日本人は、幾多の困難を乗り越えてきた民族です。 そしてどんな難局があっても、あきらめずに、そこから何かを生み出してきた民族です。 そして甘くて、ちょっぴり塩辛くて、とてもおいしくて、世界中誰からも愛される桜餅のような、息の長い、美味しい新しい文化を創造してきた民族です。 |

画像出所=https://tg-uchi.jp/topics/4325
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おかげさまで、ねずブロ、今日でちょうど4500話になりました。
これまでやってこれたのも、ひとえにみなさまのおかげです。
ありがとうございます。
そこでちょっと季節外れになってしまいますが、「桜餅(さくらもち)」のお話をしてみようと思います。
桜餅がコロナに効くとかいう話ではありません。
歴史の話です。
桜餅には、上方風と、江戸風があり、
↓こちらが上方風

↓こちらが江戸風です。

桜餅は、もともと江戸が発祥で、京に伝わったときに、京都の和菓子職人さんたちの手によって、形状がかわり、上方風ができあがったものだと言われているのだそうです。
最初、江戸の向島にある長命寺の門前で、山本新六という人が享保2(1717)年に、隅田堤の土手の桜の葉を樽で塩漬けにし、これを餅に巻いて「桜餅」の名で売ったのが、そもそものはじまりなのだそうです。
この堤は、その頃から桜の名所で花見時に多くの人々が集ったので、桜餅が大いに喜ばれ、お江戸の名物菓子になりました。
その考案者の山本新六が、いまの「山本や」さんの創業者にあたるそうです。
ちなみに桜餅に使われる「もち米」は、もち米をそのまま使うのではなく、一度蒸して乾燥させたものを粗く砕いて用います。
ずいぶんと手のこんだものですが、この作り方は戦国時代にインスタント食品として考案されたものなのだそうです。

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お湯や水に浸せばすぐに食べることができる。
しかも「もち米」ですから、腹持ちもいい。
そこで戦国武士の携行食として大流行したそうです。
この粉を量産していたのが大阪の道明寺で、だからこの細かく砕いた「もち米」のことを別名で「道明寺粉」といいました。
桜餅は、関西で「道明寺」と呼ばれるのは、このことが由来です。
さてさて、桜餅の由来には、実は異説があります。
これが悲しい物語なのです。
江戸時代は鎖国をしていて、外国人の出入りは長崎の出島でのみ赦(ゆる)されていましたが、ある日のこと、オランダから来た異人さん2人が、たいそう女性を欲しがったのだそうです。
そこで、しかたなく長崎奉行が、丸山遊郭に事情を話して、二人の美しい遊女を呼び寄せました。
日本は奴隷社会ではありません。
遊女とはいえ、長崎奉行は二人にちゃんと事情を話し、頭を下げてオランダ人の相手を頼んだそうです。
けれども女性のうちのひとりはイヤがり、カミソリの刃で喉をかききって果ててしまう。
こうしてもうひとりの遊女が異人のひとりの囲いものになりました。
その助成は、異人が帰国した後、中島天満宮の近くに小さな茶店を出して、そこで桜の葉を塩漬けにしたもので餅を包んだ菓子を売ったのだそうです。
なぜかというと、異人の囲い者になっていた頃、その屋敷に大きな桜の木があり、その花が散って葉だけになり、その葉も散って行く様子を眺めながら、いずれ我が身も散っていくと思ったのだそうです。
そこで、そんな思いをお菓子にしました。
この菓子が、とっても評判がよくて、桜餅として江戸に伝わったというのです。
真偽のほどはわかりません。
けれど、身の上にたいへんなことが起こった時、そこで死を選ぶか、それともそこから何かを生み出すかは、それぞれの人生の選択なのだろうと思います。
わたしたちは、いま、コロナでたいへんな時代を迎えています。
そこでお亡くなりになってしまう方もおいでになります。
けれど、多くの人々は、この難局のなかで、なんとかしていかなければならないと、必死にこらえています。
日本人は、幾多の困難を乗り越えてきた民族です。
そしてどんな難局があっても、あきらめずに、そこから何かを生み出してきた民族です。
そして甘くて、ちょっぴり塩辛くて、とてもおいしくて、世界中誰からも愛される桜餅のような、息の長い、美味しい新しい文化を創造してきた民族でもあります。
それが、私たちの祖先です。
私たちも祖先に負けない、強い心で、この難局を乗り切っていきたいと思います。
この世は、平均の法則が働く世界です。
生き残った長崎の遊女だって、苦労した分、多くの人に喜ばれ、いまなお続く歴史に残る銘菓を残したのです。
いまたいへんである分、必ず、良い時代がやってきます。
がんばりましょう。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
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今の日本女性は、白人と聞いただけで、三国人のように鼻の下を伸ばす。
私は白人の顔立ちも三国人の顔立ちも全く興味がありません。
私の祖母は、白人を虚勢を張ったサルのようで醜いと言い、三国人はダ◯ン症のようだと言い、
日本男児が1番面構えが良い、どんなに三国系でも舶来系でも日本男児の顔立ちが1番バランスが良いと言っていました。
今更ながら祖母のこの、どんなに異国っぽいまたは異国の血が混じっても日本男児の顔立ちが、という所に日本古来の、または日本の風土が象る人類の真実を感じてなりません。
2020/05/12 URL 編集
湘南童子
薄く焼き上げられ、愛しく巻かれた、
上品な、あの川子さまの来し方、行く末や・・
美しき漉し餡子さま、仄かな櫻子さまと共に在りや。
ありがとうございました。
日本の天命が完うされますように
2020/05/11 URL 編集
道明寺かかお
ううむ、この流れだと長命寺の生地部分が、小麦粉あるいは白玉粉を溶いた生地を薄くして焼いたクレープ型団子だということが分からない……長命寺と道明寺の違いが全然分からないような……
それはさておき、道明寺の方はもともとは「椿餅」だったそうです。現在でも京都には椿餅があるそうで、それが道明寺餅を使っており、椿餅の方が桜餅より明らかに古いので椿餅が原型だという類推になるようです。もっとも現在の椿餅は道明寺餅以外のバージョンもあるそうです(関東在住なので椿餅は見たことがない)。
椿餅の名称は『源氏物語』にも「つばいもちひ」として登場するそうで、たしかに明らかに古い。ただし、平安時代には砂糖がありませんから、現在のものとまったく同じとはいえません。一説には甘葛(アマズラ)をかけるか、生地に練り込んだのではないかとか。時代をずっと下って『古今名物御前菓子図式』(1761年)という文献には「干し飯を狐色に炒り、粉にしたものに砂糖と肉桂粉を湿り気を入れて揉み合わせ、蒸してから臼で搗き、椿の葉二枚ではさむ」とあるそうです。
餅じゃない方の「道明寺」は、大阪府藤井寺市にある尼寺。この一帯は土師氏の根拠地で、もともとは土師氏の氏寺である土師寺でした。この土師氏から菅原氏が出ますが、その出世頭である菅原道真のおばに当たる覚寿尼がこの土師寺に居たとされ、道真の大宰府下向後に覚寿尼は毎日陰膳を据えていた飯を粉にして梅の実の形にした菜種色の団子を作っていたと伝えられます。これが道明寺粉に類するものだとすると、道真の時代にまで遡れることになります。桜でも梅でもないけど。
なお「道明寺」の寺号は道真の死後、天暦元年(947年)に土師寺を改めたもので、これは道真の号「道明」に由来するそうです。土師寺は土師神社の神宮寺だったのですが、土師寺が道明寺に改称した際には土師神社内に天満宮も創建されます。これが現在の道明寺天満宮。この「道明寺」は地名と思われます。土師神社も元宮土師社として健在です。
2020/05/11 URL 編集
takechiyo1949
ねず先生
誠にお疲れ様でございます。
なんて月並み過ぎます。
十数年間休み無く!
4500話!
ホントに凄いことです。
とても真似できません。
ねずブロとの巡り合い。
そして、ねず先生や大勢の仲間との蜜な交際。
沢山のことを教わり、語り合い、学んできました。
色々な思い出が走馬灯の様に浮かんできます。
これからも数多の困難が待ち受けていることでしょう。
しかし、先人の叡知を継承し、豈國を取り戻すための行動にお仕舞いはありません。
歩幅を変えず、前を向いて、共に進んで行きましょう。
但し、無理は禁物です。
健康で長生きしましょう。
2020/05/11 URL 編集