沖縄戦で米軍を苦しめた参謀・八原博通大佐

米軍の陸軍戦史は、沖縄戦について、次のように記しています。
「沖縄における日本軍は、
 まことに優秀な計画と善謀をもって、
 わが進攻に立ち向かった。」
沖縄戦において、日本守備隊は、実に勇敢に戦ったのです。
そしてこの沖縄における防御戦の作戦指揮をとったのが、ご紹介する八原博通第三二軍高級参謀です。

20200815 あゝひめゆりの塔
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。

いま、Amazon Prime Videoで、吉永小百合が主演した1968年作品の「あゝひめゆりの塔」を観ることができます。
戦争の悲惨さ、悲しさをつたえる名画です。
まだご覧になられていない方は、是非一度、ご視聴されることをお薦めします。

何が悲惨だといって、物理的な戦争ほど悲惨なものはない。
だから二度と戦争に巻き込まれてはならない。
これは筆者の信念とするところです。
だからこそ、そのために幾重にも備えを固めておく。
それこそ、戦争を経験した国民としての、あたりまえのことだと思います。

ただし、だからといって憲法9条を護れという議論は、正解といえないとも思っています。
なぜなら戦争は、相手があって起きることだからです。
日本に戦争をする意思がなくても、敵が勝手に攻めてくるということは、現実の問題としてあるのです。
国防をおろそかにすれば蹂躙される。
しかも現代は超限戦の時代です。
情報分野から政治経済、コンピューターネットワーク、ありとあらゆるものが戦争の対象です。

我が子を守るためなら、アゲハチョウでさえ、身を犠牲にしてでも闘います。
これは生き物の本能であろうと思います。
そういう心と行動を失った者は、もはや人の皮をかぶった獣どころか、生き物ですらないといえます。
昆虫にも及ばない、ゾンビです。
私は、常に人でありたいと願うものです。

「あゝひめゆりの塔」で描かれている大東亜戦争における沖縄戦は、昭和20(1945)年3月26日から6月23日にかけて行われた大規模な戦闘です。
日本の守備隊   11万6400名に対し、
米軍が投じた兵力は54万8000人。

日本の5倍の戦力であることに加えて、米軍の使用した銃弾の数は270万発、砲弾が6万発、手榴弾39万発、機関銃弾3000万発です。
まさに圧倒的な火力です。
これによって日本の将兵は9万4000名、民間人も同じく9万4000名がお亡くなりになりました。

「あゝひめゆりの塔」は、その中で、戦傷者の手当をするために野戦病院(といっても洞穴です)に勤務していた女子中学生(いまでいう高校1年生)の少女たちの物語です。
国際法によれば、軍隊が攻撃して良いのは、制服を着て鉄兜をかぶり、手に銃を持った兵に限るとされています。
野戦病院や、婦女子に対する銃撃は、戦時国際法上、あってはならないことです。

戦場は狂気の世界だからという人もいます。
当時の日本軍は、この戦時国際法を常に遵守して行動していましたが、米軍がそうではなかったことには、別な理由があります。
米軍に限らず、当時の世界では、イエローは人として認識されなかったのです。
現代の常識と、当時の常識は異なります。

このようなことを書くと、日本軍もチャイナで民間人を殺戮したではないかと言う人がいます。
その一例としてあげられるのが、重慶への空爆ですが、日本軍が民間人への虐殺をしたというのは、中共の宣伝工作にすぎません。
日本側は、あくまで重慶の国民党の軍事施設のみを狙って、ピンポイントで空爆を行っています。
理由は簡単です。
めくらうちできるほど、日本には砲弾に余裕がなかったし、日本は戦時国際法を守って戦っていたからです。

一方、こうした戦時国際法を逆手にとったのが当時のチャイナ兵で、軍服を脱ぎ、民間人のフリをして街に入り込み、いきなり銃を乱射して日本兵を殺すということが広く行われました。
これを便衣兵と言いますが、このことが効果があったのは、
(1) 日本が軍服を着ていない者への攻撃をしてはいけないという戦時国際法を遵守していたこと。
(2) チャイナ側がそうした(ある意味義理堅い)日本軍の行動をよく知っていたからこそ意図的に便衣兵が用いられた。
という二つの理由からです。
逆に言えば、それだけ日本がしっかりと戦時国際法を守っていたということの証明です。

さて話が脱線しましたが、「あゝひめゆりの塔」に描かれた沖縄戦については、当時の米軍の従軍記者の戦況報道に、次の一文があります。

「現在少将ホッジ麾下の第24兵団の
 進撃速度は1日2百メートルにとどまり、
 7日頃からは、
 日夜日本軍重砲兵の猛射を浴びて苦戦の連続だ。

 8日朝、アメリカ軍は要地赤色高地に向かって、
 戦車5台を先頭に突入、
 地雷原を突破前進したが、
 日本軍は焼夷弾をもって戦車を攻撃、
 さらに銃剣をきらめかせて突撃を開始した。

 この戦闘の結果、アメリカ軍は戦車3両を喪失、
 同高地を放棄しなければならなかった。

 牧港と東海岸の和宇慶を結ぶ線には
 日本軍の一連の陣地がある。

 欧州戦の体験者はこれを評して、
 巧緻かつ構想豊かであると同時に
 これまで見たいかなる陣地よりも
 見事に組織されていると慨嘆した。」



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映画「あゝひめゆりの塔」では、一方的に日本側の守備隊がやりこめられたかのような描写がされています。
左系の人たちが「戦争=馬鹿げた悲惨」だけを強調しようと作成した映画だけに、それは仕方がないことかとも思いますが、現実には、沖縄の守備隊は、実に巧妙かつ勇敢に、圧倒的な火力を持つ米軍と闘いました。
事実というのは、いくら偽装して隠そうとしても隠しきれない。
かならずどこかに真実が見え隠れします。
実際、米軍側の報道には、日本軍の頑強な抵抗に直面した米軍が、4月いっぱいかけても、わずか、2、3キロしか前進できなかったことが、事実として遺されているわけです。

さらにいうと、日本の軍があまりに近距離で激戦を挑んだため、米軍では沖縄戦全体で2万6000人もの兵士が、戦闘神経症にかかって戦列を離れています。
さらに地上での激戦のために、米海軍の機動部隊は、上陸軍の補給と支援、およびその補給艦隊の援護のために、沖縄近海に密集して長く留まらざるを得ず、そこには相次ぐ特攻隊による攻撃が加えられました。

特攻は、4月1日から6月22日まで、82日続いた沖縄戦に、本土から約1900機の出撃です。
そして米軍の軍艦34隻を沈没させ、
空母、戦艦368隻に重大な損傷を与えました。

このため、沖縄攻略戦の総指揮官であったニミッツ提督は、地上軍指揮官バックナー陸軍中将に、
「米海軍は一日1.5隻の割合で艦船を失っている。
 5日以内に第一線が動き始めなければ、
 貴官の更迭を求める」
と、極めて異例の申入れをしています。

特攻攻撃について、左系の人たちは「戦果が乏しく意味のない犬死だった」と主張しますが、そうであるならばこのニミッツ提督の言葉は、いったいどのように解釈したら良いのでしょうか。

繰り返しますが、特攻に飛び立った飛行機は1900機です。
特攻機は、おおむね5機の編隊で敵地に向かって飛んでいます。
攻撃回数を、1900÷5=380回とするなら、402隻の船に損傷を与えたという事実は、ほぼ全隊が一定の成果をあげたということです。
これは簡単な算数の問題です。
それを「なんの成果もなかった」だと言いきるのは、歴史に客観性を失ない、歴史を政治にすり替えた暴論でしかありません。

また、米軍側の特攻による被害の中に、「輸送艦」の文字が見当たりません。
戦闘の勝敗だけを言うなら、敵に対するダメージは、戦艦や空母よりも、輸送艦を叩いた方が、敵のダメージは大きいのです。
防御力が乏しく、食料、砲弾、ガソリン、兵員を満載した輸送艦を撃沈すれば、敵の戦力がいちじるしく消耗するからです。

しかし日本は、敵がどれほど強大であったとしても、こちらがどんなに寡兵であったとしても、どんなに不利な状況にあったとしても、防御力に乏しい敵輸送艦隊への攻撃をしなかったのです。
それが日本の武士の戦いというものだったのです。

ついでに申し上げると、有名なガダルカナルの戦いにおける一木支隊の餓死による全滅は、日本からガ島に食料などを運ぶ輸送船団が攻撃を受けて沈没したことによります。
これが何度も繰り返されるため、結果として輸送船を送ることができない。
それで一木支隊は食糧不足におちいって餓死しています。
ただし、ガダルカナルは熱帯の島です。
そして島中に、バナナやヤシの木が生えています。
つまり食料が豊富な島なのです。
けれどそれら果物は、現地の人達の重要な食料源となっていました。
そして日本の兵隊さんたちは、誰一人、その現地の人達の食べ物を(目の前にたくさん稔っているのに)、採って食べようとしなかったのです。
だから餓死しました。
たとえ餓死することがあっても、他人のものを盗って食べるようなことはしない。
それが日本の軍人さんであり、私達の父や祖父の若き日の姿であったのです。

沖縄戦に話を戻します。
ニミッツ提督に言われた側のバックナー陸軍中将(戦後「大将」が追贈)も、沖縄摩文仁(まぶに)高地での戦闘の最中、日本軍の砲弾を受けて亡くなっています。

摩文仁高地というのは、沖縄戦の日本軍最高司令部があったところです。
この時点で日本側の第32軍は、戦力の80パーセントを消耗していました。
そして、八重瀬岳方面の日本軍守備隊の独立混成第44旅団も、6月14日には全滅しました。
第62師団も、米軍の摩文仁高地進出を防ぐために全力反撃を実施して、6月15日、残存兵力の大半を失っています。
6月17日には、喜屋武地区の第24師団も、師団としての組織的抵抗が不能になっていました。

こうした状況の中、6月18日午後1時15分頃、摩文仁高地の眞栄田の最前線の戦闘視察中のバックナー中将が、砲弾の破片を胸に受けて亡くなったのです。
摩文仁高地での戦いは、もはや軍としての体をなしていないほどに、痛めつけられた日本守備隊が、最後の抵抗戦をしていたところです。
そこで、敵将を倒しているのです。
米国の軍史上で、最高司令官が戦死したのは、このバックナー中将だけなのだそうです。
このバックナー中将については、心に残るお話がありますので、それは明日の記事にします。

さて、米軍の陸軍戦史は、沖縄戦について、次のように記しています。
「沖縄における日本軍は、
 まことに優秀な計画と善謀をもって、
 わが進攻に立ち向かった。」

沖縄戦において、日本守備隊は、実に勇敢に戦ったのです。
そしてこの沖縄における防御戦の作戦指揮をとったのが、今日、ご紹介する八原博通第三二軍高級参謀です。

八原博通大佐は、鳥取県米子市で、明治35(1902)年、町役場の公務員の子として生まれています。
彼は、地元の米子中学校(現米子東高校)を卒業したあと、大正12(1923)年、陸軍士官学校を卒業し、最年少で陸軍大学校に入校。
昭和4(1929)年に優等(五位)で卒業し、恩賜の軍刀を拝領しています。

そしてその年に陸軍省に入省した八原は、昭和8(1933)年から昭和10年まで、約2年、米国陸軍の隊附士官として米国に駐在しています。
いわば陸軍きっての米国通だったわけです。

そして大東亜戦争がはじまると、第十五軍参謀としてビルマ攻略作戦を担当し、大勝利を飾った後、昭和19(1944)年3月、沖縄防衛を担う第三二軍の作戦担当の高級参謀に就任しています。
彼は、第三二軍の司令官であった牛島満中将を補佐し、米軍の来襲に備えて、沖縄県民の本土への疎開と、軍による沖縄持久戦を提案しました。

米国通の八原は、沖縄の珊瑚に囲まれた地形や、そこここにある洞窟を利用し、最初から長期持久戦を行うことによって、米軍に長く大量の出血を強いることで、必ずや米国内に厭戦気分が起き、和平上、日本の立場を有利にできると考え、これを第三二軍の方針としたのです。

ところが、沖縄戦の前に沖縄県知事だった泉守紀は、これを承認しない。
沖縄県民の本土への疎開を拒否するのです。

当時、沖縄の空に度々来襲する敵爆撃機の空爆に恐怖した泉知事は、沖縄県民の命を盾にして、自分だけが沖縄県知事の任を解かれ、本土に復帰できるよう工作をしていたのです。
当時の県知事は、いまのような各地での公選制ではなく、中央からの派遣です。
自分が本土に逃げたいだけの平和主義者泉守紀は、軍の方針にことごとく盾つき、ついには沖縄県民の疎開すら拒否してしまったのです。

しかも、大本営は敵情判断の中で、米軍は沖縄より先に台湾への侵攻を図ると考え、第三二軍から、主力の一個師団を台湾に引き抜いてしまいます。
かくなるうえは、残る兵力と、逆に民間人の協力をもって、沖縄を守るしかない。
本来は、戦場に訓練されていない民間人がいたら、軍の行動には足手まといなのです。

しかし疎開できないならできないで、逆に協力をお願いするしかない。
これは当然の、自然な判断ですし、当時、沖縄の人々は、むしろ積極的にこれに呼応しています。

あたりまえです。
誰だって、いざとなったら女房子供を守りたい。
そのためにできる協力は惜しまない。

八原参謀は、島民の老幼婦女子のうち8万人を本土に避難させた後、島に残った民間人を戦闘地から外れた島北部に疎開させたうえで、青壮年男子2万人を動員して、島内での陣地構築を進めました。
これが、珊瑚を利用した、地下壕になります。

昭和20(1945)年4月1日、米軍の上陸部隊が沖縄本島中部の渡久地海岸に来襲しました。
戦艦10、巡洋艦9、駆逐艦23、砲艦117という、気の遠くなるような大艦隊です。
そしてその日のうちに、艦砲弾4万5千発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾2万2千発という、史上かつてない猛砲撃をはじめました。
艦砲弾というのは、ひとことで言ったらドラム缶を縦に三本積み上げたくらいの、どでかい爆弾です。
そんなものを、雨あられのように、沖縄本土に降らせたわけです。

事前の猛爆撃のあと、午前8時には千数百隻の上陸用舟艇が海岸に殺到しました。
幅、わずか11キロの海岸に、4個師団(約6万人ほど)もの大兵力が一度に上陸したのです。
これだけの大がかりな上陸作戦は、さすがの米軍でも初めての経験です。

通常なら、ここで上陸をしようとする米軍と、日本の守備隊との間で、猛烈な戦闘が行われます。
硫黄島では上陸直後に日本軍の猛砲撃を浴びて、米軍は大損害を被っている。
その記憶も新しい状況下での上陸作戦だったのです。

ところが日本軍は何の抵抗もしない。
しーんと静まり帰っています。
弾の一発も飛んで来ない。

米軍は「これはエイプリル・フールではないか」と、逆に疑ったそうです。
無血上陸を果たした米軍の将兵は、
「沖縄の日本軍最高司令官は偉大なる戦術家か、
 そうでなければ、大馬鹿者である」と語り合ったそうです。

けれども、沖縄戦の作戦を立てたのは、八原大佐です。
彼は地味だけれど、確実に成功する戦術を重視する戦術家です。
米軍をよく知る八原大佐は、沖縄に進攻する米軍の膨大な火力と、真正面からぶつかっても勝ち目がないことをよく知っていたのです。
兵力の違い、火力の違いから、いずれ日本軍は米軍に敗れる。
そのこともよくわかっていました。

だから勝つためには、少々かっこは悪いかもしれないが、穴に籠り、とにもかくにも持久戦を戦い続ける、米軍に多大な戦傷を負わせ続ける、そういう作戦を立てたのです。

そうすることで米国内世論は、必ず厭戦に動く。
米国をよく知る八原大佐ならではの作戦です。
硫黄島の栗林中将も、同じく米国派遣経験を持ち、同じ戦法をとっています。

沖縄本島は、南半分は分厚いサンゴの岩盤に覆われています。
そこには、たくさんの天然洞窟がある。
そこに地下壕陣地を作り、米軍に抵抗する。
正面衝突はしない。
あくまで持久戦(ゲリラ戦と言った方がわかりやすいかもしれない)に徹する。
それが八原大佐が建てた作戦です。

八原大佐の読みは的中しました。
米軍の火力にものをいわせた猛爆にも、ぶ厚いサンゴの岩盤は、びくともしません。
米軍による沖縄をまるで月面のような穴だらけにした砲撃作戦に対し、日本の沖縄守備隊の兵力は、この時点で完璧に温存されたのです。

そして上陸した米軍が、徐々に洞窟に近づくと、洞窟内から機関銃や小銃を抱えた兵が、稜線や斜面に築かれた陣地に行き、そこから的確な射撃を加える。
その後ろからは、迫撃砲や臼砲で敵兵に集中砲火を浴びせる。

米軍は、日本兵からの銃撃を前にして次々と斃され、やむなく無線で海上の戦艦や航空部隊に応援を頼み、日本側の陣地に対して艦砲射撃や空爆を加えました。

ところが、その頃には、日本兵はとっくにひきあげている。
米軍は、無人となった場所に猛爆を加えるだけで、日本側に何の損傷も与えられない。
そしてふたたび進撃を開始すると、どこからともなく日本兵が現われて、米兵に対しピンポイントで銃撃を加える。

みるみるうちに米軍側に死傷者が続出していきました。
とにかく日本兵の銃撃は良く当たるのです。
しかも、驚くほど近くからの銃撃です。

戦闘というと、なんだか数時間からときにまる一日中、銃撃合戦が繰り広げられるようなイメージを持つ人が多いです。
しかし実際の個々の戦闘は、数分から十数分で終わるものです。
接近戦で1時間も撃ち合いが続くようなことは、近代戦ではまずありません。
銃撃による恐怖に、人間の神経は、そんなに耐えれるものではないのです。

その銃弾の音がすると、米兵が一瞬にしてバタバタと倒れる。
米軍が反撃に出ると、そこには日本兵は、もういない。

日本軍の装備は、三八式歩兵銃です。
軍における銃というのは、その国の軍に対する考え方をよく現します。
三八式歩兵銃は、古い銃で、軽機銃のような連射はできません。
しかし命中率が高く、殺傷力が高い。
弾が当たると、相手は確実に、あっという間に苦しまずに死にます。
武士の情けです。
一発で相手を苦しまずに逝かせる。
これが三八式歩兵銃です。

これに対し、米軍が採用したM銃は、連射、速射ができます。
いちいち弾を込める必要がないから、相当有利です。
しかも弾の貫通性が高いので、相手は大怪我をするだけで、一発では死にません。

少々コワイ話ですが、軍においては、味方が死んでくれた方が、負担が少ないのです。
なぜかというと、弾が当たって、大怪我をして、生きていたら、なんとかして助けなきゃなんない。
助けるためには、味方の兵が何人かで、怪我をしたものを後方に送ります。
その分、戦力が落ちるのです。

敵を苦しめ、戦力を削ぐことを目的とした銃と、
苦しませずに確実に逝かせる銃。
どちらを採用するかは、その国の軍の考え方によるものです。

沖縄守備隊は、この、連射はできないけど、確実に逝かせる歩兵銃で、果敢に戦います。
おかげで、米軍の上陸から一週間、戦いはまるで幽霊との戦いであるかのように、米軍側に死傷者が続出し、日本側の損耗はほとんどない、という状況が続きました。

ところが、そうした八原参謀の作戦に転機が、むしろ内部から訪れています。
大本営から、軍司令部に、米軍の上陸を許したことを咎める電報がはいったのです。
一方で豪傑肌のT中将から、壕陣地を打って出て積極的な反撃に出るべし、との強硬な意見が出される。

戦いは勝っている。
まさにいまがチャンスであると、長勇中将は説きました。
八原参謀は、腰ぬけ作戦家であるとまで言われています。

八原参謀は、持久戦のためには兵力の温存が不可欠と、これに猛反対するけれど、最後は、肩書きがモノを言います。
4月12日、T中将の命令で、3個大隊による米軍への夜襲が決行されたのです。

ところが、この日出撃した3個大隊の前に立ちはだかったのは、米軍の猛砲撃で変わってしまった地形と、寸断された道路です。
しかもあたりは真っ暗闇です。
自分たちが、どこにいるのかさえわかりません。

そうこうしているうちに、目標にすらたどり着いていないうちに、米軍の打ちあげた照明弾によって、急襲隊は発見されてしまいます。
そして密集していた急襲隊は、米軍の集中砲撃を浴びました。

結果、1個大隊が全滅。
2個大隊も大損害を受けてしまいます。

人命が失われただけではありません。
持参したなけなしの火力は粉砕され、発見された味方の将兵の救助のために、後方からのめくら撃ちの砲撃を集中させざるを得ず、この撤退戦で、砲兵部隊の弾薬は大半を使い果たしてしまったのです。

しかも、撤収後には、約2000名の負傷兵の面倒を見なければならないという苦境までも背負い込むはめになってしまった。
日本の守備隊が、嘉数高地、首里城へと撤退したのは、こうした理由によります。

この攻防戦でも、日本の将兵はよく善戦したけれど、隠れている森の中からいきなり銃弾が飛んでくるというゲリラ戦でなく、互いに姿を晒した状況での戦いです。
そうなれば豊富な火力と圧倒的な兵力に加えて、艦砲射撃や、空爆、強力な戦車隊を持つ米軍の方が有利なのは自明の理です。

5月4~5日になると、日本側は普天間付近までの戦線回復を図るため、地上では、温存していた残余の砲兵隊に砲撃を開始させ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出しました。
また海上からは、船舶工兵隊と海上挺進隊を海上から迂回させて逆上陸を試みました。
しかし、この反撃戦も大打撃を受けて失敗に終わります。
火砲や戦車の大半が破壊され、第32軍の戦死者は、この戦いで約7000名に及んでしまうのです。

たった一度の「元気のよい総攻撃」が、結果として無理の連鎖を生み、戦いの趨勢を一気に不利なものへと追い込んだ。
このことは、我々日本人は、戦争の教訓として、しっかりと記憶しなければならないことだと思います。
元気が良いことは、決して悪いことではありませんし、特に非常時においては、大方の人気を博するものでもあります。
しかし戦いは頭脳で動くものです。
上に立つ者ほど、冷静さが必要なのです。

ちなみにT中将は、日頃から豪胆で鳴らす、押し出しの強い、兵の間でも人気のあった人です。
一方、参謀の八原博通大佐は、決して美男子ではないし、小柄ですこし貧乏にさえ見える人です。
けれど、人には役割があります。
どんなに見た目が悪くても、その内に強烈な才能を秘めた人というのはいるものです。
それを見極め、上手に活用するのが、将の勤めです。
それによって戦いの帰趨が決するし、兵の命が守られるのです。

見た目は決して立派そうではないけれど、ものすごく中身のある人というのはいるものです。
そしておもしろいもので、天は二物を与えずといいますが、すぐれた軍略家のほとんどに共通していることは、彼らが得てして人間関係があまり上手ではないということです。
そこを見極め、上手に活用し、戦いを勝利に導くのが、将の勤めです。

八原博通大佐
八原博通大佐


やむなく日本軍は、5月30日、雨天を利用して摩文仁高地に撤退しました。
6月6日、海軍部隊司令官の大田実少将が、海軍次官宛に有名な「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という有名な訣別電報を打ちます。

そして大田実少将は、6月13日、豊見城の海軍司令部壕内で自決されました。
八重瀬岳方面の独立混成旅団も、6月14日までに、ほぼ全滅してしました。
そして6月17日には、残存戦力の大半を失った第32軍は、組織的抵抗がほぼ不能の状態になってしまいます。

その第32軍の最後の模様が、八原大佐が戦後書いた「沖縄決戦―高級参謀の手記 (1972年)」という本に詳しく掲載されています。

「6月22日の夜が明けてまもなく、
 摩文仁の部落に猛烈な期間銃声が起こり、
 三時間ばかり続くと、はたと止んだ。
 松井小隊が全滅したのだ。
 さらば松井少尉よ!

 戦車の走る音が手にとるごとく聞こえ、
 戦車砲がわが洞窟に集中砲火を浴びせてくる。
 最後を待つのみのここ洞窟内の軍司令部は
 がらんとしている。

 佐藤主計大佐は参謀長のもとに話に行き、
 変わって衛兵長の秋永中尉が私の話し相手になる。

 正午やや前、
 参謀部出口で轟然数発の爆声が起こり、
 爆煙と土砂が身辺に吹き込んできた。
 出口の近くにいた数名が、どっと私の方に退る。

 『それ! 黄燐弾だ』と、
 皆、防毒マスクを装着する。

 私は、きたな!と思ったので、
 『秋永中尉!ここは大丈夫だ。
  中央の山頂出口を固めろ!』と叫ぶ。
 声に応じて秋永は駆け出した。

 私が随感手記を便所付近に落としたのを
 探しにいった勝由が、
 息せ切って引き返し、報告した。

 『ただ今、敵に山頂を占領されました。
  敵の爆雷が、
  垂坑道から洞窟内に落下して爆発、
  参謀長室のあたりには
  死傷者がいっぱい転がっています』

 秋永中尉が駆け出してからまだ十分も経たぬのに、
 もうやられたか。
 垂坑道から敵に侵入されたのでは、一大事だ。

 まず、参謀長、軍司令官がいちばん危ない。
 そして参謀部と副官部が遮断され、
 参謀部の者は進退きわまる。

 私は蛍電灯を手にして敵を警戒しつつ、
 垂坑道上り口に歩み寄った。
 爆煙が立ちこめ、惨として声を発する者なく、
 あたり一帯、なま臭い。

 蛍電灯の弱い光で点検すると、
 上り口の付近に十数名の将兵が折り重なって倒れている。

 頂上からさらに攻撃を加えられそうな気がするので、
 十分周囲の状況を確かめたあと、
 意を決して死体を乗り越え、
 参謀長室に突進する。
 まだ絶命していないのか、
 私に踏まれた兵士が痛い!と叫んだ。

 参謀長室は、無残に吹き飛ばされていた。
 長将軍は憮然として、
 隣の牛島将軍の寝台に腰掛けておられる。

 避退した将兵は、
 両将軍を囲んで総立ちになり、
 まだ衝撃から立ち直れぬ様子である。

 蒼白な顔をした中本嬢が、
 薄暗いすみっこで、ひとりきちんと腰かけ、
 両の拳を堅く握りしめ、
 泣けてくるのをじっと押さえるかにしているのがいじらしい。

 皆の話を総合すると、
 秋永中尉は山頂に達するや、
 ただちに数名の部下衛兵とともに、
 手りゅう弾戦をまじえてことごとく倒れ、
 第二陣を承って駆け上がった池田少尉以下十数名は、
 山頂に達するに先立ち、死傷して転落し、
 さらに手持ちの手りゅう弾が爆発して、
 損害を大きくしたようだ。

 医務室を覗くと、
 負傷兵にまじって二人の女性が寝棚に横たわっている。
 身体も顔もひどくむくみ、誰やら見当がつかぬ。

 賀数軍医中尉が、黙々と小刀で腕を切開し、
 動脈をひっぱりだしている。
 青酸カリの注射でもするのであろう。

 傍の者に聞くと、与儀、崎山の両嬢ではないかという。
 嗚呼、花のかんばせ今いずこ、と嘆いてやりたい。

 私が女性の参謀部出入りを厳禁したために、
 狭くて居場所のない彼女らは、
 よく垂坑道の登り口にたたずんでいた。
 そして犠牲になったのかと思うと、
 自責の念に耐えない。
(※与儀、崎山の両嬢は、女子学徒隊の一員)

 ついに山頂は敵のものとなった。
 敵はいつ、垂坑道から侵入するやもしれぬ。
 唯一の残された副官部出口は、
 敵に海上から制せられており、
 さらに山頂の敵から手の届くところとなった。

 容易に自決の日を示されなかった両将軍も、
 わがことすでに終われりと観ぜられたものか、
 今夜司令部将兵をもって山頂を奪還し、
 23日黎明、摩文仁部落方面に玉砕突撃を敢行、
 牛島中将、長参謀長は、
 山頂において自決するに決せられた。

 山頂奪還の攻撃部署は、
 責任者の葛野中佐に委し、
 私はふたたび死体を踏み越えて自席に帰った。

 夕刻やや過ぎて、
 司令部衛兵のひとりが泥にまみれてやってきた。

 彼は対戦車肉薄攻撃隊の一員として、
 いま摩文仁高地束麓で敵戦車を待ち伏せして、
 その二両を爆破したが、
 戦友は皆死傷したという。

 一生懸命にその詳細を報告する
 彼の態度がいじらしく、私も心から耳を傾けた。

 数国の後、軍司令官が自決するというこのとき、
 自己の任務に身体ごとぶつけた兵士の報告を聞く私は、
 えもいえぬやるせない気持ちである。

 彼の言によれば、
 参謀部出口を閉塞してくれた通信所長は、
 電信連隊本部に引き揚げる途中、戦死したそうだ。

 確報ではないが、
 混成旅団、軍砲兵隊の両司令部は、
 昨夜、総員斬り込みをしたという。
 第62師団司令部は依然頑張っているだろうか。
 もとより知る由もない。

 最後の夕飯は、暗い洞窟の
 そこここでいつもと変わりなく
 ひそやかにはじまっている。

 泥水で煮た、握り飯ひとつ。
 飲み水は、すでに一滴もない。

 地上、地下十数メートルを隔てて、
 手りゅう弾を投じあい、
 戦友相次いで斃れ、
 つい先刻まで談笑していた将兵が、
 冷たい骸(むくろ)となって横たわり、
 そして自らの死も数時間の後に迫っているというのに、
 なんという鎮静した雰囲気であろう。

 泣く者もいなければ、笑う者もない。

 思うに、皆の共通した願いは、
 この息詰まる暗黒の洞窟内から、
 一刻も早く駆け出して、
 広々とした自由な大地に立って、
 思うさま最後の呼吸をしてみたいことではないか?

 23日午前3時頃、軍司令官の命なりと呼びに来た。
 服装をただして出かける。

 牛島将軍は、略綬をつけて服装を整え、
 膝を組んでおられる。
 長将軍は、キングオブキングスの
 ひょうたん型の壺を前にして、
 すでに一杯傾けておられる。
 周囲の顔触れは昨夜と変わりない。

 私は両将軍に敬礼したが、いまや言うべき言葉はない。
 私を前にして、両将軍の間には、
 次のような会話が続けられた。

 参謀長「閣下は(昨夜)よく休まれましたね。
  (自決の)時間が切迫するのに、
   一向、起きられる様子がないので、
   実は私も、もじもじしていました」

 司令官「貴官がいびき声、
   雷の如くやらかすので、
   なかなか寝つかれなかったからだよ」

 参謀長「切腹の順序はどうしましょう。
   私がお先に失礼して、
   あの世のご案内をいたしましょうか」

 司令官「吾輩が先だよ」

 参謀長「閣下は極楽行き。私は地獄行き。
   お先に失礼しても、ご案内はできませんね」

 参謀長は、
 「西郷隆盛が城山で自決する直前、
  碁を打ちながら、別府晋介に向かい、
  『晋介どん! よか時に合図をしてくれ』
 と言ったそうだが、
 俺はキングオブキングスでも飲みながら時を待つかな」
 と笑われた。

 周囲の者は、西郷隆盛と聞いて、一斉に牛島中将を注視する。
 将軍は平素、部下から西郷さんと呼ばれていたからである。

 両将軍は、二、三、辞世ともなんともつかぬ和歌や、
 詩をもって応酬された。
 私は、はっきりと聞きとることができなかった。

 しかし、沖縄を奪取された日本は、
 帯を解かれされた女と同じもんだと、
 だじゃれを言われたのを記憶する。

 後日知った正確な辞世は、次の通りであった。

 【牛島中将】
 秋待たで
 枯れ行く島の青草も
 御国の春に よみがえらなむ

 矢弾つき
 天地もそめて 散るとても
 天駆けりつつ 御国護らむ 

【長将軍】
 醜敵締帯南西地
 飛機満空艦圧海
 敢闘九旬一夢裡
 万骨枯尽走天外

 いよいよ時間も迫るので、
 洞窟に残った者が、皆一列になって、
 次々に将軍に最後の挨拶をする。

 平素正しいと思ったら、
 参謀相手でも殴り合いをしたきかん気の大野少佐が、
 一点の邪気のない神のような涼しい顔で走り寄って、
 大本営宛、最後の電報を打ち終わった旨、報告した。

 最後までよく将兵と苦難をともにした
 平敷屋その他の女性も挨拶をする。

 参謀長の当番娘が、
 「閣下のご焼香もすまさないで
  洞窟を出て行くのは誠に申し訳ありません」
 と述べたとき、長将軍は微かに苦笑された。

 彼女たちは、他の残存の将兵とともに、
 夜の明けきらぬうちに、
 断崖の道を降りて、
 海岸の洞窟に行くことになっていた。

 参謀長当番の中塚は、
 俺はもう要らぬからと、
 貴重な水のはいった水筒を、女たちに与えた。

 軍司令は静かに寝棚から降り立たれ、
 参謀長は、軍衣を脱して、
 それに従われ、経理部長もまた後に続く。

 ロウソクの灯りを戦闘に、
 粛々と行列は出口に向かう。
 心も足も重い。

 洞窟の外に出れば、月、いまだ南海に没せず、
 浮雲の流れ早く、
 彼我の銃砲声死して天地静寂、
 暁斬り脚麓より静かに谷々を埋めて這いあがり、
 万象感激に震えるかの如くである。

 洞窟出口から約十歩のあたり、
 軍司令官は、断崖に面して死の座に着かれ、
 参謀長、経理部長、またその左側に位置を占め、
 介錯役坂口大尉がその後方に、
 私はさらに彼の左後方に立つ。

 残存の将兵は、出口に起立して、大なる瞬間を待つ。
 やや前かがみに首を伸ばして座した
 参謀長の白いワイシャツの背に、

 義勇奉公
 忠則尽命

 と墨痕淋漓自筆で大書されたのが、
 暁暗にもはっきりと読める。

 私を振りかえられた長将軍は、
 世にも美しい神々しい顔で、静かに、
 「八原! 後学のために、予の最後を見よ!」
 と言われた。

 剣道五段の坂口が、
 つと長刀を振りかぶったが、
 なぜか力なくためらって、
 「まだ暗くて、手元がきまりません。
  しばらく猶予を願います」と言った。

 しかし、明るくなれば、海上の敵艦から砲撃される。
 海岸洞窟に降りるはずの将兵が動揺をしはじめた。
 ついに彼らは、将軍の許しを得て、駆け降り始めた。

 焦れる将兵に阻まれている間に、
 いちばん出口近くにおられた両将軍が立ちあがられる。

 私は遅れじと接近しようとするが、
 奔流のごとく駆け出さんとする将兵十数名が
 停止を命じられ、出口をふさいでしまった。

 ようやく彼らをかきわけ、
 出口に顔を出そうとする一刹那、
 轟然一発、銃声が起こった。

 騒然たる状況に、敵艦からの砲撃かと思ったが、
 経理部長自決の拳銃声だったのだ。

 そして今度は坂口が、
 両将軍着座の瞬間、
 手練の早業で、
 ちゅうちょなく、首をはねたのだ。

 停止させられていた将兵は、
 堰を切ったように断崖の道を走り始めた。

 高級副官、坂口大尉、私の三人は、
 出口に転がっているドラム缶に腰をおろした。
 坂口は私に「やりました!」と、
 顔面蒼白ながら、会心の笑みを浮かべた。

 三人は黙ったまま、ぐったりとなって、
 白々と明けゆく空を眺めていた。」

ちなみに、この牛島中将、長参謀長の死について、元看護婦の伊波苗子氏は、次のような証言を行っています。
「牛島司令官は、
 重傷を負って数日前から
 痛め止めの麻薬を投与されていて、
 ご自身では割腹が出来ず、
 副官の手を借りた。

 長参謀長は拳銃を持ったまま
 酒を飲みすぎ寝込んでしまったので、
 副官が引き金を引いた。」

また、昭和32年に光文社から発行された「写真記録・太平洋戦争」では、首のない死体の写真を、牛島、長、両将軍の遺体として初公開しています。
しかし、この写真集の現場の様子、遺体の状況等については、現場にいて戦後生き残った八原大佐その他、多くの旧軍人らによって、この遺体写真は両将軍のものではないことが確認されています。

さらに上の八原大佐の記録は、米軍の調書における料理人ナカムタテツオの証言、映画技師水島八郎の証言とも、細部まで状況が一致しており、伊波婦人や、光文社の写真誌の内容には、間違いがあると断言できるものとなっています。

ナカムタテツオの証言は、以下の通りです。
「午前3時40分、牛島、長両将軍は、
 勲章付き、通常礼装着に身支度し、
 副官と全ての参謀本部将校を従え、
 静かに洞窟を抜け、狭い岩棚に出た。

 料理人ナカムタは、
 洞窟入口近くの台所に屈み、
 奇怪な儀式を見た。

 両将軍は、低い声で寸時語り合い、
 それから岩棚に敷かれた厚い座布団に
 死を表す白布がかけられた。

 牛島将軍は、長将軍を左に、
 儀式の通り座し、海に向かった。
 天皇のいる皇居の方向、
 北を向くだけの広さがなかったのである。

 部下がうやうやしく上着のボタンを外し、
 腹部を出した。

 副官坂口大尉が、
 刃先を半分白布で巻いた短刀を手にし、
 背後に立った。
 副官が短刀を牛島に渡すと、
 牛島は短刀を両手に持った。

 短刀が腹部を刺すや否や、
 副官(坂口)の刀がざっくり牛島の首を斬り、
 首の骨を分断した。
 牛島将軍は、白布に倒れ込み、死んだ。

 長将軍も同様に果てた。」

もうひとつ、濱川昌也(はまかわまさなり)軍曹が著わした本に「私の沖縄戦記」という本があります。
この本の中にも、やはり第32軍の最後の模様が出てきます。

牛島、長、両将軍の最後について、長将軍は当日酔っぱらって自分で自決の銃の引き金を引くこともできず、傍にいた士官に撃ってもらったなど、さいごの最後まで勇敢に戦った32軍を貶めるような発言をする者がいる。

けれど八原参謀の記述も、ナカムタテツオの証言も、水島八郎の証言も、そして濱川軍曹の証言も、細部までみんな一致しています。
すくなくとも現場にいた人の証言というものは、貴重な第一級の史料であるし、それらを無視して単に想像で命をかけた戦いの模様を、ねじまげるなどということは、あってはならないことだと思います。

そして濱川軍曹の記述からは、八原高級参謀の手記とはまた違った角度からの第32軍の最後をみてとることができます。
すこし紹介します。

「そのうち轟々たる地響きが聞こえ、
 前方のゆるやかな勾配になった裾野の方から
 米軍が攻撃してきた。
 その砲撃のすさまじさに、
 壕から出ることができない。

 『こうなったら、敵を至近距離まで寄せつけて
  白兵戦をするしかない」
 と毛利兵長が呟く。
 『戦車だっ!』大弥上等兵が叫ぶ。
 見ると前方から三台の戦車が進撃してきた。
 先ほどから聞こえてきた轟々たる地響きは
 米軍の戦車だったのである。

 私は眼を疑った。
 摩文仁に山は、
 峨々(がが=がが. 険しくそびえ立っているさま)たる剣山で、
 たとえ連日の猛爆撃で破壊されたとはいえ勾配は急である。

 『この山に敵戦車が登ってこようとは!』
 米軍の機械化された装備を知らない我々にとっては、
 これは全くの驚きであった。

 進撃してきた米軍の戦車は、
 いったん我々の前方百メートルの地点で停止し、
 陣容を整え、歩兵を伴って再び前進を開始してきた。

 それとは別に、右前方数十メートルの地点に、
 数十人の米兵を発見した大弥上等兵は、
 『司令殿! 敵が右前方に!」』と絶叫し、
 『すぐ射撃開始を!』
 と、私の命令を求めてきた。

 私は『いや待て! 今撃つと垂直坑道口が
 敵に知られて反撃をくらい、
 洞窟内の兵が全滅する。
 しばらく待て、様子を見る』と拒否したが、
 興奮したのか命令を聞かない。
 そのまま重機の引き金に当てていた指をひいた。

 ダ・ダ・ダ・ダと重機は火を吹いたが、
 一連射(三十発)もしないうちに、
 ドカンと米軍戦車の砲撃を食らい、
 大音響とともに洞窟の一部が崩れ、
 私は一瞬眼がくらみ気を失った。

 はっと我にかえってあたりを見回すと、
 毛利兵長と大弥上等兵が血だるまになって倒れている。

 弾薬手の佐々木一等兵は、すでに虫の息だ。
 私自身は、どうやら身体は無事のようだが、
 全身に黄燐弾を浴びたらしく、
 上着に黄燐弾がしみ込み、
 燐光を放って、服はじわじわと燃え広がっていく。

 “たいへんなことになった。
 一刻も早くこの非常事態を報告せねば”
 と私は岩永軍曹と持ち場を交代して、
 転げ落ちるように垂坑道をかけ降りた。

 状況報告を聞いた高級副官は、
 垂坑道口に将校がひとりもいないことを知って、
 そばにいた衛兵長秋永中尉を殴りかからんばかりに怒鳴りつけ、
 『すぐ垂坑道に登って指揮をとれ!』と命じた。

 私は燐光を放ちながら燃え広がる上着をかなぐり捨て、
 ふたたび垂坑道口へと二、三段登りかけた途端、
 垂坑道は、またも戦車の直撃を受け、
 ふたたび大音響とともに崩れ落ち、
 ごろごろと上から転げ落ちてくる負傷兵や死体に、
 私は押しつぶされてしまった。

 時に、6月21日正午ごろである。
 かくして摩文仁陸山頂は、
 米軍によって馬乗り制圧された。

 硝煙たちこめる洞窟内に閉じ込められた将兵は、
 なすすべもなく、ただ右往左往するのみである。

 荒涼殺伐とした空気が洞窟内に満ち、
 どの将兵の顔にも
 『ああ!これで今日限りの命となった』
 と絶望と恐怖の色があふれていた。

 あまりにも早い米軍の進撃に混乱していた首脳陣も、
 そのうち落ち着きを取り戻し、
 対応策を講じ始め、
 先ず、頂上に馬乗りをしている米軍から、
 陣地を奪取するための切り込み隊を編成した。

 しかし切り込み隊は、斜面をよじ登るも、
 丘陵に達しないうちに次々と殺られていく。
 それで白昼の攻撃は無駄だと判断し、
 夜を待つことになった。

 米軍に頭上を占領された我々には、
 洞窟内でじっとしている以外、
 手の打ちようがない状態となった。

 秋風落漠として、声を発する者もなく、
 ただ散乱している戦友の骸(なきがら)を前にして、
 諦めて瞑目するほかはない。

 そのうち、静寂さに耐えかねたように、
 小川伍長が私に話しかけてきた。

 小川伍長は東京都の出身で、
 宮古島駐屯の豊部隊から、
 連絡を持って軍司令部に出張してきた下士官だが、
 原隊に復帰する術もなく、
 そのまま軍司令部付きとなり、
 衛兵要員の一員となった人である。

 『今日は21日。
  官庁の給料日で、
  ひと月のなかで一番楽しみな日だ。
  それが最悪の日となるとは!」

 続いて気を紛らすかのように、
 渋谷区役所に勤めていたころ、
 道元坂上の百軒店で飲み明かした話をしたり、
 ポケットから一枚の写真を取り出し、

 『これは私の母上の写真だ。
  父上を早く亡くした後、
  女手ひとつで
  私を一人前に育ててくれた。
  しかし私はその母上に何ら報いることなく、
  期待を裏切って親不孝の数々をしてきた。
  それが今になって悔やまれる』

 と、食い入るように写真を見つめ、
 ボロボロと涙を流していた。

 通夜のように、
 静寂なうちにあちこちで
 ひそひそと私語が交わされている中に、
 長参謀長が、隣の軍司令官に声をかけていた。

 『なあー閣下、
  沖縄の住民は、実によくやってくれた。
  日本国のどこが戦場になっても、
  これほど住民が軍に協力はしてくれなかっただろう。
  伊平屋島に“天の岩戸”があるとのことだが、
  この沖縄こそ、まさに高天原の国だ。
  この大和の国の発症に地で生涯を閉じるとは、
  実に幸せだ」

 これに対し牛島司令官は、
 静かに「ウン、ウン」と相槌をうっていた。
 そうこうしているうちに、夜になった。

 ふたたび山頂奪回のための
 切り込み隊が編成されることになり、
 全将兵は“座して死ぬよりは
 華々しく突撃して最後を飾らん”とばかりに、
 競って志願し、
 その中から選ばれた屈強な兵から、
 第一隊、第二隊、第三隊と編成されていった。

 出口は海岸側に向かっている開口部のみである。
 幸いにして、この開口部は、
 入り組んだ岩陰にあり、
 敵から発見されにくい場所にあった。

 その開口部から、第一隊、第二隊、第三隊と
 切り込み隊が斜面をよじ登り、
 夜の闇の中に吸い込まれるように進撃していく。

 見送る者誰一人として、口をきく者はなく、
 固唾をのんでその成功を祈った。

 夜襲に出かけた切り込み隊が山頂に達したと思われる頃、
 激しい銃声がおこり、しばらく続いたが、
 そのうち、ピタッと止んでしまった。

 しかし突撃を敢行した切り込み隊からは、
 ついに山頂奪回に成功したとの報告はなかった。

 山頂奪回の望みが断たれたあと、
 残された将兵は、
 突撃組と脱出組、自決組にわけられ、
 さらに突撃組が出陣するのを見送りながら、
 牛島軍司令官と長参謀長は、
 自決することと決まった。

 その最後の晩さん会で時を過ごし、
 時刻は6月21日午前0時を回るが、
 今生の別れに話はつきない。

 月はまだ西の空に輝いているが、
 東の空がほのかに白みを増してきた頃、
 軍司令官は正装に略綬を杯用し、
 参謀長は南無阿弥陀仏と筆で自筆した襦袢を着て、
 薩摩下駄をからころと響かせながら、
 洞窟の出口に設けられた切腹の座に向かった。

 洞窟内に残った将兵は、
 起立して頭を垂れて両将軍を見送る。

 介錯役は、剣道五段の坂口大尉が務めたが、
 右手を負傷していたため、
 牛島軍司令官の介錯のとき、
 ちょっと手元がくるったようだ。

 軍司令官は、
 あらかじめ青酸カリの注射を
 されていたようである。

 長参謀長の切腹は見事なもので、
 古式にのっとった作法を全うしている。

 “大将の首級は敵手に渡さず”
 ・・・敵手に渡ることを最大の恥辱とする
 日本古来の武将の習慣により、
 両将軍の首級は、当番兵の高橋兵長と、
 軍属の魚住豊明によって白木の箱に納められ、
 洞窟外の何処かに運び去られた。

 後日この二人も米軍の捕虜となり、
 ために、両将軍の首級のありかも
 米軍の知るところとなって、
 6月26日頃、米軍の手によって発掘されたとのことである。

 時に、昭和20年6月22日午前4時30分ごろである。

 すべての沖縄戦記では、
 軍司令官の最後を6月23日としているが、
 これは誤りである。
 21日正午ごろ、
 馬乗りされて山頂を米兵に占拠されている下で、
 最高司令官や参謀長が、
 のんのんと生きながらえているはずがない。」

その場に居合わせた者にしか書くことのできない、当時の状況が、まるで目に浮かぶかのようです。

さて、濱川軍曹らとともに、壕を脱出した八原大佐は、戦訓伝達のため民間人になりすまして移動中、7月15日、武運つたなく米軍に捕まって捕虜となりました。
沖縄守備隊第32軍は、こうして壊滅します。

しかし若い八原高級参謀の立てた作戦が、すくなくとも緒戦において、米軍をてこずらせたこと、および、もし持久戦を旨とする八原戦略が貫徹されていれば、もしかすると沖縄は終戦時まで持ちこたえ、ために米軍の死傷者が膨大な数に上り、米国は早々に終戦を迫られることになった可能性は、否定できない事実です。

軍は、間違いなく、頭脳で動きます。
血気で動くものではない。

いま日本は崩壊寸前の状況にあるといわれています。
しかし、その崩壊を食い止める、あるいは新しい日本を建設する戦いは、怒りや血気だけでは、足りないのです。
そこには、頭脳がいる。
そしてその頭脳を、もっとも効果的に活用できる将が要る。
さらにこれを援助するスポンサーが要る。

しかし、それらにも増して大切なことは、
「こよなく日本を愛する思い」と、
「築くべき日本のかたちを共通理念としての常識化していくこと」
にあります。

築くべき日本のかたちについての共通認識もないまま、ただ現状に不満だからと勇猛に走れば、それは一見するとかっこいいことにみえるかもしれませんが、結果として、日本のよみがえりを遅らせることにしかならない。

ちなみにいまの若い方々は、世代によって、
 ポケベル世代(36〜45歳)
 ガラケー世代(26〜35歳)
 スマホ世代 (25歳以下)
に区分されるのだそうです。
そしてガラケー世代、ポケベル世代は、コミュを重視しますが、スマホ世代の若者たちは、スマホの持つ圧倒的な情報力から、多様な情報に接することが習慣づいているため、これまで戦後75年間の嘘から目覚めつつあるといわれています。

二度と戦争の悲惨を繰り返さない。
このことは、沖縄戦でお亡くなりになられた方々に限らず、これまでの戦争で亡くなられたすべての御魂の共通の願いです。
正義のない、利権のためだけに武力が用いられてきたのが世界の歴史です。
だからこそ、我々は正義のために、国の守りをきちんと固めてしっかりと自立していく。
なぜなら日本こそ、民衆を「たから」とする国柄と歴史を持つ唯一の国だからです。

追記:
この記事は、2010年10月17日のねずブロの記事を大幅にリニューアルした記事ですが、不思議なことに、
「沖縄戦で米軍を苦しめた参謀・・・八原博通大佐」という当時のタイトルで検索しても、ブログ内の検索システムにもヒットしないし、googleの検索エンジンにもヒットしません。
実に不思議不思議な話です(笑)


お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行でした。


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コメント

元陸自

参謀に指揮権はありません
私も八原大佐は大変優れた軍人だと思います。
しかしながら、貴殿の記事に一部誤解がありますので、浅学菲才を顧みず列挙させていただきます。

1 冒頭に「この沖縄における防御戦の作戦指揮をとったのが、ご紹介する八原博通第三二軍高級参謀です。」という記述があります。
八原大佐は第32軍高級参謀として第32軍の作戦計画を立案し、軍司令官を補佐して沖縄の長期持久に貢献しました
しかしながら、八原博通大佐はあくまでも参謀であって指揮官ではありません。参謀は指揮官を補佐することを職務とします。八原高級参謀が指揮をとることはありません。部隊を指揮したとすれば重大な規律違反です。
「この沖縄における作戦計画を立案し指導した八原高級参謀・・・」と表現を変えれば問題はないと思われます。

2 「日本軍の装備は、三八式歩兵銃です。(中略)一発で相手を苦しまずに逝かせる。これが三八式歩兵銃です。」「これに対し、米軍が採用したM銃は(中略)弾の貫通性が高いので、相手は大怪我をするだけで、一発では死にません。」「敵を苦しめ、戦力を削ぐことを目的とした銃と、苦しませずに確実に逝かせる銃。どちらを採用するかは、その国の軍の考え方によるものです」という記述がありますが本当でしょうか。科学的根拠はあるのでしょうか。
三八式歩兵銃は口径6.5mm、一方М銃(おそらくМ1小銃のことだと思いますが)は口径7.62mmです。
生死を分けるのは命中部位ではないでしょうか。心臓や頭部に当たれば死ぬでしょうし、指先や足先に当たれば死ななくてすむでしょう。

3 「4月12日、T中将の命令で、3個大隊による米軍への夜襲が決行されたのです」という記述があります。T中将とは長勇参謀長のことと思われます。長参謀長は指揮官ではありません。夜襲を命令する権限はありません。長参謀長は夜襲強行論者ではありましたが、夜襲計画立案の主務者は八原高級参謀で、苦衷の末夜襲を命じたのは牛島軍司令官です。
(八原博通著「沖縄決戦・高級参謀の手記(中公文庫)」p211~p218参照)

4 「長参謀長が、隣の軍司令官に声をかけていた。 『なあー閣下、沖縄の住民は、実によくやってくれた。』(以下略)」というという驚くべき引用文があります。
長参謀長は陸士28期、牛島軍司令官は陸士20期です。軍紀厳正な日本陸軍において陸士後輩の格下の参謀長が陸士先輩の格上の軍司令官に対してなれなれしく「なあー閣下」などと声をかけることなどありえません。
このことからこの引用文はまったく信頼できません。
(長参謀長と牛島軍司令官の会話の様子は貴殿が引用した八原博通著「沖縄決戦・高級参謀の手記」を読めば明らかです。長参謀長は牛島軍司令官に対し決してぞんざいな言葉を使っていません。
会話の状況は以下のとおりです。
参謀長「閣下は(昨夜)よく休まれましたね。(自決の)時間が切迫するのに一向、起きられる様子がないので、実は私ももじもじしていました」 
司令官「貴官がいびき声、雷の如くやらかすので、なかなか寝つかれなかったからだよ」
参謀長「切腹の順序はどうしましょう。私がお先に失礼して、あの世のご案内をいたしましょうか」
司令官「吾輩が先だよ」
参謀長「閣下は極楽行き。私は地獄行き。お先に失礼してもご案内はできませんね」)

-

ねず先生

『アメリカの将軍、ドイツの将校、日本の一兵卒』
と、戦後の世界的な総括の名言には、これが日本人ですら、海外の外人はもちろん、これが最初に出てくるのが世の常となり久しい。

もちろん、八原大佐のような素晴らしい将校もいらっしゃったが針小棒大に騒ぐのは大陸の思想、TYO中将のような将軍もまた、この世界的な名言の例に漏れず。

私は何が言いたいのかというと、この名言が、戦後75年経つ今でも生きていると言う事です!
安倍や平成野党のような腰抜けの売国政治家もまた、日本の優秀な一兵卒ではなく、日本の無能な将軍と将校という事です。

特に、栗林忠道大将の孫である、新藤義孝などは、硫黄島や尖閣諸島にて現地に赴き、親日アピールしているが、裏では売国スーパーシティ法案や売国パソナ働き方改革の責任者をやっている!

この新藤義孝は、どのツラさげて、硫黄島や尖閣諸島に行っているのか!こいつは国民を守り豊かにするつもりが全くない!靖国神社に詣れば、これを免罪符としてまた売国。英霊さまはさぞ、このような輩にはきて欲しくないとお思いだろう。私が英霊さまなら、雷を落として怒るだろう!

上記の『』の名言が、まさに思い出されるのが新藤義孝!
21世紀の日本の一兵卒は、そうやすやすと無能な日本の将軍や将校には従わないぞ!

この気持ちに殉国七士とかなんなのか?上級国民どもの傷の舐め合い碑の廟なのか?
ねず先生から真実を学べば学ぶほどに、やりきれない気持ちが募る事もまた、私の今の心境なのです。
以上

はっち

いつも更新ありがとう御座います。

リンドバーグ氏の『リンドバーグ日記』
ないし『リンドバーグ第二次大戦日記』は、ネットでも観れますね。
日本兵が、如何なる扱いを受けていたか伺い知ることが出来ます。

松さん

今こそ国防に傾注を!
平和はいいな~!
戦争は嫌だな~!
何だ彼だ言っても、今はまだ平和三昧の我国です。
厭戦(えんせん)気分は当たり前かも知れません。

しかし、世界には未だに紛争が絶えない地域が沢山あります。
戦火の中にいる人々は、その辛さを嫌と言うほど感じている筈です。
今日を限りの命かも?
身を持って体感してる人々にしか分からないのが、本当の厭戦気分だと思います。

憲法を護れ!
九条を護れ!
まるで燎原の火の如く宣撫して歩く方々がいます。
平和は現憲法のお陰?
戦火も知らず、単なる気分で厭戦を煽る行為は納得できません。

我国を取り巻く情勢も不気味に変化しつつある昨今です。
『国防を疎かにすれば蹂躙される』
ねずさんが仰る通り、冷静に対処しなければならない時勢だと思います。

natural9

反論が一件あります
[当時の日本軍は、この戦時国際法を常に遵守して行動していましたが、米軍がそうではなかったことには、別な理由があります。
米軍に限らず、当時の世界では、イエローは人として認識されなかったのです。
現代の常識と、当時の常識は異なります。]

上記の件ですが、人として認識されなかったとあります。
でしたら、日本人を捕虜にしたり、米軍が日本軍をほめたりするでしょうか。
少なからず人としての認識はあったと思います。

この事で、当時の米軍による民間人虐殺を正当化しないでほしいです。
他の記事が素晴らしいだけにこの事が気になりました。

昆布

素晴らしい記事を書いていただきありがとうございます。
いつもいつも、素晴らしい内容に感動しています。矢原参謀の知略を尽くした作戦には舌を巻いていました。Tさんから反対がなければもっと持久していたと残念でなりません。
それと日本の大本営の欠点も感じてしまいます。受験エリートが跋扈し、情報を軽視した作戦を立てていたことに今の日本の課題も見えてきます。受験エリートが物事を判断する今の体制に関しては疑問を感じます。しかも責任をとらない場合はあまりにも多いです。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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