「ねずラジ」は、筆者が12年にわたって書き綴ってきたブログの記事4000本の中から、選りすぐりの記事をベースに対談形式でお届けするラジオ番組です。もちろん、ただ過去記事を読み上げるだけでなく、その都度補足しながら、より理解が深まるように話しています。意外と人気で、リスナーが多いのでびっくりしています。 詳細はこちら→https://www.ishikikaikaku.jp/nezuraji/
|
言葉は、たいせつなものです。 日本語は、多様な文化を採り入れるのに際して、とても適した言語ですけれど、もとからの日本語の言葉の意味をしっかりとわきまえていないと、とんでもなくアコギな連中に引っかかってしまいます。 日本人が日本語《国語》教育は、もっとしっかりしたものにしていく必要があると考えます。 なぜなら日本人は日本語で思考するからです。 |

画像出所=http://yosisi.sakura.ne.jp/sub1.htm
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
人気ブログランキング応援クリックは
←こちらから。いつもありがとうございます。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
よく「夢を実現する」とか「夢をかなえる」といいますが、現代日本人にとって、「夢」というのは、どのような意味を持っているのでしょうか。
実は日本語の夢、英語のドリーム、中国語の夢では、それぞれまったく意味が違います。
そこで、今回は夢について考えてみたいと思います。
英語で夢のことは「Dream」とされます。
「Dream」の語源は古サクソン語の「drōm」で、「よろこび、楽しみ」を意味するのだそうです。
アメリカ映画などで、よく「夢をかなえる」などと言いますが、それは語感としては「自分が楽しみにしている希望を実現することでよろこびを得る」という語感があるわけです。
戦後は、なんでもかんでもアメリカさんの真似をすることが流行(はや)りですから、米国人なみに「君の夢を実現しよう!!」などと言われると、ついその気になってしまう人も結構あるようですが、では、日本語の「夢」には、どのような意味があるのでしょうか。
まず漢字の「夢」は、「くさかんむり」の下に「目」を横にした字(これを横目といいます)があり、その下に「夜」という字の省略形の「タ」があります。
つまり夜は暗いので、草の一本一本がよく見えない・・・というわけで、なんとなくボヤ〜ッとしていて、よくわからないものが「夢」です。
眠っている間に見る夢は、観ているときははっきりしているつもりでも、目が覚めたら忘れてしまう。
ですから中国語でも「夢」といえば、ひとことでいえば「よくわからない、もやっとしたもの」といった語感があります。
夢に「にんべん」を付けると「儚(はかな)い」という字になりますが、これもまた中国漢字です。
要するに、漢字の意味としては、「夢」は、よくわからないまま消えてしまうもののことを言います。
この点が英語の「Dream」と異なるところです。
なにせ消えてしまうものなのです。
「よろこび」が消えてしまったら、たぶん、さびしいです。
「夢」の音読みは「ム」ですが、訓読みは「ゆめ」です。
大和言葉は、もともと一字一音一義ですから、「ゆ」と「め」それぞれに意味があります。
たとえばカタカムナでは、
「ゆ」は湧き出るもの、
「め」は思考や思念の萌芽を意味します。
この二つが組み合わさった「ゆめ」という単語は、「萌え出る思考や思念」といった意味になるとされます。
ホツマツタへでは
「ゆ」は跳ねて登っていくもの、
「め」は液体に何かを加えることを意味します。
つまり「ゆめ」は、「何かの力がはたらくことで登っていく」、あるいは「魂がどこかに登っていくことで何かを得る」ことを意味することになります。
つまり日本人にとっての「ゆめ」は、英語のような「希望」でもなければ、中国語のような「よくわからないもの」でもなく、現実の延長線上にあるものと認識されてきたことになります。
このため私達日本人は、意外と夢を本気にしたり、夢で観たことに恐怖したり、喜んだり、あるいは天の啓示のようなものを感じ取ったりします。
たとえば小野小町の歌に次の歌があります。
思ひつつ
寝(ぬ)ればや人の
見えつらむ
ゆめと知りせば
さめざらましを
(あの人のことを思いながら寝たならば、夢にあの人は出てくるのでしょうか。
夢だと知らないまま、そのまま目を覚まさずにいたかったわ)
この歌のおもしろいところは、彼女は夢の中の世界で大好きな彼氏と逢っている。
つまり彼女は夢の中の世界を、ひとつの「現実」と捉えているわけです。
ところが目が覚めてしまえば、「あれはゆめだった」とわかる。
だから恋しくて「ゆめと知らないまま、もっとずっと逢っていたかった」というわけです。
小野小町には次の歌もあります。
こちらはより鮮明です。
うたた寝に
恋しき人を見てしより
ゆめてふものは
頼みそめてき
(うたた寝に恋しい人を見たあの日から、ゆめというものを頼りにしはじめましたわ)
ここではゆめの中の世界を、自分にとっての現実の世界にしてしまっています。
まさに「ゆめによろこびや楽しみを感じている」わけです。
近年ではプレイステーションや、任天堂、スマホなどのゲームに「バーチャル・リアリティ(仮想現実)の世界」があります。
画像がアニメチックなものもありますが、モンスターハンターのように絵柄がたいへんにリアルなものもあり、とりわけ新たに発売されたプレイステーションでは、そこに描かれる映像は、もはや映画のいちシーンです。
そしてそこでは、非力な少年が筋骨たくましい青年となり、あるいはナイスボディの美女となって、大きな平原を冒険したり、あるいはスーパーカーに乗って、レースを繰り広げます。
ゲームの世界に夢中になって入り込み、いつしか時間を忘れている現代人は、もしかすると「ゆめてふものは 頼みそめてき」と詠んだ小野小町と同じ世界を感じているといえるかもしれません。
ただし、プレイステーションのゲームの映像の世界も、寝ながら見る「ゆめ」も、いずれも日本人にとっては、仮の世界だという認識があります。
我々日本人は、日本語で思考します。
これは子供でも大人でも同じです。
そこで先生が子供たちに、
「君の夢は何ですか?」と質問します。
実は、これは日本人にとっては非常にむつかしい質問です。
なぜなら、日本人にとっての「ゆめ」は、あくまで「仮想現実」と等しいものだからです。
むしろ問うなら「君の望みは何ですか?」と問うべきだと思います。
それなら英語圏の意味と同じになるからです。
英語圏なら「ドリームを叶えよう」といえば、それは「自分が抱く望みを叶えよう」という意味になります。
だからそのまま望みの実現のために努力することになります。
中国語では、「夢」は、現実でも仮想現実でもなくて、それは単に「消えてしまうもの」です。
消えるとわかって努力するのは無駄なことですから、そのような文化圏の人たちが、メディアなどで日本国民に「夢をかなえよう!」と呼びかけるときは注意が必要です。
なぜなら彼らは、夢など、かなうはずがないと知っているし、かなえさせてあげようという気さえもないから、そのような発言に至っていることが多いからです。
つまり「騙し」ですが、「騙す人より、騙される人が悪い」と考えるのが彼らの文化です。
言葉はたいせつなものです。
日本語は、多様な文化を採り入れるのに際して、とても適した言語です。
ところが、もとからの日本語の言葉の意味をしっかりとわきまえていないと、とんでもなくアコギな連中に引っかかってしまいます。
日本人が日本語《国語》教育は、もっとしっかりしたものにしていく必要があります。
なぜなら日本人は日本語で思考するからです。
実は戦前戦中までの学習指導要綱には、この日本人が日本語で思考するために国語教育が必要なものであるということが、ちゃんと明記されていました。
現代の指導要綱には、その文が見えないことは、とても残念なことです。
※この記事は2018年11月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行でした。
人気ブログランキング↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、
メールでお申し出ください。nezu3344@gmail.com 最新刊『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料! |
コメント
ハルキ
ものすごく腑に落ちました。
2020/12/11 URL 編集
松さん
矢鱈な事は言えませんからね。
日本人相手の会話でも、最近は意味不明な流行り言葉を操る方もいますから、話しても書いても、日本語はホントに難しいと思います。
明治や昭和の文豪と呼ばれた方々の書き物を四苦八苦しながら読んでいます。
思い出す言葉が沢山出てきます。
忘れていた素敵な言い回しに出会うと、何かホッとします。
歳を重ねても、知らない言葉は山程ありますから、勉強は生涯続きますね。
2020/12/11 URL 編集