木村重成が討死(うちじに)したとき、敵将の徳川家康は、「大切な国の宝を失った」と涙をこぼしたと伝えられています。蠅にわからなかった金冠の値打ちも、敵将の家康にはちゃんと伝わった。ちゃんとわかった。 世の中、そんなものだと思います。 わかる人にはわかる。わからない人には、永遠にわからない。わからなくても、きっと明日は晴れるし、きっとお天道様がまたのぼってくださる。それを信じて生きるのが、日本人なのだろうなと思います。 |
木村長門守重成

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
男の嫉妬と、女の恨みほど恐ろしいものはないと、これは昔から言われることです。
今日のお話は、そんな嫉妬を見事に跳ね返したという歴史話です。
木村重成(きむらしげなり)と山添良寛(やまぞえりょうかん)のお話です。
木村重成は、宮崎県宮崎市のあたりにかつてあった佐土原藩の出身で、豊臣秀頼の重臣だった人です。
イメージ的には、戦国武将のキムタクといった感じかもしれません。
色白でもの静か、誰からも好かれる好青年で、たいへんに品格のある武将だったといいます。
だから大坂城内でも、たいへんに人気がありました。
ただ豊臣秀頼の時代の若い武将ですから、戦場での実践経験がない。
人柄が立派で、美男子、だけれども実戦経験がないということで、中には妬(ねた)む者もいました。
要するに、男の嫉妬です。
大坂城にいた、山添良寛(やまぞえりょうかん)という茶坊主もそのひとりでした。
茶坊主といっても、良寛は腕っ節が強く五人力の力自慢です。
常々から
「まだ初陣の経験もない
優男(やさおとこ)の
木村重成なんぞ、
ワシの手にかかれば、
一発でのしてやる」
と、はばかることなく公言していました。
ある日、たまたま大坂城内の廊下で木村重成に出会った良寛は、わざと手にしたお茶を木村重成のハカマにひっかけました。
「気をつけろい!」
良寛が重成をにらみつけます。
良寛にしてみれば、それで喧嘩になればしめたもの。
人気者の木村重成を殴り倒せば、自分にハクがつくとでも考えたのでしょう。
この手の身勝手な自己顕示欲を持つ者は、いつの時代にもいるものです。
ところが木村重成、少しも慌てず、
「これはこれは。
大切なお茶を運ぼうとしているところを
失礼いたしましました。
お詫びいたします」
と深々と頭をさげてしまいます。
そんな重成の様子に、嵩(かさ)にかかった良寛、
「そんな態度では謝ったことになりませぬ。
土下座して謝っていただこう!」
と迫りました。
要するに、怒らせて手を出させればしめたもので、そこを反対にやっつけてやろうというわけです。
加えて城内での喧嘩刃傷沙汰はご法度(はっと)です。
武士である木村重成は、身分を失って失脚し、大坂城を追われるだけでなく、場合によっては切腹になります。
かたや地位ある武将、かたや地位などない茶坊主です。
失脚すれば「ざまあみやがれ!」というわけです。
木村重成は、初陣経験のない大坂城勤務とはいえ、一国の大名です。
しかも豊臣秀頼の側近です。
相手はただの茶坊主で、しかもこれは言いがかり。
武将である木村重成の土下座などあり得ないことです。
ところが木村重成、
「それは気がつきませなんだ」と言うと、膝を折り、床に膝をついて、深々と頭を下げて
「申し訳ございませんでした」
と頭を下げました。
すっかり気をよくした良寛、勝ち誇った気になって、
「木村重成など喧嘩もできない腰抜けだ。
ワシに土下座までして謝った。
だいたい能力もないのに、
日頃から偉そうなんだ」
と、あることないこと、木村重成の悪口を大坂城内でふりまきました。
日頃、たいへんな人気のある重成です。
誰に対してもやさしいし、剣の腕は超一流、武将としても凛としてたくましい風情です。
人々が抱いていたイメージと、まったく違うことが流布されると、人々は認知不協和を起こして、そこに関心を寄せます。
良寛のまき散らしたウワサは、たちまち大阪城内に広がりました。
ちなみに認知不協和は、人々が抱いているイメージと、ウワサに落差があったとき、人は自分の中でその情報を消化できなくなり、不安を起こし、その不安を埋めようとすることで、かえってその情報を強く認識してしまうことをいいます。
たとえば、かっこいいウルトラマンをCMに登場させ、失恋させたり、欲しいものを誰かに横取りされたりなどのシーンで、ウルトラマンを徹底的にこき下ろすと、人々は自分の中で、「あのかっこいいウルトラマンが、失恋? えっ?何?どうしたの?」となって、何の話か興味をそそられ、しかもそれが強く印象に残るわけです。
一生懸命真面目に努力し、実績も実力もある政治家について、あることないことでっちあげて、失言問題などで大騒ぎする。
すると日本人なら誰でも、「自分の不徳が招いたことだから」と、「皆様にご心配をおかけして申し訳ない」と謝る。
謝ると、「それみたことか。うしろめたいことがあるから、謝ったんだ」などと、筋違いの噂を流して、
「謝った、謝った」と大騒ぎする。
これまた「認知不協和」の応用です。
そして噂は、とかくその次元が低ければ低いほど、大きく広がります。
木村重成のときもそうでした。
なまじ日頃から評判の良いしっかり者の重成だけに、茶坊主に土下座したという噂は、木村重成の貫禄のたらなさとなって、まさに大坂城内の笑い者、語り草になっていったのです。
この時代、まだ戦国の世の中です。
大阪の豊臣方と徳川家の確執が、いつ大きな戦になるかわからない。
まして戦国武将といえば、常にある程度の武威を貼らなければ、敵からも味方からも舐(な)められてしまいます。
舐められるということは、それだけで武将としての一分(いちぶん)にかかることです。
噂というものは、必ず本人の耳にも入るものです。
当然、重成の耳にもはいってきました。
登城すれば、周囲からは冷たい視線が重成に刺さります。
心配した周囲の人が、
「よからぬウワサが立っていますよ」と重成に忠告もしてくれました。
しかし重成は、笑ってまったく取り合いません。
ウワサは、重成の妻の父親の耳にも入りました。
実はこの父親、とんでもない大物です。
重成の妻は青柳(あおやぎ)という名のたいへんな美人なのですが、この妻の父親は大野定長(さだなが)といって、豊臣秀頼の側近中の側近の大野治長(はるなが)の父親です。
戦国の世で数々の武功を立てた猛者でもあります。
「娘の旦那が「腰抜け」呼ばわりされているとあっては、大野の家名にも傷がつく。
よし、ワシが重成のもとに行き、直接詮議をしてくれよう。
ことと次第によっては、その場で重成を斬り捨てるか、嫁にやった青柳に荷物をまとめさせて、そのまま家に連れて帰って来てやるわ!」と、カンカンに怒って重成の家を尋ねました。
定:「重成殿、かくかくしかじかのウワサが立っているが、茶坊主風情に馬鹿にされるとは何事か。なぜその場で斬って捨てなかった。貴殿が腕に自身がなくて斬れないというのなら、ワシが代わりに斬り捨ててくれる。何があったか、説明せよ。さもなくば、今日この限り、娘の青柳は連れ帰る!」
重:「お義父様、ご心配をおかけして、申し訳ありませぬ。ただ、お言葉を返すわけではありませぬが、剣の腕なら私にもいささか自信がございます。けれどお義父様、たかが茶坊主の不始末に、城内を血で穢したとあっては、私もただでは済みますまい。場合によっては腹を斬らねばなりませぬ。いやいや、腹を斬るくらい、いつでもその覚悟はできておりますが、仮にも私は、千人の兵を預かる武将にございます。ひとつしかない命、どうせ死ぬなら、秀頼様のため、戦場でこの命、散らせとうございます。」と前置きしたうえで、
「父君、『蠅(はえ)は金冠(きんかん)を選ばず』と申します。蠅には、金冠の値打ちなどわかりませぬ。たかが城内の蠅一匹、打ち捨てておいてかまわぬものと心得まする」と申し上げました。
これを聞いた大野定長、「うん!なるほど!」と膝を打ちました。
蠅は、クサイものにたかります。
クサイものにたかる蠅には、糞便も金冠も区別がつきません。
そのような蠅など、うるさいだけで、相手にする価値さえない。
たいそう気を良くした大野定長、帰宅すると、周囲の者に、
「ウチの娘の旦那はたいしたものじゃ。
『蠅は金冠を選ばず』と申しての、
たかが茶坊主の蠅一匹、
相手にするまでもないものじゃわい」
と婿自慢をはじめました。
日頃から生意気な茶坊主の良寛です。
これを聞いた定長の近習が、あちこちでこの話をしたものだから、あっという間に「蠅坊主」の名が、大坂城内に広まりました。
挙げ句の果てが、武将や城内の侍たちから良寛は、
「オイッ!そこな蠅坊主、
いやいや、良寛、お主のことじゃ!。
そういえばお主の顔、
蠅にも見えるの。
蠅じゃ蠅じゃ、蠅坊主!」
と、さんざんからかわれる始末です。
ただでさえ、実力がないのに、自己顕示欲と自尊心だけは一人前の山添良寛です。
「蠅坊主」などと茶化されて黙っていられるわけもありません。
「かくなるうえは俺様の腕っ節で、
あの生意気な重成殿を、
皆の見ている前でたたきのめしてやろう」
と、機会をうかがいました。
機会は、すぐにやってきました。
ある日、大坂城の大浴場の湯けむりの中で、良寛は、体を洗っている重成を見つけたのです。
いかに裸で、背中を洗っている最中とはいえ、相手は武将です。
正面切っての戦いを挑むほどの度胸もない。
良寛は、後ろからこっそりと近づくと、重成の頭をポカリと殴りつけました。
なにせ5人力の怪力です。
殴った拳の威力は大き・・・かったはずでした。
ところが。。。。
「イテテテテ」と後頭部を押さえ込んだ男の声が違う。
重成ではありません。
頭を押さえていたのは、なんと天下の豪傑、後藤又兵衛でした。
体を洗い終えた木村重成は、とうに洗い場から出て、先に湯につかっていたのです。
いきなり後ろから殴られた後藤又兵衛、真っ赤に怒って脱衣場に大股で歩いて行くと、大刀をスラリと抜き放ち、
「いま殴ったのは誰じゃ!
出て来い!
タタッ斬ってやる!」
と、ものすごい剣幕です。
風呂場にいた人たちは、みんな湯船からあがり、様子を固唾を飲んで見守りました。
そこに残ったのは、洗い場の隅で震えている良寛がひとり。
「さては先ほど、ワシの隣に木村殿がおったが・・・
そこな良寛!、
おぬし、人違えでワシを殴ったな!
何。返事もできぬとな。
ならばいたしかたあるまい。
ワシも武士、
斬り捨てだけは勘弁してやろう。
じゃがワシはあいにく木村殿ほど人間ができておらぬ。
拳には拳でお返しするが、
良いか良寛、
そこになおれ!」
と、拳をグッと握りしめました。
戦国武者で豪腕豪勇で名を馳せた後藤又兵衛です。
腕は丸太のように太く、握った拳は、まるで「つけもの石」のようです。
その大きな拳を振り上げると、良寛めがけて、ポカリと一発。
又兵衛にしてみれば、かなり手加減したつもりだけれど、殴られた良寛は、一発で気を失ってしまいました。
又兵衛も去り、他の者たちも去ったあとの湯船の中、ひとり残ってその様子を見ていた木村重成は、浴槽からあがると、倒れている良寛のもとへ行き、
「あわれな奴。
せっかくの自慢の五人力が泣くであろうに」
と、ひとことつぶやくと、「エイッ」と良寛に活(かつ)を入れ、そのまま去って行きました。
さて、気がついた良寛、痛む頬を押さえながら、
「イテテテて。
後藤又兵衛様では相手が悪かった。
次には必ず木村殿を仕留めてやる」
そのとき、そばにいた同僚の茶坊主が言いました。
「良寛殿、
あなたに活を入れて起こしてくださったのは、
その木村重成様ですぞ」
これを聞いた良寛、はじめのうちは、なぜ自分のことを重成が助けてくれたのかわかりません。
ただの弱虫と思っていたのに、
ワシを助けてくれた?
なぜじゃ?
そのときハタと気がつきました。
重成殿は、ワシに十分に勝てるだけの腕を持ちながら、城内という場所柄を考え、自分にも、重成殿にも火の粉が架からないよう、アノ場でやさしく配慮をしてくれたのだ。
「そうか。
俺は間違っていた。
木村殿の心のわからなかった。
ワシが馬鹿だった」
良寛は後日、木村重成のもとに行き、一連の不心得を深く詫びると、木村重成のもとで生涯働くと忠誠を誓いました。
この年、大坂夏の陣のとき、初陣でありながら、敵中深くまで押し入って大奮戦した木村重成のもとで、良寛は最後まで死力を尽くして戦い、重成とともに討死して果てました。
・・・・・・
このお話は、「蠅に金冠」という題目で、神田家の講談話として、昔はたいへんによく知られた物語だったものです。
昔、私がまだ高校生くらいだった頃に、この物語を講談で聞いて、大感動した遠い記憶があるのですが、実は、8年ほど前に講談師の神田山緑(かんださんりょく)師匠の口演で、この講談を久しぶりに聴く機会に恵まれました。
高校生の頃に聴いたときとは、ある程度の人生経験を経てから聴くのとでは、感じるものにも違いがあります。
久しぶりに聞いた「蝿に金冠」は、たいへん感銘を受ける物語でした。
この物語は、実は、神田山緑さんのお師匠さんが、生前に、昭和天皇の前で口演された演目であり、また昭和天皇がたいへん愛されたお話でもあるのだそうです。
人の上に立つ人、ある程度世間で目立つ人、そして金冠を持つ人は、必ず世間の一部の人から酷評され、あることないこと、言われている本人も知らないようなことまで、言われたり、馬鹿にされたりします。
このことは世の常で、万人受けする人というのは、まずありえないものです。
信長を好きだという人が千人いれば、信長だけは大嫌いという人が千人いる。
世の中というのはそういうものです。
逆に言えば、嫌いだという人の声が聞こえてこない、好きだ、お気に入りだという声ばかりなら、それは世の中で目立っていないということか、あるいは世間から相手にされていないということです。
youtubeなら、たとえばブルーノマーズの『
Uptown Funk』というミュージック動画は、再生回数が40億回という化け物のような動画ですが、そのような人気動画でも、イイネが1535万件、良くないねが90万件あります。
世界的に大人気の歌手の動画でも、すくなくとも90万人は、よろしくないのボタンを押下したわけです。
情報の発信者となった側の人は、どうしても、否定的な意見が気になるものです。
なぜならそこに、自らを成長させる鍵があると思うからです。
けれど、否定者の中には、心無い意見どころか、心を折ろうとするような意見を寄せる者もいます。
それどころか、身の危険を及ぼしかねない、ひどいことを述べる者も、残念なことですが、世の中にはいます。
そういうときに思い出すのが、この「蠅は金冠を選ばず」です。
正しいことをしようとするとき、真面目に何かをしようとするとき、口差がない蠅は、まさに言いたい放題となります。
まして、影響力があり、責任がある者は、言いたいことの半分も言えないものです。
一方、攻撃する側は、無責任で、何の影響力もないから、言いたい放題です。
ウワサは、良いウワサばかりではありませんし、あからさまな中傷や非難、あるいは名誉を毀損する振る舞いは、言われる側にときに重大な影響を及ぼすこともあります。
昨今の若い女性の自殺の問題も、その裏側にはかなりの部分、ネットでの匿名による中傷があるという話もあります。
被害を受ける当事者にしてみれば、蠅どころではないかもしれない。
もちろん、清らかで正しいコメントをいただくことで、自らの襟を正すこともできるわけですから、必ずしも否定的なご意見のすべてが悪いとか、否定すべきということでもありません。
要するに大切なことは、自分が正しく生きる、いろいろなことをしながら、魂の生長を続けていくということなのではないかと思います。
昭和天皇は、本当に偉大な天皇であられたと思います。
昭和天皇の大御心は、もったいなくも私どもには到底図りかねることです。
ただ、陛下がこの「蝿は金冠を選ばず」の物語を愛されたということは、お察しするに、昭和天皇にとっても心が洗われるお話であられたのであろうと思います。
また、戦地で勇敢に戦い、散って英霊となられた帝国軍人の皆様も、戦後は、すでにお亡くなりになられていることをいいことに、あらん限りの中傷を浴び続けました。
やれ赤ん坊を放り投げて銃剣で刺し殺しただの、女性を性奴隷にしただの、本人たちに聞いたら、目をまるくして驚きそうな野蛮人に仕立てられました。
まるで思いも着かないような蛮行の犯人に仕立て上げられ、馬鹿にされ、中傷され続けていたわけです。
しかも、すでにお亡くなりになられていて、一切の反論もできない。
それでも「蠅は金冠を選ばず」と思い、誰も見ていなくても、お天道様が見てらっしゃるからと、誠実に生きてきたのが、日本人です。
他人に悪口を言われたからといって、同じように悪口で返したとしても、相手が変わることはありません。
上にご紹介した物語の茶坊主の山添良寛は、最後には改心して木村重成のために忠誠を誓っていますが、それは当時の人々の民度が高く、名誉を重んじて行動してた日本人社会であったればの出来事です。
現代社会では、山添良寛のような改心など見込めるはずもありません。
むしろ蠅を相手にしたら、自分も蠅の仲間入りすることになるだけです。
日本人はもともと「対立と闘争」の国の住人ではありません。
全体の中で、自らの分をわきまえて行動し、すこしでも全体のために役立てるよう、ひとりひとりが努力をし続ける。
それが日本人です。
対立と闘争、支配と蹂躙という大陸型の土俵で勝負しよと思っても、日本人は、もともとそういう概念自体が乏しいのですから、同じ土俵では勝ち目はありません。
むしろ日本人なら、日本的な・・それはひたすら努力を重ねて魂をみがく・・・価値観を大切にしていくことではないかと思います。
木村重成が、良寛の真似をして、殿中で刃傷沙汰を起こしてしまっていたら、いったいどうなっていたでしょう。
そうそう、木村重成は、戦(いくさ)のとき、兜(かぶと)に香を薫(た)きしめて、戦場に赴いたそうです。
戦いに破れ、首を刎ねられたとき、その首が汗臭いのでは、相手の武将に申し訳ないという心がけだったそうです。
木村重成が討死(うちじに)したとき、敵将の徳川家康は、「大切な国の宝を失った」と涙をこぼしたと伝えられています。
蠅にわからなかった金冠の値打ちも、敵将の家康にはちゃんと伝わった。ちゃんとわかった。
世の中、そんなものだと思います。
わかる人にはわかる。
わからない人には、永遠にわからない。
わからなくても、きっと明日は晴れるし、きっとお天道様がまたのぼってくださる。
それを信じて生きるのが、日本人です。
講談師《真打》神田山緑師匠
※このお話は2013年11月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行でした。
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