「ねずラジ」は、筆者が12年にわたって書き綴ってきたブログの記事4000本の中から、選りすぐりの記事をベースに対談形式でお届けするラジオ番組です。もちろん、ただ過去記事を読み上げるだけでなく、その都度補足しながら、より理解が深まるように話しています。意外と人気で、リスナーが多いのでびっくりしています。 詳細はこちら→https://www.ishikikaikaku.jp/nezuraji/
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歴史の見方というのは、いろいろなものがあります。 決して、従来の見方を否定しているわけではなく、他にも上に述べたような見方もある、ということを申し上げています。 複眼的思考によって、従来の価値観に縛られずに、自由に学問を追求することこそ、「よろこびあふれる楽しい国」の学問なのではないかと思います。 |

画像出所=https://www.sengoku-battle-history.net/honnoujinohen-shinjitsu/
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
拙著『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』に「信長と桶狭間の戦い」、「家康と関ケ原の戦い」のお話を書かせていただきました。
今回はその「つながり」を概括してみたいと思います。
信長、秀吉、家康と続く、この時代は、日本が日本らしさを取り戻していく上で、たいへん重要な時代でした。
以下は、知っている話もたくさんあろうとは思いますが、同時に、新たな視点として気付かされる部分もあるのではないかと思います。
歴史の見方や考え方は、様々なものがあります。
事実はひとつであっても、それがなぜ起きたのか、どうしてそうなったのかは「人の解釈」によるからです。
ですから、どのような見方をしたとしても、それは自由ですし、以下もそうしたたくさんの見方のひとつにすぎません。
ただ、そうしたさまざまな見方を、複眼的に受け入れることで、物事をより幅広い視野で見ることができるようになるのではないかと思っています。
たいせつなことは、歴史をどう見るかではなく、自分がどう生きるかにあります。
歴史はそのための手がかりであり、訓練の場であるというのが、筆者の意見です。
*
信長は、織田信秀の息子で、幼名を吉法師(きっぽうし)と言いました。
少年時代の信長(吉法師)は「大うつけ」と呼ばれた、早い話が大馬鹿者で、奇抜な服装をして、領内を駆け回り、奇行の目立つ子でした。
父の信秀は、今川氏を破った豪勇で知られた人で、経済的にも軍事的にも成功し、またお伊勢様の式年遷宮に際して大枚を献上し、また朝廷へも内裏の修繕費を献上するなど、皇室尊崇の念の強い偉大な人でした。
それだけに、嫡子の吉法師が、お家のことも、お国のことも何も考えない、いまでいう「できの悪い不良息子」であったことは、家臣一同の抱える大きな悩みのひとつとなっていました。
「信長様の時代になったら、織田家もおしまい」
これは、当時の家臣一同の、共通の思いであったようです。
父の信秀が亡くなったあと信長が家督を継ぐのですが、信長にはまるで殿様としての自覚がない。
これを諌(いさ)めるために、宿老の平手政秀が自害までしたのは、信長が家督相続をした翌年のことです。
信長があまりに出来が悪いことから、領内では、信長を引退させて、弟の信勝を擁立しようという動きもでますが、そこは筋を大切にする尾張の人たちのこと、いくら馬鹿でも筋は筋、ということでこの戦いは信長の勝利に終わります。
そんな折、駿河の今川義元が、京の都上洛のため、大軍を動かします。
都への上洛ということは、次期将軍職もしくは太政大臣職を得る、ということを意味します。
当時の今川義元の勢力は大きく、尾張織田家と今川家では、その力はダンプカーと原動機付自転車の違いほどもありました。
信長の父の代には、今川家の尾張進出を跳ね返していたのに、いまでは今川家に従うのか。
今川家は、足利将軍家の分家の吉良家(後の吉良上野介の家)の、さらに分家です。
要するに分家の分家であるわけで、そのような下賤な者が、単に財力があるからとか、強大な軍事力を持つからといって、将軍職もしくは太政大臣職を得る。
それは、力さえあれば、世の中の道理を曲げることができるということを認めることでもあります。
本来ならば、そのような不条理を断じて許さず、一刀両断のもとにそのような不埒者を切り捨てるのが、弾正忠の家である織田家の役割です。
「信秀様の時代には、絶対に赦さなかったのになあ。
いまの信長様では、なんとも・・・」
というのが城内の気分でした。
ところが信長は、ここで俄然、弾正忠の家柄に目覚めるのです。
「俺は今川を赦さない。戦うぞ」と言う。
家臣一同はびっくりです。
そんなびっくりしている家臣の前で信長は、謡曲の「敦盛」を唄い、舞います。
「敦盛」は、「男子たるもの、たとえ敵わぬ相手、負けるとわかっている相手であっても、戦うべきときには戦わねばならぬ、どうせ人生、長く生きても50年。夢や幻のようなものなのだから、そのなかでせめて一太刀、真実の刃を残して死のうではないか」といった謡曲です。
この歌と舞が行われている間に、家臣一同は信長の心を見ます。
ようやく我らが大将が、弾正の血に目覚めてくれた。
ようやく我らが大将が、本物の男になってくれた。
ようやく我らが大将が、我らの本物の大将になってくれた!!
こうして家臣一同は、死を覚悟の一団となります。
ただ命令されて付いてきているだけの兵と、死を覚悟の一団では、その戦力差は歴然です。
そんな家臣を引き連れて、信長は桶狭間で昼休み中の今川義元を急襲して、倒します。
この噂は、またたく間に全国に広がりました。
戦国乱世を終わらせるためには、あらためてご皇室を中心とした天下を開く必要がある。
そう思っていた全国の名だたる武士たちは、信長が律令時代に定められた弾正の職にあり、父の信秀が皇室尊崇者であったこと、そして息子の信長が弾正家としての筋を通したことを好感し、続々と信長のもとに集まってきました。
当時の武士というのは、半農半武です。日常は農業をして暮らし、戦は農閑期にのみ行うものでした。
あたりまえのことです。人は食べなければ生きていくことができないのです。
だから武士は自給自足でした。
ところが信長のもとでは、困ったことが起きました。
新たに信長のもとに集ってきた武士たちは、国を捨てて集ってきたのです。
農地を持っていないから、自給自足できないのです。
そんな食客を大勢抱えるようになった信長は、そこで城下の市場にあった市場に目を付けます。
この時代、市場は親分衆がいて、いまでいう「みかじめ料」を商店から取って、贅沢な暮らしをしていました。
そこで信長は、軍団を利用して、そうした親分衆を追い出すと、そのみかじめ料にあたるものを、直接信長に税として収めさせるようにしたのです。
これが楽市楽座です。
当時は、まだ貨幣経済が浸透していませんから、税は、大根や菜っ葉やお米で物納です。
そしれそれらは、そのまま食客たちの食い扶持になります。
また、市場では、それまで力関係で決まっていたみかじめ料が、税として一率となったため、誰もが安心して商売に精を出すことができるようになりました。
こうなると、人口が増えた尾張で商売をすれば、誰もが儲けることができるということで、続々と尾張城下に商人たちも集まります。
町は活気づき、人口も増え、税収も増え、織田家お抱えの武士団も増えていきました。
そしてこの武士団は、農繁期でも戦うことができるという全国ではじめての武士団となっていったわけです。
信長は、こうして24時間365日、戦い続けることができる軍団を率いて、天下を統一していきます。
それは、弾正として、私腹を肥やし、天皇のおほみたからである民衆の暮らしを顧みない戦国大名たちとの戦いでもありました。
いわば、自分たちだけが贅沢ができれば良いとするグローバリストたちと、民衆の正義との戦いのようなものであったわけです。
そして信長の最後のおお仕事は、武装した仏教勢力との戦いでした。
この時代、仏教勢力は武装し、場合によっては国を滅ぼし、自分たちで政権を営む、つまり仏教帝国を作ったりもしていました。
このことは、国を分断する行為です。
この時代、欧米列強の圧力が東亜諸国に達していました。
日本が、諸国に分断された状態にあれば、またたく間に日本は欧米諸国に分断統治され、植民地化されてしまうことでしょう。
それを防ぐためには、当時、どうしても国をひとつにまとめる必要がありました。
そしてそのときに、もっとも大きな障害となるのが、仏教勢力であったわけです。
このことは、仏教そのものを否定するものではありません。
教えは良い。
けれど、仏教徒が武装し、腐敗し、堕落し、女犯の罪に穢れながら、毎日宴会をして酒池肉林におぼれていることは、これは赦されるべきことではない。
こうして信長は比叡山延暦寺、本願寺攻めを敢行し、仏教寺院への武装解除を成功させます。
けれど、そうなればなったで、信長は仏教勢力から、第六天の魔王として、仏敵として、常に付け狙われることになります。
これは、国内にテロリストのグループを養うのと同じことです。
そこで一計を案じて実行されたのが、本能寺の変です。
まず、武闘派仏教勢力の一切の恨みを信長ひとりに集中させる。
その準備が十分に整った(信長ひとりに恨みと攻撃対象が完全に集約された)ことを確認したら、次に明智光秀が本願寺で信長を討つ。
このとき信長は、部下に裏切られ、地獄の業火に焼かれて死体さえも残らないという演出をする。
これにより、仏教勢力は攻撃対象を失い、矛を納めることになる。
また信長を討った光秀も、討伐されることで、武家の筋も守られる。
その後は農民あがりの秀吉が、信長の後継者となることで、民衆に、誰でも努力をすれば出世できるとの夢を与え、かつ、全国の圧倒的多数を占める農民たちの政権への支持を集める。
これによって、天皇とおほみたからの日本の国柄を一気に取り戻す。
そしてこのとき秀吉は、必要な財力を、天下の台所と呼ばれる大阪で、楽市楽座を行うことで手に入れる、としたわけです。
秀吉は太閤検地と刀狩りを実施していますが、これは秀吉が農民の出身者であり、農家に圧倒的な支持を得ていたからこそ実現できたことです。
なぜなら武門の家や貴族の家が行えば、収奪行為と言われてしまうからです。
秀吉の行った大阪経済体制は、実に徹底したものでした。
鉄にせよ銅にせよ、金銀にせよ、お米などの農産物にせよ、原産地が直接、それらを販売するよりも、もっとも経済的繁栄のある大阪に物産を持ち込んだ方が、高値で売ることができるようにしました。
こうして原産地の産物は、すべて大阪に集められ、大阪で入札によって、もっとも高値を付けた者が、それを買い取って国に持ち帰り、加工して製品にします。
できあがった製品は、ふたたび大阪に持ち込まれ、そこでもっとも高値を付けた流通業者に販売され、全国に製品が散って行きました。
つまり秀吉は、すべての経済と物流活動を大阪に集中させ、その大阪商人に一定の税をかけることで、これを豊臣家の財源としたわけです。
このことによる成果は見事なもので、秀吉の時代には、国の借金などというものは存在せず、誰もが好景気、高収入を得ることができるという、たいへん活発な経済の大成長を実現させています。
一方、秀吉の命令によって、危険人物として箱根の山の向こうに飛ばされたのが、家康です。
当時の関東は、いまのような広大な平野部ではなく、満潮のときには海になり、塩が引けば地面が露出するという、広大な湿地帯です。
言い換えれば、たいへん貧しい土地でした。
しかも関東には、坂東武者の血を引く乱暴者たちがたくさんいて、これらを従わせるだけでもたいへんな労力がかかります。
つまり・・・家康は秀吉によって、その経済力、軍事力を大幅に削がれるという事態となったわけです。
ところが家康は、江戸に入府したあと、河川を利用して兵の機動力を発揮して、またたく間に関東全土を征圧。
それだけではなく、もともと関東以北が金銀の一大産地であったことに目を付け、金銀銅の鉱山の発見に力を注ぎます。
実は、これが大当たりする。
なんと家康は、佐渡の金山、石見の銀山を発見するのです。
この両者の埋蔵量は、それまで我が国で採掘された金銀の総量を上回るとまで言われました。
ところが・・・ここに問題が起こります。
当時の秀吉による大阪一極集中経済体制のもとでは、せっかく金銀の鉱脈を発見しても、その売却をするためには、すべて大阪に採掘した金銀を持ち込まなければなりません。
現時点で市場に出ている金と同量の金が採掘され、大阪に持ち込まれれば、それは単純に金の相場を下げるだけのことになってしまい、家康にとっては何の旨味もなくなってしまう。
関東は、土地が低いし、荒川、利根川、多摩川といったすさぶる川が流れ込み、台風が来るたびに何もかもが流されてしまうという土地柄です。
そこを拠点として江戸に城や町を築くためには、河川の堤防工事などに莫大な費用がかかる。
その費用を捻出するのに、佐渡の金山、石見の銀山は、とても有効だけれど、これを大阪に持ち込んで相場を下げてしまったら、なんにもなりません。
ということは、大阪経済を活かしつつ、江戸で別な経済体制を敷く必要がある・・・というわけで、大阪への経済一極体制を覆すために行われたのが、関ケ原の戦いです。
そして関ヶ原で勝利した家康は、ここで堂々と、佐渡の金山、石見の銀山の発見を天下に向かって発表します。
こうして、大阪の相場で、採掘した金銀を両替し、関東の水害対策工事や、江戸の街づくり、江戸城の建設等を実現して行ったのです。
***
以上が、実際に行われた歴史の流れです。
証拠になるものは、さまざまなものがありますが、それは皆様で発見いただけると良いでしょう。
ただ、ひとつ重要なことは、家康が行ったこの大阪一極集中経済体制の打破という大偉業は、言ってみれば、アフリカの資源国が団結してヨーロッパの商業資本を打倒した事件のようなものだ、ということです。
その意味で、家康の行ったことは、世界史に残る、あるいは人類史に残るべき大偉業といえるのです。
家康の時代は260年、徳川政権として続きました。
家康は、巨大な財力と軍事力を手に入れましたが、自らの王国を作るのではなく、あくまで天皇の部下として、天皇のおほみたからたちが、豊かに安心して安全に暮らすことができる国を目指しました。
おかげで日本は、欧米の植民地にされることもなく、江戸260年の平和と繁栄と手に入れることに成功しています。
そして、何よりも生産者が第一、現場で汗を流す人が一番偉いという哲学を、完全に日本に定着されることに成功しています。
冒頭にも書きましたが、歴史の見方というのは、いろいろなものがあります。
決して、従来の見方を否定しているわけではなく、他にも上に述べたような見方もある、ということを申し上げています。
複眼的思考によって、従来の価値観に縛られずに、自由に学問を追求することこそ、「よろこびあふれる楽しい国」の学問なのではないかと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行でした。
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コメント
松さん
御三家の信念と生き様の凄さは良く分かりました。
それに比べ、現在の為政者は評価し難い方々ばかりが登場します。
国や国民の未来に命懸けの政治家など、何処にも居ません。
選んだのは国民自身なのだから仕方無いと言う嘲笑もあります。
愚民と呼ばれ悔しくて堪りません。
実弾は1票しかありません。
すぐに騙されてしまいます。
文句を言っても通りません。
庶民は何をどうすれば良いのか?
世間から、訳など分からないまま昇天しろって言われてる気がします。
2020/12/09 URL 編集