この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。
フジテレビ系列の「写真物語」が先月放映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。
フジテレビによると、その内容はこうだった。
「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)
「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。
1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。
オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。
激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。
ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。
おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。
どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい。
それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨(せいさん)な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。
オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。
苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛…。
こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。
それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。
当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。
日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。
こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。
(中静敬一郎、産経新聞 平成7年11月6日「やばいぞ日本」より)
*****
長崎で原爆が炸裂したのは、昭和20(1945)年8月9日、午前11時2分です。
この原爆投下時の情況について、
「空襲警報が鳴ったけれど、
なぜか解除されたところに
原爆が落ちた」
とか、
「大本営はB-29の無線をキャッチしていたけれど、
これを放置した」
とかいう論があります。
はっきり申し上げますが、それは当時の軍を悪く言わんとする妄言です。
ジャーナリストだから何を言っても良いと思うのは傲慢です。
戦後では半島系の売文屋が、とんでも説を書いた本を出し、その本を「引用元」として学者という肩書を持つやはり半島系の反日活動家が、それを「引用文献」として本にし、その本をもとにアカヒなどの大手新聞社が宣伝と拡散を行って、その記事がまたひとり歩きするというパターンが繰り返されました。
愛はすべてにつながります。
国を愛する心も同じです。
いたずらに過去を否定され、愛を見失った日本人が、こうして拡散されたデマを頭から信じ込み、覇気をなくし、国家の活力、企業の活力を失わせ、企業業績を悪化させました。
そうすることで、企業や団体、組織が安く乗っ取られていきました。
結果、ゆがんだ人たちにとっての「素晴らしい日本」ができました。
ちなみにこの「引用」について、「引用元が明らかでない論説は学説の名に値しない」という論がいまではすっかりまかり通っていますが、引用のある論説だけが論だとするのは、行き過ぎです。
それはただの半島系左翼のプロパガンダです。
なぜなら引用元となっているもの自体が作り話だからです。
話が脱線しました。
長崎の原爆についてです。
長崎市の当時の人口は24万人です。
原爆によってお亡くなりになられた方は14万9千人です。
なんと市民の62%の命が、一瞬にして奪われました。
このときの死者数は、すこし複雑です。
一般に戦死や殉職死は、国家の保障の対象とされます。
ところが原爆の場合には、
熱線による被害、
放射線による被害、
後障害、
高熱火災による被災、
爆風による被災、
建物倒壊等による被災
など様々な状況があります。
従って、即死、即日死をまぬがれた人であっても、その数日後、あるいは数カ月後にお亡くなりになるケースが生まれます。
長崎原爆の場合、爆心地から半径1km以内が、即死・即日死で、およそ7万人。
1km圏外での即死・即日死が、周辺地での死者が7万人、
そして数ヶ月のうちに亡くなった方を含めると、上の数になります。
長崎への原爆投下は、本当に大災害を引き起こしたのです。
ところが実は、被害はもっと大きかったかもしれなかったということは、あまり知られていません。
どういうことかというと、長崎への原爆投下の、つまりこの日の原爆投下の、当初目標地点は、福岡県小倉市(現:北九州市)だったということです。
当時の小倉市(現:北九州市)の人口は約30万人です。
小倉市は、長崎以上に平野部が広がっています。
つまり長崎と違って、遮蔽物となる山がありません。
そこに原爆が投下されると、熱線による被災は、
北九州の戸畑、若松、八幡、門司全域だけでなく、
さらに関門海峡を越えて対岸にある下関市にまでに及びます。
従って被害規模は、推定で即日死が30万人以上、数ヶ月後の死者を含めると、おそらく40万人以上の被害が生まれたことでしょう。
それこそ、ぞっとする事態です。
この、「当初目標地点が小倉市であった」という事実は、私たちが知っておかなければならない重要な事実です。
ではなぜ、原爆投下が、小倉から長崎に変更になったのでしょうか。
この日、原爆投下のために米軍が飛ばしたB-29は6機です。
6機は別々に飛び立ち、硫黄島を経由して、屋久島上空で合流する予定でした。
ところが4機にエンジントラブルが発生し、4機は、出発をし直しに帰還しています。
残りの2機だけが午前9時44分に、目標地点である小倉市に到達しました。
その飛来したB-29に、小倉造兵廠にいた陸軍守備隊は、あらゆる火力を使って応戦しました。
空中で炸裂できるもの、あるもの、全部を撃ちあげて、空中に巨大な煙幕を張ったのです。
3日前の6日には、広島に原爆が投下されているのです。
B-29の大編隊なら焼夷弾投下の可能性もありますが、わずか2機で飛来したということは、それは「原爆投下のためにやってきた可能性が大」なのです。
ですから小倉造兵廠の陸軍守備隊は、市民を護るため、それこそ必死の応戦をしました。
当時の日本の高射砲は、B-29の高高度飛行までは弾が届きません。
けれど爆弾投下のためにB-29は、高度2000メートルくらいまで降りてきます。
ですから、普通なら、B-29がある程度の低空飛行になるのを待って、高射砲を撃つのです。
そうでないと弾がもったいないからです。
日本は物資が少ないのです。
ところがこのときの小倉造兵廠の陸軍守備隊は、B-29の飛来とともに、あらゆる火力を動員して、B-29の真下に、手許にある炸裂弾を片端から撃ちあげました。
そうすることによって、B-29の真下に、煙幕を張ったのです。
大きな花火大会などを見に行かれたことのある方なら、ご理解いただけると思います。
風向きによって、花火自体の煙が空を覆ってしまって、肝心の花火が全然見えなくなってしまうことがあります。
小倉造兵廠の陸軍守備隊は、まさにこれをやったのです。
こうなるとB-29は、高い高度にある煙幕のために、目標地点の目視ができません。
煙幕の下に出ようとすれば、今度は高射砲の餌食となります。
それでもB-29は、45分かけて、低空飛行に移って目標地点を補足しようとする行動を3度繰り返します。
そしてその、まさに「めちゃくちゃに撃ってくる高射砲」の煙幕のために3度目の低空飛行入りに失敗したとき、
陸軍の芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機が、
同時に海軍の築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が、
緊急発進やってきたのです。
このためB−29は、小倉への原爆投下を断念し、目標地点を第二目標の長崎市に切り替えて、小倉の空から去ったのです。
こうして、小倉市民は救われました。
小倉から対岸の下関に及ぶ地域の40万の命が守られたのは、まさに日本の陸海軍のおかげです。
さて、小倉上空を離脱したB-29は、目標地点を第二目標の長崎に切り替えました。
そのB-29が、長崎上空に達したのは、小倉上空で原爆投下をしようとした約1時間後の午前10時50分のことです。
この日の長崎上空は、積雲に覆われていました。
積雲は分厚い「夏の雲」です。
つまりB-29は、地上から発見されないまま長崎上空に到達しています。
B−29

発見されていませんから、当然、地上からの反撃もありません。
ところがB-29の側も困りました。
第二目標の長崎上空に達したことは機内での計算によってわかっているものの、積雲の上を飛行しているため、原爆投下の目標地点の目視ができないのです。
つまりそのままでは原爆の投下ができなかったのです。
ところがこのとき、空を分厚く覆っていた積雲に突然割れ目が生じました。
そこから眼下に長崎の街並が見えました。
そこでB-29は「手動操作で」原爆を投下しています。
それが午前11時1分のことです。
放物線を描いて落下した原爆は、およそ1分後の午前11時2分に炸裂しました。
爆心地である炸裂の場所が、長崎市街中心部から約3km逸れたのは、このような事情があったからです。
原爆は、長崎市松浦上地区中央にあったテニスコート上空、高度503mで炸裂しました。
長崎に投下された原爆の威力はTNT火薬換算で22,000トン(22キロトン)です。
これは、広島に投下されたウラン235型原爆の1.5倍の威力のある爆弾でした。
この炸裂によって、長崎市の浦上地区はほぼ完全に瓦礫の平原となり、一瞬で町に住む14万9千人がお亡くなりになりました。
広島よりも威力の大きな爆弾で、広島(人口20万人)よりも死傷者が少なかったのは、爆心地が市街中心部から多少逸れたこと、および長崎市の周囲をとりまく山々が遮蔽物となったことによります。
それでもおよそ15万人にものぼる市民の命が奪われました。
では、どうして長崎では、空襲警報も応射も間に合わなかったのでしょうか。
わずか3日前には、広島に原爆が落されたばかりです。
当然のことながら、長崎でも強烈な危機感を持ってB-29の飛来を警戒していました。
一方、硫黄島を出た二機のB-29は、午前9時すぎに大分県姫島方面から日本領空に飛来し、9時44分に小倉に現れました。
このため長崎では午前10時過ぎに、いったん警戒警報の解除を行っています。
なぜならB-29の空爆先が小倉とわかったからです。
いったん防空壕に避難した長崎市民も、日常の生活に戻りました。
ところがそのB-29は、小倉での爆弾投下に失敗しました。
そして移動するのですが、北九州から長崎までの空は、ぶ厚い積雲が覆っています。
また、高高度を飛行するB-29は、雲の上を飛びますから、地上から見えません。
このことは、B-29の側にとっても、地上が見えないことを意味します。
そこでB-29の乗員のひとりが、航法士に「現在地はどの辺りか」と尋ねたのです。
このとき答えようとした航法士が、誤って内線用のインタホンのスイッチと外部送受信用の無線スイッチを取り違えて、返事をしました。
このためB-29の機内通信が、外に洩れました。
よほど慌てたのでしょう。
慌てた操縦士が運転を誤り、あやうくもう一機のB-29と空中で衝突しそうになっています。
この無線を、鹿児島沖で作戦からはぐれて迷子になって飛行していた別なB-29がキャッチしました。
そのB-29が、突然はいってきた現在地を知らせる僚機の無線に、
「チャック、いまどこにいる?」
と音声無線を返したのです。
これが午前10時50分です。
この無線通信を、日本も傍受しました。
ほんの一瞬の無線漏洩ですが、高度警戒態勢にあった日本の通信傍受隊は、B-29の一機が鹿児島沖にあり、もうひとつが長崎方面にいると場所を突き止めます。
そしてすぐに長崎に警戒を呼びかけました。
知らせを受けた長崎市では、すぐに空襲警報を鳴り響かせています。
これを聞いたら、市民はなにはさておいても防空壕へ避難することになっています。
いつもなら、これだけの対応なのですが、広島の原爆投下で甚大な被害を受けたばかりのできごとです。
軍と市は一体となって、空襲警報だけでなく、ラジオの臨時ニュースでも動員して、長崎市民への緊急避難を呼びかけました。
ラジオからは、
「長崎市民は全員退避せよ。
繰り返す。
長崎市民は全員退避せよ」
という声が繰り返し流されました。
そしてその臨時ニュースの声が「全員退避・・・・」と言ったところで、原爆が炸裂しました。
そしてラジオの声は無変調になりました。
アナウンサーの声は、原爆が光ったその瞬間で途切れたのです。
この当時の状況について、
「長崎への原爆投下は、
空襲警報が鳴ったけれど、
なぜか解除された。
そこに原爆が落ちた」
とか、
「大本営はB-29の無線をキャッチしていたが、これを放置した」
とかいう妄言を言う人がいます。
けれど長崎では、いったん空襲警報が解除されたあと、原爆の炸裂前に再度警報が出されています
しかもその二度目の警報は、もしかしたらそれが新型爆弾(原爆のこと)かもしれないと知っていながら、ラジオのアナウンサーも、局のスタッフも、死の瞬間まで市民への呼びかけをやめず、逃げずに繰り返したのです。
そしてその放送は、軍の無線キャッチによる警戒情報発令があったからこそ行なわれたことです。
事実の断片だけを切り取って、まったく異なる事態であるかのようにすり替えることは、今も昔も変わらぬ特亜国の宣伝工作や、日本国内にいる日本人のような顔をして日本語を話す日本人でない人モドキの人々の常套手段です。
残念なことにいまだに、それを真実と思い込んでいる人が多いようですが、それが妄言に他ならないことは、少し調べたらすぐにわかることです。
おわりにひとつ。
北九州が「必死の抵抗を試みたことで救われた」ということは、私達日本が世界で唯一の原爆国であるだけに、しっかりと認識すべきことなのではないかと思います。
残念なことですが、世界は、必死の自衛を講じなければ、民族ごと蹂躙されるのです。
それが世界の現実であり、歴史であり、真実です。
これによって日本人は過去、現実に犠牲者を出しています。
北九州の小倉で行なわれた必死の抵抗は、まさに自衛権の行使です。
上空が弾幕の煙幕で隠れてしまうほどの対空砲火を行ったということは、それが市街地ですから、その対空砲火の流れ弾や上空で爆発した弾薬の破片等が市街地に落下してきて民家等に被害をもたらす危険だってあるのです。
けれど、だからといって対空砲火を「しなかった」なら、何が起こったのかに、私たちは気づかなければならないと思います。
さらに、現代の戦争は75年前、80年前の戦争とはその破壊力もやり方もまったく異なります。
早い話、100万の軍勢も、一発のミサイルで消滅させることができる時代なのです。
しかもその100万の軍勢の動員を行おうとするところを、消滅させることもできるのが現代戦です。
さらに気象や災害までもが、人為的に引き起こされる。
情報も操作される。
中共政府はこれを「超限戦」と名付けましたが、戦争は、通常戦、外交戦、国家テロ、諜報戦、金融戦、ネットワーク戦、法律戦、心理戦、メディア戦など、ありとあらゆる方面に及び、その支配の方法は総合方向性、共時性、制限目標、無制限手段、非対称、最小消費、多元的協調、そして全ての過程の調整に及びます。
戦争に勝つということは、相手を屈服させて支配するということですが、そのために行われるすべてが戦争の手段だとみなされるようになっています。
支配された側は、物理的にすべてを奪われることになります。
これを戦略的、計画的に行うのが、戦争だというわけです。
日本が、平成30年間、ずっと経済が横ばいだったということは、日本人なら誰もが知ることです。
けれど、それは日本企業の利益を、日本が官民をあげて、チャイナやコリアに「付け替える」ことによってもたらされた現象です。
日本は戦略的に嵌められ、日本人の良心と人の良さが利用され、日本は利益のすべてを取り上げられて、いまだに経済が弱化したままです。
さらに今年になってからは、コロナ被害が襲っています。
では日本再生の道はあるのでしょうか。
あります。
経済分野でいえば、電子通信機器やコンピューター、半導体は、日進月歩です。
半年経ったら製品が陳腐化する世界です。
3年もすれば、日本からパクった技術は、チャイナにしろコリアにしろ、完全にローテクになります。
彼らは世界の進運から取り残されるのです。
それどころか、それまで彼らの国が持つかどうか。
年内にも崩壊しそうです。
いくら超限戦などと威張ってみたところで、そこに誠意がなければ、いずれは滅ぶのです。
一方、いくら奪われても、日本の底力は衰えません。
なぜなら日本には誠意があるからです。
経済には、基礎となる底力と、その底力を使って上げる製品化があります。
利益が上がるのが、製品化です。
日本は、その製品化の部分を、ことごとく中韓に渡してきました。
日米貿易摩擦のために、日本が利益を上げることができない仕組みがあったからです。
このことは米国も同じです。
しかしコロナショックは、世界の仕組みを変えつつあります。
日米が協力してが力を取り戻すときがやってきたのです。
75年前の今日、長崎に原爆が落とされました。
その破壊力は、まさに想像を絶するものでありました。
いま、コロナが世界を覆い、日米英が共同して世界の仕組みの正常化を図ろうとしています。
最後に勝つのは、誠意です。
陽はまた昇ります。
※この記事は2015年8月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに小名木善行でした。
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