生活の拠点となっていた島々が沈んでしまったことによって、人々は海洋生活から、陸上の稲作を中心とした生活へと変化しようとし、それを実現したのが、もしかすると日本建国の真意であったのかもしれません。 たいせつなことは、古い日本を捨てることにあるのではなく、古いものの上に、これからの未来を築いていくこと。 そういうことを大切にできる日本を、いま、私達はあらためて築いていかなければならないのではないでしょうか。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
日本書紀によると、天孫降臨は九州にニニギノミコト、畿内にニギハヤヒが、ひとしく天照大御神の孫として降臨し、ニギハヤヒの末裔(まつえい)であるナガスネヒコが、自身の保身を第一と考え、民衆を顧(かえり)みなかったことから、神武天皇がこれを誅殺し、その一族を物部の一族として厚遇したとあります。
このことはつまり、日本人の原点を構築した一族が、かつては畿内方面と九州方面の二系統に別れていたことを意味しているのかもしれません。
といいますのは、数千年、あるいは万年の単位で歴史を観るときには、地形も、いまとはまったく違っていたことを考え合わせなければならないと考えられるからです。
たとえば2万年前の最終氷河期、このときは陸上にたくさんの氷ができて、海面の高さがいまよりも140メートルも低かったといわれています。
そうするとグーグルマップの航空写真モードで見た時の、海洋の薄い水色の部分は、ことごとく陸上に露出することになります。
この結果、黄海や東シナ海は、東東亜平野と呼ばれる、広大な平野部となり、またいまでは島が点在しているだけの琉球諸島は、ほぼ陸続きの琉球列島となり、東東亜平野との間には広大な内海が広がっていたことがわかります。
仮にこれを
「琉球ライン」と呼んでみます。
また、畿内から伊豆、伊豆諸島を経て、パラオ、グアムに至る列島線も、いまよりもずっと島の数が多くて、島々がひとつのラインを形成していたことが伺えます。
仮にこれを
「グアム島ライン」と呼んでみます。
この「琉球ライン」と「グアム島ライン」は、西パプアからフィリピンを経て島伝いに台湾、そして琉球諸島へとつながる大きな輪を形成しています。
すると、もしかすると、2万年の昔、フィリピン海を取り巻く大きな輪を持つ、ひとつの大きな海洋文明があったかもしれないということが想像できます。
「グアム島ライン」に住む人々の暮らしは、まるで映画『モアナと伝説の海』に登場する「ご先祖さま」さながらに、船を使って島から島へと渡り歩く、そんな暮らしだったかもしれません。
男たちは漁業をし、女達は島で男たちの帰りを待ち、また子を育てる。
そんな男たちにとって、島にいる女性たちは、島にいる「神」であり、また船をつける「浅瀬に居る比売(ひめ)」たちです。
だからいつしか、妻のことを「かみさん」と呼ぶ習慣が生まれ、また航海の安全と豊かな自然の恵みを叶える瀬織津比売(せおりつひめ)が、たいせつな神様とされるようになったのかもしれません。
一方、琉球ラインを見ると、いまの沖縄本島や石垣島などは、海上に点在する島ですが、大昔は陸続きで、いまある島は、山岳地帯だったことが伺えます。
海面が上昇し、山岳地帯の山のてっぺんだけが、いまでも海上に露出して島になっているわけです。
そんないまある島と島の間には、もしかすると広大平野がひろがっていたのかもしれません。
その平野は、たくさんのたべもの、特に稲の生育がなさせる「たからのハラ」と呼ばれていたのかもしれない。
その「たからのハラ」には、辺り一帯のひとびとの長となる偉大な人がいて、大きな屋敷を持っていた。
その屋敷は、貝殻のパールで装飾されていたから、太陽の光を浴びると、まるでそこに太陽があるかのように光り輝いた。
人々は、そんな屋敷と、その主を、「アマの太陽が照らすカミ」と呼んだ・・・・・のかもしれません。
念の為繰り返し申し上げますが、あくまで、想像ですよ?(笑)
ところが1万5千年ほど前から6千年前にかけて、地球全体の気温が上昇していきます。
それまで島だったり、大きな平野だったりしたところが、次第に海に沈んでいく。
人は陸(おか)がなければ生活できませんから、島が沈むようになれば、まだ海上にあって生活できる大きな島へと移動しなければなりません。
こうして、「タカラのハラ」の「アマの太陽が照らすカミ」の孫が、ハラにある大切な稲穂を預かって、新天地としての九州に上陸する。
一方、「グアム島ライン」の人たちもまた島が沈み、本州の畿内にたどり着く。
一方、琉球諸島のヒル湖あたりにいた人々は、九州の宮崎あたりにたどり着いて、そこで生活をはじめます。
ところがその人達は、もともと小さな列島暮らしで、漁労が生活の主体ですから、稲作の習慣を持ちません。
稲作をしようにも、平野部そのものがなかったからです。
海は常に豊かな恵みを与えてくれましたら、そもそも稲作の必要もなかった。
ところが、こうして、「漁労+稲作」と、「漁労のみ」という、別々の生活習慣を持つ2つの異なる系統の人達が、日本列島で生活するようになると、衝突が起きます。
それは、民族間のいわゆる「文明の衝突」というほど大げさなものではなかったのだけれど、やはりどちらかが、その後の日本の形成を担っていかなければならない。
こうして、神武天皇による東征が行われ、稲作組が日本の支配層となっていった・・・・ということなのかもしれない(笑)
そしてこの二系統は、その後も源平合戦、あるいは関ヶ原となり、いまでも関東文化と関西文化といった違いとして、存続している・・・・のかもしれない、というわけです。
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念のため申し添えますが、万年の単位で人々を見るときには、その全員が遠い親戚です。
別な民族という視点が存在しなくなる。
ここは注意が必要です。
つまりグアムライン、琉球ラインとも、もとは同じDNAを共有する人たちと考えられます。
だいぶ想像力を膨らませたことを書いてきましたが、実社会においては、学生時代によくやった、
「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」と丸暗記したこと、つまり、年号や事件名の丸暗記自体が、社会生活の役に立つということは、まずありません。
けれど、自分が源頼朝になったつもりで、将軍の本拠を京都にするのか鎌倉にするのかを考え、決め、その決めたことで周りを説得し、理解を得る。
こうした訓練は、社会人となってから、ものすごく役に立つ訓練であるといえます。
歴史は、過去にあった事実を、わかりやすくストーリー化する学問です。
つまり、過去の事実を、事実に基づいて再構築し、構築したストーリーによる過去の再現性を極限まで高めていこうとするのが、歴史学の本来の姿です。
歴史学は、ただの年号学や、遺物遺構を調べるだけの考古学とはまったく異なる学問なのです。
ですから学校では、「信長は本能寺に倒れて、その後明智光秀の三日天下があり、秀吉が政権を取った」という、一般的歴史学的に承認されたストーリーが紹介されるけれど、これは歴史学的には、ストーリーのなかのひとつにすぎなくて、もしかしたら信長は生きていた、光秀も生きていた・・・という事実に則したストーリが描けるかもしれない。
時折、考古学上の「新発見」によって、歴史が塗り替えられる、というのは、そういうことをいいます。
歴史を通じて、実はかつての子どもたちは、
「仮説を自分なりに組み立て、
それを説得力のある形で
人に伝える」
ということを学んでいました。
そこに正しい答えなんてありません。
間違った答えもありません。
あるのはただ、思考の浅い深いと、説得性だけです。
人を説得するということは、理論的に正しければそれで説得できるというものではありません。
日頃の行いや、その人の人間性や過去、あるいは声の大きさといった、理論以外の要素が8割を占めるとさえいわれています。
そういう意味では、理論は説得のための要素の一部でしかありません。
けれど、その理論を、自分なりに打ち立てること、それを人に伝える訓練を積むことは、実社会におけるあらゆる場において、役に立つことです。
そしてさらに、「考える」ということは、とても楽しいことです。
普通に考えて、神武天皇以前に国の柱となる人がいなかった、というのは、考えにくいことです。
一説によれば、神武天皇以前に我が国の天皇が「うわかたさま」と呼ばれた時期があり、それがおよそ6千年続いたという話もあります。(飛騨の高山の稗田家の伝承)。
にもかかわらず、ではなぜ7世紀の人たちが、あえて神武天皇を初代天皇、そして「建国」の主(ぬし)と考え、そのように定義したのか。
そこにはもしかすると、2万年続いた東洋の海洋民族としての我が国歴史に終止符をうち、あらためて稲作を中心とした新たな国家像を打ち立てようとしたという、大きな意図があったのかもしれない。
だから、ニギハヤヒ系統(グアムライン系統)の人たちの思いや信仰は、古事記や日本書紀の中にはまったく書かれることはなかったけれど、大祓詞のなかには、しっかりと瀬織津比売のお名前が、何万年経っても決して忘れられることがないように、ちゃんと記されているのかもしれないわけです。
そしてこうした手がかりを残すことで、後世の人達が、真実を知ろうと思えば、いつでも知ることができるようにしておく。
私達の先祖は、ほんとうに知的で教養の高い人達であったのだと思います。
昨今は、神武天皇不在説だとか、我が国の歴史を「あったか、なかったか」、「何が正しいのか」といった議論がさかんです。
そしてそれらはまるで、どちらの答えが、テストの正解に近いかといった思考のもとにあるように思います。
しかし、何が正しくて、何が間違っているのか、神武天皇が存在していたのか、存在していなかったのか、いま、本人に会って確かめてくるわけにはいきません。
できることは、書証や遺物、遺構などによって、そのご存在やご事績を確認することだけです。
そしてそれらはすべて断片的な史料であり、もしかすると後世に造られたものなのかもしれない。
ですから、事実は、実際のところわからない。
そういう意味では、いまこれをお読みの皆様の父型の祖父は、実は違う人物かもしれない。
おじいちゃんと思っている人物は、実はアカの他人で、本当のじいちゃんは、別な人かもしれない。
ただ、はっきりしていることは、その人物(じいちゃん)が本物であるにせよ、ないにせよ、何らかの形で祖父がいたから、いま自分がこの世に存在しているということだけです。
そしてすくなくとも、そのじいちゃんは、幼い頃の自分を、とっても大事に思ってくれていたし、可愛がってくれてもいた。
そしていま、自分が、そのじいちゃんとなる年齢になって、孫の可愛さは、もう何者にも代えがたいものであることを、ひしと感じます。
そういう意味で、大切なことは、そのじいちゃんが、本物であったのか、にせものであったのかではなく、記憶の中のそのじいちゃんが、とっても自分をかわいがってくれたということ。
そして自分もまた、子や孫を、可愛いと思うこと。
そういう愛の思いの連鎖の中に、時代を超えて、いまを生きている私達と、過去にすでにお亡くなりになったすべての命がつながっているということ。
そういうことを感じること、あるいは感じ取ることができる自分に成長していくことこそが、いたとか、いなかったといった議論や、そのどちらが正しいかといった議論よりも、はるかに多くの学びを私達に与えてくれる、ということです。
2700年前の、ニニギ系の琉球ラインの人たちと、グアム島ラインのニギハヤヒ系の人たち。
島が沈んでしまったことによって、稲作を中心とした、まったく新たな日本が形成されようとした時代。
そしてこのときに、日本の新たな歴史が始まったのかもしれません。
そしてこの両者は、後に源平合戦においても、再び相まみえることになる。
私達の祖先は、そうして幾度もの試練を乗り越えて、そうしていまの日本を形成しています。
たいせつなことは、古い日本を捨てることにあるのではなく、これからの未来を築くこと。
その責任が、いまを生きている私達にはあります。
そしてそういうことを大切にできる日本を、いま、私達はあらためて築いていかなければならないといえるのだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行でした。
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コメント
物語
いつかファンタジー小説が得意なお弟子さんと、ねず先生の親日仮説を、集めて物語にまで結晶化して頂きたいものです。
これは、おそらく手塚治虫先生の作品のように、親日仮説物語は、後世まで親近感のある、取っ付き易い親日日本人の精神性の覚醒と維持に役立つ物となるでしょう。
よろしくお願い申し上げます。
2021/03/06 URL 編集
つぐお
しかし、自分にも過去の人々と繋がったと感じた事があります。
それは初めて我が子をこの手の中に受け止めた時です。
生まれて間もない、か細い声を出し震えて泣く姿。しかもあまりにも軽くて今にも壊れてしまいそうな華奢な体なのに紛れもなくそこに力強い生命が存在していました。そう感じた時、湧き上がる溢れんばかりの愛おしさに満たされました。
たぶんカタルシスと言える瞬間なのでしょう。
自然に涙が溢れました。
この愛と表現すべきだと思う感情に満たされた時に僕は悠久の彼方・古より続く人々が同じ感情をその愛を感じて来たんだと気付きました。
そして自分自身も大きな愛に包まれている事に気づいたのでした。
ねずさんは祖先の人々はいずれカミとなるとか、、、 と言われてたような。
ならば我々もいつかはカミとなってしまいますね。
自らの今までの行いは決して人に誇れるものでは有りませんが、私の中に育った愛は我が子を通り越してその先に向いているように感じます。
2021/03/05 URL 編集
よっちゃん
2021/03/05 URL 編集