《ご連絡》 ○ 新刊『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』が昨日4月10日に発売になりました。 新型コロナウイルスの関係で大都市部の大手書店さんは軒並み休業です。郊外の書店さん、あるいはAmazonや紀伊国屋さんの通販などを利用してお求めいただければと思います。せっかく神様からいただいた時間です。少しでも有効活用するために、まさに日本人の覚醒の書である日本書紀、是非、お友達にお薦めいただければと思います。 |
《はじめに》 日本で生まれたファックス技術は世界に広がり、その画像をドット単位で分割し送受信する技術は、新たに映像送受信の技術として発展し、いま私たちのパソコンの画面に表示されている写真となっています。まさに日本おそるべし!です。 |
東京電機大学初代学長 丹羽保次郎先生

画像出所=https://www.dendai.ac.jp/about/tdu/history/niwa_yasujiro.html
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最近は、書類はPDFでメールに添付して送付する時代になりましたが、少し前までは、書類の電送には、ファックスが中心でした。
そのファックスは、実は、世界の市場で日本が圧倒的なシェアを持っています。
そして現在も用いられえいるFAX通信の基礎を発明したのが、三重県は松坂市出身の大発明家、丹羽保次郎(にわやすじろう)です。
丹羽保次郎は、特許庁の十大発明家のひとりに数えられています。
「ファックス」という名称は、ラテン語のfac simile(同じものを作れ)から来ています。
原理は、英国人のベル(Alexander Graham Bell)が「電話」を発明したよりも33年も前に発明されました。
ところがこの初期のファックスは、「振り子を利用して走査線を送る」というもので、簡単にいうと、振り子があっちに行ったときは「白」、こっちにきたら「黒」を送りました。
初期のファクスでは、ほんとうに「振り子」を使ったために、離れた所では「送信側」と「受信側」で、振り子の振幅の同期がとれません。
このため、発明はされたものの、実用化にはほど遠いものとなっていたのです。
これを改良して最初に実用化したのがイタリアのカセル(Giovanni Caselli)です。
1862年、日本で言ったら文久2年のことです。
「振り子」の代わりに「電磁石」用いることで、10cm×3cmくらの紙片に書かれたアルファベットのサインの送受信を可能にしています。
この技術は銀行がサインを照合するのに実用化されました。
その後、ベルが電話を発明し、明治16(1883)年にはエジソンによって真空管が発明され、この電話技術と真空管技術を組み合わせて、写真電送を可能にしたのが、ドイツ人コルン (Arthur Korn) と、フランス人ベラン (Edouard Belin)です。これが明治39(1906)年のことです。

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コルンもペランも、発明した機材は似たようなもので、画像データの読み取りと書き込みにドラム(回転板)を使う、というものでした。
ドラムの回転速度がぴったり一致していれば、送受信双方に同じ画像を送受信できます。
そこでドラムの回転速度を一致させるために、ギターなどで使われる、あの音叉(おんさ)が使われました。
ところが音叉というのは、音を鳴らした場所の温度や湿度によって、振動数に微妙な影響が出ます。
このためコルン方式も、ベラン方式も、送受信の場所が離れれば離れるほど、それぞれの場所の温度や湿度の違から、ドラムの回転速度が微妙にずれ、結果、受信した画像がおおいに乱れてしまうという欠陥がありました。
せっかく電送しても、画像が乱れてしまっては使い物になりません。
米国の電気学会では、この二人の写真電送装置を「年をとった赤ちゃん」と呼び、嘲笑の的となっていたといいます。
ところが、この「写真電送」が、「どうしても必要」という事件が日本で起こりました。
何かというと昭和天皇御即位御大典です。
御大典の儀式は、昭和3(1928)年11月に、京都で執り行なわれると発表がなされます。
日本の各新聞社は、この半世紀に一度あるかないかの世紀の大報道をめぐって、なんとかして歪(ゆが)みのないきれいな写真を電送したい、と考えました。
なにせ京都で行われる儀式の模様の写真を、新聞号外で発表するに際して、そこに写真があるかないかでは、号外の説得力に雲泥の差が出るのです。
加えて、場所が京都で行われるとなると、その写真をどうしても東京に移送しなければなりません。
けれど、フイルムを陸送したり、空輸したりでは、時間がかかりすぎます。
だから、とにもかくにも、なんとかして写真を電送したい。
そこで朝日と電通(共同通信)がドイツのコルン式、大阪毎日と東京日日がフランスのベラン式の写真電送装置を購入しました。
どちらもまだ試作段階です。
なにせ米国では嘲笑をかっているシロモノです。
不安はありました。
けれど背に腹はかえられません。
そして写真の電送実験を行いました。
朝日と電通が買ったドイツのコルン方式のものは、かなり不鮮明ながら、なんとか判別できる写真の電送実験に成功しました。
大阪毎日と東京日々が買ったフランスのベラン方式の機械は、なんど繰り返しても、まともな写真が送れませんでした。
日本は高温多湿のため、音叉の振幅が乱れてしまうのです。
受信した写真は、誰がどうみても、心霊写真のようなシロモノになってしまいました。
けれど、大式典の日取りは、刻々と迫ります。
なんとかしなければならない。
大阪毎日と東京日々は、なんとか判別できそうな写真を持って、宮内庁にお伺いをたてにいきました。
「これでよろしいでしょうか」という新聞社に、写真を見せられた宮内庁が激怒しました。
陛下の御真影が、まるでオドロオドロしい心霊写真のようなシロモノなのです。
宮内庁は、両社に対し、
「今上陛下はもとより、皇族関係者の写真電送は今後一切まかりならぬ」と内示したうえ、さらに国会にはたらきかけて、「歪んだ画像を文書に載せ公開することを禁止する法律」まで制定してしまう。
法外な大金を払って、せっかくベラン式写真電送装置を買ったのに、これでは何をやっているかわかりません。
そのとき、弱り切った大阪毎日と東京日日の首脳陣に、耳寄りな情報が飛び込みます。
日本電気の丹羽保次郎とその部下の小林正次が、ベラン式やコルン式の同期ずれによる画像乱れを改良した新型NE式写真電送機で、昭和3(1928)年8月10日に、東京~大阪間の電送実験に成功したというニュースです。
この実験は、小林生正次が大好きな女優である松竹のマドンナと呼ばれた松井千枝子のブロマイド写真をポケットから取り出して発信機にセット。
そして受信機で待ち受ける丹羽に、電送。
数秒のち、受信機から、松井千枝子がにっこりと微笑む写真が鮮明に印刷されて出て来たのです。
実験成功です。
二人は、この写真電送装置に、日本電気の頭文字をつけて「NE式写真電送機」と称し、この快挙をプレス発表したのです。
さぞかし大反響があったと思いきや、学界の反響は、皆無。
メディアからも何の反応もありませんでした。
会社も、どう商品化したらよいやら先が見えない。
実験は成功でしたが、発明はどうやらお蔵入りとなりそうだったのです。
そこに大阪毎日が、白羽の矢を立てました。
是非、「NE式写真電送機を購入し、使わせていただきたい!」
ところが、です。
何に使うのかと聞けば、陛下の即位の御大典写真の電送です。
技術者としては、目をつけていただいたのは嬉しいが、そんなおそれおおい写真に、万が一のことがあったら、御不敬罪で下手をすれば逮捕、投獄です。
取り返しがつきません。
それに、そもそも実験に成功したとはいっても、同じ部屋の中でのことです。
果たして、大阪~東京間という長距離で、電送がちゃんと行え、きれいな写真が送れるのかどうか。
それでも、大阪毎日にしてみれば、もはや必死です。
朝日がコルン式を採用し、実験にある程度成功しているのです。
大阪毎日としては、いまさらドイツからコルン式を取り寄せるには、もう時間がない。
一か八かで、日本電気の丹羽保次郎の新型写真電送装置に賭けるしかない。
大阪毎日の必死の説得に、丹羽もようやく心を動かしました。
そしてNE式写真電送装置を大阪毎日の本社に持ち込みました。
東京日々新聞の本社には、すでにベラン式の大型の写真電送装置が設置されています。
機械にはフランスから技術者もついてきいて、通訳もいました。
部屋には専用の電源もひかれ、豪奢な調度品も整えられていました。
そこはまるで貴賓室のようでした。
一方、急遽、持ち込まれることになった丹羽の写真電送装置は、新たに電源ケーブルをひく時間もないし、急な話です。
専用の部屋どころか、電源を得るために、汚れた倉庫の一角にセットされることになりました。
他にも場所があったろうに、「そこしか場所がない」と言われてしまったのです。
いよいよ昭和3(1928)年11月6日がやってきました。
それぞれの社運をかけた運命の時です。
午前7時10分、京都御所に向けて、お召馬車が皇居を出発しました。
東京日々新聞は、その写真を撮影し、即座に、本社に持ち込んでこれを現像しました。
現像した写真は、その場ですぐに、大阪毎日新聞の本社に電送されました。
はたしてどうなったか・・・。
その日の午前9時、東京と大阪の街頭で、ほとんど同時に号外が配られました。
その号外の第一面には、御召馬車に乗ってご出発される昭和天皇のお姿が鮮明に映っていました。
世界ではじめて、電送写真が実用に用いられた、これが第一号でした。
そのときの写真が、↓これです。
NE式写真電送装置で撮影された御大典の電送写真

一方、朝日の号外が配られたのは、東京日々と大阪毎日が号外を配った2時間後のことでした。
朝日の採用したコルン式は、写真を1枚送るのに数十分もかかったうえ、使える写真はよくて10枚に1枚しかなかったのです。
しかも写真の電送に専用回線が占有される結果、記事原稿の送信がまったくできなかったのです。
これに対し、日本電気の丹羽保次郎の電送装置は、送信側で交流モーターを回し、その電流を受信側にも送って同時にモーターを回すという方法でした。
そのために送信側と受信側の環境が違っていても、回転に狂いが生じなかったのです。
この成功に、丹羽は、帝国発明協会から表彰を受けました。
受賞理由には、次の記載がされました。
「社会の耳目たる新聞紙上を通じて
御大典を写真報道するという
前代未聞の快挙を
天晴(あっぱ)れ上ゝの成績をもって成し遂げたる。
これぞ単に我が国学界の独占する一発明のみならず
人類生活の大光明の具現にほかならない。」
丹羽は、翌年には、無線通信による写真電送を、世界で初めて、東京~伊東間で実現しました。
さらに昭和5(1930)年には、逓信省が丹羽の写真電送技術を一般向けに公開し、「写真電報」サービスを開始しています。
ちなみにこのサービスの料金は、大8円、中5円、小3円でした。
昭和5年といえば、ラーメン一杯が10銭だったそうですから、仮にいまが一杯600円とすると、写真電送の「大」は、いまのお金で約5万円くらいでの送信だったわけです。
それでも写真を電送するという技術は、無線技術の導入によって飛躍的に拡大していきました。
昭和11(1936)年のベルリンオリンピックでは、電波がベルリン中央電信局ーナウエン送信所ー埼玉県小室受信所ー東京中央電信局と継がれ、見事、新聞報道に鮮明な写真が使われました。
さらにこのときの写真通信成功の快挙に、この年の8月26日、ヒトラー総統が日本の技術力を祝福した文書を、これまたファクスで送ってきています。
両国の関係はこうして深まり、11月には日独防共協定が締結されています。
NE式の初回実験で送られたヒトラーの祝電

さらに丹羽の写真電送技術は、昭和12(1932)年には、携帯化されてどこへでも持ち運びが可能になり、China事変で大活躍をすることになります。
そしてこの日本で生まれたファックス技術は世界に広がり、その画像をドット単位で分割し送受信する技術は、新たに映像送受信の技術として発展し、いま私たちのパソコンの画面に表示されている写真となっています。まさに日本おそるべし!です。
※この記事は2012年4月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
宮崎マンゴー
今回の記事記載、嬉しく存じます。
日本の写真電送技術の素晴らしさを誇りに想います。日本にこの様な懸命なる技術者が存在されていた事に、感謝の念でいっぱいであります。後に続く技術者がどんなにありがたく、向上心も学んだかを思えば。
ちなみに、我父は写真技術者でもあり、カメラマンでございました。老いて引退致しましたが、後輩達へ自分の写真技術を根気よく教え、カメラを置きました。
父のライカは、今でも引き継いだ者の元でいきております。
日本の写真技術は、世界的にもトップであると思います。祈
2020/04/19 URL 編集