《解説》本抄は、前回のところで創世の神々から祝福を受けて誕生された神々の意を受けた堂々とした男性神である伊弉諾尊(いざなきのみこと)と、同じく神々の意を受けたしなやかな女性神であられる伊弉冉尊(いざなみのみこと)が、磤馭慮嶋(おのごろじま)を創(つく)って降臨し、国土を生むまでの抄になります。
はじめに二神は天の浮橋(あめのうきはし)に立たれますが、その天の浮橋が何であるのかは古来様々な議論があります。それは虹だというもの、あるいは南あわじ市にある地名だというもの、あくまでも神々のおわす高次元の世界の何かだとするものなど、様々です。
私は、天ノ川(あまのがわ)説を採っています。
天の川は、見方によっては川ですが、別な見方をすれば星空に架かる橋のようにも見えるからです。
そして天の川は銀河系です。
銀河系は、平べったい渦巻のような形をしているように思われて来ましたが、近年の研究ではどうやらエネルギーの流れ的には、トップの図のような形状をしていることがわかってきました。
まるでリンゴを縦に切ったような姿ですが、このリンゴの断面のような形のことを「トーラス(Torus)」と言います。
もしかすると伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、そのトーラスの上に立たれたということを日本書紀は描いているのかもしれません。
なぜなら天の浮橋が銀河であり、その銀河を上下につらぬくエネルギーの流れは、まるで天の瓊矛(あめのぬぼこ)に見えるからです。
というのは、図の縦に流れるエネルギーの流れを古代の人がイメージしたものであるのかもしれないのです。
そんなこと古代の人たちにわかるわけないではないかと思われる人がおいでかもしれませんが、現代だって理論を突き詰めていって、冒頭の図のような形が提唱されているだけで、銀河のトーラスの流れを観た人はいません。
ところがなぜか昔から、天の瓊矛は「天地をつらぬく真理の矛」とも言われてきたのです。
そして二神は、天の浮橋の上に立たれると、ここで、
「底下豈無国歟(そこしたに あにくには なけむとや)と語り合います。
普通、古文の授業では、「あに〜や」は反語表現で、例えば「あに計らんや」とあれば、「計画はあるだろうか、ないよね」といった意味だとされますから、ここも「底の下の方に、国はあるだろうか、ないよね」と語りあったと、簡単に訳されることが多いのですが、問題はここにある「豈(あに)」という漢字が使われていることです。
この「豈」という漢字は、神社などで使われる楽太鼓(がくたいこ)を象形化した会意象形文字です。(下の図)

画像出所=https://www.teragoods.com/?pid=134672646この太鼓は古来、打ち鳴らすときに条件があります。
その条件とは、婚礼の儀のような「よろこびのとき、楽しいとき」にのみ、打ち鳴らすというものです。
だから付いた名前も楽しい太鼓を意味する「楽太鼓」です。
そして「豈」という字が楽太鼓なら、ここで「豈無国歟」と書かれているのは、そんな楽太鼓を打ち鳴らすような「よろこびあふれる楽しい国はあるだろうか、ないよね。だったら自分たちでそんな嶋を造ろうよ」という趣旨であったということになります。
つまり二神は、この世を、あるいは後述する磤馭慮嶋(おのごろじま)を、初めから「よろこびあふれる楽しい嶋」にしようと築かれたのです。
私たちの住むこの日本は、あるいはこの地球は、初めから神様が「よろこびあふれる楽しい日本」あるいは「よろこびあふれる楽しい地球」であることを期待して築かれたと日本書紀は書いているのです。
素晴らしいことだと思います。
ここで用いられた天の瓊矛(ぬぼこ)の「瓊」という字は、「玉」と「夐」から成り立ちますが、「夐」には「遥か遠いさま、遠く離れたさま、あれこれ手を尽くして手に入れようとするさま」などの意味があります。
「矛(ほこ)」は、簡単に言えば槍(ヤリ)のことですので、一般には、イザナギとイザナミがヤリを手にして下の方の混沌としたところをコオロコオロとかき回したように解説されますが、それは古事記の描写です。
日本書紀では、意図してここに「瓊」という漢字を用いているわけですが、その意味からするならば「瓊」は、「遥かな高みから、何かを手に入れようとした」ということを言おうとして、この字を用いたことになります。
このように考えると、上に示したトーラスの図は、ニ神がトーラスの意味するものが、そのまま「よろこびあふれる楽しいクニ」であるということを述べていることにつながるのです。
このように述べますと、古代の人の知識や知恵を、無理やり最新の科学技術にあてはめているだけなのでは?と言われてしまいそうですが、そうではないと思っています。
古代の知恵というのは、日本の場合でいえば、すくなくとも磨製石器が使われ始めた4万年前にまでさかのぼるのです。
その間、我々日本人が、ずっと未開の原始人のような生活だけをしていたと考えるのは、かなり無理があるといえます。
表現の仕方こそ違え、万年の単位で得られた知恵は、むしろ神々の知恵に近いものであった可能性もあるのです。
現代においても、最先端の科学技術は、もちろん論理や数理の結果としての帰結、あるいは論証されたものであるとはいえ、そこに至る思考そのものは、そこで与えられた命題に対して、研究者たちが真剣に取り組んだ結果です。
研究に没頭した瞬間のことを、よく「ゾーンに入る」と言いますが、そうした「ゾーンに入った瞬間」というのは、高次元の神々の知恵とリンクした瞬間です。
その天の瓊矛を指し下ろした先が「滄溟(あをうなばら)」です。
これは青く透き通った海原のことですが、「冥」という字は、何もなくて暗いところを意味します。
つまり真っ暗で真空の空間です。
これは宇宙空間に例えることができます。
そして「倉」は、いろいろなものが蓄えられるところです。
つまり「滄溟」は、真っ暗な空間だけれど、様々なものが詰まっているところです。
まさに原初の宇宙と例えれるものであるといえると思います。
そこに滴(したた)った潮(うしお)のシズクが固まって磤馭慮嶋(おのごろじま)になったと書かれています。
「潮」とは古語で海水のことです。
そして水が滴り落ちれば、それは球体となります。
「磤馭慮嶋」は難しい字が使われていますが
「磤」という字は、石でできた殷で、殷は豊かで大きなもののことです。
「馭」は、右手で馬を引く姿=働く姿
「慮」は、計画してなされるもののことを言います。
つまり「磤馭慮嶋」とは、「石造りの城塞を築くように、計画性を持って働くことで巨大な冨を得る嶋」という意味で、そこから転じて「豊かで広大で、みんなで協力してはたらく嶋」という意味になります。
それが磤馭慮嶋(おのごろじま)です。
ここは大切なポイントです。
日本語では、労働することを「はたらく」と言いますが、これは傍(はた)、つまり周囲にいる人たちを楽にさせることを語彙(ごい)とします。
英語では、労働のことを「work」と言いますが、これは「アクサム(irksome)《厄介な》」と同じ語源の言葉です。
英語の「work」と、日本語の「はたらく」では、そこに込められた意味が違うのです。
さらにいうと、大和言葉は一字一音一義です。
そこから「はたらく」とは、
「は」=引き合う
「た」=分かれる
「ら」=場
「く」=引き寄せる
で、要するに「みんなで押したりひいたりしながら、冨を引き寄せる」ことの意となります。
もっというと「おのごろ」は、
「お」=奥深い
「の」=時間をかけて
「ご」=富を生み出す
「ろ」=空間
つまり「奥行きがる=広大」ですから、広大な地所を、時間をかけて耕して富を生み出す耕地にし、そこを耕して富(=食料)を生むところ」が、「おのごろ嶋」です。
目下、コロナ問題で、「これからどうなってしまうのだろう」と不安を持たれている方が多いと思います。
けれど、大切なことは、みんなが生きること、生き残ることです。
そして人が生きるためには、必ず食べ物が必要です。
それさえ確保できていれば、たとえ大きな災害がやってきて、何もかもが失われる事態に至ったとしても、またいちからやりなおすことができます。
これが天然の災害が多発する国土を持つ日本の、古くからの生き残りの知恵です。
お読みいただき、ありがとうございました。
※このブログ版「日本書紀」は、『
ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』をベースに、そこからさらに考察を深めようとして書いているものです。
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コメント
国華
はじめは、おかたい話なのかなぁと思っていましたが、だんだんと日本人の私たちが、考えて行動できる力があるんだ!と希望がもてました。
これからも、よいお話を楽しみにしています!ありがとうございます!
2020/05/26 URL 編集
takechiyo1949
そんな国の建設は、日本書紀の最初に書かれています。
しかし…命題は依然未完成!
何が起きても、先ずは「生きる」ことを尊重しましょう。
2020/05/25 URL 編集