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《はじめに》 女性は慈愛を根本とし、男性は戦いを根本とします。 慈愛のもとに勇猛な男性が置かれれば、先ず慈愛を根本とし、その上で勇猛が発揮されます。 勇猛のもとに慈愛を置けば、残虐な戦いの後にしか、慈愛は発揮されない。 そういう意味では、家庭においても職場においても、実は女性が上に立った方が、世の中は安定するのかもしれません。 このように書きますと、すぐに「ねずは女性天皇容認論者だ」のようなことを言い出す人がいますが、あくまで皇位は男系男子、男系女子でなければならないということが最優先ですので、その点は誤解のなきよう。 |
政府発行の紙幣になっていた神功皇后

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先だって「マルチバース(多元宇宙)と時間軸のお話」の記事の中で、神功皇后(じんぐうこうごう)について、少しお話したので、今回は、その神功皇后(じんぐうこうごう)について、もう少し詳しくお話してみようと思います。
神功皇后は第14代仲哀天皇の正妻だった方です。
夫の御在位中に、熊襲の反乱があり、その反乱鎮圧のために夫の仲哀天皇が熊襲征伐を行おうと、朝廷の高官達と相談しているとき、突然、神功皇后が神がかりになって、「新羅を攻めよ」との御神託を述べるのです。
理由は、新羅の国が金銀財宝に恵まれたたいへん豊かな国だからという。
けれども実際の新羅は、極めて貧しい国です。
貧しいから、よその国の物を奪ったり、泥棒したりを繰り返しているわけです。
加えて金銀財宝は、倭国の方がはるかに豊富です。
つまり、誰がどう考えても、その時点で倭国が新羅を滅ぼして併呑する理由がない。
ですから仲哀天皇も、朝廷の高官たちも、神功皇后のこの神がかりによる御神託を無視します。
そして熊襲征伐に乗り出すのです。
ちなみに熊襲は、この後も度々反乱を起こしていますが、これには理由があります。
これは日本書紀を読むと、非常にわかりやすく書いてあることです。
どういうことかというと、もともと我が国は、天然の災害が非常に多い国です。
そのため、毎年必ず全国のどこかの地域が飢饉になる。
冷蔵庫がなかった時代に、常温で何年もの備蓄ができる食料は、お米だけです。
そこで初代天皇の神武天皇は、中央に朝廷を立て、全国に稲作を普及促進することで、毎年襲ってくる災害に対して、食料の不足した地域に、食料の備蓄のある地域から、お米を融通させる、という仕組みを築かれたわけです。
これが、四方八方がひとつ屋根の下で暮らす家族となって行こうという、八紘一宇の建国宣言です。
ところが熊襲が住む地域は、土地が火山灰土のため、水が地面に染み込んでしまって稲作ができません。
つまり稲を税として納めることができないわけです。
そこで代わりに労役や兵役が熊襲には課せられました。

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いまから2千年以上もの昔の話です。
遠くに労役に出れば、怪我もするし病気にもなる。
兵役に出れば、当然、死ぬ人もある。
大事な息子が死ねば、誰だって悲しいものです。
だから「もう兵役も労役もできない!」と拒否されるようになる。
拒否されれば、納税を拒んだと同じことですから、反乱とみなして、これを征伐しなければならなくなる。
これが熊襲の反乱と征伐の関係です。悲しいことです。
仲哀天皇は、朝廷の決議に従って、いよいよ熊襲討伐軍を起こします。
ところが、その軍が、九州へとむかう途中で、仲哀天皇は病死してしまわれるのです。
一方、悲しみに暮れる間もなく、神功皇后は度々神がかりになって、都度「新羅を攻めよ」の御神託が下ります。
そこで神功皇后は、このとき妊娠中で身重の体であられたにもかかわらず、軍を率いて新羅へと向かうのです。
それがあまりにも電撃的で電光石火の行動であったことから、驚いた新羅の王は、倭国への臣従を誓います。
そしてこの動きを見た高句麗(こうくり)と百済(くだら)の王もまた、倭国への臣従を誓うのです。
こうして朝鮮半島の三韓(高句麗、百済、新羅)は、倭国への朝貢国となりました。
朝貢国というのは、親方となる国の傘下に入り、親方となる国に護ってもらう代わりに、毎年貢物(みつぎもの)を献上しなければなりません。
しばらくはこれがうまくいくのですが、第16代仁徳天皇の時代になると、新羅はたびたび朝貢を怠(おこた)るようになり、さらに21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の時代になると、今度は高句麗の朝貢使節を襲撃して、朝貢の品々を奪うといった蛮行を働くようになります。
高句麗はいまの北朝鮮のあたりの国、新羅はいまの韓国の日本海側のあたりにあった国ですが、高句麗は倭国に朝貢するためは、どうしても新羅の領土を通らなければなりません。
ところが、そこを通過しようとすると、新羅に襲われる危険があるわけです。
これでは、申し訳ないけれど、朝貢を続けることができない、ということになって、高句麗は倭国への臣従から円満に脱退します。
この時代、高句麗が倭国の旗下(きか)を離れるということは、もはや高句麗を護ってくれる国はない、ということです。
そこで高句麗は、自立自存のために、自国の軍事力の徹底強化を図りました。
こうして高句麗の軍事力が強化された6世紀の終わり頃、中原(ちゅうげん・チャイナの中央部)に隋(ずい)という軍事超大国が誕生します。
なんと隋は、それまで300年間、内乱状態にあった中原を、その武力をもって統一したのです。
周辺国を従えようとする隋は、中原を統一したそのままの勢いで高句麗へと迫りました。
ところが高句麗の軍が、ものすごく強い。
再々の隋の侵攻に対し、高句麗はこれをことごとく打ち破ってしまいます。
そして度重なる高句麗との戦いに疲弊した隋は、わずか37年で滅んでしまうのです。
隋に代わって中原を統一したのが唐(とう)です。
唐は、隋の失敗に学びました。
高句麗との直接対決を避け、お得意の「遠交近攻(えんこうきんこう)」戦略に出るのです。
「遠交近攻」というのは、お隣の国を滅ぼすために、その国の向こう側にある(遠くの)国と仲良くして、近くの敵を攻め滅ぼすという戦略です。
そしてこのとき、唐から見て高句麗の後背地にあるのは、新羅と百済でした。
百済は倭国にべったり、つまり倭国と良好な関係を築いています。
一方、新羅は、度重なる不祥事のため、倭国からの信用がない。
つまりスキがあるわけです。
そこで唐は新羅に「新羅が百済を攻め滅ぼして自国のものにするのなら、兵を出すよ」ともちかけます。
そのために10万を超える兵を出してくれるというのですから、新羅にしてみれば、濡れ手に粟(あわ)です。
こうして、唐は軍を海から百済に上陸させ、ものの見事に百済を滅ぼしてしまいます。
もっとも、あくまでも建前上は「唐と新羅の連合軍による百済征伐」です。
そうしなければならないのです。
なぜなら、唐が単独で百済を攻めたとなれば、危機感を持った新羅は唐と敵対することになってしまいます。
また、百済と新羅を唐が完全に奪って自国の支配地にすれば、そのエリアは軍事強国の高句麗と、大国である倭国とに挟み撃ちになってしまいます。
ですから、実際に戦ったのは唐の軍であっても、建前上はあくまで「唐と新羅の連合軍による百済征伐」としたのです。
なぜなら唐にとって、本命は、あくまで高句麗征伐にある。
そして建前上は、あくまで新羅が百済を攻め滅ぼしたということになる。
百済が落とされることによって、倭国は半島に兵を送り出しますが、倭国はあくまで新羅と戦って百済の再興を図りたいのであって、大国の唐と直接干戈を交える気はありません。
建前上、唐もまた、それはできない相談です。
つまり本来なら、百済再興のための戦いは、倭国+百済軍と、新羅との戦いのはずです。
ところが新羅の軍は、戦いが始まると「アイゴー」と叫んで逃げてしまうし、百済兵もまた同じです。
こうして半島での戦いは三年続きますが、気がつけば戦っているのは、いつも倭国軍と唐軍です。
倭国軍と唐軍は、建前上は、新羅と百済の戦いの援軍にすぎないはずなのに、戦っているのは、いつも倭国軍と唐軍なのです。
こんなバカバカしい話はありません。
実は、これと同じことが、先の朝鮮戦争でも起こりました。
朝鮮戦争は、戦っているのは、あくまで北朝鮮と韓国のはずです。
けれど、3年戦って、気付いてみれば、戦っているのは、いつも米軍と、中共の人民解放軍です。
これでは何のために半島に兵を出しているのかわからない。
このあまりの馬鹿馬鹿しさに、平壌の北方まで制圧していた米軍が、はるか南の38度線まで兵を引く代わりに、休戦しようと持ちかけて成立したのが、いまの北と南の国境です。
この休戦協定は、米軍と中共+北朝鮮との間で交わされたもので、なんとそこに韓国は噛んでいない。
実に不思議な休戦協定です。
これと同じことが、古代においても起きたわけです。
倭国は、戦場からはるか南の白村江(はくすきのえ)まで兵を下げ、そこから兵を引くことを決断しました。
それを見守る唐軍、船に乗り込んで、「もう戦は終わった」と酒盛りを始める倭国兵。
そのとき、両軍に向けて、いきなり火矢が打ち込まれます。
こうして船が燃やされ、倭国は1万余の兵を失います。
これが世にいう、白村江事件です。
こうして百済を滅ぼした唐と新羅は、ついに高句麗を唐側と、新羅側、つまり南北で挟み撃ちにして、高句麗を滅ぼしてしまいます。
これが西暦668年のことです。
まさに唐の遠交近攻戦略が成功したのです。
唐はそのまま半島に軍を駐屯させました。
新羅王は、唐の皇帝に使者を送ると、唐の皇帝に平身低頭して絶対の忠誠を誓い、すべては皇帝のおかげだと徹底して唐の皇帝を持ち上げます。
半島人がこのように、誰かを徹底的に持ち上げるときというのは、必ず裏に何か意図があるときなのですが、それがわからないくらい、彼らは徹底的に相手を持ち上げます。
そしてその一方で、新羅国内では、新羅に駐屯している唐の兵たちに、チクチクと嫌がらせを続けるのです。
あまりのその執拗さに、唐の将軍は度々本国の皇帝に、新羅の不誠実を訴えるのですが、新羅におだてられてすっかりその気になっている唐の皇帝は、自国の将軍の声に耳を貸しません。
そうこしているうちに、あまりの新羅の不誠実に耐えかねた唐の将軍は、なんやかやと理由を付けて、ついに唐に帰ってしまうのです。
こうして新羅は、唐の属国でありながら、一応の独立を保つ国として、なんと10世紀まで国を保ち続けます。
半島の国は、その後、新羅から高麗、そして李氏朝鮮へと引き継がれていきます。
けれど、実はそのおかげで、チャイナに誕生したそれぞれの王朝(唐、宋、金、明、清)は、途中、朝鮮半島が元によって征服されたときの元寇を除いて、それ以外は時代を通じて遠交近攻戦略上、朝鮮半島の向う側にある倭国(日本)との関係をそれなりに良好に保つ時代が続くのです。
つまり、倭国は、半島に国があることによって、チャイナからの独立自存を、チャイナ王朝と戦わずして維持することができたわけです。
この現代にまで通じる東アジア情勢は、大本を探ると、結局、神功皇后の三韓征伐に行き当たります。
もし、まだ半島内の勢力がまだ弱かった3世紀頃において、神功皇后が三韓征伐を行っていなければ、高句麗が自立自存のために軍事力強化をすることもなく、中原に隋が誕生した時点で、半島はまたたく間に隋の協力な軍隊に飲み込まれていたであろうし、半島がチャイナ王朝の直接支配下にあれば、当然に彼らは倭国へとその侵略の矛先を向けてきたことでしょう。
そして我が国は、歴史を通じて1700年以上、チャイナの王朝と戦い争い続け、我が国の平和も安定も損ねられていた可能性が大であったと言わざるを得ません。
神功皇后は、神がかりになって、神々からの御神託に基づいて三韓征伐を行っていますが、それは1700以上続く日本の平和と安定と繁栄のための、まさに「かむはかり」であったといわざるを得ないのです。
ちなみに、我が国の歴史を見ると、時代の大きな分岐点に、必ず女性の天皇が登場します。
神功皇后も、実は、以前は天皇とされていた女性です。
明治時代に日本が日韓併合を行ったことで、三韓征伐を行った天皇があるのはまずいだろうということで、神功皇后は第15代天皇ではなく、単に第14代仲哀天皇の皇后の立場であったとされました。
女性の天皇は、神功皇后を加えると9代おわします
1 神功皇后
2 推古天皇
3 皇極天皇(斉明天皇)
4 持統天皇
5 元明天皇
6 元正天皇
7 孝謙天皇(称徳天皇)
8 明正天皇
9 後桜町天皇
そして振り返ってみると、女性の天皇が立ったとき、我が国は極めて大きな歴史的転換を実現しています。
どういうことかというと、神功皇后は上に述べたとおりです。
推古天皇の時代には、聖徳太子が現れ、隋の大帝国に堂々と対等な関係を主張し実現し、
皇極・斉明天皇の時代には大化の改新。
持統天皇の時代には、まったく新たな教育と文化による日本の立国、
元明天皇の時代には、長期の都としての奈良の都への遷都
元正天皇の時代には、日本書紀が国史の教科書とされ、
孝謙・称徳天皇の時代にあった道鏡事件では、仏教勢力による天皇の地位の簒奪が排除され、
明正天皇(めいしょうてんのう)の時代には、日本は鎖国を実現。
後桜町天皇の時代には、日本は未曾有の経済的発展と世界最高峰の治安を実現しています。
思うに、女性は慈愛を根本とし、男性は戦いを根本とします。
慈愛のもとに勇猛な男性が置かれれば、先ず慈愛を根本とし、その上で勇猛が発揮されます。
勇猛のもとに慈愛を置けば、残虐な戦いの後にしか、慈愛は発揮されない。
そういう意味では、家庭においても職場においても、実は女性が上に立った方が、世の中は安定するのかもしれませんね。
このように書きますと、すぐに「ねずは女性天皇容認論者だ」のようなことを言い出す人がいますが、あくまで皇位は男系男子、男系女子でなければならないということが最優先ですので、その点は誤解のなきよう。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
歴史は繰り返すのだろうか?
日本を攻めて、東の大国と対峙する...。
次期天皇が女性ならば國内でも大転換が起こりうる可能性はありますね...。
2020/04/15 URL 編集