2月21日(日)13:30から、東京江東区・富岡八幡宮婚儀殿で、第80回倭塾があります。
みなさまのご参加をお待ちします。→ https://fb.me/e/4JOecakCM 少年時代は、もっぱら学ぶだけです。けれど、社会人、つまり大人は、学ぶだけでは済みません。自分で自分の人生のストーリーを描き、また社会を支えるストーリーを責任をもって築いていかなければならないのが大人です。それができていないなら、年齢が50代であろうが、80代であろうが、保護者の下にある子供と同じといえるかもしれない。 逆に、たとえ10代であろうと、自分で自分の過去、現在、未来にわたる人生ストーリーを明確化しているなら、それはもう立派な大人です。昔の日本人が、現代日本人よりもはるかにしっかりしていたのは、人生街道、人生ストーリーを、各自が明確に持つことを、実践していたか否かの違いであったのかもしれませんね。 |

画像出所=https://youtu.be/akylIf_Evow
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
人の人生も歴史のうちです。
自分の人生を振り返ってみたらわかりますが、さまざまな出来事があったけれど、それらがなぜか一本の糸でつながっている。
名前を付ければ、それは成人式であったり、入学式や卒業式、就職の初日であったり、昇格した日であったり、大きな成果が実現できた日であったり、あるいは子が生まれた、結婚した等々のイベントであったかもしれないけれど、そのひとつひとつは、単独で切り離されて存在しているわけではなくて、そこには前後の関係が必ずあるものです。
たとえば自分の人生で、「結婚した」という事件は、おおきなイベントのひとつです。
しかしその記憶は、○年○月○日○時○分に婚姻届を提出した・・・という単独の記憶ではないと思います。
印象に残るような人生の大きなイベントであればあるほど、記憶の中のそれは、年月日と事件名の記憶ではなく、前後にあった様々なストーリーとともに記憶されているのではないかと思います。
これを、自分の人生ではなく、国の営みの歴史としてみたときにも、また同じです。
1600年に関ヶ原の戦いがあった。
1582年に本能寺の変があった。
なるほど、それらは事実です。
けれど、もしかしたら当時を生きていた人たちは、そんな事件名などまったく意識していなかったかもしれません。
あるいは、それが何年の出来事ということさえも、あまり意識していなかったかもしれない。
そういうことよりも、なぜ戦いにおもむかなければならなかったのか、そしてその結果、どのようなことが起きたのか。
事件名でひとくくりにするのではなく、その出来事の前後の関係を、それぞれの人が、ひとつの筋書き(ストーリー)として受け止めていたといえるのではないでしょうか。
人は、バラバラのメモカードの状態では、それを長く記憶にとどめることができません。
そのことは、テストのために用いた暗記カードで記憶したことが、テストが終わるときれいさっぱり忘れてしまうことでも明らかかと思います。
「そんなことはない、結構いまでも覚えているよ」
という方もおいでになりますが、よくよく思い返してみると、そのとき暗記カードで、満足の行く成績が取れたことで、暗記カードで覚えたことが、さらに一編のストーリーのある事実となることで、印象的な流れの中の事実として、それが記憶に留められているといえるのではないでしょうか。
過去の事実というのは、ジグソーパズルのピース(切片)にたとえられます。
ひとつのピースを単独で抜き出しても、何がなんだかわからない。
けれど、ジグソーパズルのピースが組み合わさると、一編の美しい絵ができあがります。
この組み合わせが、ストーリー化です。
過去の出来事なら、それが歴史になります。
歴史は、過去の事実のことをいうのではありません。
過去の事実を、ストーリー化したものが歴史です。
だから歴史は「歴(つづ)った史(ふみ)」と書きます。
考古学上の遺物遺構や、文献史料に書かれていること。
これが過去の事実です。
有名な三内丸山遺跡の六本柱の巨柱は、写真に写っているものは、実は想像によるレプリカでしかありません。
本当にそういう形であったかどうかすら、実際のところはわかっていません。
それに、いまレプリカとして建っている柱にしても、ロシアからの輸入木です。
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事実は、
「巨大な木製の柱を建てた跡が地面に6つ残っているものが発見された」
ということだけです。
ですから、6本の柱が同時期に建っていたかどうかも、おそらくそうであったのであろう、というだけで、実際のところはよくわからない。
一本ずつが位置をずらして建てられていただけなのかもしれない。
あるいはまた、6本の柱が同時に建っていたと仮定したとして、その上にどのような構造物があったのかも、実は、本当のところはわかっていません。
もしかしたら、出雲大社のような立派なお社(やしろ)があったのかもしれないし、東京スカイツリーのようなものが建っていたのかもしれない。
レプリカは、なんだか見張り台のような素朴な柱が建っているような姿になっていますけれど、実際にはもっとはるかに高度に洗練された構造物がそこにあったのかもしれない。
つまり、いま建てられている六本柱の巨柱は、あくまで想像上のレプリカであって、本当のところはどうであったのかは、誰も、当時の現場を見てきた人がいないのです。
ここに「歴史」と「事実」の違いがあります。
六本柱の跡が発見されたことは事実ですが、そこにどのような構造物が建てられていて、どのような人々の営みが行われていたのかは、ストーリー化されていない。
つまり、「歴史」になっていないのです。
六本柱の巨柱が「歴史」になるためには、それがどのように建てられ、どのように活用されていたのかが、様々な検証された事実をもとに、「歴史」として再構築されなければならないのです。
そしてその再構築されたものが、事実に基づく再現性を持ったとき、はじめてそれが歴史になります。
文献史料の場合も、たとえば織田信長という人物が、かつてこの世にいた、ということは、様々な史料に書かれています。
しかしだからといって、織田信長という人物が実在していたかどうかわかりません。
なぜなら、すくなくともいま現在生きている人のなかで、生きた信長と会ったことがある人はいないのだし、当時の写真もないのです。
ですから、文献に書かれていることと、実際に現存する信長との由緒を示す遺物遺構遺跡などを突合し、それによって信長という人物が存在したことを証明し、またその人生を再現していくわけです。
しかしそれでも、それが本当のことであるのかどうかまでは、なかなかわからないことです。
そもそも書かれたものというのは、その著者の主観がどうしても入るし、それが歴史としてストーリー化されたときには、イタリアの哲学者のエヴォラが言うように、「誰がいかなる歴史を語ろうと、その時代に必要とされていた事柄を反映したものに過ぎない」ものになるからです。
そうした「時代による修飾」をできるだけ拭い去って、過去に起きた事実をひとつひとつ確認し、その事実をつなぎ合わせて、ひとつのストーリーにしていく。
それが「歴史学」です。
明智光秀は、山崎の戦いで、近隣の農民に殺されたということになっています。
これを、「そうではない、光秀は生きていた」などと言い出すと、「それは誤った歴史認識だ。正しい歴史はこうだ」などと怒り出す人が、必ずいます。
このことは、光秀ではなく、大東亜戦争に関することなどで例えたなら、なおわかりやすいかもしれません。
けれど、本当のところはどうであったのかなど、タイムマシンでその場に行くことができない以上、実際にはわかりようがないのです。
だから「客観的証拠となる文献史料や遺物遺構などによれば、おそらくはこうであったのであろう」ということをできるだけ再現性を極大化するようにしてストーリー化する。
実は、歴史というのはそういうものです。
このことから言えることは、実は、歴史が云々ということよりも、物事を客観的事実に基づいてストーリー化することの重要性です。
そしてこうした過去の歴史を通じて得る訓練は、今度は未来に向けてのストーリー化に役立つ訓練になります。
現在進行系のバラバラな事実を拾い集めて、新しいこれからの人生のストーリーを考え、それを実行していく。
そうすることで、ただのバラバラな事実の羅列の人生でなく、意図を持った意思的な人生が生まれます。
自分の人生が、日々を送るバラバラの切片だけというのでは、つまらないのです。
そのバラバラの切片の日々を、どのようなストーリーにしていくかが大事です。
昔の人は、それを人生街道、人生の道、などという言葉で表していました。
道、というのは、ストーリーのことです。
そのストーリーを、よりくっきりと、鮮やかなものにするために、さまざまな教えを受けたり、学んだりする。
それが日々の勉強です。
少年時代は、もっぱら学ぶだけです。けれど、社会人、つまり大人は、学ぶだけでは済みません。
自分で自分の人生のストーリーを描き、また社会を支えるストーリーを責任をもって築いていかなければならないのが大人です。
それができていないなら、年齢が50代であろうが、80代であろうが、保護者の下にある子供と同じといえるかもしれない。
逆に、たとえ10代であろうと、自分で自分の過去、現在、未来にわたる人生ストーリーを明確化しているなら、それはもう立派な大人です。
昔の日本人が、現代日本人よりもはるかにしっかりしていたのは、人生街道、人生ストーリーを、各自が明確に持つことを、実践していたか否かの違いであったのかもしれませんね。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行でした。
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