令和3年は、辛丑(かのとうし)で六白の年です。六白というのは、天地四方(これで六つ)を白い光で灼き尽くす、という意味です。そして辛丑は、辛いことを手に握りしめている象形です。つまり、辛丑六白の年というのは、180年に一回、これまでのカルマをすべて灼き尽くす年として巡ってくる年です。 だから、世間一般でもたいへんなことがおきるし、個人でも大きな変化が訪れる年です。 けれどそんなときだからこそ、これまで人々を苦しめてきたヤマタノオロチを焼き尽くすことができる年でもあります。 乗り越えれば、その先に、大いなる成長と躍進が待っています。 |

画像出所=https://ameblo.jp/yaoyorozu-ukiyoe/entry-12634246873.html
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
トップの絵は、ある画伯の描いたヤマタノオロチです。
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それにしても、すごい迫力のオロチですね。
古事記で古来人気の神様のなかのひとはしらが、ご存知スサノヲのミコトです。
そのスサノヲは、幼い頃は母に会いたいと泣いてばかりいて、父大神から与えられた海を護る仕事を放り出していました。
このため父によって海原を追い出されてしまいます。
仕方がないからと、姉を頼って高天原に行けば、そこで八百万の神々から処罰を受けて、ついには神としての霊力を奪われ、手足の爪を抜かれるという懲罰を与えられて地上に放逐されています。
まさに試練を与えられたのです。
けれどスサノヲは、降りた地上で困っている人たちを見て立ち上がり、ついにはヤマタノオロチを退治して、玉鋼(たまはがね)で造った名刀、草那芸之大刀(くさなぎのたち)を得て、これを高天原に献上しています。
この大刀が、いまも続く三種の神器の中のひとつです。
そしてスサノヲは、愛する妻とともに須佐に都を開いて幸せに暮らします。
それはまるで、痛快で破天荒な主人公が困難な試練に立ち向かい、最後にはすべてに打ち勝って美女を手に入れて祝福のハッピーエンドを迎えるといった、ハリウッドの英雄物語のフルカラーの映画を観ているかのような物語です。
まだ映像技術がなかった時代に、どれだけ多くの子達が、このスサノヲの物語に勇気づけられ、また大人になってからも苦難に打ち勝つ強い精神性を手に入れていたか。
そう考えますと、我が国におけるスサノヲ人気が、なるほどと納得できる気がします。
特に男性の場合、ある程度、歳を重ねて人生を振り返ると、世間で人生の成功者と言われる人であっても、本人自身の正直ベースでは恥ずかしこと、呪わしいこと、反省することばかりなものです。
イーロン・マスクのような世間的に大成功をおさめた超人であっても、自分では失敗の連続であったといいます。
意外と現実はそんなものなのだと思います。
人は誰もが、七転八倒しながら生きているのです。
上辺では「自分は過去からずっと立派だった」と胸を張っていても、それこそ閻魔様の前に出れば、裁かれるようなことばかりです。
なぜなら、人が生きて何事かを為すということは、常に問題の連続であるからです。
けれども、問題が起きるということは、物事が動いている証(あかし)です。
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なぜなら、何も動いていない、つまり何もしていなければ、問題も起きないからです。
反対に、何かをすれば、必ず、次から次へと問題が起きます。
つまり、問題が次々に起こるということは、物事が激しく動いている証(あかし)です。
時折、問題が起きることを、「あいつは問題児だ」とか、「問題を起こすとんでもない奴だ」などという人がいます。
「わかってないなあ」と思います。
問題が次々に起きるということは、それだけ仕事をしている、物事が動いていることの証(あかし)なのです。
そういうときにこそ、上司も部下もなく、みんなが一体となって、勇気を持って問題に立ち向かうときなのです。
もっというなら、何も問題を起こさない人というのは、何も仕事をしていない人です。
問題がある、ということは、それはとても良いことです。
なぜなら、乗り越えるべき課題が明らかになっているからです。
何が問題なのかがわからないよりは、はるかにマシな状態です。
人は、魂が本体、肉体はその乗り物だというのが、日本古来の考え方です。
個人的には、これこそがこの世の真実だと思っています。
その魂は、この世に生まれてくるとき、あらかじめ自分の人生の設計図を描いて生まれてくるのだそうです。
それは今生の人生を通じて、何を為すか、という設計図です。
これを古い言葉で「願兼於業(がんけんおごう)」と言います。
魂だけの状態(肉体を持たない状態)では、何でもできるけれど、そこにあるのは過去の反省と現状維持だけです。
とりわけ前世での失敗は、強い反省となり、その魂にとっての後悔となります。
この後悔を伴う失敗の経験を「業(ごう)」というのだそうです。
輪廻転生を何度繰り返しても、同じ失敗をする。
同じ過ちをおかしてしまう。
そのたびに、つらく悲しい思いをするのだけれど、でもまたやってしまう。
それが「業(ごう)」です。
だからその「業(ごう)」を、こんどこそ断ち切って、より良い魂に成長しよう。
そのために、こんな苦労をしていこう・・・というのが、「願兼於業」です。
だから「業」は、本人が自分自身で願っていただく、試練です。
つまり、辛いことや、乗り越えられないと思えるような人生の試練は、実は起こるべくして起こっているのです。
そして、それは必ず乗り越えることができる試練です。
なぜなら、乗り越えるために与えられた試練なのだから。
乗り越えられないはずがないのです。
そんなことから、ときに、何らかの強い制限を持って生まれてくる人がいたりします。
特定の能力に、制限がかかっているのです。
それは身障者のような物理的な制限の場合もあれば(この場合は、次には高貴な神様になるひとつまえの段階のものすごく高貴な魂なのだそうです)、心や特定の能力に、強烈な制限がかかっている場合もあります。
それはちょうど、日本国内で販売される国産車が、最高速度180キロ/hに制限が課せられているようなものです。
人によっては、その制限が時速4キロ以下だったりもする。
特定の能力に、こうして制限がかかるということは、その制限のもとで、人生の勝利を飾ろうという願兼於業の結果であるといわれています。
これは、たとえばサッカーをするときには、「両手でボールを操作してはいけない」といった、制限です。
制限があるから、ゲームになるのです。
そして制限があるから、勝利の喜びがあるのです。
これが、魂が肉体を持ったときのよろこびであり、成長です。
魂のままでは制限がないので、これができない。
先日あるところで、
「最強の敵が自分をつくる。
敵があるから成長できる」
というお話をさせていただきました。
そしてその最強の敵というのは、本当は自分自身の中にある、ということもお話させていただきました。
ヤマタノオロチは、スサノヲが強ければ、それだけ強くなります。
仮にスサノヲが弱ければ、ヤマタノオロチも、弱い怪物でしかなかったかもしれません。
つまり最強の敵は、常に自分自身が作り出しているのです。
そしてその敵と戦うときは、いよいよ人生の本番、これを乗り越えることが、人生を次のステップや次の次元に上昇させる、ビッグチャンスである、ということです。
令和3年は、辛丑(かのとうし)で六白の年です。
六白というのは、天地四方(これで六つ)を白い光で灼き尽くす、という意味です。
そして辛丑は、辛いことを手に握りしめている象形です。
つまり、辛丑六白の年というのは、180年に一回、これまでのカルマをすべて灼き尽くす年として巡ってくる年です。
だから、世間一般でもたいへんなことがおきるし、個人でも大きな変化が訪れる年です。
けれどそんなときだからこそ、これまで人々を苦しめてきたヤマタノオロチを焼き尽くすことができる年でもあります。
乗り越えれば、その先に、大いなる成長と躍進が待っています。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行でした。
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