よく「お金持ちになりたい」という方がおいでになります。 ある大金持ちになられた方が言っていました。 「お金持ちになりたいなら、 お金にいつも感謝する気持ちを持ちなさい」と。 日本が幸せな国になりたいのなら、そこに必要なことは、対立でもなければ闘争でも有りません。 たいせつなことは、先人たちへの感謝の思い、そしていまの日本への感謝の思いなのではないでしょうか。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに小名木善行です。
終戦の日が終わり、8月16日になりました。
昭和20年8月16日といえば、スターリンが北海道北部のソ連による占領を提案し、これを米大統領のトルーマンが拒否して「日本を分割統治せず」と声明した日です。
これを受けたスターリンは、その二日後に千島列島東端の占守島に軍事侵攻。
1日で占領すると豪語していたものが、すでに武装を解いていた日本軍に猛烈に反撃されて、ついに撃退寸前にまで追い詰められてしまい、結果としてソ連はついに北海道侵攻ができなくなったという歴史があります。
このソ連による日本への軍事侵攻には、実はもともとの伏線があります。
昭和20年2月18日に、ソ連のクリミアにあるヤルタ近郊のリヴァディア宮殿で米英ソの首脳会談です。
この会談では、チャーチル、ルーズベルト、スターリンの三者が集って、「ソ連の対日参戦、連合軍(United Nations)の設立、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利権調整を図ろうとした」とされています。
ところがこの会談、なんと8日間も行われているのです。
なぜズルズルと続いていたのかというと、その会談の途中で、ルーズベルトのもとに、マンハッタン計画による原爆実験成功との報告がもたらされたのです。
原爆があれば、日本を屈服させることができると考えたルーズベルトは、それまでさんざん長引かせていた会談を、そくさくと切り上げています。
切り上げられたソ連は、このままでは太平洋戦役からソ連が外される(このことはソ連によるチャイナ支配にも多大な影響をもたらします)ということで、4月5日には日ソ中立条約を延長しないと日本に通告しました。
4月30日にはヒットラーが自殺し、事実上ナチス・ドイツが崩壊しています。
これによってスターリンは、ヨーロッパ戦線に展開していた120万の軍隊を太平洋側に、シベリア鉄道を使って大転進させていきます。
こうして太平洋側に転進したソ連軍は、合計160万の大軍となり、昭和20年8月8日午後11時に、ソ連のモトロフ外務大臣より日本の佐藤尚武駐ソ連特命全権大使に対日参戦が伝えられ、2時間後の同9日午前1時には、ソ連軍による対日攻撃が開始されています。
一方日本は、ヤルタ会談以前から、日米戦争の停戦交渉にソ連に介入してもらおうと外交交渉を続けていました。
これは日ソ中立条約があったためでした。
その日本の目論見は、米の原爆実験成功のもとに、もろくも崩れ去ったわけです。
歴史を振り返れば、もしこのとき、米国が原爆の開発に成功せず、ソ連がヤルタ会談で日米戦争の仲介を申し出て、これが採択されていれば、確実に言えることは、日本が東西に分割統治され、東日本は共産国、西日本は米国の占領下となっていたであろうということです。
そしてそうであれば、その後の日本の繁栄は有りえず、日本の繁栄がなければ、東アジア全域の繁栄も有りえず(東アジアの戦後に独立した諸国は、日本の援助によって独立後の国家経済を形成しています)、日本では、フィリピンがそうであったように、日本人の子供が、いまなお、ゴミの山で暮らすことになり、思想対立による日本国内のテロ活動が盛んになり、間違いなく言えることは、いまの日本の平和も安定も、絶対に築けていなかったであろうということです。
日本は原爆を二発も落とされるというたいへんな被害に遭いましたが、それでも、原爆無しで、代わりに米ソによって日本が分割統治される事態であったならば、原爆とは比較にならないほどの甚大な被害が起こり、おそらく戦後75年を経過した今日においても、日本はあの終戦直後のような悲惨な状態が、今なお続いていたのではないかと思います。
そう考えてみると、当時の日本の政府の意向であったソ連に停戦の仲介をしてもらうという案と行動は、結果から見れば、それが実現できなくてほんとうによかったといえるし、ヤルタ会談の席上で原爆成功との報告がルーズベルトにもたらされたことも、もしかしたらそれこそ八百万の神々のご神意であったのかもしれないと思えます。
米ソの攻撃によって、日本は甚大な被害を蒙りました。
そして民間人にも多大な損害が出ました。
まさにこの世の地獄とはこのことを言うのではないかといえるほどの、悲惨がありました。
けれど、我々日本人の民間人の損失は、およそ39万人です。
第二次世界大戦における民間人の被害者の総計は、世界全体ではおよそ8000万人、当時の世界の人口のおよそ2.5%です。
比率からするならば、当時の日本の人口はおよそ8000万人ですから、日本人の民間人も200万人以上の犠牲が出ていなければならない。
それがわずか0.5%の被害で済んだのは、(もちろん被害者となった方々はあまりに気の毒なことでしたが)、むしろ僥倖ともいえることであったといえるのではなかろうかと思います。
ソ連だけ見ても、昭和14年の時点でソ連の人口は1億9000万人ですが、先の大戦で戦闘員、民間人合わせて2700万人が犠牲になっています。日本の10倍です。
ドイツも同年の総人口7000万人のうち、およそ850万人が犠牲になりました。これまた日本の4倍です。
日本の犠牲者は、戦闘員、民間人合わせて210万人です。
世界の戦場を考えれば、日本の被害は(決して喜ぶようなことではないけれど)、極めて少ないものであったのです。
本土空襲に遭い、原爆まで落とされ、ソ連の対日参戦がありながら、それでもなお、日本の損害が少なかった理由はなにか。
それは戦闘員、民間人の死者の割合に明確に出ています。
先の大戦による日本の死者は、戦闘員174万人、民間人39万人です。
そして(繰り返しになりますが)日本の人口は8000万人です。
この数字が示すもの。
それは、帝国軍人が、多大な損失を出しながらも、勇敢に、そして立派に戦ってくださったおかげで、《多くの民間人の命が守られた》という事実です。
私たちは、そうした、若き日の父や祖父のはたらきによって、いま、この命をいただいています。
そしてその命は、ただただ若き日の父や祖父が、未来の日本がやすらかな世になることを願って、それこそ命がけで戦ってくださったおかげで、いただくことができた命です。
そのことに感謝の思いを常に忘れないこと。
それは、日本人としての、ごく自然な、ごくあたりまえの、そしてしごくもっともな、常識とすべきものであろうと思います。
よく「お金持ちになりたい」という方がおいでになります。
ある大金持ちになられた方が言っていました。
「お金持ちになりたいなら、
お金にいつも感謝する気持ちを持ちなさい」と。
日本が幸せな国になりたいのなら、そこに必要なことは、対立でもなければ闘争でも有りません。
たいせつなことは、先人たちへの感謝の思い、そしていまの日本への感謝の思いなのではないでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに小名木善行でした。
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