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たいせつな人をおもう、その心に、洋の東西も国境もありません。 民族の違いもありません。 そして、たいせつな人を「おもう」という、その心を、この時代の日本人は「愛」と呼びました。
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武漢ウイルスが問題が話題をさらっていますが、これからの日本がいかにあるべきかを考えるにあたって、平安文化について考えてみたいと思います。
平安文化といえば、源氏物語の紫式部や、枕草子の清少納言など、数々の女流歌人が輩出され、我が国が平和と繁栄を実現した、文化の香り高い、たいへん素晴らしい時代であったとされています。
まさに我が国の黄金の時代、平和と繁栄、そして美学と安定を実現した時代ともいわれます。
ところがその平安時代、平安初期に書かれた『新撰姓氏録』を見ると、なんと国内人口の3分の1が渡来系の外国人の家系であったことがわかります。
いまの日本は、1億2千万の人口中、外国人は1%にも満たない、あるいは犯罪の発生率が極端に高い特定国の人たちの割合に至っては、0.1%でしかないにも関わらず、ほぼ日本が乗っ取られたともいえる状況にあり、もとからいる日本人の生活の安定も安全も豊かさまでも奪い取られているといえるような状況に至っているといわれます。
人口の3分の1が外国人であっても、日本的な文化が爛熟した時代と、人口のわずか0.1%の外国人によって、国柄から政治までもが壟断されて日本らしさが失われている現代と、では何が違うのでしょうか。
その答えは、「日本とはどのような国柄の国家であるのか」が、明確な形をもって人々のアイデンティティを構成していた時代と、そうでない時代の違い、とはっきりと断言できようかと思います。
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平安時代の前にあったのが奈良時代ですが、その奈良時代に公開されたのが日本書紀です。
日本書紀が元正天皇に献上されたのは西暦720年のことですが、日本書紀はその翌年から、貴族の子女たちの教科書として用いられるようになり、さらにこれが拡大して、日本全国が日本書紀によって国史の教育がなされるようになりました。
このことは、なんとつい75年前の終戦まで、実は我が国において続けられていたことです。
その日本書紀は、我が国の成り立ちから、歴代天皇がどのようにして日本という国を築いてきたのか、そして数々の難局にあたって、それをどのようにして乗り越えてきたのかが、わかりやすいストーリー仕立てで学べるように工夫されて書かれています。
これが教育の基礎にあったのです。
そして日本書紀を通じて、日本とはどのような国であるか。日本人であるということはどういうことなのか。また、この災害の多発する日本に住み暮らすためには何が必要なのかを、誰もが明快に学んで行ったのです。
これにより、たとえ血筋が外国人であったとしても、日本人であること、日本人に同化することこそが幸せなことであり、もっというなら、みずから進んで日本人化することこそが、自分自身にとっても幸せなことという常識が渡来系の人たちにあっても、理解され、行動されることになっていったわけです。
もしかすると・・の話ですが、平安初期の時代の超絶美女といえば小野小町が有名です。
その小野小町は、もともと秋田の名家である小野氏の出ですが、この時代の秋田は日本海をはさんだ向こう側にある渤海国と金(GOLD)での交易を盛んに行っていました。
当時のウラジオストクは、渤海国の東京龍原府と呼ばれる港町でしたが、そこには遠くオスマンの大帝国の商人たちが多数やってきていました。
彼らの土地は砂漠地帯なので、砂漠に落雷があるとそこにガラスができます。
そのガラスを集めてガラス製品を作り、これを交易の材料にしていたわけです。
一方日本は金(GOLD)を多く産出しましたし、この時代はまだ貨幣経済が未発達でしたし、砂金は東北地方の川ではいくらでも取れるただの金色の粉です。
ところがこれを東京龍原符まで持っていくと、中東商人にとっては、一生遊んで暮らせるほどの黄金と、自分たちのガラス製品を交換できる。
つまり、相互にメリットがあったわけです。
当然のことながら、なかには日本にまでやってきて、日本に住み着いた中東の人もいたことでしょうし、そのまた逆も多数あったと思います。
トップの絵は、トルコ美人と秋田美人ですが、似ているといえばよく似ています。
要するに中東系の血がまじることによって秋田が超絶美女の産地となり、その秋田からやってきた一族の美女が小野小町であった(かもしれない)というわけです。
その小野小町が詠んだ歌です。
思ひつつ寝ぬれば人の見えつらむ
夢と知りせばさめざらましを
うたたねに恋しき人を見てしより
夢てふものはたのみそめてき
うつつにはさもこそあらめ夢にさへ
人めをもると見るがわびしさ
かぎりなき思ひのままに夜も来む
夢路をさへに人はとがめじ
たいせつな人をおもう、その心に、洋の東西も国境もありません。
民族の違いもありません。
そして、たいせつな人を「おもう」という、その心を、この時代の日本人は「愛」と呼びました。
愛は、全てに通じます。
人を愛することができる人は、国も愛せるし、世界をも愛することができます。
なぜなら小野小町自身、日本を愛し、あるいは日本の文化を愛し、そして人を愛する女性であったからです。
ただ見た目が美しいだけではないのです。
文化の薫り高い、中身のある女性であったのです。
だから小野小町は本邦最高の美女とされたし、後世の人々から愛され続けたのです。
小野小町が中東系の血筋を実際に持っていたかどうかは別として、たとえ出自がどのようなものであれ、つまり外国からの帰化人であったり、その二世、三世であったとしても、よりよいものを共有し、よりよい文化の一員となって同化したいと思って誰もが行動する社会の一員として同化するなら、それはもはや日本人です。
なぜそうと言えるかといえば、その正反対である、憎しみや恨み、あるいは文化の否定、ないしは実際にはありもしないファンタジーや軽蔑、軽侮、支配と隷属の上下関係などを軸にすれば、女流歌人による文化花咲く平安時代など、起こしたくても起こらないものであったことでしょう。
あるいはその時代を後世から観たとき、あまりにも軽薄でつまらない時代であり人々となっていたでしょうし、おそらくは歴史に残ることもなかったことでしょう。
けれど昨今の日本が、まさにそのようになっているとはいえないでしょうか。
わずか0.1%の人たちの、ありもしない恨みとファンタジーによって、多くの日本人が日本を見失っているのでは困りものです。
だからこそいま日本書紀が重要です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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