大和の吉野山に到着した義経らは、吉水院という僧坊で一夜を明かします。
そこからは、大峰山の山越え路です。
ところが問題がありました。大峰山は神聖な山で、女人禁制なのです。
女の身の静御前は立ち入ることができません。
やむなく義経は、静御前に都へ帰るようにと告げます。
「ここからなら、都もさほど遠くない。これから先は、ひどく苦しい旅路ともなろう。そなたは都の生まれ。必ず戻るから、都に帰って待っていておくれ」
それを聞いた静御前は、「私は義経さまの子を身ごもっています」と打ちあけます。
そして、「別れるくらいならいっそ、ここで殺してください」と涙ぐみます。
このときの静御前は、鎧をつけ大薙刀を持っています。
鎧姿に身を包み、愛する人との別れに涙する絶世の美女、泣かせる場面です。
ここでひとこと注釈を挟みます。大峰山は、たしかに女人禁制の山です。
しかし、義経一行は、頼朝に追われた逃避行です。
いわば緊急避難行動中です。
たしかに静御前は女性ですが、大峰山に入る姿を誰かに見られているわけではありません。
関所があるわけでもありません。つまり、女人禁制とはいっても、女性を連れて入ろうとすれば、いくらでも入ることができる状態でもありました。
人が見ていなければ、見つからなければ、何をやってもいいと考えるのは、昨今の個人主義の弊害です。
昔の日本では、人が見ていようが見ていまいが、約束事は約束事、決まりは決まりです。
たとえどんなに愛する女性であっても、たとえ口の堅い部下しかそこにいなかったとしても、誰も見ていなくてもお天道様が見ている。そう考え、行動したのがかつての日本人です。
だから義経は静御前に「都へ帰りなさい」と言ったのだし、御前もその義経の心中が分かるからこそ、禁制を破るより「殺してください」と頼んでいるのです。
義経は泣いている静御前に、いつも自分が使っている鏡を、そっと差し出しました。
「静よ、これを私だと思って使っておくれ。そして私の前で、もう一度、静の舞を見せておくれ」愛する人の前で、静御前は別れの舞を舞います。
目に涙を浮かべいまにも崩れ落ちそうな心で、静御前は美しく舞う。
それを見ながら涙する義経。
名場面です。
静御前が舞ったときの歌です。
見るとても
嬉しくもなし
ます鏡
恋しき人の
影を止めねば
「鏡など見たって嬉しくありません。なぜなら鏡は愛するあなたの姿を映してくれないからです......」
義経一行は、雪の吉野山をあとにしました。その姿を、いつまでもいつまでも見送る静御前。
一行の姿が見えなくなった山道には、義経たちの足跡が、転々と、ずっと向こうのほうまで続いています。
文治元(一一八五)年十一月のことです。
この月の十七日、義経が大和国吉野山に隠れているとの噂を聞いた吉野山の僧兵たちが、義経一行の捜索のために山狩りを行いました。
夜十時頃、藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着いた静御前を、僧兵が見つけます。
そして執行坊に連れてゆき尋問しました。
荒ぶる僧兵たちを前にして、静御前はしっかりと顔をあげ、
「私は九郎判官義経の妻です。私たちは、一緒にこの山に来ました。
しかし衆徒蜂起の噂を聞いて、義経様御一行は、山伏の姿をして山を越えて行かれました。
そのとき、数多くの金銀類を私に与え、雑夫たちを付けて京に送ろうとされました。
しかし彼らは財宝を奪い取り、深い峰雪の中に、私を捨て置いて行ってしまったので、このように迷って来たの です」と述べます。
翌日、吉野の僧兵たちは、雪を踏み分け山の捜索に向かいました。一方、静御前は鎌倉へと護送されます。
鎌倉に護送された静御前は、厳しい取り調べを受けますが、義経の行き先は知りません。
知らないから答えようもありません。
やむなく頼朝は、彼女を京へ帰そうとしますが、このとき彼女が妊娠五カ月の身重であることを知ります。
このため出産の日まで、静御前を鎌倉にとどめ置くことになりました。
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敵陣で舞う桜▼
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年が明けて四月八日、鎌倉幕府で源頼朝臨席の花見が、鶴岡八幡宮で盛大に執り行われることになりました。
この日頼朝は、幽閉されていた静御前に、花見の席で舞を舞うことを命じました。
なにしろ静御前は当代随一の神に通じる舞の名手です。
けれど、それは、静御前からすれば、敵の真っただ中で舞うことになります。
できる相談ではありません。
「私は、もう二度と舞うまいと心に誓いました。いまさら病気のためと申し上げてお断りしたり、わが身の不遇をあれこれ言うことはできません。けれど義経様の妻として、この舞台に出るのは、恥辱です」
そう言って、八幡宮の廻廊に召し出された静御前は、舞うことを断ったのです。
それを聞いた将軍の妻、北条政子は、たいへん残念に思いました。
新興勢力である鎌倉幕府記念の鶴岡八幡宮での大花見大会なのです。
「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なこと」
政子は頼朝に、再度、静御前を舞わせるよう頼みます。
頼朝は、「舞は八幡大菩薩にお供えするものである」と静御前に話すよう指示しました。
単に、花見の見せ物として舞うのと、鶴岡八幡宮に奉納するということでは、舞う意味がまったく違います。神への奉納となれば、これは神事だからです。
静御前は神に捧げる舞を舞う白拍子です。神事といわれれば断ることができません。
静御前は着替えを済ませ、舞台に出ました。会場は鎌倉の御家人たちで埋め尽くされています。
静御前は一礼すると、扇子をとりました。そして舞を舞いはじめました。
曲目は、「しんむしょう」という謡曲です。
歌舞の伴奏には、畠山重忠・工藤祐経・梶原景時など、鎌倉御家人を代表する武士たちが、笛や鼓・銅拍子をとりました。
満員の境内の中に桜が舞います。
その桜と、春のうららかな陽光のもとで、静御前が舞う。
素晴らしい声、そして素晴らしい舞です。
ただ......、何かものたりないのです。心ここにあらずなのです。
続けて静御前は『君が代』を舞いました。けれど舞に、いまひとつ心がこもっていません。
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『君が代』のお話▼
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ここでもちょっと脱線します。『義経記』は、ここでたしかに静御前が『君が代』を舞ったと記述しています。『君が代』を軍国主義の象徴のように思っている方もいらっしゃるようですが、大東亜戦争よりも八百年以上前に、静御前がこうして舞った歌でもあるのです。
『君が代』の初出は、『古今和歌集』です。巻七「賀歌」の巻頭歌として、「題しらず」「読み人しらず」で掲載されているのが『君が代』です。
『古今和歌集』は醍醐天皇の勅命で編纂され、延喜五(九〇五)年に奏上された日本初の勅撰和歌集です。『万葉集』に載っていない古い歌も収録されていますから、『君が代』は、すくなくとも千百年以上、場合によっては千四百年以上もの歴史のある歌なのです。
さらに、『君が代』の「きみ」とは、漢字で書いたら「君」ですが、そもそも日本語は、一音一音に深い意味が込められている言語です。
「き」は男性、「み」は女性です。ですからイザナキ、イザナミであり、おきな(翁)、おみな(嫗)です。そもそも「女」とは、「おみな」が転じて「おうな」となり、そして「おんな」となったものです。
つまり「きみがよ」の「きみ」とは、き(男)み(女)であり、あなたと私、君とボクです。
ですから、「君が代は千代に八千代に」は、「あなたと私の世は、未来永劫に」と読めるわけで、だからこそ『君が代』はおめでたい賀歌として、江戸時代から明治初期にかけて、婚礼の際に歌い継がれてもきたのです。
伊邪那岐命(いざなきのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)の二神は、我が国の国土を産み、我が国の最高神である天照大神(あまてらすおおみかみ)を産んだ神様でもあります。
そしてその直系の子孫が天皇であることから『、君が代』の「きみ」は、我が国の男女を表すと同時に、天皇を表すとされています。
そして我が国の男女は、天皇と一体となって国家を形成しているわけですから、「きみ」とは、我が国そのものを指していることになり、だから国歌となっているわけです。
『君が代』は、世界最古の国歌です。
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女ひとりで挑んだ戦い▼
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さて、話を鶴岡八幡宮にもどします。どこか心の入らない静御前の舞に、場内がざわめきはじめます。
「なんだ、当代随一とか言いながら、この程度か?」
「情けない。工藤祐経の鼓がよくないのか?それとも静御前が大したことないのか?」
会場は騒然となりました。敵の中にたったひとりいる静御前にとって、そのざわめきは、まるで地獄の牛頭馬頭たちのうなり声のようにさえ聞こえたかもしれません。普通なら、足が震えて立つことさえできないほどの舞台なのです。
その静御前は、二曲を舞い終わり、床に手をついて礼をしたまま、舞台でかたまってしまいました。
そのまま、じっと動きません。
「なんだ、どうしたんだ」
会場のざわめきが大きくなりました。
それでも静御前は動きません。
このとき御前は何を思っていたのでしょう。
遠く、離ればなれになった愛する義経の面影でしょうか。
このまま殺されるかもしれない我が身のことでしょうか。
「二度と会うことのできない義経さま。もうすぐ殺される我が身なら、これが生涯最後の舞になるかもしれない。会いたい、会いたい。義経さまに、もういちど会いたい......」
このとき静御前の脳裏には、愛する義経の姿が、はっきりと浮かんでいたのかもしれません。
『義経記』はこのくだりで、次のように書いています。
「詮ずる所敵の前の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて」
(どうせ敵の前じゃないか。いっそのこと、思うことを歌ってやろう!)
そう心に決めた静御前は、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと立ち上がりました。
なにが起こるのでしょうか。
それまでざわついていた鎌倉武士たちが、静まりかえっていきます。
そして、しわぶきひとつ聞こえない静寂が訪れたとき、静御前が手にした扇を、そっと広げました。
そして歌いはじめます。
しづやしづ
しづのをだまき
繰り返し
昔を今に
なすよしもがな
吉野山
峰の白雪
踏み分けて
入りにし人の
跡ぞ恋しき
「いつも私を、静、静、苧環の花のように美しい静と呼んでくださった義経さま。
幸せだったあのときに戻りたいわ。
吉野のお山で、雪を踏み分けながら山の彼方に去って行かれた義経さま。
あとに残されたあのときの義経さまの足跡が、いまも愛しくてたまりません......」
歌いながら、舞う。
舞いながら歌う。
美しい。あまりにも美しい。
場内にいた坂東武者たちは、あまりのその舞の美しさに、呆然として声も出なかったといいます。
その姿は、まさに神そのものが舞っているように見えたとも伝えられています。
この「しづやしづ」の舞を、静御前が白拍子だったから「賤」である、などと書いているものもあるけれど、とんでもない話です。
義経は、静御前を「苧環の花」にたとえているのです。
映画やドラマなどでは、いろいろな女優さんが静御前を演じ、私たちはその映像を見ます。
けれど物語は千年前です。
映画もドラマもありません。
ですから昔の人は、文字だけで何とか美しさを表現しようと、その場面に背景や花を添えてイメージを伝えているのです。
静御前は、苧環の花にたとえられました。
背景は、満開の桜の花です。
薄桃色一色に染まった背景の中で、一輪の苧環の青い花が舞うのです。
このようにして物語を立体的な総天然色の世界として読み手にイメージさせるのが日本の古典文学の特徴です。「賤」なんて、とんでもありません。
静御前が舞い終えました。
扇子を閉じ、舞台の真ん中に座り、そして頭を垂れました。会場は静まり返っています。
およそ芸能のプロと呼ばれる人には、瞬時にして聴衆の心をぎゅっと摑んでしまう凄味があります。
なかでも神に通じる当代随一と呼ばれた静御前です。
しかもその御前が、愛する人を思って舞ったのです。
どれだけ澄んだ舞だったことでしょう。
想像するだけで、体が震えるほどの凄味を感じます。
しかも、舞台は敵の武将たちのど真ん中。
そこで静御前は、女一人で戦いを挑んだのです。
会場には、またもうひとつの緊張がありました。
源氏の棟梁である源頼朝と、名だたる御家人たちの前で、静御前が敵方の大将であり、逃亡中の義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。
静寂を破ったのは頼朝でした。
「ここは鶴岡八幡である。その神前で舞う以上、鎌倉を讃える歌を舞うべきである。
にもかかわらず、謀叛人である義経を恋する歌を歌うとは不届き至極である!」
このとき、日ごろは冷静すぎるくらいの頼朝が、珍しく怒りをあらわにしたとあります。
このままでは静御前は、即刻死罪となるかもしれません。
けれど、これを制したのが、頼朝の妻の北条政子でした。
「将軍様、私には彼女の気持ちがよく分かります。私も同じ立場であれば、静御前と同じ振る舞いをしたことでしょう」
「ならば」と頼朝は言います。
「敵将の子を生かしておけば、のちに自分の命取りになる。そのことは、自分が一番よく知っている。生まれてくる子が男なら殺せ」
実は、このとき静御前は妊娠六カ月です。
お腹の子は、もちろん愛する義経の子です。
母親となる身にとって、生まれて来る子を殺されることは、自分が殺されるよりつらいことです。
北条政子は言いました。
「では、生まれてくる子が女子ならば、母子ともに生かしてくださいませ」
同じ女として、政子のせめてもの心遣いです。
頼朝は、これには、「ならばそのようにせよ」と言うしかありませんでした。
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千年の時を超えてなお、日本人の心を震わせる物語▼
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それから四カ月半後の七月二十九日、静御前は男の子を出産しました。
その日、頼朝の命を受けた安達清常が、静御前のもとにやって来ました。
お腹を痛めた、愛する人の子です。
静御前は子を衣にまとい抱き伏して、かたくなに引き渡すことを拒みました。
武者数名がかりで取り上げようとしたけれど、静御前は、断固として子を手放さなかったといいます。
数刻のやり取りのあと、安達清常らはあきらめて、いったん引きあげました。
安心した静御前は疲れて寝入ってしまう。
そりゃそうです。初産を終えたばかりなのです。体力も限界だったでしょう。
けれど御前が寝入ったすきに、お寺の磯禅師(いそのぜんじ)が赤子を取り上げ、使いに渡してしまいます。
子を受け取った安達清常らは、その日のうちに子を由比ヶ浜の海に浸けて、殺してしまいました。
目覚めて、子がいないことに気がついた静御前の気持ちはいかばかりだったことでしょう。
「どうせ殺すなら、私を殺してほしかった」
気も狂わんばかりとなった御前の悲しみが、まるで手に取るように伝わってきます。
産褥の期間を終えた静御前は、九月十六日、鎌倉から放逐されることになりました。
このとき、御前を憐れんだ北条政子は、たくさんの重宝を御前に渡し、京へと旅出するよう言ったといいます。
その後の静御前については諸々の伝承があり、はっきりしたことは分かりません。
北海道乙部町で投身自殺したというもの。由比ヶ浜で入水したというもの。義経を追って奥州へ向かうけれど、移動の無理がたたって死んだというもの等々、列挙すればきりがないほど、たくさんの物語が存在します。
静御前は、源頼朝の前で、堂々と愛する人を思う歌を歌い、舞を舞いました。
これがどれほど危険な行為か、静御前も分かっていたと思います。
そして、言うまでもなく頼朝の怒りを買い、子を殺されることになりました。
なみいる鎌倉御家人たちの前で、彼らの目を釘付けにするほど美しい舞を舞うことが、愛する義経の名誉を守ることになる。
逆に、「大した舞などできないじゃないか」となれば、それだけ義経は軽い存在でしかなくなる......。
彼女は、自分が殺されることを覚悟のうえで、義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。
この物語は、いまから千年も昔の物語です。そして実話です。
愛する人を慕う静御前の心、戦う勇気、子を思う親としての気持ち。
敵側でありながら、静御前に深く同情を寄せる北条政子。
義経の物語は、千年の時を超えて、いまも昔も日本人の心は変わらないものであることを教えてくれます。
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