1月16日(土)倭塾開催します。「ねずラジ」は、筆者が12年にわたって書き綴ってきたブログの記事4000本の中から、選りすぐりの記事をベースに対談形式でお届けするラジオ番組です。もちろん、ただ過去記事を読み上げるだけでなく、その都度補足しながら、より理解が深まるように話しています。意外と人気で、リスナーが多いのでびっくりしています。 詳細はこちら→https://www.ishikikaikaku.jp/nezuraji/
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たいせつなことは「民衆の覚醒」です。 「民衆の覚醒」とは、民衆が「天の道理」をわきまえることです。 そのために必要なものは、「問い、学ぶこと」、つまり「学問」です。 |

画像出所=http://www10.plala.or.jp/anzu-nouen/achikochi_01/yukigeshiki_01/matsuniyuki_01.htm
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
今年は激変の年です。
ものごとの根幹が、オールリセットされて、新しい出発がはじまります。
それは巨大な変化であり、驚愕の変化であり、新しい未来の姿です。
そんなときだからこそ、私達は原点回帰が必要です。
神話や日本書紀、歴史などもそうです。
そしてそこに福沢諭吉もぜひ、入れたいと思います。
なぜなら福沢諭吉は、独立した個人による国家の発展を説いた思想家であるからです。
とりわけ、「脱亜論」、「学問のすゝめ」は重要であると思います。
「学問のすゝめ」で有名な言葉が、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」です。
しかし諭吉が言いたいのは、そこではありません。
もっと深いことを解いています。
そこで初編の全文を原文に簡単な解説をつけながら掲示しますので、ぜひ、ご一読いただければと思います。
なお、現代語訳は、いつものねず式です。
(全文は17編まであります。
今回はそのなかの初編だけです)
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。
されば天より人を生ずるには、
万人は万人みな同じ位にして、
生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、
万物の霊たる身と心との働きをもって
天地の間にあるよろずの物を資とり、
もって衣食住の用を達し、
自由自在、
互いに人の妨げをなさずして
おのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。
されども今、
広くこの人間世界を見渡すに、
かしこき人あり、おろかなる人あり、
貧しきもあり、富めるもあり、
貴人もあり、下人もありて、
その有様(ありさま)、
雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。」つまり「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というけれど、現実には「雲と泥」の差ほどに、人には差があると諭吉は述べています。
ただ平等を説いているのではなく、「差がある」と説いています。
「その次第はなはだ明らかなり。
『実語教(じつごきょう)』に、
「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。
されば賢人と愚人との別は
学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
また世の中に
むずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。
そのむずかしき仕事をする者を
身分重き人と名づけ、
やすき仕事をする者を身分軽き人という。
すべて心を用い、
心配する仕事はむずかしくして、
手足を用うる力役(りきえき)はやすし。
ゆえに医者、学者、政府の役人、
または大なる商売をする町人、
あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、
身分重くして貴き者と言うべし。」本来、人は対等です。けれど社会的分業を営むに際して、人には責任の軽重が生ずる。
それは「責任」の重さであり、責任の重さと権限の範囲は等しいものになります。
「身分重くして貴ければ
おのずからその家も富んで、
下々(しもじも)の者より
見れば及ぶべからざるようなれども、
その本もとを尋ぬれば
ただその人に、
学問の力あるとなきとによりて
その相違もできたるのみにて、
天より定めたる約束にあらず。
諺ことわざにいわく、
「天は富貴を人に与えずして、
これをその人の
働きに与うるものなり」と。
されば前にも言えるとおり、
人は生まれながらにして
貴賤・貧富の別なし。
ただ学問を勤めて
物事をよく知る者は貴人となり富人となり、
無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。」責任の重さ(=権限の重さ)は、学問の有無によって生じるということです。
学問というのは、「問い、学ぶ」ことですから、天から与えられた約束事ではありません。
人の努力によって生ずる差だということです。
「学問とは、
ただむずかしき字を知り、
解(げ)し難き古文を読み、
和歌を楽しみ、詩を作るなど、
世上に実のなき文学を言うにあらず。
これらの文学も
おのずから人の心を悦(よろこば)しめ
ずいぶん調法なるものなれども、
古来、世間の儒者・和学者などの申す様(よう)に
あがめ貴(とうと)むべきものにあらず。
古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、
和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。
これがため心ある町人・百姓は、
その子の学問に出精するを見て、
やがて身代を持ち崩すならんとて
親心に心配する者あり。
無理ならぬことなり。
畢竟(ひっきょう)その学問の
実に遠くして
日用の間に合わぬ証拠なり。」ここでいう和歌や古文というのは、いまどきの学校教育と同じです。
諭吉の生きた幕末から明治にかけてでいえば、難しい漢学や和歌です。
テストでどれだけ正答を書くことができるか、どれだけ詳しく答えることができるか。
しかしそのようなものは、いわば単なる雑学でしかない。
問題は、それらを通じて何を学び問うかにある、ということを福沢諭吉は述べています。
「されば今、
かかる実なき学問はまず次にし、
もっぱら勤むべきは
人間普通日用に近き実学なり。
譬(たとえ)ば、
いろは四十七文字を習い、
手紙の文言(もんごん)、
帳合いの仕方、
算盤(そろばん)の稽古、
天秤(てんびん)の取扱い等を心得、
なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。
地理学とは日本国中はもちろん
世界万国の風土(ふうど)道案内なり。
究理学とは天地万物の性質を見て、
その働きを知る学問なり。
歴史とは年代記のくわしきものにて
万国古今の有様を詮索する書物なり。
経済学とは一身一家の世帯より
天下の世帯を説きたるものなり。
修身学とは身の行ないを修め、
人に交わり、
この世を渡るべき
天然の道理を述べたるものなり。
これらの学問をするに、
いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、
たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、
あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、
一科一学も実事を押え、
その事につきその物に従い、
近く物事の道理を求めて
今日の用を達すべきなり。
右は人間普通の実学にて、
人たる者は貴賤上下の区別なく、
みなことごとくたしなむべき心得なれば、
この心得ありて後に、
士農工商おのおのその分を尽くし、
銘々の家業を営み、
身も独立し、家も独立し、
天下国家も独立すべきなり。」要するに、不要不急の和歌や古文よりも先に、まずは実学として生活に必要なことを、共通の文化土壌として、しっかりと誰もが身につける。
そこが肝心で、これによって人も国家も自立していくことができるのだ、というわけです。
なぜ自立が必要かといえば、我々自身が自由に生きるためです。
ただし、その自由には、おのずと制限が生まれます。
「学問をするには分限を知ること肝要なり。
人の天然生まれつきは、
繋(つながれ)ず縛られず、
一人前いちにんまえの男は男、
一人前の女は女にて自由自在なる者なれども、
ただ自由自在とのみ唱えて
分限(ぶんげん)を知らざれば
わがまま放蕩に陥ること多し。
すなわちその分限とは、
天の道理に基づき
人の情に従い、
他人の妨げをなさずして
わが一身の自由を達することなり。
自由とわがままとの界(さかい)は、
他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。
譬(たとえ)ば自分の金銀を費やしてなすことなれば、
たとい酒色に耽(ふけ)り
放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、
けっして然しからず、
一人の放蕩は諸人の手本となり、
ついに世間の風俗を乱りて
人の教えに妨げをなすがゆえに、
その費やすところの金銀は
その人のものたりとも、
その罪許すべからず。
また自由独立のことは
人の一身にあるのみならず、
一国の上にもあることなり。
わが日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて、
古来外国と交わりを結ばず、
ひとり自国の産物のみを衣食して
不足と思いしこともなかりしが、
嘉永年中アメリカ人渡来せしより
外国交易こうえきのこと始まり、
今日の有様に及びしことにて、
開港の後もいろいろと議論多く、
鎖国攘夷(じょうい)などと
やかましく言いし者もありしかども、
その見るところはなはだ狭く、
諺(ことわざ)に言う
「井の底の蛙かわず」にて、
その議論とるに足らず。
日本とても
西洋諸国とても
同じ天地の間にありて、
同じ日輪に照らされ、
同じ月を眺め、
海をともにし、
空気をともにし、
情合い相同じき人民なれば、
ここに余るものは彼に渡し、
彼に余るものは我に取り、
互いに相教え互いに相学び、
恥ずることもなく誇ることもなく、
互いに便利を達し
互いにその幸いを祈り、
天理人道に従いて
互いの交わりを結び、
理のためにはアフリカの黒奴(こくど)にも恐れ入り、
道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、
国の恥辱とありては
日本国中の人民
一人も残らず
命を棄(すて)て国の威光を落とさざるこそ、
一国の自由独立と申すべきなり。
しかるをChineseなどのごとく、
わが国よりほかに国なきごとく、
外国の人を見ればひとくちに
夷狄(いてき)夷狄と唱え、
四足にてあるく畜類のように
これを賤(いやしめ)これを嫌(きら)い、
自国の力をも計らずして
みだりに外国人を追い払わんとし、
かえってその夷狄に窘(くるしめ)らるるなどの始末は、
実に国の分限を知らず、
一人の身の上にて言えば
天然の自由を達せずして
わがまま放蕩に陥る者と言うべし。」Chineseを引き合いにだしています。本当に彼らは今も昔も変わらない。
彼らの根底にあるのは「自分のため」です。
福沢諭吉が説くことは、「みんなのため」です。
ジャスティス(正義・Justice)」とは、みんなのために良いことのことを言います。
そうであれば、ジャスティスの反対にある悪とは、「自分のため」であることを言うことになります。
「王制一度ひとたび新たなりしより以来、
わが日本の政風大いに改まり、
外は万国の公法をもって外国に交わり、
内は人民に自由独立の趣旨を示し、
すでに平民へ苗字(みょうじ)乗馬を許せしがごときは
開闢(かいびゃく)以来の一美事(びじ)、
士農工商四民の位を一様にするの基(もとい)
ここに定まりたりと言うべきなり。
されば今より後は
日本国中の人民に、
生まれながらその身につきたる
位などと申すはまずなき姿にて、
ただその人の才徳と
その居処(きょしょ)とによりて
位もあるものなり。
たとえば政府の官吏を
粗略にせざるは当然のことなれども、
こはその人の身の貴きにあらず、
その人の才徳をもって
その役儀を勤め、
国民のために
貴き国法を取り扱うがゆえに
これを貴ぶのみ。
人の貴きにあらず、
国法の貴きなり。
旧幕府の時代、
東海道にお茶壺の通行せしは、
みな人の知るところなり。
そのほか御用の鷹(たか)は人よりも貴く、
御用の馬には往来の旅人も路を避くる等、
すべて御用の二字を付くれば、
石にても瓦(かわら)にても
恐ろしく貴きもののように見え、
世の中の人も数千百年の古(いにしえ)より
これを嫌いながら
また自然にその仕来(しきたり)に慣れ、
上下互いに
見苦しき風俗を成せしことなれども、
畢竟(ひっきょう)これらはみな
法の貴きにもあらず、
品物の貴きにもあらず、
ただいたずらに政府の威光を張り
人を畏(おどし)て
人の自由を妨げんとする
卑怯なる仕方にて、
実なき虚威というものなり。」現代日本はダメ、明治大正昭和もダメ、江戸日本こそが理想の国家であるというようなことを言う人がいますが、そうでもない。
実は江戸時代には「御用」といえば、馬や壺の前に土下座しなければならないような不都合もあったし、人々に不満もあったわけです。
いつの時代にも、良い面、悪い面があります。
それぞれの時代の良いところと、今の良いところを組み合わせて、さらにもっとよい国をつくる、よい時代を担う、未来をひらくことが大切です。
「今日に至りては
もはや全日本国内に
かかる浅ましき制度、風俗は
絶えてなきはずなれば、
人々安心いたし、
かりそめにも政府に対して
不平をいだくことあらば、
これを包みかくして暗に上(かみ)を怨うらむることなく、
その路を求め、
その筋により
静かにこれを訴えて
遠慮なく議論すべし。
天理人情にさえ叶うことならば、
一命をも抛(なげうち)て争うべきなり。
これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。
前条に言えるとおり、
人の一身も一国も、
天の道理に基づきて
不覊(ふき)自由なるものなれば、
もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば
世界万国を敵とするも恐るるに足らず、
この一身の自由を妨げんとする者あらば
政府の官吏も憚(はばかる)に足らず。
ましてこのごろは
四民同等の基本も立ちしことなれば、
いずれも安心いたし、
ただ天理に従いて
存分に事をなすべしとは申しながら、
およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、
またその身分に従い
相応の才徳なかるべからず。
身に才徳を備えんとするには
物事の理を知らざるべからず。
物事の理を知らんとするには
字を学ばざるべからず。
これすなわち学問の急務なるわけなり。」ここでひとこと付言しておきたいのですが、諭吉は江戸時代の武士の生まれの人です。
そして江戸時代の武士にとって、交渉事というのは、命がけのものでもありました。
武士は腰に大小二本の刀を差しますが、重大な責任を担って交渉に及ぶ時は、万一、相手がそれに従わない時は、その場で相手を斬って捨て、自分もその場で腹を切る。
それだけの覚悟を前提として、日常の行動や交渉事が行われていました。
ですから、交渉に行って、ダメでしたと、すごすごと引き上げてくるような者は「腰抜け」とされ、場合によっては「お上の権威を汚す者」として、武士の身分を剥奪されたりもしました。
明治に入って四民平等となり、諭吉の言うように「静かに訴えて遠慮なく議論」する時代となることで、日本人の交渉事は、必ずしも命がけというものでなくなり、最近ではKoreaの「ケンチャナヨ」同然に、ほぼほぼ適当であることで十分とするような姿勢が常態化していますが、これは見方によっては日本人が「腰抜け」になったということでもあります。
ではなぜ、「命がけの交渉姿勢」が大事なのかといえば、行動は常に「天の道理に基づく」という強い理念と意思がそこに存在したからです。
学問は、日常の生活に必要なソロバンや文章の書き方といった基礎的なものから出発し、究極的には「天の道理」を身につけるところに、本来のその意義があるのです。
ここまで読んで、諭吉が単に「和歌や古文がいけないものだ」と言っているのではない、ということが明らかになります。
そして、いま私が「和歌や古文」を通じて、皆様にお伝えしようとしていることもまた、「天の道理を得よう」とするものであることをご理解いただけようかと思います。
「昨今の有様を見るに、
農工商の三民は
その身分以前に百倍し、
やがて士族と肩を並ぶるの勢いに至り、
今日にても三民のうちに人物あれば
政府の上に採用せらるべき道
すでに開けたることなれば、
よくその身分を顧み、
わが身分を重きものと思い、
卑劣の所行あるべからず。」「卑劣」というのは、することが正々堂々としておらず、いやしくきたならしいことを言います。
一言で言えば、嘘つきのことです。
自分からレーダー照射をしておいて、していなかったと嘘を言う。
泥棒をして「泥棒!」と言われたら、「お前が泥棒だ」と言い返せと彼の国のことわざがあるそうですが、嘘つきというのは、責任感の欠如を意味します。
人の上に立つということは、責任を持つということです。
その「責任」を「身分」だと履き違える。
そのようなたぐいの人のことを「恥知らず」といいます。
「およそ世の中に
無知文盲の民ほど
憐(あわれ)むべく
また悪(にくむ)べきものはあらず。
智恵なきの極(きわ)みは
恥を知らざるに至り、
己(おの)が無智をもって
貧窮に陥り飢寒に迫るときは、
己が身を罪せずして
みだりに傍(かたわら)の富める人を怨み、
はなはだしきは徒党を結び
強訴(ごうそ)一揆(いっき)などとて
乱暴に及ぶことあり。
恥を知らざるとや言わん、
法を恐れずとや言わん。
天下の法度(ほうど)を頼みて
その身の安全を保ち、
その家の渡世をいたしながら、
その頼むところのみを頼みて、
己が私欲のためにはまたこれを破る、
前後不都合の次第ならずや。
あるいはたまたま身本(みもと)慥(たしか)にして
相応の身代ある者も、
金銭を貯(たくわ)うることを知りて
子孫を教うることを知らず。
教えざる子孫なれば
その愚なるもまた怪しむに足らず。
ついには遊惰放蕩に流れ、
先祖の家督をも
一朝の煙となす者少なからず。
かかる愚民を支配するには
とても道理をもって諭(さとす)べき方便なければ、
ただ威をもって畏(おどす)のみ。
西洋の諺ことわざに
「愚民の上に苛(から)き政府あり」
とはこのことなり。
こは政府の苛きにあらず、
愚民のみずから招く災(わざわい)なり。
愚民の上に苛き政府あれば、
良民の上には良き政府あるの理なり。
ゆえに今わが日本国においても
この人民ありてこの政治あるなり。
仮りに人民の徳義
今日よりも衰えて
なお無学文盲に沈むことあらば、
政府の法も今一段厳重になるべく、
もしまた人民みな学問に志して、
物事の理を知り、
文明の風に赴(おもむ)くことあらば、
政府の法も
なおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。
法の苛(から)きと寛(ゆる)やかなるとは、
ただ人民の徳不徳によりて
おのずから加減あるのみ。
人誰か苛政を好みて
良政を悪にくむ者あらん、
誰か本国の富強を祈らざる者あらん、
誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、
これすなわち人たる者の常の情なり。
今の世に生まれ
報国の心あらん者は、
必ずしも身を苦しめ
思いを焦がすほどの心配あるにあらず。
ただその大切なる目当ては、
この人情に基づきて
まず一身の行ないを正し、
厚く学に志し、
博(ひろ)く事を知り、
銘々の身分に相応すべきほどの
智徳を備えて、
政府はその政(まつりごと)を施すに易(やす)く、
諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、
互いにその所を得て
ともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。
今余輩の勧むる学問も
もっぱらこの一事をもって趣旨とせり。」要するに福沢諭吉の勧める学問というものは、「天の道理を知り学ぶ」ということに尽きるというこであろうかと思います。
「天の道理」を外れる者が「愚民」です。
民衆が愚民に堕ちるならば、政府は圧政をもって人々を弾圧するしかないし、政府が愚かな政府であれば、その愚かな政府は領民を苦しめます。
「天の道理」というのは、あらゆる価値判断の基準となるものです。
その基準となる価値観をしっかりと学ぶ。
そのためにこそ学問はある、ということです。
ですから、和歌や古文を学ぶということは、たとえば和歌であれば、その「テニヲハ」のテクニックを学ぶことが和歌を学ぶことでもなければ、和歌をたしなむことでもありませんし、物知り顔に、もっともらしい難解な言葉を羅列したり暗唱したりするこことでもありません。
私が百人一首の和歌や古事記をご紹介しているのも、そこに取り戻すべき日本の形があり、その形は皇国臣民として不可欠のものであると確信するからです。
何事も、目的をはじめるのでなければ意味がありません。
ただ古事記を学びたい、和歌を学びたいのなら、他をあたって下さいと申し上げます。
その目的とは、実学としての「天の道理を身につける」ことです。
学問が、ただ知識の丸暗記や、むつかしいことをただ「知っている」というだけのものに堕ちるのなら、それは愚民のなせる技にしかならないのです。
大切なことは、それらを通じて「何を学び、どう活かすか」です。
愚民の上の苛(から)き政府は、実は政府が苛いのではない。
それは愚民がみずから招く災(わざわい)です。
愚民の上に苛き政府があるならば、
良民の上には良き政府ができるのです。
たいせつなことは「民衆の覚醒」です。
「民衆の覚醒」とは、民衆が「天の道理」をわきまえることです。
そのために必要なものが、「問い、学ぶこと」、つまり「学問」です。
※この記事は2019年2月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行でした。
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コメント
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ねず先生の食生活が知りたいです。
最近は私も年なのか、昔のように徹夜で飲み歩いたり、焼肉を食べ放題などは、コロナもありますが疎遠になりました。
また、去年から牛乳を飲むとお腹を壊すようになりました。これは人生レベルのショックな思い出となりました。数年前は、ちょっと栄養を付けて暑さ寒さに負けないようにと、気軽に摂る物の中に牛乳があったのですが。
また、ご飯を食べるようになりました。これは実は『ぬか漬け』を食べるようになったからです。
前は、パスタやらラーメンやら小麦粉、またはオートミールと言った物ばかりでした。
年齢による味覚の変化と健康に気をつけると、気が付けば、和食に戻ってました。
ご飯、ぬか漬け、みそ汁、納豆、焼き魚、だし巻き…
私の趣味は、世界の家庭料理でして、週末はこれを一食、頂いてはおりますが、
ねず先生は、私よりも先輩ですから、朝から焼肉とかイメージも出来ないですが、笑
記紀、日本語力、日本精神、…先生の食生活も伺ってみたいものです。
2021/01/13 URL 編集
湘南童子
天地の道理や真理を『 アヤ 』と呼び
昔は多く「学文」と表記していたとの由
学び問われるホントウのモノ
促されゆく覚醒 ソのモノ
遍界不曾藏 ( ヘンカイカツテカクサズ )
という禪語も有る様です
光明遍照 ( クワウミヤウヘンゼウ )
失礼いたしました
2021/01/13 URL 編集
松さん
一般教養のひとつとして書名を覚えただけの方も多いと思います。
「ユキチ」は「お金の隠語」として馴染んでいただけ?
(私もそうでした)
暁闇に見える世相でも、何も見えない訳ではありません。
職業柄『人は人のために物を造る』を座右の銘としてきました。
これら先人の教えと生きざまは、現役を引退しても変えられません。
2021/01/13 URL 編集
中井康二
2021/01/13 URL 編集