つらいことがあっても、かなしいことがあっても、凹んでも、 それでも清陽な心を失わない。 それが人間です。 だから、人はあたたかい。 そう信じて、希望をもって中今(なかいま)を生きるとき、道は必ず開けてくる。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
日本書紀の冒頭に「清陽」という文字が見られます。
このように書いて「すみてあきらか」と読みます。
「清(きよ)い」ことは大切です。
だから、体のよごれを落とすためにお風呂に入ることが大切なように、魂のけがれを払うために神社に参拝したり、お祓いをしてもらったりすることもまた、とても大切なことです。
けれど、
日本書紀は、それだけではダメだ、と書いています。
どういうことかというと、もうひとつ、
「陽」でなければダメだ、と書いているのです。
「陽」という字は、このようにかいて「あきらか」と読み下しますが、さらに「あかるい、ほがらか」といった意味を持ちます。
つまり日本書紀は、清らかであるだけでなく、公明正大であること、そしてほがらかであること、陽気であることが大事だと書いているのです。
どこに書かれているのかというと、それが、日本書紀のいちばんはじめです。
いまはお正月、年のはじめです。
そこで、この該当箇所を、皆様とご一緒に読んでみたいと思います。
できれば、声に出してお読みいただくと、なお実感がわかるかと思います。
いにしへの 古
あめつちいまだ わかれずに 天地未剖
かげあきらかも わかれずに 陰陽不分
とりのこのごと こんとんの 渾沌如鶏子
ひろがるうみに きざしあり 溟涬而含牙
すみてあきらか なるものは 及其清陽者
うすくたなびき あめとなり 薄靡而為天
おもくてにごり たるものは 重濁者
つつひてつちと なりにけり 淹滞而為地
くはしきたへは ひろがりて 精妙之合博易
おもくにごるは かたまりがたし 重濁之凝竭難
ゆへにさきには あめがなり 故天先成而
のちにはつちが さだまりぬ 地後定
しかるののちに かみなかになる 然後神聖生其中焉
ゆへにいはくは かひびくの 故曰開闢之
はじめくにつち うかぶのは 初洲壞浮漂
うをのみずにて あそぶがごとし 譬猶游魚之浮水上也
このときあめと つちのなか 于時天地之中
あしかびのごと なりますは 生一物状如葦牙
すなはちかみと なりたまひ 便化為神
くにのとこたち みこととまをす 号国常立尊
つぎにはくにの さつちのみこと 次国狭槌尊
つぎにとよくむ ぬのみこと 次豊斟渟尊
このみはしらの かみさまは 凡三神矣
あめのみちにて ひとりなす 乾道独化
ゆゑにすめれる をとことなれり 所以成此純男
《現代語訳》
大昔、天地がまだ分かれていなくて、陰陽もまた分かれていない混沌としたなかに、ほのかな兆(きざ)しがありました。その兆(きざ)しの中の清陽(すみてあきら)かなものが薄くたなびいて天となり、重くて濁(にご)っているものが、停滞して地(つち)になりました。美しく言いようもなく優れたものは広がりやすく、重くて濁ったものは固まりにくかったため、先に天が生まれ、後に地が定まりました。
その後に、神聖なるものがあらわれました。これが天地開闢(てんちかいびゃく)のはじめです。この天地開闢のとき、はじめに州(す)が浮かび漂いました。それはまるで、魚が水の上で遊んでいるかのような様子でした。そしてこの天地の中に、葦(あし)のようにスクスクと育つものがありました。それはついには神となりたまいて、国之常立尊(くにのとこたちのみこと)と号しました。次には国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、次には豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)がお生まれになりました。
この三柱の神様は、乾道(あめのみち)に独りで化(な)られた神様です。ですからこの三柱の神様は、純男(すめれるをとこ)の神と申します。
▼清陽と重濁から神様は生まれた
日本書紀には古事記のような前文がなく、いきなり本文がはじまります。
その冒頭の言葉が「古天地未剖(いにしへの あめつちいまだ わかれずに)」です。
天地がわかれることに、解剖するときに使う「剖」という字を充てています。
この字は刃物を使って二つに切り裂くことを意味する漢字ですが、その天地はもともと別れてなどいない、陰陽も別れていなかったと日本書紀は記述しています。
よく「日本書紀は中国古来の陰陽道に基づいて書かれた」と言う人がいます。
しかし中国における陰陽思想は、陰陽は対立概念であり二元論ですが、日本書紀はそもそも一体だと書いているわけです。これは陰陽思想ではないと、冒頭で宣言しているようなものです。
その渾然一体となったものから、清陽と重濁が別れます。
清陽は「すみてあきらか」と読みますが、清らかで、かつ陽気なものです。
それが薄く広がって天になった。
そして重くて濁ったものが下方に固まって地(つち)となったと書いています。
そしてここが大事なのですが、こうしてできあがった「天地」に、最初の神様である国之常立尊(くにのとこたちのみこと)がお化(な)りになられたと日本書紀は書いています。
そして続けて国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)がお生まれになられたと書いています。
一般に神様といえば「天にまします清(きよ)らかな御存在」と認識されます。
しかし日本書紀は、そうではなく、「清らかな天」と「重くて濁った地(つち)」で出来た天地に、最初の神様がお化(な)りになられたと書いています。
つまり天地陰陽は一体であり、両方がたいせつで必要なものであると日本書紀は書いているわけです。
実は日本書紀は、その全編を通じて、農業《食》の大切さ、そして農業などの食料の生産者こそが「おほみたから」である、という姿勢を明確に打ち出しています。
収奪する者、支配する者が偉いのではなくて、地(つち)にまみれて農業をするなど、食料を生産する人たちこそが、もっとも大切な日本の宝であるとしています。
そして私達の体は、農耕を通じて地(つち)から生まれる作物によって出来ています。
その地(つち)は、重くて濁りたるものから生まれたものです。
重くて濁ったものがなければ、私達は体を維持することができない。
そうであれば農耕をする人たちこそが国の宝であり、その人達、つまり生産者たちが豊かに安全に安心して暮らせる社会でなければ国を家とする国家は成立しないのだ、と日本書紀はその冒頭から一貫した姿勢として書いているわけです。
ですから神様が天(あめ)と地(つち)が織りなす世界にお化(な)りになられたという記述は、きわめて合理的かつ論理的な記述であるということができます。
さらに重要なことが「清陽」です。
こう書いて「すみてあきらか」と読み下します。
清(きよ)らかであることは、とても大切なことですが、人は生きていれば、必ず様々な穢(けが)れを受けることになります。だからこそ神社などでお祓いをしてもらって魂(たましい)の穢(けが)れを祓(はら)い落としていただくのですが、日本書紀はそれだけではだめだと書いているのです。
「陽=あきらか」でなければならないというのです。
「陽」という字は、明るくほがらかで、活発で太陽のようにあたたかく、生き生きしていることなどを意味する字です。
つまり日本書紀は、
「清らかなばかりではダメですよ。
陽気でほがらかで生き生きして
活発でいることが大事です」
と、私達に教えてくれているのです。
これはとても大切なことだと思います。
▼稲作を通じて国を為す
この重濁と清陽から最初に生まれた神様が国常立尊(くにのとこたちのみこと)です。
清(きよ)らかさと陽気さ、そして重く濁っているようだけれど、私達の肉体の基礎をなす作物を育てる地(つち)のすべての中心に、しっかりと常に立たれている神様です。
次に化(な)られたのが国狭槌尊(くにのさつちのみこと)です。
「狭(さ)」というのは両手ではさむこと、
「槌(つち)」は木槌や大鎚などを意味します。
つまり国狭槌尊は、「大鎚を手にして我々が住む世界の境界を定める神様」です。
さらに読みの「さつち」は、「さ」が稲のこと、「つち」が「土」ですから、漢字の意味と合わせますと、
「稲作を基にする国を
大鎚を手にして護られている神様」
という意味のご神名となります。
次の豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)は、
「とよ」が豊かな収穫、
「くむ」は「汲む」、
「ぬ」は完了ですから、
「汲んでも尽(つ)きないほどの豊かな収穫をもたらす神様」です。いずれも農耕と深い関係を持つご神名とわかります。
我が国は、地震や台風など、天然の災害が多発する国土を持ちます。
万一のとき、大切なのは食料です。
そして冷蔵庫がなかった時代において、数年単位の長期の保存ができる食料はお米しかありません。
幸いなことに日本列島は細長い形状をしていますから、災害は全国が一斉に起きるのではなく、どこかの地域が自然災害で凶作になっても、別な地域は豊作であったりします。
ですから日本全国で常にお米の備蓄を心がけることで、いざ災害というときに互いに助け合い、人々が生き残ることができます。
だからこそ国史としての日本書紀は、その冒頭から稲作の大切さを神様のお名前として、明確に記述しているわけです。
この国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)の三神を合わせて「造化三神(ぞうかさんしん)」と言います。すべての原点となる三柱の神様、という意味です。
そしてこの造化三神は「乾道(あめのみち)に独り化(な)られた神様で、ゆえに純男(をとこのかぎり)を成(な)します」と書かれています。
「乾道(あめのみち)」というのは、冒頭に「清陽(すみあきらか)なものが薄く広がって天(あめ)となった」と書かれていますから、純粋で清らかで陽気な光りの世界です。
この「乾(あめ)」に相対する語が「坤(つち)」です。
ですから「乾坤(あめつち)」とは陰陽であり天地です。
そして乾は陽気、坤は陰気で、それぞれ男女を表します。
ですから「乾道独化、成此純男」は、純粋に天の気独(のみ)によって成(な)られたから「乾の神」=「純男(をとこのかぎり)」と書かれています。
すなわち清陽と重濁の両方をたいせつにすることが、天の道《乾道》であり、神々のご神意であると、日本書紀は書いているのです。
誰だって、重く濁った気持ちになったり、落ち込んだり、凹んだりすることがあります。
「あっていいじゃないか」
と日本書紀は書いています。
だって、神様だって、重くて濁ったものを持っている。
まして、私達人間の体は、その重くて濁ったものでできた地(つち)からできる作物を食べてできています。
重たいものがあったり、落ち込んだりすることがあって当然なのです。
けれど、私達の心には、そんな重濁だけではなく、清陽(すみてあきらか)なものも、ちゃんと宿っています。
つらいことがあっても、かなしいことがあっても、凹んでも、
それでも清陽な心を失わない。
それが人間です。
だから、人はあたたかい。
そう信じて、希望をもって中今(なかいま)を生きるとき、道は必ず開けてくる。
たぶん、そういうことを日本書紀は書いているのだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行でした。
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コメント
Toshiro Akizuki
2021/01/08 URL 編集
松さん
色の認識は、黒・白・グレーだけで、まだ焦点も合わず、殆ど見えていない。
しかし、光や音や匂いに反応し、親が近づくと喜ぶ。
見ている訳ではない。
体で感じ取っている。
視野が狭くとも、視力は弱くとも、体を動かして様々なものを観察しようとする。
(以上は育児書から抜粋)
赤ちゃんのこれらの能力。
胎児の頃から備わっている本能だそうで、ビックリです。
大人になると、見えているのに見えない、見ようともしなくなることがあります。
実に勿体無いと思います。
2021/01/06 URL 編集