【緊急告知】
3月20日に開催を予定しておりました第70回倭塾は、新型コロナウイルスの問題から、まことに残念ながら開催を中止とさせていただきます。
3月6日 小名木善行何が正しくて、何が間違っているのかなど、人の身にわかるものではありません。 ですからこの世でできることは、その時点において自分なりにできる精一杯の誠を尽くしていくことしかありません。 福井文右衛門は、出間村水路と、村の幸せを、自分の命と引き換えました。 戦時中、勇敢に戦い散っていかれた英霊たちは、日本の未来と自分の命を引き換えました。 同じ心がここにあります。 |

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福井文右衛門(ふくいぶんえもん)藤堂高吉(とうどう たかよし)の家臣です。
藤堂高吉は江戸時代前期の武将です。
もともとは丹羽長秀の三男です。
それが、秀吉の朝鮮征伐のときに加藤清正らと並んで武功をたてた藤堂高虎の跡取りとして養子になっていたのです。
ところが藤堂高虎に実子・高次が生まれたため疎んじられるようになり、さらに家中でささいな騒動を起こして蟄居処分となってしまいます。
その後、慶長11(1606)年、高吉は許されて江戸城の普請を務め、このときの功績から、藤堂高虎が治めていた伊予今治の城代に任じられました。
慶長19(1614)年には、大坂夏の陣で徳川方の武将として参戦し、長宗我部盛親隊を相手に奮戦し、武功をたて、寛永13(1636)年には、伊賀国の名張に移封されて、名張藤堂家1万5千石の大名となりました。
福井文右衛門は、その藤堂高吉の家臣で、高吉が名張に移封されたときに、伊勢領の出間村(現、松阪市出間村)のあたり一帯を治める代官に任ぜられた人です。
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今も当時のまま残る文右衛門水路

当時の出間村は、土地は肥沃(ひよく)でした。
けれど水路がないために、農業は天水(雨水)だけにたよるほかありませんでした。
ですから日照りが続く年には、米を採ることができません。
だから出間村の農民は、とても貧しくて、どの家もオカラ飯を食べて暮らす他ありませんでした。
福井文右衛門は、代官に就任してすぐに村々を視察してまわり、そんな村の実情を知りました。
「なんとかしなければならない」
いろいろ調べてみると、出間村のあたりは、櫛田川の流域にあたるのだけど、土地が川面よりも高いために、川の水を引くことができないでいるのだ、ということがわかりました。
水を引くためには、上流の下機殿(しもはたでん)の東の方から真っすぐに水路を掘る以外にありません。
ところが、ここに大きな問題が立ちはだかっていたのです。
それは、「下機殿は伊勢神宮の御神域である」ということです。
「御神域は草木一本動かしてはならない」というのが、大昔からの「しきたり」です。
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慶安3(1650)年5月20日、福井文右衛門は、夕方、代官所に出間村の村人たちを全員集めると、
「下機殿から東へ真っすぐに水路を掘れ」と命じました。
村人たちはびっくりしました。
「それはなりません。あそこは神宮の御神域ですだ」とためらいました。
福井文右衛門は、堂々と笑顔で、
「だいじょうぶだ。おまえたちに難儀がかかることはない。安心して工事を実行すればよろしい」と、重ねて水路工事を村人たちに命じました。
お代官様が、掘れと命じているのです。
「ということは、お代官様は、なんらかのカタチでお殿様や神宮と折り合いをつけてくださったにちげえねえ」
村人たちは納得し、村中総出で、水路を掘りはじめました。
「この水路さえできあがれば、オラたちだけじゃねえ、女房子供どころか、これから生まれてくる赤ん坊や、未来の子供たちまで、みんな腹いっぱい食えるようになるだ。もう飢えに苦しむことはねえだ。」
村人たちの腕には、自然と力がはいりました。
そしてなんと村人たちは、徹夜で水路を堀り、なんと一夜で水路を完成させてしまったのです。
*
明け方、ようやく水路は完成しました。
最後の堰(せき)を切ったとき、水が音を立てて水路に流れ出しました。
水がなく、貧しかった村が、豊富な水に支えられる豊かな村へと出発した瞬間です。
みんなの歓声があがりました。
泣き出す者もいました。
そんな涙を、泥だらけになった手でぬぐうものだから、顔が泥だらけになりました。
「おめえさ、顔がひどいことになってるぞ」
「何言うか。おめさの顔の方が、もっとたいへんだ」
くしゃくしゃになった顔に、笑顔がこぼれました。
ところが、先ほどまで工事の監督と励ましのために、笑顔で一緒にいてくれたお代官様の姿が見えません。
お代官様の尽力で、やっと完成した水路なのです。
何をおいても、お代官に知らせなくてはと、村人たちは代官所に向かいました。
するとそこには、代官福井文左衛門の割腹して果てた姿があったのです。
たとえ村人たちのためとはいえ、御神域を侵すのは重罪です。
本来なら、罰(ばつ)は藩主にまで及ぶ。
福井文右衛門は、腹を切ることで、すべての責任を一身に負ったのです。
近くには文右衛門の遺書がありました。
そこには、
「今朝、流したあの水は、この文右衛門が命に替えて出間村へ贈ったものである。孫子(まごこ)の代まで末長く豊作とならんことを」と書かれていました。
*
事件から360年経った今でも、出間村の人々は、文右衛門の命日に、欠かさず村人一同で供養の法要をしています。
そしてまた伊勢神宮も、下機殿の東の隅(すみ)に、福井文右衛門のために、大きな顕彰碑(けんしょうひ)を建ててくれています。
文右衛門は、いまも立派に出間村に生きているのです。
*
江戸時代のお大名やお代官のことを書いて置かなければならないと思います。
よく、江戸時代の大名を、大陸風の「封建領主」と勘違いする人がいますが、まったく違います。
大陸における「封建領主」は王様です。
その王様は、領内の領土領民のすべてを私有しています。全部自分ひとりのものです。
ですからたとえば、領民にとって、可愛い奥さんは夫の所有物です。けれど夫は、王の所有物です。
ですから王が「お前の奥さんは可愛いから俺によこせ」と言ったら、夫は妻を王に差し出さなければなりません。
「そんな横暴な!」と思うかもしれませんが、王が現実にそんなことをしても、どこからも苦情は来ない。
それが王による統治とされていたからです。
さからえば殺されるだけです。
これは、王から地方の統治を委ねられた貴族も同じで、貴族は王から統治権を委ねられていますから、その地域では貴族は王の代理人です。
王の代理人ですから、王権と同じく、領土領民を私的に支配します。
ですから領民の財産は、すべて貴族の財産です。
こうした、いわば収奪のための体制が、ChinaやKorea、あるいは西欧における王や貴族の支配のカタチでした。
これに対して日本では、名張藩1万5千石の領主となった藤堂高吉も、天子様(天皇)という我が国最高権威が「たからもの」として保有する領土領民を、天子様から親任されて統治するという立場をとっていました。
ですから大名も、福井文右衛門のようなお代官様も、その存在意義は、どこまでも「領民のためにこそある」という考えです。
ですから知行(ちぎょう)を受けた地域のために、大名や代官は、地域の産業を興したり、あるいは農地の開墾をしたり、あるいは農作物を運ぶための水路を切り拓く、あるいはその面倒をみる(メンテナンスする)ことを、大きな使命としていました。
大名や代官の統治は、大名や代官が贅沢をするためにあるのではなく、どこまでも領土領民たちのために尽くすことにこそある、とされたのです。
そしてそれこそが、当時の日本の常識でした。
ウシハクだけの統治と、ウシハクを内包させたシラス統治との、天と地との開きが、ここにあります。
福井文右衛門の行動は、こうしたシラス統治を前提とした社会の中に生まれているからです。
そして統治の根本に天子様(天皇)の存在のありがたさがある、ということは、その天子様のご先祖を祀る伊勢神宮は、まさに日本の最高権威の聖域であるわけです。
だからこそ、その御神域内からは毛筋一本動かしてはならないとされていたのです。
福井文右衛門の行動は、正か邪か、と問われれば、間違った行動です。
社会の秩序を乱す行為だからです。
ですから、福井文右衛門以前の出間村の代官たちが、それまで放置してきたことの方が、むしろ正しい行動ということができます。
だから米ができない。
その代わり、年貢が免除されていたのです。
このように書くと、みなさまはたぶん、ご納得されないと思います。
なぜなら福井文右衛門の行動に、勇気と愛と正義と涙を感じるからです。
現に、福井文右衛門の命に代えた行動は、村の人々を助けました。
それどころか、その後の出間村の発展を考えれば、どれだけ多くの命を救ったことになるか、計り知れません。
要するに、何が正しくて、何が間違っているのかなど、計り知れないし、わからないということです。
この世には、根本的な悪が存在します。
悪意や我儘によって、他人を平気で蹂躙する。
川崎の中1児童殺害事件など、その典型です。
ただ、そういうものではなくて、公的なものになればなるほど、何が正で、何が邪か、なんともいえない、わからない事柄が多くなります。
たとえば、戦を無くすために戦をする。
正義はどっちなのか、わからないことが多いです。
どっちも「正しい」と思っているから戦いになるのです。
結局、この世で私たちにできることは、その時点において自分なりにできる精一杯の誠を尽くしていくことしかないのです。
そしてその「誠」の延長線上に、福井文右衛門の業績があります。
福井文右衛門は、出間村水路と、村の幸せを、自分の命と引き換えました。
戦時中、勇敢に戦い散っていかれた英霊たちは、日本の未来と自分の命を引き換えました。
同じ心がここにあります。
もうひとつ、大切なことを書いておかなければなりません。
福井文右衛門の死が多くの人に感銘を与え、文右衛門の遺書によって、藤堂家や水路を掘った出間村の人々にもその咎(とが)が及ばなかった理由です。
それは、福井文右衛門という人物自身が、生前より身を律し、善行を行い、真面目に一生懸命誠実に生きていたこと、そして藩主である藤堂高吉も、若い頃から苦労を重ね、生真面目に生きてきたことを、誰もが知っていたからです。
平素から何事につけ権柄ずくで横柄な人柄や家中であれば、誰も藤堂家を守ろうなどとは考えないし、福井文右衛門の死も、行き過ぎた行為としてのみ裁かれたことであろうと思います。
つまり結局は、平素からのその人の生きざまこそが、いざというときにものを言う。
そういうものであるということです。
何が正義かなど、神の身ならぬわたしたちには、わかりません。
けれど、これだけは言えようかと思います。
それは、今を生きている私たちは、福井文右衛門や英霊たちと同じように、誠実と誠意に生きた命の連鎖の上に、今を生かされているということです。
そしていまを生きるわたしたちには、自分が幸せになっていくことを求めるだけでなく、過去の先人たちが築いてくれた日本を守り、未来の日本を切り開いていく責任と役割が、課せられているということにあります。
福井文右衛門の生き様は、たいせつな何かを今も、人々に語りかけてくれています。
※この記事は2011年2月の記事をリニューアルして再掲したものです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
翠子
2020/03/15 URL 編集