獅子舞の獅子に頭を噛んでもらうと幸せになるという民間伝承があります。 どうして幸せかって? 当然です。昔は本物の金歯だったのです。純金です。そりゃあ幸せでしょう。 もっとも昨今の獅子の歯は金メッキですが・・・。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
人類が誕生してから、現在に至るまでに世界で算出した金(Gold)の量は、オリンピックプールに換算するとおよそ三杯分だと言われています。
このうちまるまる一杯分が、もともと日本で産出した金です。
まさに日本は、「黄金の国ジパング」だったのです。
おかげで江戸時代の日本では、庶民の財布には紙でできた一万円札ではなく、黄金でできた小判が入れていました。
江戸時代の農家の人は、土地に縛り付けられていて、貧困のどん底ぐらしだったというセンセイがおいでになりますが、そんな農家の人たちが、富士山信仰で毎年富士登山ツアーはするし、三重までお伊勢参り、四国の香川に金毘羅参り、京の都で無償の勤労奉仕など、ツアーを組んでさかんに旅行し、往来していました。
ちなみに、ときどきテレビなどでも、神社の中に高さ7〜8メートルの溶岩でできた小さな山がしつらえてある様子が放送されます。
これが富士塚で、ウチの近所の神社にもありますけれど、江戸時代に毎年その辺りの農家の人々が富士登山をする都度、富士山の溶岩を少しづつ持ち帰って、これを山のように積み上げ、その山裾に浅間神社、頂上に奥宮をあつらえて「ミニ富士山」にみたてていたものです。
江戸時代のお伊勢様への参拝客は、年間500万人で、当時の人口の5分の1でしたが、つまり5人にひとりが毎年お伊勢参りをしていたわけです。
それには日数がかかります。だいたい一回のお伊勢参りに江戸から出発すると、往復で一月半を要したといいます。
いまでいえば、ロングステイの旅行のようなものです。
一昔前のバブルの絶頂期には、日本中の人たちが国の内外で観光旅行を楽しんでいましたが、江戸時代の旅行は、そんなバブル期のロングステイよりも、もっとずっと長い日数の旅行であったわけです。
ということは、江戸時代の庶民は、バブル期よりも良い生活をしていた?!
要するに一昔前の農協主催の団体観光旅行さながらに、日本全国、農家のみなさんは、あちこち旅行を楽しんでいたわけで、こうした旅行を斡旋する、ツアー会社のようなものまでありました。
江戸時代の、こうした農家による団体旅行は、つい半世紀前まで農協さんのツアーとして国の内外の観光旅行産業の中心だったものです。
江戸時代には、この旅行に際して、旅をする人は全員、肌着の衿(えり)に、小判一両を縫いこんでおくのが慣習でした。
これは旅の途中で万一倒れたときに、同行した仲間や、近隣の人に面倒をみてもらうための代金で、小判1両が、いまの貨幣価値だとおよそ6万円くらいでしたから、いってみれば、老若男女全員が6万円を襟に縫い付けていたわけです。
4人家族での旅行ならそれだけで、ざっと24万円分です。
しかも旅ともなれば、いまと違って飛行機も電車も自動車もなかった時代ですから、みんな歩きです。
途中で何泊もの宿泊もすれば、食事もするし、風呂にも浸かる。
温泉の湯治も、江戸の昔には盛んに行われていたことです。
その姿は、どこぞの教科書などに書かれている哀れでみすぼらしい貧農の姿とは程遠いものです。
そんなありもしない貧農史観を強要するセンセイって、いったいどこの国の話をしているのでしょうか。
ちなみに農家が豊かだったのは、何も江戸時代に限ったことではなく、奈良平安の昔も同じです。
山上憶良は、飛鳥時代から奈良時代を生きた人ですが、山上憶良の書いた「貧窮問答歌」は、極めて貧しい農家の姿を描いています。
だから「これが証拠だ!」などという人もいるのですが、違います。
山上憶良が「貧窮問答歌」で描いた貧しい庶民の姿は、以前は倭国の一部でありながら、後に新羅に組み込まれた半島の人たちの生活を描いたものです。
だいたい筑前の民衆の生活に責任を持つ国司が、自分が担当する国の民衆が貧困にあえがせたら、更迭の対象です。少し常識を働かせて考えたら、誰にも明らかなことです。
⇒
《あえて書かなかった『貧窮問答歌』の解説とは》 http://nezu3344.com/blog-entry-4340.htmlいまどきのお祭りの御神輿に施されている金色の装飾は、江戸の昔には純金の金箔や、金細工そのものが用いられていたものの名残です。
それらはいずれも、同じ時代の世界からみたら、まさに黄金の国の豊かな暮らしというべきものであって、貧困などとは程遠いものといえます。
そういえば、香川県でうどんが盛んなのは、江戸の昔、年貢の取り立てが厳しくて、作物の米はみんな年貢として取り立てられてしまい、食べるものがないので田の畦(あぜ)に小麦を植えたのが始まりだと聞いたことがあります。
これまたとんでもない作り話で、香川といえば昔は讃岐の国ですが、江戸時代の讃岐うどんは江戸や大阪などに出荷されて、庶民の味として大評判になっていた売れ筋の名産品だったものです。
これは、讃岐の諸藩が、国をあげてうどん産業育成に取り組んだからできた話であって、田の畦(あぜ)程度では、とても出荷量が間に合いません。
我が国は、神武創業の建国の詔からして、
「大人立制、義必隨時、苟有利民」とされているのです。
これで、
「大人(おとな)の制(せい)を立てて必ず義(ことわり)を行い、いみじくも民(たみ)に利(り)を有(ゆう)す」
と読み下します。
民は「おほみたから」であり、その民が明るく楽しく豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくことが、建国の原点です。
さらにいえば、イザナキ、イザナミがオノコロ島を築いた理由も「豈国(あにくに)」を築こうとしたものです。
「豈」というのは、喜びや楽しみ、そして嬉しさを意味する漢字です。
つまり、我が国は、久遠元初の昔から、民衆が喜びと楽しみ、嬉しさと幸せを得ることができるようにすることを、国是としてきた国です。
そもそも、少し考えたら誰でもわかることですが、そこらを歩いたり電車に乗っている人みんなの財布の中に、いまは紙でできたお札が入っていますが、江戸時代には黄金の小判がはいっていたわけです。
純金です。
それが日本全体になったら、どれだけの量の金の流通量だったか。
想像するだけで、黄金の国ジパングの凄味がわかろうというものです。
ちなみに西洋にも金貨はありましたが、それは王侯貴族の財であって、庶民は一生、見ることさえもままならなかったといわれています。
日本がどれだけ豊かだったかということです。
だからマルコポーロは「黄金の国ジパング」と書いたわけですが、その日本のことを、古代のChinaでは、東の海上に浮かぶ蓬莱山(ほうらいさん)と呼んでました。
蓬莱山は別名を「東瀛(とうえい)」と言います。
「瀛(えい)」というのは大海のことで、要するに「東瀛」は、Chinaの東の海に浮かぶ、四方を海に囲まれた島を意味します。
「東瀛」という字は、たいへんむつかしい字を書きますが、その字は、海の向こうの(氵)、東の海に浮かぶ島で、肉付きの良い女性が吼えているという会意象形文字です。
つまりその東の海の向こうの黄金の国では、女性がトップにあるから、「東瀛」というのです。
そのトップというのは天照大御神のことかもしれないし、あるいは卑弥呼のことかもしれないし、あるいは各家庭のおカミさんのことかもしれない。
要するにChinaから見て、東の方角の海の向こうにあって、女性がトップにあり、黄金に包まれ、民衆の誰もが幸せに暮す国が「東瀛」です。
それは、ほかでもない、日本のことです。
その日本では、一昔前までは、庶民の虫歯の治療にも金が普通に用いられていました。
江戸時代にも入れ歯はあって、一番安いものは木でできていて、その上が銀、最高級の入れ歯は金でできていました。
金の入れ歯は、食べ物の味を変えないので、たいへんに重宝されたのです。
ちなみに江戸の昔まで、歯の治療は、歯医者さんの仕事ではなくて、「入れ歯師」という職人さんの仕事でした。
下にあるのは、18世紀頃の入れ歯師の仕事の様子です。
入歯師(1800年頃)

入れ歯師は、いまの歯医者さんと違って、たいてい銭湯の二階の休憩所でゴロゴロしていて、虫歯の人がやってくると、歯、一本につきいくらで、歯を引っこ抜いていました。
上手な入れ歯師だと、抜く痛みを感じさせずに、スポンと上手に歯を抜いてくれたのだそうで、そういう入れ歯師がいると、噂を頼りに客が集まるので、銭湯とは持ちつ持たれつの関係だったとか。
そしてこの入れ歯師が、歯を抜くばかりではなくて、入れ歯や差し歯も造っていました。
この入れ歯の技術が、日本では本当に高くて、古いものでは平安中期にツゲの木で造られた「木床義歯(もくしょうぎし)」が現存しています。
使っていたのは天文7年(1538年)4月20日に74歳で亡くなった、和歌山市の願成寺(がんじょうじ)の仏姫(ほとけひめ)という尼僧で、この入れ歯は、ちゃんと食事をすることも可能です。
江戸時代には、差し歯や部分入れ歯なども広く普及しました。
同時代のヨーロッパでは、バネ仕掛けの入れ歯が用いられていましたが、これは見かけだけのもので、食事に使うことができなかったことを考えると、日本の技術がどれだけ進歩していたかがわかります。
そしてこの総入れ歯や、部分入れ歯などの上物が、まさに純金製であったのです。
話が脱線しましたが、要するに日本はそれほどまでに、金が豊富であったということです。
ところが、そんな黄金の国に、嘉永6(1853)年、米国から黒船がやってきました。
南北戦争の8年前です。
次いでやってきたタウンゼント・ハリスは、日本の金銀の為替相場と、香港(当時は英国領)での為替相場がまったく違っていて、日本では金がめちゃくちゃに安い(香港の4分の1)であることに気付きます。
そして、日米和親条約の細則において、日本と米国の金銀の為替相場を、固定制にして条約を取り交わします。
そして、せっせと日本から金を運び出しました。
タウンゼント・ハリス

彼は、香港と日本を、一往復するだけで、手持ちの金を4倍にしました。
おかげで、日本の小判、つまり金(Gold)は、またたく間に米国に流出しました。
このハリスの親分が、リンカーンです。
リンカーンは、こうして獲た金を使って、米国南部との戦争を開始しました。
これが南北戦争です。
一方、日本では、町中からこつ然と小判がなくなってしまったのです。
これはいまで言ったら、銀行に行って10万円を降ろそうとすると、窓口のお姉さんから、
「すみません。1万円札がないので、全部100円玉でもよろしいですか?」
と言われるようなものです。
これが幕末に起きた通貨の混乱で、頭にきた庶民は、「ええじゃないか」と、もうヤケクソになって踊り狂うしかなかったわけです。
ところがそこまできてもハリスは強欲です。
金が足らなくて小判ができないなら、小判の中の金の含有量を減らしてでも小判を発行せよと、ものすごい剣幕で幕府に迫りました。
圧力に屈した幕府は、見た目が同じで含有金量が慶長小判の約八分の一しかない小判を鋳造しました。
これが万延小判です。
万延元(1860)年の出来事です。
ちょうど南北戦争が起きる一年前の出来事です。
米国は、こうして世界の富(金)の3分の1を手に入れました。
そしてその金で、200万人の北軍を編成し、最新式兵装を整え、南北戦争を戦い、さらに南軍の借金を立て替え払いし、ついでにアラスカまでキャッシュで購入してしまいました。
もうひとついうと、南北戦争では、大量の銃器や大砲が使われました。
けれど、戦争が終われば、それらは無用の長物です。
南北戦争は1865年に終わるけれど、これは日本でいったら慶應元年です。
で、米国がどうしたかというと、この南北戦争の中古品の銃器、弾薬、大砲を、日本に売りつけました。
この結果起きたのが、慶應4年にはじまった戊辰戦争です。
ただし、このとき米国は、自分で直接、官軍か幕軍のどちらかに一方に武器を売るということをしませんでした。
米国は、フランスと英国に、その中古の銃器を降ろし、フランスと英国がそれぞれ薩長、幕府側について、両方に武器を売りました。
つまり、官軍も幕軍も、同じ出所の武器をつかったわけです。
どちらの武器も、南北戦争の中古品です。
日本からみると、アメリカに金貨をだまし取られ、国内の金貨が空っぽの状態で、青息吐息でさらにアメリカから中古武器を買い、国内で大規模な殺し合いの戊辰戦争をしたことになります。
そもそも戊辰戦争は起こす必要のない内戦です。
なぜなら幕府は既に大政を奉還しているのです。
大政奉還したということは、すでに政権交替した、ということです。
敢えて内戦までする必要も理由などなかったのです。
加えて当時の幕府は、金の流出という大失態をしでかし、徳川政権への不信感が増したところに、小判の改鋳を行って国内経済を大混乱に陥れていました。
つまり大政奉還するまでもなく、すでに幕府の権威は完全に地に落ち、徳川政権は完全に政権担当に必要な社会的信頼を失っていたのです。
つまり、そもそも戊辰戦争は必要のない戦争です。
ところが米国にそそのかされたフランスと英国が、それぞれ幕府側、薩長側に付いて戦争をあおりました。
米国から武器を既に仕入れているフランスと英国は、とにかく日本人に南北戦争の中古品の武器を売らなくちゃいけない。
売れば大儲けできるのです。
売り損なえば、破産です。
その手のひらに、薩長も、幕府も乗ってしまったわけです。
おかげで、古代から日本では、戦いは武士たちの専売特許で、百姓町人たちには火の粉がかからないというのが、我が国の歴史であったにもかかわらず、なんと戊辰戦争では、その百姓町人が武器を手にして戦うという、我が国の歴史に類例のない前代未聞の出来事が起こりました。
これが戊辰戦争です。
この戦闘でどれだけ多くの百姓町人が犠牲になったか。
戊辰戦争で失われた命は、合計で8420名(新政府軍3550名、幕軍4690名)にのぼります。
きわめて残念なことと言わざるを得ません。
欲と言うのは恐ろしいものです。
日本から金を入手した米国は、その金によって南北戦争という内乱を起こし、なんと米国内だけで南北合わせて120万人の尊い命を犠牲にしています。
それだけの尊い米国人の命を奪った大統領のリンカーンは、私から見たら史上最悪のサタンのような人物ですが、いまではそのリンカーンが奴隷解放の英雄的大統領とされています。
まさに、世界は「腹黒い」のです。
日本は、いろいろ反省しろとか諸外国からやかましいことを言われています。
しかし、本当に反省し、学ばなければならないことは、実はこういうことなのではないかと思います。
獅子舞の獅子に頭を噛んでもらうと幸せになるという民間伝承があります。
どうして幸せかって?
当然です。
昔は本物の金歯だったのです。
純金です。
そりゃあ幸せでしょう。
もっとも昨今の獅子の歯は金メッキです。
ありがたみが・・・。
※この記事の初出は2010年5月度、その後拙著『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第一巻に所蔵したお話を、すこし切り口を変えて述べたもので、以後、毎年お正月に掲載しています。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行でした。
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コメント
松さん
近頃、そんな大金を持たされたことはありませんけどね(笑)
世の中、少しも良くならない。
自己中と言われようが、他人様がどうなろうが関係無い。
自分の目先のことだけに集中して生きて行くしか無い。
(世界は腹黒いのだから)
自棄っぱちにならざるを得ない。
殺伐とした情勢があります。
それでも「中今を生きる」とはどういうことなのか?
諦めずに考え続けたいと思います。
この世に生まれてきた。
奇蹟だと思います。
そして生かされている。
奇蹟だと思います。
御先祖の営みがあって、私達はそれを引き継いでいます。
(奇蹟は継続しています)
戴いた命!
自分一人の命ではありません。
自分一人だけで生きている訳でもありません。
悠久の命の繋がり。
感謝しながら、何としても今を生き抜いて未来に繋げる。
中今を生きるとは、そういうことではないかと思っています。
ねずさんの学ぼう日本!
本年も読み続けます。
宜しくお願い申し上げます。
2021/01/04 URL 編集