最近の教科書では、文科省の指導に基づいて《その文科省は大学教授たちで組成する歴史学会の認識に基づいて》、なんと「古代」は「飛鳥時代から、奈良、平安時代」を指すということになっています。鎌倉時代以降が中世です。 西洋の時代区分で、中世というのは、王朝時代を意味します。 つまり鎌倉幕府は、封建ではなく、鎌倉王朝であったとしているわけです。 実に奇妙な話です。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
日本の「古代」というと、みなさんはいつ頃の時代を思い浮かべるでしょうか。
多くの方は「古代大和朝廷」という言葉があるくらいで、古墳が作られていた時代あたりから、飛鳥時代くらいまでが「古代」というイメージなのではないでしょうか。
そして飛鳥、奈良、平安時代が「中世」、鎌倉時代からが武家の時代で「近世」、明治維新から「近代」がはじまり、戦後が「現代史」といったイメージなのではないかと思います。
ところが最近の教科書では、文科省の指導に基づいて《その文科省は大学教授たちで組成する歴史学会の認識に基づいて》、なんと「古代」は「飛鳥時代から、奈良、平安時代」を指すということになっています。鎌倉時代以降が中世です。
西洋の時代区分で中世というのは、王朝時代を意味します。
つまり鎌倉幕府は、封建幕府ではなく、鎌倉王朝であったとしているわけです。
実に奇妙な話です。
もともと古代とか中世とかいう時代区分は、西洋の歴史学の分類からきている分類方法です。
そこでは先史時代《原始時代》、古代史、中世史、近世史、近代史、現代史と分類されています。
ですから古代より以前は「有史以前」です。
別な言い方をすると原始時代であり、簡単にいえば「はじめ人間ギャートルズ」の世界だという認識です。
ということは、神武天皇や崇神天皇、日本武尊(やまとたけるのみこと)の時代は、鹿の毛皮を着ただけの原始人の時代だったという解釈だということになります。
ここまでくると、もはや異常を通り越して、お笑いネタですが、それが文科省の公式な見解なのですから、日本の教育会は狂っています。
西洋史における時代区分の考え方は、次のようになっています。
1 先史 土器や石器が用いられていた時代。神話の時代。原始時代。
2 古代 多少の文献史料などによって証明できる伝説の時代。
青銅器や多少の鉄器が用いられた。
3 中世 中央集権国家が形成され、王朝文化が栄えた時代
4 近世 封建時代
5 近代 王権が否定され、産業革命によって市民層が力を得だした時代
6 現代 第二次世界大戦以降
この分類から、西洋史で古代といえば「紀元前八世紀のギリシアの都市国家の発生の時代から五世紀の西ローマ帝国崩壊まで」の時代を言います。これはなんとなく納得できると思います。
ところが日本では、飛鳥、奈良、平安が「古代」なのだそうです。ということは、日本で革新的な十七条憲法が制定され、大化の改新があり、世界遺産でもある法隆寺が建設され(飛鳥時代)、記紀や万葉集などが成立し、奈良の大仏が建立され、阿修羅像などが造られ(奈良時代)、古今和歌集や源氏物語、枕草子などが書かれ、平清盛が太政大臣になった時代(平安時代)は、多少の文献資料や遺物、遺構しかない「伝説の時代」であって、青銅器などに混じって、多少の鉄器が使われていただけの時代であったということになります。
さらにいえば古代の前は原始時代ですから、数多くの古墳が作られた大和朝廷の時代は、「はめ人間ギャートルす」のような、人々が鹿の毛皮を着てヒゲもじゃで石斧を手に持ってウッホウッホとやっていた時代だったというのです。それが我が国の教育指導要綱に書かれた規程ですから、びっくりします。
どうしてこのようなことが起きるかといいますと、理由は二つあります。
ひとつは戦後日本の記紀の否定、
もうひとつは近隣諸国条項への配慮です。
戦後の日本の歴史学会は、記紀(古事記、日本書紀)の否定から入っています。
ですから記紀に描(えが)かれた、古事記なら推古天皇や聖徳太子の時代、日本書紀なら第41代の持統天皇の時代までの時代は、記紀の記述自体が否定の対象ですから、何もわからない、史料もない原始時代、先史時代であったとするわけです。
つまり「記録がない」と決めつけているわけです。
このため当然の事ながら、歴史の理解に様々な矛盾が生じます。
あたりまえです。文明を持たない「はじめ人間ギャートルス」が法隆寺の五重塔や奈良の大仏を建立したことになるからです。
古墳も同じです。
最大の古墳は仁徳天皇陵ですが、その古墳は、鹿の皮を着た原始人の中で威張っている原始人が、自分の墓を築くために、日本の人口の2倍の人をムチでしばきあげながら、16年間、飯も食わせず、食料の生産しないで、ひたすら盛土作りを強制した結果、あの巨大な仁徳天皇陵ができあがったと、ありえない解釈をするしかなくなるのです。
そうなると「仁徳天皇」という、いかにも慈愛あふれて徳が高いお名前が矛盾してしまいます。
そこで仁徳天皇陵の名前も、地名をとって、「あれは大仙陵(だいせんりょう)です」と、まるで千両役者のような名前に変えるしかなくなるわけです。
もちろん、民のカマドの物語など言えないし、今も残っている茨田堤(まんだのつつみ)が何故できたのかなども、歴史として語ることができない。
さらに鎌倉幕府からが「中世」となると、中世の定義は「中央集権国家が形成され、王朝文化が栄えた時代」ですから、鎌倉幕府は「王朝」だという解釈になってしまいます。
鎌倉にいたのは征夷大将軍で、征夷大将軍は天皇の部下です。
けれどその鎌倉将軍が「鎌倉王朝」だと規程すれば、天皇の存在は歴史から失われます。
その失われたはずの天皇が、再び建武の中興で現れるのですが、中興というのは、前にあったものを再び興したということですから、これまた具合が悪い。
そこで「建武の新政」という用語が用いられるようになっているわけです。
二つ目の近隣諸国条項というのは、平成元年の文部省の告示(高校は平成11年)定められたもので、教科書の記述に際しては、近隣諸国に配慮しなければならないとしたものです。
そのことがどうして古代や中世といった時代区分に影響を及ぼすのかというと、中国が古代を、「秦の始皇帝の中国統一(221年)から後漢の滅亡(220年)まで」でとしていることによります。
日本の文明は中国から朝鮮半島を経由してもたらされたことになっているのですから、日本の古代が中国よりも古くては具合が悪いのです。
これが韓国になりますと、もっとおかしなことになっています。
韓国では、紀元前57年の新羅の成立から新羅の滅亡(936年)までを古代としています。
紀元前57年の新羅王朝の成立からを古代とする、という点は、それはそれで良いのですが、古代の次にくる時代が中世とするなら、中世は、中央集権国家が形成された時代です。
しかし新羅も、続く高麗、そのあとの李氏朝鮮も、いずれも中国の一部としての郡や県のようなものでしかありません。
世襲(せしゅう)の王はいましたが、ローマ帝国にしても、続く近世や中世の封建領主にしても、国、領土、領民に対して、それが私的所有物としてであったとしても、彼らはそれなりに責任を持って自国の統治をしています。だからこそ、領土が荒らされれば、戦争をしてでも、敵を蹴散らし、侵入を阻止しようとしたのです。
ところが、新羅、高麗、李氏朝鮮とも、そもそも領土領民を守ろうとしたことがありません。
ただ支配し君臨し支配し収奪していただけで、国家として必要な統治のための行政が行われていません。
その結果、半島内の民衆の生活は、極限まで圧迫されていました。
つまり朝鮮半島では、先史時代(原始時代)、古代、中世、近世、近代、現代といった時代分類自体が、まったく当てはまらず、強いていえば、倭国の領土であった時代が古代、そのあと本来ならやってくるべき中世や近世がなく、古代のままの状態が長く続き、明治四十三年(一九一〇年)の日韓併合によっていきなり近代になったという、きわめて特殊な状態にあったといえます。
ただ、韓国ではそうは教えず、元寇のときに日本に攻め込んできた高麗が成立した時代からを「中世」、それ以前を「古代」としているわけです。
そして次の記述をしています。
【韓国 国定中学用国史教科書】《一九八五年版》
三国(百済、高句麗、新羅)は、互いに対立し競争する中で活発に文化を交流させた。
中国とも交流しつつ独自の美術を発展させる一方で、海を渡って日本に文化を伝え、彼らの文化の基礎を固めた。
百済では阿直岐(あじつき)と王仁(わんいん)が日本に渡って儒学を教え、段楊爾(たんやんい)、高安茂(こうあんむ)らも学問を教えた。
聖王の時代には仏教を伝えてやり、百済と高句麗の僧侶も多数、日本の仏教界を指導した。
儒学や仏教以外にも、美術、音楽、歴史、医学や農業などさまざまな技術を教えた。
ことに雲徴(たむじん)は紙、筆、墨、硯(すずり)の作り方を初めて日本人に伝え、法隆寺の壁画も残した。
日本が飛鳥文化を興し、古代王朝へと発展することができたのは、三国の文化が伝えられたからである。
(別技篤彦著『理解されない国ニッポン』祥伝社)
要するに、朝鮮半島に進んだ文明があり、日本は飛鳥時代のはじまりまでは、文字も紙も箸さえもない原始時代にあり、そんな日本に朝鮮様が文明を教えてあげた、というわけです。
おもしろいのは、この記述の中に、「法隆寺の壁画も残した」とあることで、法隆寺の建築技術は、中国や半島にはまったくない木造軸組工法です。しかも免震構造を持っています。
半島が日本にそれを「教えた」というのであれば、朝鮮半島に法隆寺のような「進んだ」木造軸組の建築物がなければならないのですが、残念ながら、その痕跡がない。
ないどころか、法隆寺はいまから千四百年前の木造建築物ですけれど、朝鮮半島では、現代に至ってもなお、これだけ複雑な木造建築は建てられずにいます。
もっといえば、室町時代にやってきた朝鮮通信使は、日本にある水車小屋を見て素晴らしいと感じ、これを王に報告して、水車小屋建築プロジェクトを組成しましたが、それから三百年経ってやってきた朝鮮通信使が、そこでもまた「日本には水車という素晴らしいものがある」と報告しています。
目の前に、出来上がった完成品を見せられてもなお、三百年経って水車を造れなかったのです。
ですから、お世辞にも「法隆寺の建築技術を教えてあげた」とは書けないわけで、その結果、「法隆寺に壁画を残した」と記述しているわけです。
嘘には、必ず矛盾点があります。だから嘘はバレるのです。
そもそも仏教を教えてあげた、としているわけですけれど、その仏教を伝えたとされる百済は、実は朝鮮半島南部にあった日本の直轄地の加羅(から)の国を、日本の中央朝廷の高官であった大伴金村(おほとものかなむら)に賄賂を贈って、勝手に自国の領土に編入しています。
このことを知った天皇が激怒したため、なんとかして怒りを鎮めてもらおうと、日本の朝廷が喜びそうな唐の国の仏教の経典、唐の国の仏像、そして唐の国の僧侶を、日本に贈った・・・というのが仏教公伝です。
そもそも仏教は朝鮮で生まれたものではありません。
つまり自国に日本以上の産物がないから、他国の文物を日本に献上したわけです。何も自慢できた話ではありません。
要するに、韓国の歴史教科書の記述は、ただのいつものファンタジーにすぎません。
ところが日本の教科書は、こうした韓国のファンタジー史観に配慮しなければならいと、学界と文科省で勝手に決めているわけです。
そしてその結果、日本は朝鮮半島から立派な文物を教えてもらうまでは、未開の野蛮な蛮族の棲む原始時代であったという仮説の上に、いまの日本の歴史教科書が編集されています。残念な話です。
歴史という学問は、過去にあったバラバラな事実をひとつのストーリーにまとめあげる学問です。
我々が過去から何かを学ぼうとするとき、それがバラバラな事実の切片だけなら、考古学の分野です。
それら切片が、全体の中でどのような働きをして、結果に結びついていったのかを事実に基づいて検証し、ひとつの筋書きにまとめあげる。それが歴史学です。
ですから歴史は、立場が変われば見方が変わることがあります。
義経の立場で語るのか、頼朝の立場で語るのかによって、歴史の記述は変わります。
ただし、過去に起きた事実は変わりませんし、その記述が論理的整合性や客観的整合性、普遍的妥当性を得たとき、それが歴史となります。
なぜならこれによって歴史は再現性を持つからです。
そういう意味で、歴史の記述に諸説あることは、それはそれでおおいに結構なことであると思います。
ただし、それが政治的に歪められてしまったら、それはもはや学問としての歴史ではなく、都合による政治です。
我々日本人は、古来、学問に自由を持っていた国柄を持ちます。
千年以上の歳月をかけて守られてきた学問の自由を、我々の世代で失ってはならないと思います。
※この記事は2015年7月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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