つまり、場を変えているからこそ、共生が実現するわけです。
共に生きるわけではありません。
共に生きようとすれば、弱肉強食になります。
なぜなら共生者のところに、収奪者がやってきたら、共生者は、すくなくとも一時的にはカモになるだけだし、滅亡に至るからです。
人類の歴史を振り返ると、世界の歴史は収奪者が権力を握って支配者となった歴史です。
これを「覇権国家」と言います。
覇権を握った者による支配は、そのまま所有と置き換えても同じ意味です。
覇権国家では、支配層と被支配層が必ず分離していきます。
被支配層は、そのまま奴隷層と言い換えても、意味は同じです。
そして世の中が末端に至るまで何重にも階層化していきます。
こうして奴隷層はいくらかけもちで働き続けても豊かになれず、支配層はろくに働かなくても驚くほどの所得を得る社会が出来上がります。
ですから気の利いた(優秀な)奴隷は、自らの能力を支配層に売り込み、あらゆる非合法措置をとってでも、支配層により一層の富をもたらすことで、自らの富を得、支配層の仲間入りを図るようになります。
この場合、支配層にとって都合が良ければいいのですから、奴隷層の人命も、周辺国の利益も、共存の思考さえも、ただ利用されるだけで、決して重視されることはありません。
そしてこれが、世の中のエリートの常態となります。
また、支配層は共通の敵を持ったときにのみ、支配層としてまとまります。
こうして戦いが起こります。
戦いで命を失うのは奴隷層だけです。
戦いに敗れても支配層が責任を取ることは決してありません。
そして周囲に敵がいなくなると、支配層は、今度は支配層の中に敵を探すようになります。
こうして支配層は自滅していきます。
そしてまた次の覇者が生まれます。
これが世界の歴史で様々な国が誕生しては消えていった理由です。
この季節、ほんの10年前までは、全国の野山や道路脇、堤防などを、セイタカアワダチソウが席巻していました。
セイタカアワダチソウは外来種で、密生して生息し、他の植物が入り込めないように、地中に毒素を撒き散らしました。
もともと環境の厳しい北米大陸で繁殖し生存してきた種なのです。
高温多湿で地味の肥えた日本に住み着くと、こんな環境の良いところはないとばかりに、またたく間に日本中を席巻しました。
つまり、日本の野山の草花を駆逐し、自分たちだけの天下を築きました。
ところが数年前から、権勢を誇ったセイタカアワダチソウが、自滅をはじめました。
自分たちが地中に撒いた毒素で、自分たちが自滅をはじめたのです。
いっぽう、滅ぼされたかに見えた日本在来種のススキは、地中に根を温存させていました。
そしてセイタカアワダチソウの撒いた毒素を分解し、ふたたび芽を出すと、セイタカアワダチソウの群生地に、再び返り咲くようになりました。
そしてススキが戻ると、それに合わせてコスモスも戻ってきました。
けれど地中の毒素を分解したススキは、穂先がまるで白髪のように真っ白になりました。(苦労したのですね。)
一方、セイタカアワダチソウがどうなったかというと、かつての自分たちだけでの密生を止め、いまでは日本の古生種であるススキや外来種のコスモスなどと、野山ですっかり同居するようになりました。
結局、セイタカアワダチソウは、共生の道を選ぶようになったのです。
それは日本の風土のおかげなのか、はたまた日本の神々のなせる御技なのか。
はっきりしていることは、日本の自然の力が、もはや二度とセイタカアワダチソウに、かつてのような権勢を認めないであろうということです。
そして、あくまで共生の道を選ばない限り、セイタカアワダチソウに日本での生存の可能性はないということです。
その意味では、セイタカアワダチソウは、新種の植物に変わったともいえます。
そうすることでセイタカアワダチソウは、日本の風土に同化し、適合したのです。
日本は不思議な国です。
戦後の日本には米国文化が浸透しました。
しかし日本は、米国と異なり国土が狭く、人々の居住できる地域は限られ、その地域を常に容赦ない自然災害が襲います。
米国のように広い土地はありません。
米国とは国土の状態が異なるのです。
米国は豊かな国です。
そして自由の国でもあります。
ですから米国の文化を取り入れることは、とても素敵なことだと思います。
ただし、米国民がひたすら「自由、民主」を主義として唱えるのは、彼らには実はそれがないからです。
これはたいへんに誤解を生みやすいことなのですが、世の中の真実は、常に「ないものねだり」です。
「ないからそれが主義となる」のです。
社会構造が支配的な覇権主義だから、そこからの自由を求めて自由主義が生まれます。
あるいは男性が常に筋肉パワー(力)によって女性を支配下に置こうとするから、女性たちが男性との対等な関係を求めてジェンダーフリーなどの運動が起こります。
社会的な富が偏在し、人口のわずか1%の富裕層が、年間のGDPの50%を奪い去るという覇者が征する社会構造だから、末端のその他大勢の貧困層が民主主義の実現を求めます。
理想は理想でしかないのです。現実とは違う。
そして厳しい現実があるから、これに対抗して「○○主義」が生まれます。
こうして社会的軋轢が一定の限界を超えると、そこでカタストロフィー(雪崩現象)が起こり、社会が新たな覇者を求めるようになります。
こうして国家が崩壊していきます。
現在のチャイナやコリアは、西欧的な覇権国家ではなく、こちらは対抗国家です。
日本に対抗して生まれた国です。
そもそも近世になるまで、中国人も韓国人も存在していません。
なぜなら中華人民共和国も、大韓民国も、戦後にできた国だからです。
中華民国は戦前に誕生していますが、こちらは今は台湾に寄生しています。
まずチャイナから申し上げると、彼らはもともと清国人でした。
清国では、女真族が覇者であり、社会の支配層でした。
いわゆる漢人たちは、そうした女真人に取り入ることで権力を得、民衆から収奪を行いました。
色々あって、最終的に共産主義政権が誕生しました。
共産主義(コミュニズム)は、社会全体の富の偏在を無くそうというのが、基本思想です。
チャイナ社会は、社会の上層部から末端に至るまで、全てが支配と被支配の構図によってできています。
ですから、彼らにとって、最終的は、ないものねだりで共産主義が覇権を握りました。
世界中で敵視されていた共産主義が、どうして覇権を握ることができたのかというと、それ以前に日本が善政を敷いて、上下と支配の関係にあったチャイニーズたちに、人と人とが対等な世の中を見せたからです。
こんなに安心して、こんなに安全に、誰からも収奪されることなく、安心して生きることができる。
そんな夢のような生活を、現実に得ることができるという、彼らが4千年以上にわたって実現できなかった経験を、ごく短期間ながら、実現することができたのです。
「やればできる」
このことが、「もっと平等に!」と謳う共産主義の台頭を促しました。
けれどその共産党からすると、日本が実現してくれた理想と言い出したら、政党が成立しません。
だからそれまであった社会の歪みの全てを日本の「せい」にして、国家を成立させました。
つまり国の成り立ちの初めから、彼らは日本への対抗国家として成立した国であるわけです。
ですから中共の反日政策は、中共政府が存続する限り、たとえ日本が滅んでなくなったとしても、世界から日本人なる者が消えて亡くなったとしても、いつまでも何百年でも続きます。
そのいつまでも、何百年でも続いているひとつが、チャイナの呼称です。
チャイナ(China)という呼称は、秦国のことを言います。
秦の始皇帝の秦国です。
秦は紀元前206年に滅亡しています。
つまりチャイナは、今から2千年以上も前に滅亡した国の名前で呼ばれ続けているわけです。
明国ができても、清国ができても、彼らは世界中から「秦国人」と呼ばれ続けているわけです。
これは、たとえば米国の白人さんや黒人さんたちが、インデアンと呼ばれ続けているようなもので、現政権にとっては、ある意味とても屈辱的なことです。
ですからチャイニーズたちは、日本人という言葉に対抗して生まれた「中国人」という新造語を、対抗する日本に向けて「あたしたちを中国人とお呼び!」と強要するわけです。
考えようによっては、哀れなものです。
コリアンも同じで、コリアとは高麗国のことを指して生まれた呼称です。
高麗国も、1392年に滅んでいます。
つまり600年以上もの昔に、とっくの昔に無くなっているのに、相変わらず高麗人と彼らは呼ばれ続けているわけです。
つまりその後に生まれた李氏朝鮮王国などは、明や清の一部のたいへんに貧乏なエリアとしてしか、世界では理解されていないということです。
彼らはそれが悔しいから、日本人に対抗して韓国人という言葉を作ってまでして、日本に対抗しようとして、今の韓国ができています。
これまた哀れなものです。
日本は、西欧にあるような派遣国家でも、チャイナやコリアのような対抗国家でもありません。
日本は、大昔から万世一系の「皇道国家」です。
「皇」というのは、字を見たらわかりますが、王の上に白が書かれています。
この場合の白は「太陽とその光彩」を意味し、王よりも上位にある高貴な存在を意味します。
つまり我が国は、国家権力、つまり支配層の頂点にある王よりも上位に、皇という存在を置いた国だから「皇道国家」です。
我が国において、皇は政治権力を持ちません。
その代わり、国家最高の権威として民衆を「おほみたから」とします。
こうすることで、皇に仕える政治権力者たちは、皇の「たから」が豊かに安全に安心して暮らせるようにすることが使命となります。
そのためにさまざまな政策が行われますが、一定期間が過ぎると、やはりひとつの理想を掲げた権力は、その定性進化によって、徳が尽きるときがやってきます。
すると、皇のもとで政権交代が起こる。
そしてその政権交代は、常に皇の「おほみたから」のために最善の選択として行われることになります。
もちろん人間の世の中ですから、かつての民主党内閣三代の時のような選択ミスが起きることもあります。
けれど、そうしたものは、必ず修正されていく。
それは国家の中心に、常に「皇」がおわすからです。
さて、昨今、台風12号、14号とも、八丈島沖で発生しました。
台風というのは、本来、南太平洋で発生し、北上して日本列島にやってくるものです。
その台風が、日本近海で発生しているのは、日本列島近海の海面温度が急激に上昇していることを意味します。
いまのところまだ、海表温度だけの上昇に留まっていますが、あと何年かすると、海中まで温度が上昇します。
すると海水は熱膨張を起こします。
海水の量は巨大ですから、わずかな熱膨張で海面が上昇します。
日本列島では、6000年ほど前に、やはり同じことが起こり、この時は海面が最大22メートル上昇しました。
同じことがいま起こると、日本列島の平野部はすべて水没します。
日本の大都市は、ことごとく海に面しています。
それが水没してしまうわけです。
この変化は、わずか50年ほどで一気に起こります。
一方、日本列島では、これから人口が急激に減少していきます。
80年後の2100年には、人口は日本列島全体で、およそ4000万人にまで減少するといわれています。
同時に、平野部の水没は、稲作地帯を直撃します。
日本列島の環境は、いまとは大きく異なってくるのです。
国政というものは、百年の大計に基づいて行われるべきものです。
あらゆる環境変化を想定し、誰も知らない間に未来への布石を打つ。
それが本来の国政のあり方です。
意味もわからずに民主主義をがなりたてて、ただ政権の批判をするのが政治ではありません、
このことは戦後日本に限ったことではなく、今の米国も同じだし、戦前の日本も同じです。
政治の本義はどこへやら、ただ与野党の対立による覇権争いのためだけに、いたずらに時間ばかりが過ぎていく。
それならいっそのこと、我が国は大政奉還して、元の律令体制に戻したほうが良いかもしれない。
日本が日本を取り戻すために必要なことは、ただひとつです。
日本人が、日本が天皇の知らす国であることを自覚し、これを常識として取り戻すこと。
それだけが、日本がサーベルタイガーにならない唯一の道だと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに小名木善行でした。
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コメント
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限られたスペースを共有する島の生物は、共生するためでしょうか?
大きい動物は小さめになり、小さい動物は大きめになり、大陸よりも均一的になりやすいというものです。
そして、固有種となるのでしょう。
現代は、生物細胞が体を変化させるスピードを超えて、人為的に外の者が大量にもたらされます。
自然の論理を許さないのは人間社会なのです。
2020/10/19 URL 編集
松さん
「弱肉強食」は、大陸の「弱之肉彊之食」が由来らしいですね。
野生の世界を例にして、尤もらしく説明されることは多いです。
しかし、動物達自身は、多分そんな風には思って無いでしょうね。
(だから大嫌いな言葉です)
野生生物が他の動植物を捕食することは「生きるための手段」です。
それは「大自然の摂理」です。
「弱肉強食」などという目線は、人間の偏見かも知れません。
(弱い動物だって、絶滅せずに生き残ってるじゃありませんか)
変化の無い環境はありません。
(国家も職場も家庭も)
「適者生存」の「適」って「慣れる」ことだと思っています。
しかし、慣れて「適応」しただけでは認められず、完全に「適合」しなければ生きることも許されないとしたら、どうします?
また「優勝劣敗」も同じです。
なんで勝ち残りたいのか?
どうして勝ち残れたのか?
「力」って何のこと?
考えなければならないことは山程あると思うのです。
生きるために他国の優れた文化を取り入れることは出来ます。
しかし、国ぐるみ取ってしまう考えは、今や許されません。
(やろうとする国はありますけど)
人間は大自然の営みに対してすら勝とうとします。
(時として、神仏をも畏れません)
考えてみれば、人間こそ「共存(きょうそん)共栄」など出来ない厄介な生き物なのかも知れませんね。
敵対も無く、争いをせず、一所で共に生活して栄えることができれば最高でしょうけど。
しかし、未来に関わる理不尽に目を瞑ってる人は多いです。
自分の生涯…高々数十年間の無難だけを祈っているのでしょうか。
これでは「共存共栄」の願いなど叶わないかも知れません。
(夫婦も喧嘩して離婚します)
長々と書いてしまいましたが、これも「無い物強請り」ですかね。
2020/10/11 URL 編集