世の中には変わっていくものと、変わらないものがあります。 いま新型コロナで、いろいろなものが変わろうとしています。 けれど変わらないもの、変えてはいけないものもあります。 その変わらないもの、変えてはいけないものを、もう一度しっかりと把握することが、新型コロナの時代を生き抜く知恵になります。 |

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葛飾北斎の描いた「富嶽三十六景」といえば、神奈川沖の海を描いた上の絵が有名です.
そしてこの絵は、ヨーロッパに渡り、19世紀に印象派と呼ばれる画家たちの新しい絵画への挑戦を生みました。
それまでのヨーロッパでは、絵師というのは、貴族や王族や寺院など、財力のある人のために、そういう人からお金をいただいて、そのお金持ちのために、彼らに言われた絵を描くというのが、絵師の仕事であったわけです。
西洋における、宗教画や貴族たちの肖像画などは、すべてこの部類に入ります。
その西洋では、日本の陶磁器が高級品としてたいへんに喜ばれ、目が飛び出るような高額で取引されていました。
そしてそれら陶磁器は、箱に入れられ、紙くずで周囲を包んで出荷されていたのですが(いまなら古新聞などが用いられたりしていますね)、その紙くずのなかに、浮世絵が多数混じったわけです。
ところがその紙くずが、西洋の人たちに衝撃を与えました。
なにしろ印刷物がフルカラー。
しかも絵画が印刷物として、普通に売られているだけでなく、いわばゴミのように陶磁器の箱内の緩衝材として、惜しげもなく使われている。
そして一番大きなことは、この波の絵に象徴されるように、画家たちが、自らの受けた印象で、自由に絵を描いている。
ここから西洋絵画の印象派が生まれます。
ゴッホは、浮世絵をそのまま模写した作品が多数残っているし、他にもドラクロワや、モネ、マネ、ドガ、ルノワール、バジール、ピサロなどの名だたる画家を生みました。
みなさんが、学校の美術の時間に「進んだ西洋の絵画」として紹介され、学んだ画家たちの作品は、実は日本の浮世絵の模倣から始まった作品群であったわけです。

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さらにこの絵画による印象派の運動は、文学や音楽にも影響を及ぼし、音楽ではドビュッシーやムソルグスキーを生み、文学ではボードレールやマラルメなどを生んでいます。
これらの作家は、象徴主義とも呼ばれますが、伝統的な写実主義に対して、自由な視点から作家自身の目で見た世界を描くという意味で、実は印象派の別名でしかありません。
意図的に日本語の訳を2つに分けることで、日本の影響によって生まれたということを隠そうとしただけのことです。
さて、それだけ西洋に強い影響を与えた日本の絵画ですが、日本の浮世絵には(というか日本の伝統文化の多くに共通していることですが)、ひとつの大きな特徴があります。
それは、民芸品を始めとして、庶民文化として発展したものである、という点です。
1%の人々が冨を寡占する世界の国々と異なり、日本では上古の昔から、庶民こそが国のたからとされてきました。
そしてその庶民が、楽しく暮らせるようにしていくこと。
それが神話の昔から続く我が国の国是であったわけです。
もう一度、上の北斎の「穏田の水車」をご覧ください。
画面左上に「富嶽三十六景、穏田の水車」と書かれていますが、ここでは「穏」という字の旧字「隱」が使われ、辺の「阝」が省かれています。
この「辺を省く」というのは、古い時代からの我が国の漢字の使用法です。
絵をよく見るとわかるのですが、絵には遠くに見える富士山と、手前に水車と、その水車で運ばれる水流が描かれ、その手前には洗い物をする女性たち、その向こうに穀物を運ぶ男たち、そして亀を散歩させている子供の姿が描かれています。
たいへんに動きのある躍動的な図柄ですが、この「穏田」というのがどこかというと、今の東京・渋谷です。
渋谷は、かつては「隠田村(恩田村とも書く)」と呼ばれ、伊賀者の土地とされていました。
これは江戸に万一、敵が攻め込んできたときに、将軍が甲州街道を通って避難するためで、このため江戸を出発する五街道のうちの4つは、日本橋が出発点ですが、甲州街道だけは起点が日本橋とは江戸城をはさんだ反対側にある服部半蔵の「半蔵門」となってたのです。
要するに、江戸脱出の際に、伊賀者が殿(将軍)の警護にあたる役割を担っていたわけです。
この隠田村に流れていた川が隠田川で、別名が渋谷川。
さらにいまの原宿あたりには、近隣の氏神様ともなっていた隠田神社があります。
昔は、原宿村と恩田村があり、その境を流れていたのが隠田川で、人々はこの川の水を使って付近で田畑を営み、また川の流れを使った水車で脱穀を、また川の水で洗濯をしていたわけです。
ただ、いまの渋谷駅のあたりは、土地の低い湿地帯で、大雨が降るとなかなか水が引かないことから、恩田村のなかの渋い谷ということで、渋谷(しぶたに)と呼ばれ、明治の中頃までは、どちらかというと貧しい人たちが住むところになっていました。
ところが、鉄道を敷設することになったとき、当時の汽車は馬力が少なくて坂道を登れなかったことから、川沿いに鉄道を敷き、駅が恩田村の渋谷に築かれました。
これがいまも続く渋谷駅です。
また隠田川は、大正時代には「春の小川はさらさら行くよ」という歌詞で有名な「春の小川」にも歌われる川でしたが、日本が戦争に敗れたあと、いまオリンピック村のあるあたり一帯、つまり元の陸軍練兵場だったところ(いまの代々木公園一帯)は、米軍将校用の住宅地になっていました。
ですからここは、地名も「ワシントン・ハイツ」となっていたわけです。
ところが昭和39年に東京オリンピックが開かれることになり、当時の東京都知事の東龍太郎(あずまりょうたろう)氏、後に都知事となる副知事の鈴木俊一氏らが中心となって米軍と調布飛行場に隣接する土地との交換を交渉し、見事その交渉に成功して、「ワシントン・ハイツ」の跡地に、オリンピック村が建設されることになりました。
そしてこのときに、隠田川を道路にするために、川にフタがされました。
フタをしてある川のことを「暗渠(あんきょ)」と言いますが、これにより、渋谷(しぶたに)をはさんで、川によって分断されていた渋谷大地と淀橋大地を一体化した街づくりが行われたわけです。
こうしてかつて「富獄三十六景」にも描かれた隠田川は、姿の見えない川になったのですが、近年では、「川の流れ」を意味する「ストリーム(Stream)」による魅力的な街づくりを標榜(ひょうぼう)して、再び地上に姿を表すようになり、その名も「渋谷川」と呼ばれ、川の両サイドが歩行者用の歩道になったりしています。
もっとも、近くには高層ビルが立ち並んだため、地上からはかつてのような富士山の絶景は見えません。
けれどビルの上からは、広大な東京の夜景と、昼間は富士山の絶景が見渡すことができます。
渋谷のビルの高層階から見える富士山は、実は、かつて北斎が「富獄三十六景」に描いた隠田村の富士山でもあるわけです。
世の中には変わっていくものと、変わらないものがあります。
いま新型コロナで、いろいろなものが変わろうとしています。
けれど変わらないもの、変えてはいけないものもあります。
その変わらないもの、変えてはいけないものを、もう一度しっかりと把握することが、新型コロナの時代を生き抜く知恵になります。
時代は大きく変わろうとしています。
その変化は、長い歴史の中でみると、世界では、王侯貴族の時代から、一部の大金持ちの時代への変化がありました。
その世界の形が、今度のコロナ問題をきっかけに、あらためて民衆の時代の到来へと変化しようとしています。
日本はもともと民衆を「おほみたから」としてきた国柄を持ちます。
つまり世界は、日本の形にいまふたたび近づこうとしています。
世界は変わります。
それは良い方向への変化です。
もちろん日本も変わります。
変化は必ず苦痛を伴いますが、良い方向へと変わろうとしているのです。
無理をせず、清陽の心をもって、いまを生き抜くことです。
必ず未来は明るくなります。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
takechiyo1949
一日も早く思い返し、大切に伝承しなければなりません。
【永久に失われた美しい日本】
★YouTube:1/2
https://youtu.be/ah70sve9IRo
★YouTube:2/2
https://youtu.be/ws_4FwlpRts
2020/05/02 URL 編集
非渋谷区民
江戸時代の原宿村・隠田(おんでん)村は現在でいう神宮前にあたります。原宿駅方面ですね。渋谷駅は開業時はもう少し南にあったようですがそれはさておき、渋谷駅周辺は江戸時代だと中渋谷村になるはずです。竹下通りに名を残す竹下(神宮前一丁目)は上渋谷村の飛び地でした。宮益坂には渋谷宮益町、道玄坂には渋谷道玄坂町という大山道の宿場町がありました。これは町奉行の管轄です。
あの一帯は高台は武家屋敷、渋谷川沿いの低地は百姓地・田畑となっていました。低地の田畑については「原宿村・隠田村・上渋谷村 入会」などと書いてある古地図が残っていたりするので、村の範囲が厳密にどうだったかは俄かには分かりません。
2020/05/02 URL 編集
にっぽんじん
早速購入し、どこに問題があったのか自分で探してみようと読み始めました。
教科書として合格していれば、今回のような出版はなかったと思います。
学校だけで使われていたはずの本が一般本として出版されるとは流石の文科省も考えなかったと思います。
多くの国民や中学生に読んで貰い、学校で使用している教科書と比較してもらいたいと思います。
きっと違いが分かると思います。
自由社には、定期的に新聞広告を出して欲しいと願っています。
日本中の図書館において欲しい本です。
協力をお願いします。
2020/05/02 URL 編集