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《はじめに》 日本は、ほんとうに古くて長い歴史を持った国です。その日本を、守り育み、取り戻す。 私たちは、日本という国をご先祖から受け継いで生まれてきました。ということは、日本は、私たちにとってご先祖からのたいせつな「預かりもの」です。 「日本を失っちゃならないよ」 この言葉は、かつて鎌倉市議をされていた伊藤玲子先生が、繰り返しおっしゃられていたお言葉です。 これからもたいせつにしていきたいですね。 |
浦和不動尊大善院の源平枝垂れ桃

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桜の季節になるとときたま見かけるのですが、白、ピンク、紅の三色の花をいっぱいにつけて木があります。
遠目には、まるで桜の花で、ピンク色の河津桜と、薄桃色の染井吉野がまるで並んで咲いているようにみえます。とてもきれいです。
けれどそれが、よくみると一本の木です。
実はこれ、桜ではなく、「源平桃」という桃の木です。
名前の「源平桃」は、白=源氏、紅(赤)=平家が入り乱れて戦った「源平合戦」に例えられこの名が付いたのだそうです。
おもしろいもので、この花、咲き方は土壌やその年の気候によって、同じ木でも、白やピンクの花のつきかたが毎年違います。
よく、桃の木はチャイナが原産と書いているものを見かけますが、これは要するに桃が温帯性の植物であるというだけで、桃の木自体に国境があるわけではありません。
もともと桃の木は、チャイナから日本にかけて広く分布していたものです。
また、本によっては「桃の木は江戸時代の初め頃に日本に渡来した」などといけ図々しく書いているものもあるようですが、これもウソです。
だって古事記にちゃんと桃は出て来ています。
イザナギが黄泉の国に妻のイザナミを尋ねて行った帰り道、追って来る黄泉の国の怪物達に桃の実を投げて、これをしりぞけています。
桃の木は古くから日本にあったのです。
けれど万国共通で、桃の木は虫がつきやすく、やや育てにくい品種です。
これを虫がつきにくいようにし、さらに観賞用、果実栽培用と様々な品種に改良したのが、江戸日本です。
おかげで、いま日本中に植わっている桃は、どれも江戸期に品種改良された桃の株の子孫です。
冒頭の写真にある源平桃枝垂れ桃は、さいたま市にある浦和不動尊大善院のものですが、これもまた江戸時代に日本で品種改良によって誕生した観賞用の桃ノ木です。
源平桃の花は美しく、しかも長持ちし、毎年赤や白の花の咲き方が異なり、年ごとに新たな楽しみを与え、見る人を癒してくれる、すばらしい品種です。
名前もとってもいいと思います。
単に紅白桃としてもたいへんおめでたいのに、それをあえて「源平桃」と名付けています。
遠い昔、源氏と平家が戦ったその時代の名残を、桃という、邪気を打ち払うとされる木にとどめる。
実に心憎い名前の付け方です。

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そういえば、この源平桃の咲く4月上旬から4月下旬は、壇ノ浦の戦いがあった月です。
壇ノ浦の戦いは、旧暦ですと寿永4年3月24日、西暦ですと1185年4月25日に、山口県下関の沖合で行われた戦いです。
ちょっと歴史を振り返ってみると、治承4(1180)年に源頼朝が平家打倒の兵をあげて以来5年、屋島の戦いで敗退した平家一門は、長門国引島(山口県下関市)まで後退して、そこで源氏に最後の決戦を挑もうとしたわけです。
源氏と平家は、いろいろに対比されますが、戦い方の手法も、正反対です。
平家は、弓矢を用いて離れて敵を討つという戦い方を得意としました。
これは特に水上戦で有効な戦い方です。
大量の矢を射かけ、敵を粉砕します。
対する源氏は、馬を多用した陸上での接近戦が得意です。
実は、こうした戦闘形態の違いは、近代戦の銃器を用いた陸戦にも似ています。
艦砲射撃やら空爆やらで、あめあられとばかり砲弾を撃ち込む米軍と、肉薄して接近戦で敵を粉砕するという日本との違いです。
平家が前者、源氏が後者に近いといえるかもしれません。
さて、だいぶ春めいてきた新暦の4月25日、平家一門は、関門海峡の壇ノ浦に、無数の船を浮かべて義経率いる源氏を待ち受けます。
静かに夜が明ける。
そして午前8時、いよいよ戦いの火ぶたが切って落されます。
源氏は潮の流れと逆ですから、船の中で一定の人数は常に櫓を漕ぎます。
平家は、潮の流れに乗っていますから、櫓を漕がなくても船は前に進みます。
潮の流れに乗る平家は、流れに乗って源氏の船に迫り、盛んに矢を射かけます。
なにせ漕ぎ手が不要です。
ですから全軍で、総力をあげて矢を射続ける。
一方、潮の流れに逆らう源氏の船は、平氏の射る矢の前に、敵に近づくことさえできません。
船を散開させ、なんとか矢から逃げようとする源氏、密集した船で次々と矢を射かける平氏。
こうして正午頃までに源氏は、あわや敗退というところまで追いつめられていきます。
ところが、ここで潮の流れがとまる。
追いつめられていた源氏は、ここで奇抜な戦法に討って出ます。
義経が、平家の船の「漕ぎ手を射よ」と命じたのです。
堂々とした戦いを好む坂東武者にとって、武士でもない船の漕ぎ手を射るなどという卑怯な真似は、本来なら出来ない相談です。
ところが開戦から4時間、敵である平氏によってさんざんやっつけられ、追い落とされ、陣を乱して敗退していた源氏の武士達も、ここまでくると卑怯だのなんだのと言ってられない。
義経の命に従い、平家の船の漕ぎ手を徹底して射抜きます。
逆にいえば、気の強い源氏の武将たちに、そこまでの決断をさせるために、あえて義経は流れに逆らっての攻撃命令を朝の8時に下したのかもしれません。
平家は、狭い海峡に無数の船を密集させて浮かべています。
そこに源氏の矢が、漕ぎ手を狙って射かけられたわけです。
こうなると船の漕ぎ手を失った平家の船は、縦になったり横になったり、回ったりして、平家船団の陣形を乱します。
平家の軍団は、大混乱に陥いってしまう。
そこへこんどは、潮の流れが、源氏側から平家側へと変ります。
まさに潮目が変わったのです。
潮の流れというのは、一見したところあまりピンとこないものだけれど、まるで川の流れのように勢いの強いものです。まして狭い海峡の中となれば、なおのことです。
勢いに乗った源氏は、平家一門の船に源氏の船を突撃させる。
平家一門は、ここまで約4時間、矢を射っぱなしだったのです。
すでに残りの矢は乏しい。
それを見込んでの源氏の突進です。
船が近づき接近戦になれば、もともと接近戦が得意な源氏武者の独壇場です。
離れて矢を射かける戦い方に慣れた平氏は、刀一本、槍一本で船に次々と飛び移って来る坂東武者の前にひとたまりもない。
平家の船は次々と奪われ、ついに平家一門の総大将、平知盛の座乗する船にまで、源氏の手が迫ります。
実は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で有名な平家物語では、このあたりから、まるで錦絵を見るような色彩豊かな描写をしています。
迫り来る敵を前にした平教経(たいらの のりつね)。
彼は、そのときすでに、部下ともども、矢を射尽くしていました。
そこに源氏の兵が潮に乗って迫って来る。
平教経は、今日を最後と肚に決めます。
そのときの教経(のりつね)の服装は、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からあやおどし)の鎧です。
そして厳物作りの大太刀を腰にして、白木の柄の大長刀(おおなぎなた)の鞘をはずすと、次々と敵をなぎ倒していきます。
その壮絶な戦いぶりに、総大将の平知盛(たいらのとももり)は、教経に使者をつかわし、
「教経殿、あまり罪を作りなさるな。
そんなことをしても
相手は立派な敵だろうか」とたしなめるのです。
ここ、大事なとこです。
戦いの最中に、平知盛は、
「雑兵を殺すことが、
武将として立派な戦いでしょうか?」
と伝えているのです。
雑兵というのは、日頃はお百姓さんです。
ということは、源氏だ、平家だと言う前に、彼らは大御宝なのです。
武門の家柄なのだから、戦いはやむを得ない。
けれど、雑兵となっている民、百姓は、たとえそれが敵であったとしても、すこしでも守ってやり、命をながらえてやるのが、武将の勤めだ、と言っているわけです。
戦(いくさ)のさなかに、何を能書き垂れてんだ!と今の我々など、思ってしまいそうです。
けれど、当時の貴族や武将にとって、このことは命を賭けるほどに大事な哲学でもあったわけです。
平知盛のひとことに、ハッと気がついた教経(のりつね)は、
「さては大将軍と組み合えというのだな」と心得(こころえ)、長刀(なぎなた)の柄を短く持つと源氏の船に乗り移り乗り移りして、
「義経殿はいずこにあるか」
と大声をあげます。
残念なことに教経は、義経の顔を知らないのです。
そこで鎧甲(よろいかぶと)の立派な武者を義経かと目をつけて走り回ったわけです。
ところが義経は、まるで鬼神のように奮戦する教経の姿に、これは敵わないと恐怖を持ちます。
他方、部下の手前、露骨に逃げるわけにもいかない。
そこで教経の正面に立つように見せかけながら、あちこち行き違って、教経と組まないようにします。
ところが、はずみで義経は、ばったりと教経に見つかってしまう。
教経は「それっ」とばかりに義経に飛びかかります。
義経は、あわてて長刀を小脇に挟むと、二丈ほど後ろの味方の船にひら〜り、ひら〜りと飛び移って逃げるわけです。
これが有名な「義経の八艘飛び」です。
教経は早業では劣っていたのか、すぐに続いては船から船へと飛び移れない。
そして、今はこれまでと思ったか、その場で太刀や長刀を海に投げ入れ、兜(かぶと)さえも脱ぎ捨てて、胴のみの姿になると、
「われと思はん者どもは、
寄つて教経に組んで生け捕りにせよ。
鎌倉へ下つて、頼朝に会うて、
ものひとこと言わんと思ふぞ。
寄れや、寄れ!」(われと思う者は、寄って来てこの教経と組みうちして生け捕りにせよ。鎌倉に下って、頼朝に一言文句を言ってやる。我と思う者は、寄って俺を召し捕ってみよ!)とやるわけです。
ところが、丸腰になっても、教経は、猛者そのものです。
さしもの坂東武者も誰も近づけません。
みんな遠巻きにして、見ているだけです。
そこに安芸太郎実光(あきたろうさねみつ)が、名乗りをあげます。
安芸太郎は、土佐の住人で、なんと三十人力の大男です。
そして太郎に少しも劣らない堂々たる体格の家来が一人と、同じく大柄な弟の次郎を連れています。
太郎は、
「いかに猛ましますとも、
我ら三人取りついたらんに、
たとえ十丈(じゅうじょう)の鬼なりとも、
などか従へざるべきや」(いかに教経が勇猛であろうと、我ら三人が組みつけば、たとえ身の丈十丈の鬼であっても屈服させられないことがあろうか)
と、主従3人で小舟にうち乗り、教経に相対します。
そして刀を抜いて、いっせいに打ちかかる。
ところが教経は、少しもあわてず、真っ先に進んできた安芸太郎の家来を、かるくいなして海に蹴り込むと、続いて寄ってきた安芸太郎を左腕の脇に挟みこみ、さらに弟の次郎を右腕の脇にかき挟み、ひと締めぎゅっと締め上げると、
「いざ、うれ、さらばおれら、
死出の山の供せよ」(さあ、おのれら、それでは死出の山へ供をしろ)
と言って、海にさっと飛び込んで自害するわけです。
まさに勇者の名にふさわしい最後を遂げたのです。
このとき、教経、享年26歳です。
このあたりの描写は、吉川英治の新・平家物語よりも、むしろ琵琶法師の語る原文の平家物語の方が、情感たっぷりに描かれていて、素敵です。
激しい戦闘の中にも、愛や勇気、女たちの涙の物語などが盛り込まれている。
こうして壇ノ浦の戦いで、平家は滅びました。
平家物語は、壇ノ浦の戦いで命を救われた建礼門院を、後白河法皇が大原にお訪ねになり、昔日の日々を語り合う場面で、語りおさめとなります。
琵琶法師の語る平家物語は、実に色彩が豊かで、まさにそれは総天然色フルカラーの世界。
その公演が、一話2時間くらいで、12話で完結です。
二時間分の話し言葉というのは、だいたい1万字ですから、法師の語る平家物語は、全部でだいたい12万字、つまり、いまならちょうど本一冊分くらいの分量です。
それだけの文学作品が、なんと13世紀にできあがっていたというのですから、これまた日本というのはすごい国です。
江戸時代に平家物語は、歌舞伎や講談で、義経千本桜、熊谷陣屋、敦盛最期など、各名場面が興行され、多くの人の喝采を浴びました。
日本は、ほんとうに古くて長い歴史を持った国です。その日本を、守り育み、取り戻す。
私たちは、日本という国をご先祖から受け継いで生まれてきました。ということは、日本は、私たちにとってご先祖からのたいせつな「預かりもの」です。
「日本を失っちゃならないよ」この言葉は、かつて鎌倉市議をされていた伊藤玲子先生が、繰り返しおっしゃられていたお言葉です。
これからもたいせつにしていきたいですね。
※この記事は2012年4月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
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読者諸兄に感謝申し上げます。
この苦しい時期ゆえとても励みになります。
2020/04/18 URL 編集
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今こそ日本人独特の工夫をするべきかと
防護服は使い捨てでなくしっかり滅菌殺菌消毒してリサイクルできるように専門のクリーニング業者を育成するとか
また車中泊している医師看護師も増えているとのことですから大病院の駐車場にキャンピングカーを国県市などが用意するとか
今医療関係者は最前線で戦う兵士なのですから兵站を決して絶やさぬよう靖国神社の御霊も願っていると思います。
2020/04/16 URL 編集
takechiyo1949
合掌
2020/04/16 URL 編集