国語教育の要諦は国民精神の涵養(かんよう)



日本人としての真っ直ぐで正常な価値観がなければ、まともな判断などできるものではありません。その日本人としての真っ直ぐで正常な価値観のことを「国民精神」と言います。つまり国民精神の涵養こそが、国民の価値観を育成するのです。その「国民精神」のことを「アイデンティティ(Identity)」と言います。

木下恵介監督「二十四の瞳」
20200529 二十四の瞳
画像出所=https://www.cinemaclassics.jp/kinoshita/kinoshita_100th/content/filmdetail/23.html
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【目を射抜かれて】

相模国(さがみのくに)の住人で鎌倉の権五郎景正(ごんごろうかげまさ)という人がいました。
ご先祖から名高い、武者(つわもの)です。

景正が16歳のとき、敵の大軍に向かって命を捨てて戦っていたとき、敵の矢に右目を射抜かれてしまいました。
矢は首を貫(つら)ぬいて、兜(かぶと)にひっかかっていたために、たやすく抜けません。
やむなく景正は、矢を折り捨てて、その場で、なおも敵を射倒し続けました。

その日の戦いが終わり、陣へ帰った景正は、
「手傷を負った」と言って、のけざまに伏し倒れました。

そこで三浦平太郎為次(みうらへいたろうためつぐ)といふ武者が、景正の顔を踏んで、目に刺さったままの矢を抜こうとしました。
すると景正は、やにわに刀を抜きました。

為次が驚いて
「なぜ刃向かうか!」
と問うと、景正、
「弓矢に当りて死ぬことは武人の望むところである。
 生きながら顔を足で踏まれることは武人の恥。
 汝を殺して、我も死すべきものである」
と言いました。

為次には返す言葉もなく、膝(ひざ)をかがめて顔を押さへて、矢を抜き取ったそうです。


******

20200401 日本書紀
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20191006 ねずラジ
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この物語は、国民学校時代の小学5年生の国語の教科書に書かれていたものです。
現代の国語教育なら、
「景正の言う武人の恥とは何でしょうか。
 文中の語を用いて20字以内で答えなさい」
といった設問になることでしょう。
なぜなら、正解が固定されるからです。
この場合の答えは
「生きながら顔を足で踏まれること」になります。

けれども昔の国語教育なら、
「景正はどうして為次に『武人の恥』として刃向かったのでしょうか。
 この場合の武士の恥とはどのようなことでしょうか」
といったものになります。

この場合、正解は特定されません。
強いてあげれば
(1)生きたまま顔を踏まれることは相手への屈服を意味するから。
(2)景正の家が、ご先祖から武人の誉(ほま)れ高い家柄だから。
(3)右目の矢を抜く行為は、足で顔を踏まなくてもできるから。
など、さまざまなことが考えられます。
つまりこの質問に固定した正解はありません。
では何のためにそのような質問がされているのかといえば、生徒たちが「恥」とは何かを自分の頭で考え、それを言葉にして表現することが大事にされたからです。
言葉で表現することで、モヤッとした概念が、きちんと整理された思考になるのです。

戦後の国語教育の問題のひとつがここにあります。
国語教育の目的は、我々日本人が日常的に用いる日本語を習得するだけでなく、その理解力(りかいりょく)と発表力とを養うことです。
そうすることで国民的思考と感動を共有し、これによって
「国民精神の涵養(かんよう)」
を図ったのが、戦前戦中までの国語教育の要諦です。
戦前戦中までの国語教育に関する文部省(当時)の学習指導要綱には、まさにそのように書いてあります。

ところが戦後の学習指導要綱は、国語教育の目的を、
「国語を適切に表現し正確に理解する能力を
 育成し伝え合う力を高めるとともに、
 思考力や想像力及び言語感覚を養い、
 国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる」
としています。

つまり根本的な教育目的が違うのです。
「国民精神の涵養」は、「価値観の押しつけ」であって、教育からは除外されるべきものとされています。
しかし、現代の学習指導要綱が言う、「国語を適切に表現し正確に理解する能力」も、「伝え合う力」も、「思考力や想像力」も、「国語に対する関心」も、「国語を尊重する態度」も、いずれも根底となるべき「国民精神」が育っていなければ、それらの基準となるものがありません。
「国民精神」ががない状態というのは、判断のものさしとなる価値観を持たないということだからです。

上の設問でも、「武士の恥」が、「単に顔を踏まれたこと」であるならば、それは単なる喧嘩上等の世界です。
あるいは、武士の顔を踏む際に代金の要求をしなかったことというなら、それは金銭亡者の世界です。
あるいは「生きながら顔を踏まれたから」なら、死体ならいくら顔を踏んでも良いのでしょうか。

真っ直ぐで正常な「国民精神」が根底に育っていなければ、まともな判断など、できるものではないのです。
そして真っすぐで正常な「国民精神」とは、日本人としての真っ直ぐで正常な価値観のことです。
「価値観=国民精神」なのです。
つまり国民精神の涵養は、国民的価値観を育成するのです。

「国民精神」は、英訳するなら「アイデンティティ(Identity)」です。
教育の目的は、児童のアイデンティティを育てるところにある、などと言われたりもします。
けれど結局のところ、そのアイデンティティなるものは、戦前戦中までの日本の教育にあった「国民精神」そのものでしかないのです。

いまの日本は、1億2千万を超す生粋の日本人の人口がありながら、わずか2〜300万人(つまり人口の2%程度)の外国人によって、日本文化そのものが乗っ取られようとしていると言われています。
この2%(つまり50人に1人)というのは、ヨーロッパやチャイナやコリアにおける王侯貴族の男子人口と同じです。
歴史をさかのぼれば、ギリシャ時代の市民の割合(男子のみ)と同じです。
そしてそれらの国では、人口の2%の人たち(女性を含めると4〜5%)だけが市民であり、その余は奴隷です。
日本人は、もとからの日本国土に住みながら外国人の奴隷になろうとしているのでしょうか。

平安時代の初期、実は日本は多民族国家といえるほど外国からの帰化人の構成割合が多い国でした。
この時期に書かれた書物に「新撰姓氏録」がありますが、この書では、畿内に住む豪族の3分の1が外国からの渡来人を意味する「蛮夷」であると書かれています。
にもかかわらず平安時代は、我が国が平和と安定、そして文化の香り高い国を形成しました。
その平安時代に、紫式部や和泉式部、清少納言、赤染衛門など、世界最古ともいえる華やかな女流文学が我が国で誕生しています。
我が国の歴史上、最高の美女とされる小野小町も中東系の血をひく美女であったと言われています。

なぜ外国人の割合が多くても、日本が平和で豊かで、女性たちが安心して高い教育を身に着け、当時の世界にあって最高峰ともいえる高い文化を持った国になることができたのでしょうか。
その理由が、平安時代の前の、飛鳥時代から奈良時代にかけて編纂された「日本書紀」や「万葉集」にあります。
「日本書紀」は、これから大人になろうとする子たちの国民精神(アイデンティティを養い、「万葉集」は、その結果として一般庶民の女子に至るまで施された高い教育の存在を明示していたのです。

つまり、確固とした日本精神が育成されていれば、どんなに外国人が大勢あったとしても、日本の文化はしっかりと守られるし、その方が、日本に住もうとする外国人にとっても、居心地の良い、暮らしやすい日本であることができるのです。
だからこそ、ただ外国からやってきただけの人のことを「渡来人」と言い、日本に帰るところを化(か)えた、つまり日本に永住し、日本人となって日本人とともに日本の歴史を築いていこうとする人たちのことを「帰化人」と呼んで区別したのです。
そして帰化人は、肌の色が違っても、瞳や髪の色が違っても、日本人とされたのです。

つまり、「国民精神」こそが大事なのです。
教育論については、偉い先生が、色々と本を出しておいでになりますが、そういう本には、なにやら難しい言葉が連なっているけれど、難しい言葉の羅列になっているということは、実は中身がない、ということです。
なぜなら我が国では、真実は常にわかりやすい言葉になっているからです。
そしてそういうものを、やさしい言葉で表現できるのもまた、日本語の特徴です。

「ささの葉 サラサラ のきばに ゆれる
 お星さま キラキラ 金銀砂子(すなご)」
は、童謡の七夕(たなばた)ですが、風に揺れる葉の音も、夜空の星の美しさも、外国語で表現しようとすると意外と難しいものです。

The bamboo leaves rustle, rustle,
shaking away in the eaves.
The stars go twinkle, twinkle,
Gold and silver grains of sand.

などと訳されますが、サラサラの代用として用いられている「rustle」には、盗むという語彙もあります。
またキラキラの訳となっている「twinkle」は、変化すると「Tweet、Twitter」になりますが、瞬間の輝きのことを言います。
そうなると「The stars go twinkle, twinkle」は、語感的には「お星さまがつぶやく、つぶやく」、あるいは「お星さまがピカピカ輝く」といったイメージになってしまい、日本語の「お星さまキラキラ」とは、だいぶ印象が変わってしまいます。
イメージ的には「向こうの軒で笹の葉が音を立て、星がかがやいているところで、少しの金と少しの銀を盗もう」という歌詞にも聞こえてしまう。
これが日本文化の代表的童謡ですと言ったら、何やら誤解を受けそうです。
けれど赤ちゃんや幼児なら、「お星さまキラキラ」は、素直に受け入れることができる。

要するにピュアな日本的精神性というのは、きわめて純朴で素直なものであり、そうした日本的国民精神という根幹となる価値観、つまり国民精神の涵養がなければ、様々な文物が、むしろ誤解を生むもとになってしまうのです。
まして日本国内における国語教育です。
日本語の持つ文化性、日本人の持つ豊かな情感を育成するには、誰がどうみても国民精神の涵養が根本です。

教育もまた、根底から見直さなければならないものです。


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コメント

松さん

以和為貴
我国の先人は、衆知を重んじて意見を戦わせ、知識や知恵を取り入れ、固有の精神を培ってきました。
十七条憲法の第一条には「以和為貴」と書かれています。
『国民みんなが、農業を通じてひとつ釜の飯を食い、何事も話し合いを通じて諸問題を解決することで、みんなで豊かな国を実現していこう』
これが、我国の伝統ある国民精神の根幹だと思っています。

しかし、和を貴ぶあまり、他人様の目を気にし過ぎる癖もあります。
他人様から誉められても「有り難う」とは中々返せません。
謙遜や謙虚を「美徳」だと思っているからだと思います。

他人様と違うことを言ったり遣ったりで目立つと、妬みや反感を買って攻撃されるかも知れない?
だから、本音は違うけど余計なことは言わず「良い子」で居よう?
こんな方々は多いと思います。
周りと違うことを嫌い過ぎると、その内に『今だけ!金だけ!自分だけ!』になりかねません。

時々、自分を情けなく思うことがありますよね。
不十分な点や欠点が多くありますから、気が付くと自分の粗探し。
成功体験は忘れてしまい、恥ずかしい失敗ばかり思い出します。
平和ボケ真っ只中の自分でも、これじゃダメだな~と思っています。

奇しくも感染症禍に遭遇し、これから始まる新しい時代。
我国はどの様に変わり、国民精神は維持できるのでしょうか。
我国というチーム。
その一員として、伝統精神の発揮と彌榮を祈るばかりです。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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