朝鮮半島には国家があった。 百済は新羅に滅ぼされた。
これらは現代日本の歴史の常識ですが、証拠に基づく限り、いずれも、そうとはいえなさそうです。 歴史は、もう少し常識を当てはめて、疑問点を洗い出して、真実を得る。そういうものだと思います。 |

画像出所=http://www.bell.jp/pancho/k_diary-15/2015_02_25.htm
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
上の絵は、錦江のほとりにある扶蘇山(ふそざん)にある皐蘭寺(コランサ)というお寺にある壁画です。
これは660年の百済(くだら)滅亡の際、略奪、殺戮、強姦などほしいままにする敵軍の前に、貞操を守るため落花岩から百済の宮女達が錦江(白馬江)に身を投げたという伝承を描いています。
皐蘭寺は身投げした宮女達の魂を慰めるために建てられた寺です。
百済の人々は、国は朝鮮半島にあり、国名も百済ですが、王も人民も倭人です。
そして百済は、古事記神話にも登場します。
イザナギが黄泉の国から帰るとき、桃の実で追い迫る黄泉の軍勢を追い返しました。
このときに「桃(もも)が稔(な)る村」が、後に当て字で「百(もも)が済(な)る」となって、百済(くだら、ひゃくさい」という国号になりました。
百済があった時代、朝鮮半島には百済の他に、いまの北朝鮮あたりに高句麗(こうくり)、いまの慶尚道のあたり(朝鮮半島の日本海側)に新羅(しらぎ)がありました。
高句麗の北側は、遊牧民たちが暮らす放牧地帯で、この頃のチャイナの中原(ちゅうげん)は、五胡十六国の戦乱の時代でした。
時折、そんな中原や、北方遊牧民が、南下してきて半島を荒らすため、これへの緩衝地帯として、倭国が特別に設けた国が、高句麗、百済、新羅であったわけです。
ですからこの三国とも、日本の属国として日本に朝貢し、また日本に国王の跡取り息子である王子を人質に出していました。
王子は日本で暮らし、日本のご皇室の女性と結婚して子をなしました。
そして国王が死ぬと、国に帰って国王の地位を継ぎました。
その新国王の息子(跡取り息子の王子)は、日本で生まれて、天皇の娘である母の手で日本で育ちます。
そして父の国王が死ぬと、国に帰って国王となりました。
ちなみに古代の日本では、王というのは、天皇の息子のことを言います。
だから新羅王、百済王、高句麗王と認識されたわけです。
ところがこのうちの新羅は、もともと濊(わい)族が多く住む地域であったがために、徐々に濊と血がまじりました。
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濊というのは、汚穢(おわい)といって、糞尿を意味する漢字です。
もともと新羅の人たちは、二重まぶたで目鼻口が大きいことが特徴だったのですが、何百年かのうちに濊と血が交じることによって、徐々に頬骨が高く、一重で細目に変わっていったといいます。
濊は伝統的に、働くことよりも奪うことに重きを置いた人々であったことから、徐々に新羅は乱暴者の国となり、たびたび高句麗の日本への朝貢の使者を襲いました。
やむなく高句麗は、倭国と協議のうえ、日本への朝貢をあきらめ独立自尊の道を歩み始めます。
北に北方遊牧民、西に戦乱に明け暮れるチャイナと接する高句麗は、そのために徹底的な軍事国家として成長していくことになります。
そんななか、6世紀の終わり頃に、中原が隋によって統一されます。
隋は軍事超大国で、周辺異族を併呑していきました。
そしてついに隋は、高句麗への攻略のために、数十万の大軍を送ります。
ところが軍事国家である高句麗の備えは強く、隋は度重なる高句麗への侵略のすべてに敗退し、結果、国力を落として国が滅んでしまいます。
あとに起こった唐は、軍事強国である高句麗を警戒し、唐から見て高句麗の後背地にあたる新羅に、
「百済を滅ぼして、その財(たから)のすべてを新羅にあげるよ」ともちかけて、新羅に軍を送ります。
そして西の海からと、東の新羅側の両方から百済を挟み撃ちにして、百済を滅ぼしてしまいます。
このときの絵が、上に描かれた皐蘭寺(コランサ)の壁画です。
絵をよく見ていただくとわかるのですが、迫り来る敵軍の兜の上の突起物が布ではなく、金属もしくは角製に描かれています。(下図)

これは当時の唐の軍装です。
要するに百済に迫った軍は、新羅軍ではなくて、唐軍であったわけです。
こうして百済を攻め滅ぼした唐は、新羅に唐の軍隊を常駐させ、そのわずか8年後には高句麗を挟み撃ちして滅ぼすことに成功します。
ところがこの間、何もしてこなかった新羅は、国内においては唐軍に手を変え品を変えて嫌がらせをし、その一方で唐の皇帝には土下座外交を繰り広げていました。
結果、怒った唐の将軍が新羅を引き払うことで、事実上新羅が朝鮮半島を手に入れたのが、そのまた8年後、676年のことです。
こうして興った新羅王朝は、936年の滅亡まで、260年の長きに渡って成立していたのですが、ここで気をつけなければならないことは、新羅は、独立国家として半島に存在していたのではない、ということです。
新羅はあくまで唐の属国として、新羅王が置かれていただけであって、唐は新羅を国として認識していません。
唐の国の中にある、ひとつの県として認識していただけです。
ですから唐が新羅に与えた印章は、県知事を意味する銅印だけです。
この「新羅が国ではなかった」という点は、歴史を考える上でとても重要なことです。
国でないなら、新羅王朝は何であったのかということになるからです。
答えは、チャイナの歴代王朝からみたら、半島全体がただの市町村です。
チャイナの歴代王朝は、漢代に定められた印綬の制度を踏襲しましたが、半島の歴代王朝に与えられた印綬は、すべて下級官吏を意味する銅印です。
半島という、ある意味広大なエリアの王朝がなぜ銅印だったのかというと、それはものすごくわかりやすくいえば、半島にあった王朝は、単に半島内最大勢力の広域暴力団でしかないという認識に近いものだったからです。
半島という領域があり、そこに人民がいて、そこを根城にして、人民からみかじめ料を取っている暴力団がある。
その名前が新羅であり、後には高麗とか、李氏朝鮮とかわるけれど、その実態はいつも同じであった、ということです。
実際、新羅が王朝であった260年間、いわゆる民政に関することは、何も行われていません。
このことは、そもそも国家とは何か、という議論になることですが、日本人は人が良いので、国家というのは、世界中どこの国においても、歴史を通じて、国というものが「民衆が豊かに安全に安心して暮らすことができるように、最大限の努力を尽くすもの」と信じて疑わないことが、実は世界では非常識である、ということを意味します。
そんなことをまじめに実践してきたのは日本くらいなものなのです。
世界では暴力団が政権を担ったり、組長さんが王を名乗ったりしていたのです。
とりわけ新羅の場合(これはその後の高麗や李氏朝鮮も同じですが)、半島にあった王朝が、自国が豊かになるために、何らかの行動をしたということが、千年以上にわたってまったくありません。
その意味では、百済は半島における最後の「民衆のための政治」を行った国家であったし、だからこそ宮廷の女性たちが、暴行されるよりはと、死を選んでいるのです。
もちろん今日お話した以外にも、様々な歴史観があることでしょう。
歴史を学ぶということは、そうした多用な歴史観を学ぶことで、多用な価値観を知り、学ぶことでもあります。
そしてそのなかで、もっとも納得できるもの、そしてもっとも再現性があり、証拠の揃うものが、解釈として、最も科学的な歴史認識ということになります。
朝鮮半島には国家があった。
百済は新羅に滅ぼされた。
これらは現代日本の歴史の常識ですが、証拠に基づく限り、いずれも、そうとはいえなさそうです。
歴史は、もう少し常識を当てはめて、疑問点を洗い出して、真実を得る。
そういうものだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行でした。
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