日本において軍の存在は、上古の昔の神倭伊波礼毘古命に率いられた御軍の時代から武士、戦前の日本軍、現代の自衛隊に至るまで、常に公正無私、人々の生活の安全と安心を護る存在です。 ですから日本人にとって、軍人といえば、それはいまの自衛官や機動隊員と同様、常に正義の味方です。 ところがこのことは、日本人の常識であっても、諸外国の常識ではありません。 |
樋口季一郎陸軍中将

画像出所=https://ameblo.jp/nihonkaigi-yachiyo/entry-12597416362.html
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに小名木善行です。
昭和13(1938)年3月、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人、満洲に入国できずにソ連のオトポール駅で立ち往生していました。
立ち往生した人々は、吹雪の中で駅舎からあふれて野宿同然の状況でした。
身の回りの物だけを持ってようやくたどりついた難民たちです。
オトポールの3月の気温は、夜にはマイナス30度の極寒です。
食糧もすでに尽きており、飢えと寒さで凍死者さえも出はじめました。
満洲国は、日本の同盟国でした。
その日本はドイツと同盟関係にありました。
満洲の役人たちは、
「もしユダヤ難民を受け入れれば、
ドイツ側から抗議を受ることになる」
と心配してユダヤ難民の受け入れを拒否しました。
オトポール駅は、ヨーロッパとつながるシベリア鉄道のアジア側の終点です。
次々とやってくるユダヤ難民たちは、ついにその数、2万人に達するものとなっていました。
満州のハルビン市で特務機関長をしていた陸軍の樋口季一郎(ひぐちきいちろう)陸軍少将のもとにハルビンユダヤ人協会会長で医師のカウフマン博士がやってきました。
そして樋口陸軍少将に、ユダヤ難民の救出を依頼してきました。
しばらく考えていた樋口少将は答えました。
「わかりました。
すべての責任は私が負います。
博士は難民の受け入れ準備に
取りかかってください」
この言葉を聞いたとき、カウフマン博士は滂沱の涙を抑えることができなかったそうです。
樋口陸軍少将は、すぐ満鉄の松岡洋右(ようすけ)総裁に特別列車の手配を依頼しました。
オトポールのユダヤ人たちは、すでに多くが満足に歩けない状態となっていました。
駅から満洲の国境までは、わずか数百メートルです。
そこには満鉄の日本人職員が待ち構えていました。
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ユダヤ人たちはすでに息も絶え絶えの状況でした。
待ち構える日本の職員たちは、
「頑張れ、もう一息だ!」
と叫びました。
ようやく国境にたどり着いたユダヤ人たちを、職員たちが背負って列車まで連れて行きました。
こうして、すべてのユダヤ人が救出されました。
特別列車は、二日かけて、ハルビン駅に到着しました。
列車が停車すると、救護班の医者がまっさきに車内にとびこみました。
病人や凍傷で歩けなくなった人たちがつぎつぎにタンカで運び出されました。
やつれた幼い子供たちには、暖かなミルクが振る舞われました。
子供も大人も、そのそのビンを見ただけで泣き出しました。
数時間後、樋ロ陸軍少将はオトポールの難民すべてが収容されたという報告をうけました。
十数名の凍死者、および病人と凍傷患者二十数名を除き、すべてのユダヤ人が無事に保護されたのです。
救援があと一日遅れていたら、この程度の犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちは言いました。
ユダヤ難民たちは、日本やアメリカへ渡り、残りの人たちはこのハルピンの開拓農民として生活していくことになりました。
日本に着いたユダヤ人たちは、在日ユダヤ人会と協力して、神戸に受け入れ施設を作られました。
日本の警察も、乏しい食糧事情の中で、トラック何台ものジャガイモをユダヤ人に贈りました。
こうして事件が落着した2週間後、日本国政府に対してドイツ政府から強硬な抗議文が送られてきました。
関東軍の司令部の東条英機参謀長が樋口陸軍少将を呼び出しました。
樋口陸軍少将は、東条英機参謀長に答えました。
「ドイツは日本の同盟国です。
しかしドイツのやり方が
ユダヤ人を死に追いやるものであるならば、
それは人道上の敵です。
私は日本とドイツの友好を希望します。
しかし日本はドイツの属国ではありません。」
そして参謀長の顔を正面から見据えて言いました。
「参謀長!
ヒトラーのお先棒をかついで、
弱い者いじめをすることを、
正しいとお思いになりますか」
東条参謀長は天井を仰いで言いました。
「樋口君、よく言ってくれた。
君の主張は筋が通っている。
私からも中央に、
この問題は不問に付すように伝えておこう」
こうして日本政府は、ドイツの抗議を、
「当然なる人道上の配慮」
として一蹴しました。
数年後、転勤で樋口少将がハルピンを去る日、駅には二千人近い群衆が集まりました。
遠く数十キロの奥地から馬車をとばして駆けつけたユダヤ人もいました。
それは樋口少将が土地や住居を世話したユダヤ難民たちでした。
樋口陸軍少将の乗った列車が動き出すと、群衆はホームになだれ込み、
「ヒグチ!」「ヒグチ!」
「ヒグチ! バンザイ!」の声がいつまでも響きました。
オトポール事件から約七年後、大東亜戦争の末期に突如侵攻してきたソ連軍を撃退した樋口陸軍少将は、ソ連に恨まれて、終戦後に戦争犯罪人として裁判にかけられそうになりました。
このとき樋口陸軍少将を救ったのはユダヤ人たちでした。
「命の恩人ヒグチを救え!」
「ヒグチに恩を返すのは今しかない!」
世界ユダヤ協会は、世界中のユダヤ人に連絡してアメリカ政府に働きかけ、樋口を救いました。
かつての満洲は、いまは中共の東北省と、ロシア領に分断統治されています。
そこには、かつてのロシア帝国の元貴族たちや、こうして樋口季一郎元陸軍中将に助けられた多くのユダヤ人たちが平和に暮らしていました。
日本が戦争に敗れたとき、満洲には、China共産党軍とソ連軍がなだれ込み、満洲国はなくなりました。
そして、そこにいたロシア帝国の元貴族やユダヤ人たちは、いまでは誰も残っていません。
この人たちが、その後どうなったのか。
ずっと不思議に思っていました。
あるとき友人から教えていただきました。
終戦前に、彼らは日本の手によって、上海に渡り、そこから船でブラジルへと疎開したのだそうです。
そしてブラジル社会では、日系人と、元ロシア帝国人、ユダヤ人は、たいへんに仲の良い関係をいまも築いているのだそうです。
さて、日本において軍の存在は、上古の昔の神倭伊波礼毘古命に率いられた御軍の時代から武士、戦前の日本軍、現代の自衛隊に至るまで、常に公正無私、人々の生活の安全と安心を護る存在です。
ですから日本人にとって、軍人といえば、それはいまの自衛官や機動隊員と同様、常に正義の味方です。
ところがこのことは、日本人の常識であっても、諸外国の常識ではありません。
大陸や半島においては、自国の軍は常に暴徒であったしヤクザ者であったし、ギャングの手先で有り続けました。
西洋においては、軍といえば傭兵で、傭兵は常に食いはぐれた愚連隊の集合体でした。
そしてその軍を動かすものが支配者でした。
ですから支配者=暴力をふるう者であり、収奪者です。
だからこそ、そこからの自由のために民衆が軍と戦ったという歴史を持つのが西洋社会であり、その収奪者から逃れて、自由のために新大陸を目指したのがアメリカ、いまも古代や中世さながらに民衆が支配を受け続けているのがチャイナやコリアです。
日本とは国の成り立ちが違うのです。
その、国の成り立ちが違う人達が、日本の軍のあまりの強さを見て恐怖して、戦後75年間、必死になって行ったことが、「日本の軍は怖い存在」というイメージです。
ところが75年もかけながら、現実には、「日本の軍は怖い存在」というイメージは、ただの言葉遊びにしかならず、これを政争の道具にすればするほど、それをする野党は、日本の世間から見放されてきました。
また、これを教育によって日本人に刷り込もうとすればするほど、自衛隊への入隊希望者が増えています。
日本には万年の歴史があります。
そうそう簡単に日本が消えることはないのです。
※この記事は2009年からほぼ毎年アップさせていただているものを、新たにリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに小名木善行でした。
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コメント
松さん
fc2ねずブロやFB学ぶ会さんの詳解で、沢山学んできました。
日本人は騙されやすいだけ?
何でも彼でも懐疑心や猜疑心で眺めるばかりの方々がいます。
(既に騙されてますね)
日本人は、人道を否定しません。
日本人は、徳の高い気立てと潔(いさぎよ)さを失ってはなりません。
2020/10/06 URL 編集