によって成立する「国家」であったかというと、かなり疑わしいものです。

当時のChinaには、南京に汪兆銘を首班とする南京政府があり、China奥地には毛沢東率いるChina共産党があり、
三者がそれぞれ、我こそは正当なChinaの国家政権であると主張していたのです。
そして戦争が終わりました。米英が蒋介石に支援物資を与えていたのは、あくまで日本と戦うためです。

あたりまえのことですが、日本が戦争を終わらせれば、蒋介石は用済みです。
ですから終戦とともに蒋介石のもとには米英からの援助物資が途絶えてしまう。
数十万の兵を養わなければならない蒋介石にとって、兵を養うカネがないというのは、まさに党の死活問題です。

一方、終戦直前に満州に攻め込んだソ連は、終戦にともなって日本軍の武装解除によって日本軍から得た銃器や弾薬が大量に余っていました。
その銃器弾薬を、ソ連は毛沢東率いるChina共産党軍にまるごと引き渡します。

すでに補給を失った蒋介石軍、突然豊富な補給物資を得た毛沢東軍、両者はあちこちで戦い、毛沢東側が圧勝します。
蒋介石は追われ、ついに南京に向かって逃げ出しました。

南京には、戦時中、汪兆銘率いる南京政府がありました。
この南京政府は親日政権で、おかげで南京は戦時中、ずっと豊かで平穏な社会を維持することができていました。
要するに、蒋介石にとって、豊かな南京に行けば、失った米英からの援助に代わる富を得ることができるというわけです。

こうして蒋介石は再び南京に攻め込みます。
そして南京市民から再び収奪を行ないました。

さらに前年の昭和19年に亡くなっていた汪兆銘の墓をあばき、遺体を焼き、さらに彼の一族50余名を逮捕して虐殺すると、その遺体をゴミとして廃棄しています。

また親日的だったChina人たちを次々と殺害し、婦女を暴行しました。
そして資産家の家に乱入し、戦時徴発と称して金品をさかんに巻き上げています。

けれど、南京市民にとって、まだ汪兆銘憎しと目先の利益を追求した国民党軍はまだマシだったのです。
事件はその後に起こったのです。
国民党軍の乱入によって南京の街は荒れ、市民が疲弊しているところに、今度はその国民党軍を追ったChina共産党軍がやってきたのです。

この時点でろくな武器を持たない国民党軍は、共産党軍がやってくると算を乱して逃げ出しました。
その後に共産党軍が城内に乱入してきたのです。

乱入した共産党軍にとって、南京市民の全部が敵です。
彼らは市民を、国民党に協力したとして次々と殺害し、通州同様に南京市民を虐殺し、収奪し、婦女子を強姦し、殺戮しました。

なにせ共産主義者たちにとって、普通の経済生活を行う市民はブルジョアであり敵なのです。
そしてブルジョアから富を奪い、それを共産主義者たちに分配することが、彼らにとっての正義です。

奪うものは財物だけではない。
人としての尊厳や貞操、生きる権利の全てが否定の対象となりました。

この第四次南京事件における死傷者の数は、10万人とも15万人ともいわれています。
南京市民の3人にひとりが殺害されたのです。

いまだに日本には、共産主義は平和主義であり、中共政府は平和を希求する政府であると本気で思い込んでいる日本人がいます。
けれど、戦後75年、この間に中共が起こした戦争行為は、主なものだけでも19回に及びます。
そこで彼らが虐殺した人の数は、いったい何千万人に及ぶのでしょうか。

日本が大東亜戦争で失った将兵の数、あるいは広島、長崎に落とされた原爆で、あるいは空襲や艦砲射撃で失った人命の数十倍ではきかない人の殺害を、彼らは続けてきました。

南京事件だの虐殺だのという議論になったら、みなさまにお願いがあります。
それを言う方に対して
「どの南京虐殺事件のことなの?」
と質問していただきたいのです。

そうして事実をきちんと調べ上げれば、日本軍による南京大虐殺など起こりようがなかったし、実際には同じChina人による南京に住むChina人への虐殺、暴行、陵辱、収奪、強姦、殺戮の歴史がおのずとあきらかになってくるからです。

尚、本件について、アネモネさんのブログ「東アジア黙示録」でも詳しい紹介が出ていますので、
是非ご参照ください。
http://dogma.at.webry.info/201203/article_1.html


(参考)◆中共が戦後行った戦争行為◆
1949年 東トルキスタン侵略、占領(ウイグル大虐殺)、民族浄化継続中
1950年 大躍進、文化大革命3000万人大虐殺開始
1950年 朝鮮戦争参戦
1951年 チベット侵略、占領(チベット大虐殺)、民族浄化継続中
1959年 インド侵略(中印戦争)アクサイチン地方を占領
1969年 珍宝島領有権問題でソ連と武力衝突
1973年 中国軍艦が佐渡島に接近、ミサイル試射
1974年 ベトナム、パラセル諸島(西沙諸島)を軍事侵略、占領
1976年 カンボジア、クメール・ルージュによる大虐殺を強力支援
1979年 ベトナム侵略(中越戦争)、中国が懲罰戦争と表明
1988年 スプラトリー諸島(南沙諸島)を軍事侵略、占領
1989年 天安門事件
1992年 南沙諸島と西沙諸島の全てが中国領土と宣言
1995年 フィリピンのミスチーフ環礁を軍事侵略、占領
1996年 台湾総統選挙恫喝、台湾沖にミサイル攻撃
1997年 フィリピンのスカーボロ環礁の領有を宣言
1997年 日本の尖閣諸島の領有を宣言
2003年 スーダンのダルフール大虐殺を強力支援
2005年 日本EEZ内のガス資源を盗掘


※この記事は2012年3月の記事の再掲です。
お読みいただき、ありがとうございました。


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コメント

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南京事件が4回もあったなんで、初めて学びました。

ただこの、ねずサンの真実の歴史の授業の、今回の件を学んだ事で、

このような歴史戦は、1カ国だけでは鎖国しないと勝てないと分かりました。
とても残念な事です。

(本当の)南京事件の被害者は、日本人だけでなく英米仏など白人もいるのに、これら3カ国はCCPのねつ造史観を、こと南京ねつ造事件を非難しているニュースなど見たことがありません。

当時ですら、日本外交は弱腰なのに、今の日本の政治家に、南京事件や、いわんや竹島・北方領土・拉致被害者の事件が解決できましょうか。
とても残念な真実です。

マハティール氏も首相をやめられ、李登輝総統も同じく高齢。日本人よりも日本人である東南アジアの雄たちも、さぞ、やり切れない想いで安倍晋三を見ていることでしょう。

しかしながら、
他国の歴史戦の事例では、近年ようやく、英国とベトナムで、ライダイハンの追及が起こったりしてはおります。

かたや、米中経済戦争が起こっております。世界がようやく特亜三国の人間でない性質に目覚め始めております。

これらの時流の中で、いつかは我々の英霊さま達の想いが世界に伝わる事を願ってやみません。

にっぽんじん

ボーダーライン
宝塚歌劇が休演期間が終わり公演を再開しました。
そのことを批判するものではありません。
武漢コロナ肺炎対応で来場者の体温測定を行い、7.5度を超える人の入場は断ると書いていました。

7.5度は感染疑いのボーダーラインとして政府も出しています。
しかし、人の体温は個人差があり、7.5度が発熱の境界値とは言えないはずです。低体温の人の体温は5度台です。

体温が低い人にとっては7.5度は高熱です。
7.5度一律のボーダーラインだけでは感染者が入場するリスクは避けられません。良い方法はないものでしょうか。

自分の平熱を知っておくことは大事です。

kinshisho

現在の中国の大惨事は日本に手を出した罰なのだろうか?
 こんにちは。

 現在の中国の惨状を見ていると、これまで犯してきた罪に対する罰なのかもしれないと思うところはあります。
 もしもですが、あれでも日月神示の預言を中国共産党がきちんと解釈して信じていたら、案外ここまでの惨状もなかったように思うのです。
 日月神示というと中矢氏が有名ですが、その中矢氏も、大難は小難に変えることができると言っているように、中国がある程度自重していれば現在のような大難に遭遇することもなかったかもしれません。
 で、現在日本を覆う惨状は、これでも小難なのかもしれないですし、一方中国を覆う大惨事は間違いなく大難でしょう。
 まさか、ここにきて日本に手を出した国は必ず亡びるの法則が発動しているのだろうかと思ったり。しかも、今回が中華人民共和国終焉の始まりであるなら、中国を統一した歴代王朝の中でも有り得ない程の事態に見舞われようとしているのです。
 しかも現在の中国は曲がりなりにも経済成長しているが故、受けるダメージもハンパない。もしも毛沢東時代の中国だったら皮肉ですが貧しかったが故に案外ダメージも大したことはなかったかもしれません。
 ちょっと変な言い方になりますけど、貧乏人は失うものがないが故に何かあってもスッころんで運が悪ければ死ぬ可能性がありますけど、大半はかすり傷程度ですが、金持ちは失う物が大きく、それはまさに高い崖から突き落とされるようなもので、余程運が良くない限り高確率で死にます。
 今の中国はまさにその状態と言えます。先進国も考えようによっては危ういものですが、中国はあまりにも基盤が脆い。
 今の所武漢肺炎は中国では感染者の増加は鈍っているようですが、パンデミックはスペイン風邪のようにいくつかの波があり今後も油断はできず、しかもマズいのが例え回復しても再発するケースが相次いでいること、再発した場合の致死率が高いことなど、中国にとっては憂慮すべき事態に変わりはなく、そして早ければ僅か三ヶ月後にも蝗害が迫っています。
 これは個人的な推測ですが、中国にとっては武漢肺炎以上にこの蝗害の方が致命傷のように思えます。
 というのも、パンデミックは発症地の封鎖や隔離など、まだ対処の余地があるのに対し、蝗害によって発生する飢饉へのトラウマは中国人にとってDNAレベルで刻み込まれたものであり、僅か一日食糧が手に入らないだけでも中国人は間違いなくパニックを起こしかねません。
 実際、数年前でしたか、私の近くに住んでいた中国人が給料の振込日を間違えてあと一日だったにも関わらずカネも食糧も尽きてしまったと言ってきたので已む無くコンビニ弁当とスナック菓子を買ってきてこれでどうにか一日凌がせたことがあるので、その経験から蝗害にでも遭遇すれば間違いなく中国全土が大パニックになると思うのですよね。
 因みに、もしも食糧が尽きたら深夜2時頃に近くのコンビニ行って廃棄弁当もらうなりしろとも言いましたけど。
 その中国人も2年くらい前にカネが溜まったので契約終了と共に故郷に帰ったのですが。確か雲南省の出身だったとか言ってたので、蝗害が入ってくる候補ルートの一つじゃないかと戦慄しております。
 で、最悪の事態には最悪の事態が重なるもので、今後三年以内に三峡ダム崩壊が起こるだろうと思います。そうなれば中国共産党の崩壊は確実です。
 更に、現在はイタリアを中心に欧州にも感染は拡大傾向にあり、イタリアは全土の封鎖に踏み切りましたけど、未だEU圏内の国境を封鎖したという話は聞かないので、その上ドイツでも感染者が増加傾向にあることを考えるとEU圏内にも拡大するのは時間の問題で、EUも崩壊に見舞われるかもしれません。
 それは同時にグローバリズムの終焉でもあります。
 間違いありません、これは日月神示の言うグレンの始まりなのです。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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