わたしたちが普段、苗字と名前を名乗っているということは、実は、私達が天皇の子であり、天皇の臣下であることを、認めている、という意味になるのです。 これは、日頃忘れられていることですが、実はとても重要なことです。 |

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現代日本では「氏(うじ)」も「姓(かばね)」も、同じ苗字(名字)としか扱われません。
そうなった原因が明治4年の「姓尸不称令(せいしふしょうれい)」(明治四年太政官布告第五三四号)で、このときはじめて、公文書に「姓氏」を書かずに苗字実名だけを使用することが布告されました。
その後、苗字(名字)の書き方については、様々な布告が続いた・・・つまり二転三転するのですが、最終的に固まったのが明治8年の「平民苗字必称義務令」(明治八年太政官布告第二二号)です。
この義務令によって、すべての日本人が「苗字と名前だけ」を標記するようになりました。
ではそれまではどうだったのかというと、「姓(かばね)」と「氏(うじ)」は別なものとして扱われていました。
「氏」は、「同じ人を祖先に持つ血族集団」のことです。
たとえば織田とか松平、あるいは榊原、井伊、酒井などの「氏」を持つ者は、みんなご先祖が同じ人だったわけです。
「氏」の素性(すじょう)は8世紀に編纂された『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』に詳しく書かれていて、この本にはもともと日本にいた人たちがどういう姓なのか、渡来人はどういう姓なのかが全部記録されています。
8世紀の時点でそのようなことができた国は、世界広しといえども日本だけですが、これができたのは「氏」が同じ血族集団に与えられたものであったことによります。
農家などでは、土地ごとに集落が営まれましたから、もともとは村の名前=血族集団=氏(うじ)でした。
この歴史は古くて、日本ではおよそ8千年前から稲作が行われたりしていましたから、血族集団が血族集落となり、その集落ごとに神社が営まれ、その全国的な神社がネットワーク化されて、その上に大和朝廷が成立しています。
いまでも「氏神さま」といいますが、氏神さまは、同じ村の、つまり同じ血族集団の御祖先が神様として祀られたことに発祥しています。
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ところが江戸時代になると、全国の大名たちがネットワーク化され、国替えのようなことも度々行われるようになりました。
すると藩の武士たちの知行地も場所が変化します。
つまりもともとは武士たちは「氏」の血族集団の長(おさ)だったのだけれど、それが別な氏を持つ村を知行するようになるわけです。
たとえば大利根村であれば、もともとそこには大利根という氏を持つ人達の血族集団であり、大利根氏というお侍さんが、その大利根村の領主の一族であり、本家筋であり、お殿様です。
ところがその領主の大利根のお殿様が、別な知行地をいただいて、別な土地に引っ越してしまう。
そして新たに多摩川さんというお侍さんが、領主としてやってくる。
多摩川さんは、大利根村の村人たちと血縁関係はありませんが、両者は互いに協力して、いままで以上に村の発展のためにがんばっていかなければならないわけです。
けれど、だからといって、もともといた大利根の氏を持っていた人達が、古式の伝統にしたがって多摩川さんに名前を変えたり、あるいはあとから知行のためにやってきた多摩川さんが、大利根に氏を変えたりしたら、世の中が混乱します。
そこで江戸幕府は、農家が勝手に氏(うじ)名を変えることを禁じ、大利根村の熊さん、八っつぁんは、多摩川熊五郎、多摩川八兵衛と名乗ってはならない、そのまま大利根熊五郎、大利根八兵衛のままでいなさいとしていました。
これが解除されて「平民苗字必称義務」となったのが、明治8年だったというわけです。
戦後、公職追放の後釜に座って日本人のような顔をした日本人でない学者さんが、しきりに「江戸時代の庶民には名字がなかった」などと宣伝しましたが、これはとんでもなく誤解を招きやすい言い方です。
我が国では天下万民、庶民であろうが武士であろうが、全員「氏」があったのです。
だからどんな山奥の村でも「氏神様」がちゃんとあるのです。
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もうひとつの「姓(かばね)」は、これは苗字(名字)とは全然異なるものです。
「姓(かばね)」は、もともと天皇に仕える特別な人たちを表すもので、朝臣(あそん)とか宿禰(すくね)、連(むらじ)などがこれにあたります。
大納言とか中納言は、いまでいったら、総理府の次官とか部課長のような役職名で、これとは別に、大きな功績があった人などに、その家系をたたえて、「あなたの家系は立派な朝廷の家臣であることを認めましょう」と与えられたのが、朝臣とか宿禰のような「姓(かばね)」です。
ですから、たとえば在原業平朝臣、藤原敏行朝臣、大中臣能宣朝臣などといったように、「姓(かばね)」は、通常、氏名のあとや、真ん中に付けられました。
おもしろいことに、大久保利通は藤原朝臣大久保利通、大隈重信は菅原朝臣大隈重信、山縣有朋は源朝臣山縣有朋と名乗っています。
たとえば藤原朝臣大久保利通というのは、藤原の氏族で、朝廷から朝廷の臣下を意味する朝臣(あそん)の称号をいただいた家系の、大久保村の領主である利通(としみち)という名のお殿様、という意味です。
略して藤原朝臣利通、菅原朝臣重信、源朝臣有朋と書かれることもあります。
ものすごく簡単にまとめると、
・氏(うじ)=律令制に基づく村の血族集団の名前
・姓(かばね)=朝廷からその家系に与えられた名誉官位
みたいなものということができます。
この「氏姓(うじ・かばね)」の制度のことを、「氏姓(しせい)制度」といいます。
明治維新後、四民平等となり、旧来の職制が貴族も武士もすべて一律に廃止となったことから、名前の真ん中に姓(かばね)を表記することがなくなり(つまり姓を用いることがなくなり)ました。
つまり、藤原朝臣大久保利通の藤原朝臣が取れて、大久保利通だけになったわけです。
さらに明治のはじめ、全国民があらためて陛下のおおみたからとして、君民一体となって、欧米列強の脅威から日本を守ろうということから、血族集団としての氏(うじ)にこだわることなく、日本全国、もとをたどせば、みんな同じ血族じゃないかということで、村の東側の田んぼを耕している家なら東田さん、西側の田を耕していれば西田さん、南側なら南田さん、北の川のほとりなら北川さんなどと、氏とは別に「苗字(名字)」を名前の前につけることになり、その名字で官製の戸籍が作られることになりました。
これが明治8年の「平民苗字必称義務令」です。
つまり現在の名字と名前の二つからなる日本人の名前は、もともとが、すべての日本人が同じ血族であり、同じ「おおみたから」であり、陛下の子であることを本義としてできあがったものです。
ですから山田太郎さんなら、天皇のおほみたからであり、日本人という血族集団のひとりであるという意味になります。
つまり藤原朝臣山田太郎ではなく、天下万民、天皇の子であり、日本朝廷の臣下の山田の太郎さんだ、ということになるわけですから、昔風に言うなら、日本朝臣山田太郎さんであり、その日本朝臣(氏姓)は、日本人なら皆同じなのだから、その日本朝臣を省いて、単に山田太郎と表記している、ということです。
*
最近では自分の家系の氏神様(うじがみさま)がわからないという方が増えましたが、そうなったということは、すべての日本人が血族にかかわりなく、誰もが天皇の「おほみたから」であるということが明治期に再確認されているからです。
そして我々庶民が「おほみたから」であるということは、政治権力者も我々庶民も、等しく天皇の「おほみたから」です。
つまり我々は天皇の「おほみたから」であるという一点によって、権力からの自由を得ているし、権力者に私有される隷民とならずに済んでいます。
ということは、「天皇は憲法上の制度だ、天皇制反対」と唱えるということは、わたしたちひとりひとりの人間としての尊厳を否定し、政治権力者の私有民となり、民衆を「奴隷のような隷民にしたい」と言っているのだということです。
世界を見渡せば、民主主義を標榜しながらも、いまだに庶民が隷民として扱われている国が多数あります。
世界では、自由のために流血を伴う戦いが、国歌にまで歌われている国も多数あります。
しかし我が国は違います。
わたしたち国民のひとりひとりが、すべて天皇の子であり、朝臣だとされているのです。
つまり、わたしたちは権力者の奴隷ではない。
そしてわたしたちが、普段、苗字と名前を名乗っているということは、実は、私達が天皇の子であり、天皇の臣下であることを、認めている、ということになるのです。
これは、日頃忘れられていることですが、実はとても重要なことです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
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因みにご先祖の一番古い墓石には「正徳」と刻まれています。
2020/07/15 URL 編集
みょみょみょみょ~ん
これらは「名字」に分類されるものと考えます。氏姓(本姓)は異説異論もありますがそれぞれ、織田=桓武平氏資盛流、松平=清和源氏新田氏流、榊原=清和源氏仁木氏流、井伊=藤原北家良門流、酒井=清和源氏新田氏流(松平氏傍流)ということになっています。
名字は平安期、公田や荘園における徴税の基礎単位・名(みょう)に由来するとされます。公田や荘園の在地管理者は田堵(たと)と呼ばれ、国司や荘官に田租を納付する任務を担っていました。負名(ふみょう)です。当初の田堵は名田経営と納税の請負人だったわけですが、時代が下るとある種の保有権を有する存在と見做されるようになります。これを名主(みょうしゅ)といいます。
名(土地)に呼び名がないと不便なので当然、名前が付いています。名主も同じ名前で呼ばれることが多く、これが名字(みょうじ)の起こりとされます。地名と人名(家名)のどちらが先なのかはわかりません。どちらの場合もあったのでしょう。ちなみに「苗字」は苗裔(子孫)の名前という説があります。本家は名字だけど、うちは分家なので苗字というへりくだり表現なのかもしれません。
名は全国各地に無数にありましたからたくさんの名主様がいたわけですが、その上位単位の郷や庄(荘園)を名乗る場合もあります。こちらは歴史に名を残しています。徳川氏はご先祖様が上野国・得川郷の領主となって得川を称したことに始まるとされます(得川は当初、「えがわ」と読んだそうです)。新田や足利は荘園の名前です。
得川を最初に称したとされる得川義季(新田義季、世良田義季)は、新田義重(源義重)の四男です。義重は父・義国と共に上野国・新田郡を開拓して新田荘を立券、新田荘司と称したことから「新田」の名乗りが起こります。が、惣領を継いだ次男・義兼は「新田義兼」と新田を継ぎますが、兄弟たちは里見義俊、山名義範、世良田(得川)義季、額戸経義とバラバラ。分割相続の時代だったので、惣領家の持つ新田荘や八幡荘の郷を分け与えられ、分離独立したのです。つまり、名字は経済的に独立経営となった「家」の名前の役割を果たすことになります。
「源氏」「新田氏流」であれば「ご先祖が同じ人」で意味が通じますが、里見、山名、世良田、得川、額戸という名乗りは「先祖が同じ」ことを示すものとは言えません。むしろ、違いを示す符号として機能するものです。江戸時代までは氏姓と名字の二本立てだったものが、明治になって名字に一本化したことにより、分離する方向に向いているとも言えるかもしれません。氏神様がわからないという方が増えたのも理由があるのです。
2020/07/15 URL 編集
松さん
中学生の頃、本家の頭領に聞いたことがあります。
『海賊。元寇の功労で侍になった』
え~っ!海賊の子孫なのか~!
とてもビックリしました。
先日、母の古いアルバムを整理中に、一枚の写真を見付けました。
若い両親が赤ん坊を抱いて神社に立っています。
これは?
写真の横に、筆で『◯◯1箇月』と書いてあります。
どうやら初宮詣の私のようです。
背景の古びた神社が気になり、また本家の頭領に架電しました。
『多分◯◯神社だと思う。遠いけど。我血族の産土神社だからね』
その神社をNETで調べてみした。
社殿は写真と同じ佇まいでした。
・奉斎=渡来系氏族「秦氏」
・祭神=大山咋神「酒奉行」
御先祖様は渡来人の血族?
これ以上は誰にも分かりません。
氏神様を見付け、気分爽快です。
埼玉の田舎に住み着き、地元の神社を崇敬しています。
聞けば、純粋の「氏子」は少なくなってしまったそうです。
2020/07/15 URL 編集