実は、同じようなテーマを扱ったものに、藤子不二雄の『笑うセールスマン』があったりします。
もっというなら、男女の仲も同じかもしれません。
人はないものねだりする生き物だし、自分にないものがほしいものです。
そのことは決して悪いことではないし、むしろそうした渇望こそが社会を発展させ、あるいは個人の向上に結びつきます。だから、ないものねだりは、ある意味、良いものです。
否定してしまってはいけないと思います。
ただ、求めるということは、現実には「手に入れていない」ということです。
手に入れてないから、欲しいのです。
手にいれてないから、求めるのです。
そのことを上の物語から学ぶことができます。
「○○主義」という言葉があります。
民主主義とか、自由主義とか、快楽主義とか金儲け主義だとか。
たとえば、民主主義を例にとります。
すると、
「民主主義を理想とする国に、民主主義はない」ということがわかります。
実はこのことは、いま私が言い出していることではなくて、大正時代に林子平という国学者が説いた言葉です。
けだし名言だと思っています。
そしてこのことを知ると、いろいろなものが見えてきます。
たとえば米国の場合、1%の大金持ちが米国のGDPの5割を寡占しています。
そのどこが民主主義なのでしょうか。
あるいは自由主義なるものがあります。
米国に限らず欧米社会では、夫が妻を支配し、上司は部下を支配します。
社会全体が、支配と被支配の関係で成り立ちます。
ですから支配される側に自由はありません。
だから自由が理想とされ、自由になること、自由であることが理想とされます。
ハリウッドスターや世界的に有名な歌手などの大金持ちに離婚が多いのは、財力をつけた女性にとって、夫による支配が耐えられなくなるからだといわれています。
自由が欲しいのです。
その神話には、エデンの園でアダムとイブがリンゴの実を食べたとき、次の描写があります。
あるいは共産主義があります。
共産主義は、すべての人々が、共に同じ利得を得て互いに共存共栄することを理想とします。
けれど現実には、共産主義国は、共産主義どころか完全な共産党支配です。
その共産党は、党幹部によって支配されています。
その党幹部も、党のトップによって支配されています。
そして一部の特権階級だけがあらゆる贅沢を享受しています。
つまり現実にはそこに共産主義の理想はないわけで、ないから余計に共産主義がかしましく宣伝されるし、それに騙される人が出るのです。
いまどき共産主義など、世界中で嘘だと知れていますが、おもしろいもので、日本にはなぜかいまだに共産党が存在します。
本当に日本は不思議不思議の国です。
ないものねだりは、必ずしも間違ったものではありません。
ないから、実現しようとして努力するし、努力は悪いことではありません。
ただ、分をわきまえるといいますが、社会の中における自分の役割をしっかりと認識して生きること、妙な何々主義に惑わされずに、自分の人生をしっかりと生きることが大事だということに異論はないと思います。
人には誰しも思想信条があります。
こうなりたい、という夢や希望もあります。
だからといって、夢ばかりを見て、現実を忘れてはいけないということなのだろうと思います。
松は、どんなに土の栄養のとぼしい、岩場や断崖絶壁、あるいは砂地でも風雪に耐えて雄々しく茂ることから、古来、源氏の象徴としされてきた木です。
それこそが、どんな難事にあっても、不退転の武士の心だということで、武士の象徴ともされ、ですからお城といえば、庭に松が定番となりました。
またお能は源氏の棟梁の足利氏が引き立てた芸能ですから、全国どこの能楽堂でも、壁に必ず松の木が描かれています。
その松の木が、金やガラスや草をうらやましがって、実際に枝をそのようにしたら、結果は残念なことになったというのが、この物語です。
戦後の日本人の多くは、日本人であることを嫌がり、欧米人のようになることが称賛されてきました。
住宅行政も、社会制度も、服装も、生活スタイルも欧米式になることがかっこいいことであるように宣伝されました。
このため、多くの日本人が理想の生活を求めて欧米に渡りました。
けれどその多くが、わずか数年で日本に帰ってきてしまいました。
あるいは住宅用の木材は、国産の木材を使うことが行政によって拒否され、外国からの木材の使用が奨励されました。
ところがそんな外材の多くは、年間の平均湿度が20%に満たないような乾燥した土地で生えた木材でした。
日本は高温多湿の国です。
そのような木材を住宅用に使えば、木材は大喜びで空気中の湿気を吸います。
結果、壁紙の裏側はカビだらけとなり、住む人にアレルギーを引き起こしました。
一方、およそ30年で伐採されて住宅建築用木材とされていた杉は、外材の使用の普及によって森に植えられたままになりました。
日本の杉は、それまで30年で伐採されていましたから、30年経つと生き残りのために猛烈に花粉を飛ばします。
こうして日本では花粉症に罹患する人の割合が、なんと50%を越えるようになりました。
いまや花粉症は国民病や風土病ともいうべき病気ですが、これだけ困っている人がいながら、政府はいまだに花粉症を国家的対策対象症例としていません。
なぜなら花粉対策と杉の伐採と新たな林業分野の育成が実は一体のものであり、これを行うと外材の輸入が大幅に減少するからだともいわれています。
個人の生活もまた同じです。
欧米の生活をうらやみ、それに近けることが国是とされてきたわけです。
それは自らの生活を充実させることではなく、他人の生活をうらやむことです。
まさに上の文にある松の木のおねだりと同じです。
分をわきまえて生きる。
松の木は、松の木であることに意義があるし、松の木としてしっかりと生きるところに未来がある。
何々主義と気取ってみたところで、それは多くの場合、ただのないものねだりでしかない。
そうであれば、松の木は松の木らしく、雄々しく生きることが大事です。
それが日本人の日本人的生き方というものなのだと私は思っています。
昭和天皇が終戦の翌年に詠まれた御製です。
降り積もる
深雪に耐えて
色変えぬ
松そ雄々しき
人もかくあれ※この記事は2019年10月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに小名木善行でした。
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コメント
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2020/10/14 編集
松さん
どんな環境に置かれても、樹木は逃げ出すことが出来ません。
その地に慣れても、水分補給が絶えれば枯れてしまいます。
背の高い広葉樹と低い針葉樹。
各々に懸命な生き方があります。
無い物強請(ねだ)りは悪いことでは無いかも知れません。
しかし、何もしないで欲しがり、待っているだけでは強請りですよね。
努力すれば手に入りそうなもの。
それは最早、無い物では無く、強請りでも無いと思うのです。
だから必死に努力してます。
日本人であることが嫌になったら、全ての恩恵を返納して止めればいいだけです。
(人はどこにでも行けますから)
妻と一緒に東京に出掛けると、必ず皇居に寄ります。
天守台の松を眺めると、何となく元気を貰える気がしますから。
2020/10/14 URL 編集