舩坂弘陸軍軍曹物語



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まさに映画のジョン・ランボー顔負けの戦いをした舩坂弘元陸軍軍曹。
そして戦後は一転して亡くなられた仲間たちのために生涯をささげられた舩坂弘氏。
かつての日本には、こういう男がいたのです。

「不死身の分隊長」こと舩坂弘元陸軍軍曹とクレンショー氏
20210303 舩坂弘
画像出所=https://www.news-postseven.com/archives/20190813_1427181.html?DETAIL
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小名木善行です。

シルベスター・スタローンの映画「ランボー・シリーズ」は、1982年に第一作が公開されると、大ヒットシリーズとなり、なんと昨年には5作目になる『ランボー ラスト・ブラッド』が公開されました。
たったひとりでどこまでも戦う主役のジョン・ランボーは、リアルなアメリカの英雄として描かれた映画ですが、実は日本に、ランボー顔負けの大活躍をした日本兵がいます。
舩坂弘(ふなさか ひろし)さんと言って、大正9年生まれで、先の大戦で帝国陸軍軍曹だった人です。

昭和19年3月、23歳で除隊を目前にした舩坂氏は、宇都宮歩兵第59連隊軍曹として、パラオ・ペリュリュー島南西のアンガウル島に着任しました。
アンガウル島は、東西2.5km、南北3kmほどの小さな島です。
米軍はここを占領し、飛行場を作ろうとして、同年9月11日に島を襲いました。

開戦から5日間、まず米軍は空母ワスプから発進した爆撃機で島の絨毯(じゅうたん)爆撃を行いました。
次いで戦艦テネシーから、島の形が変わるくらいの激しい艦砲射撃が行われました。
9月17日、米陸軍第81歩兵師団2万1千名が島の北東と南西の二面から海岸に上陸しました。

このとき、島を守っていた日本軍守備隊は、わずか1400名の中隊です。
小さな平たい島ですから、内陸部に誘い込んでの戦いはできません。
ですから日本側は、上陸しようとする米軍を水際で迎え撃ちました。
このとき舩坂軍曹は、擲弾筒および臼砲で米兵を200人以上殺傷しました。
けれど兵力差は15倍です。

水際の戦いで中隊が壊滅するなか、舩坂軍曹は、筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続けました。
そうすることで米軍の足を止め、退却する中隊の隊員たちを守ろうとしたのです。
米軍は続々と上陸してきました。
日本側は退却し、大隊の残存戦力を島の北西の洞窟に集結させました。
ここから先はゲリラ戦です。

戦い3日目。
舩坂軍曹はひん死の重傷を負っていました。
米軍の砲撃で左大腿部を割かれたのです。
場所は敵陣のど真ん中でした。
味方が助けようにも、助けに来ることができる場所ではありません。
押しつ戻しつの戦いの中、米軍の銃火の中に数時間放置された舩坂軍曹のもとに、ようやく軍医がやって来ました。



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傷をみた軍医は、あまりの傷口の深さと大きさに、もはやこれまでと、舩坂軍曹に自決用の手榴弾を手渡して去って行きました。
これは、「おまえはもう死んでいる」と宣告されたようなものです。
「負けるもんかっ!」
舩坂軍曹は近くにあった日章旗で足を包帯代わりに縛ると、夜通し這って洞窟の陣地に帰り着きました。
着いた時には、死体が這ってきたような姿でした。
けれども舩坂軍曹は、並みの体力気力ではありません。
翌日には、左足を引き摺りながらでも歩けるところまで回復してしまいました。

舩坂軍曹はその後も何度となく瀕死の重傷を負いました。
けれど、動くこともままならないような傷を負っても、不思議と翌日には回復しました。
ご本人は「生まれつき傷が治りやすい体質なのだ」と笑っておいでだったそうですが、ほとんどサイボーグなみの体力です。

舩坂軍曹は、栃木県西方町の農家の三男坊で、子供のころからきかん気でガキ大将だったそうです。
長じては剣道と銃剣道の有段者。
また中隊随一の名射手でもありました。
気迫と集中力の素晴らしい人でした。

舩坂軍曹は、絶望的な戦況にあってもなお、自身の重傷をものともせず戦い続けました。
ある日は、拳銃の3連射で3人の米兵を倒しました。

ある日は、米兵から奪い取ったサブマシンガンで3人の米兵を一度に倒し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、サブマシンガンを手にしていたもう1人に、その銃剣を投げて顎部に命中させ、突き殺しました。
まさに鬼神の如き奮戦です。

舩坂軍曹を見た部隊員は、舩坂を「不死身の分隊長」、「鬼の分隊長」と形容したといいます。

しかし、水も食料もない状況での戦いです。
洞窟の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相でした。
舩坂軍曹自身も、敵の銃弾が腹部を貫通する重傷を負い、もはや這うことしか出来なくなってしまいました。

さらに腹部の傷が化膿し、ハエがたかって蛆(ウジ)が湧きました。
舩坂軍曹は、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意しました。

このときの舩坂の体調は、死の瀬戸際です。立って歩けない状態になっていることはもとより、極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなくなっていました。
それでも彼は遺書を書きました。

「若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。
 靖国に行ってご両親の大恩に報います。
 国家危急存亡のときに、
 皇天皇土に敵を近ずけまいと奮戦したのですが、
 すでに満身創痍となりました。
 天命を待たず、
 敵を目前にして戦死するのはくやしいけれど、
 すでに数百の敵を倒したので、
 自分は満足しています。

 七たび生まれ変わって国難を救わんと念願し、
 いま従容として自決します。

 思い残すことはありません。

 陸軍軍曹 舩坂弘」

【原文】若年ニテ死スハ、考ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、御両親ノ大恩ニ報ユ、今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇土ニ敵ヲ近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ、敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ

自決を決意した舩坂軍曹は、手にした手榴弾を引き抜きました。
自爆しようとしたのです。
ところが手榴弾が爆発しない。
思いに反して手榴弾が不発だったのです。

なぜ死ねないのか。
なぜ死なせてもらえないのか。
舩坂軍曹はこのとき深い絶望感を味わったといいます。

洞窟には、絶えず米軍の爆撃・砲弾の音と振動がこだましていした。
周囲は、傷の痛みに呻く声が満ちていました。
数時間、茫然自失の状態に陥った舩坂軍曹は、絶望から気を取りなおすと、
「どうせ死ぬならその前に、
 せめて敵将に一矢報いよう」と、
米軍司令部への単身での斬り込みを決意しました。

そして拳銃弾から中の火薬を取り出すと、その火薬を腹部の患部に流し込んで火をつけました。
蛆がわいている貫通創です。
腹部の前からうしろ(背中)に向けて穴が空いている。
その両側から炎が噴き出しました。
このとき激痛のあまり意識を失い、半日ほど死線を彷徨したそうです。

意識を取り戻した舩坂軍曹は、まだ傷口が痛むなか、体に手榴弾6発をくくりつけ、拳銃1丁を持って、洞窟を這い出ました。
当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、高射機関砲大隊など、総勢1万人が繰り出していました。
そのまっただ中を、舩坂軍曹は数夜這い続けて、なんと米軍前哨陣地を突破し、指揮所周辺さえも突破してしまいました。
そして4日目、米軍指揮所テントにあと20メートルの地点にまで到達しました。

舩坂軍曹は、米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入しようと決めました。
しばらくすると、テントにジープが続々と乗り付けてきました。
指揮官たちが集まってきたのです。

舩坂軍曹は、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握りしめると、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し立ち上がりました。
このとき、突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声もでなかったといいます。
幽鬼のようにしか見えなかったのです。

それもそのはず。
このときの舩坂軍曹は、すでに左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、右肩捻挫、右足首脱臼、左腹部盲貫銃創など大小合わせて24箇所の重傷を負い、更に連日の戦闘による火傷、全身20箇所に砲弾の破片が食い込んでいました。

全身血まみれ、服はボロボロ。
人間に見えるというほうが、むしろ不思議なくらいです。

米軍の動揺を尻目に、舩坂は司令部目掛け渾身の力で20メートルを突進しました。
あっというまに、指揮所テントにまで到達しました。
そして手榴弾の信管を叩こうとしました。
その瞬間、船坂軍曹は、首を撃たれて昏倒してしまいました。

倒れた舩坂軍曹のまわりに、米兵たちが集まりました。
そして、あきらかな戦死と判断しました。
全身血まみれで首を撃たれているのです。
生きていると思うほうがどうかしている。
駆けつけた米軍軍医も、死亡と判断しました。

このとき軍医は、手榴弾と拳銃を握りしめたまま離さない舩坂軍曹の指を一本一本解きながら、米兵の観衆に向かって、
「これがハラキリだ。
 日本のサムライだけができる
 勇敢な死に方だ」
と語ったそうです。

こうして船坂軍曹は、死体置き場に3日間転がされました。
ところがそこで息を吹き返すのです。
死体の山からむっくりと起き上った日本兵の姿を見た米兵は、あまりの恐怖に血が凍りました。
そして舩坂軍曹に銃口を向けました。

その銃口に、舩坂軍曹は、正面からゆっくりと向かっていきました。
そして銃口に自分の身体を押し付けました。
そして小声で、
「撃て! 殺せ! 早く殺せ!」
とうなり声をあげました。

不死身の日本兵の話は、アンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化しました。
米軍は、舩坂の無謀さに恐れをなしながらも、その勇気を称え、舩坂に「勇敢なる兵士」の名を贈りました。

この戦いに参加したマサチューセッツ大学のロバート・E・テイラー教授は、戦後舩坂氏宛ての手紙の中で、
「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。
 あなたのような人がいるということは、
 日本人全体の誇りとして残ることです」
と、讃辞の言葉を送っています。

さて、一命を取りとめた舩坂は、米軍の治療で数日で歩けるまでに回復し、となりのペリリュー島に送られました。
しかし闘志の衰えない舩坂軍曹は、そこに居並ぶ米軍の飛行機を見て、
「よし!いつかはあの飛行機をすべて破壊してやる」
と心に誓いました。

ペリリュー島に送られた2日目、重傷者であり監視が甘かったのを幸いに、舩坂軍曹は夜陰にまぎれてこっそり収容施設を抜け出しました。
それは、ちょうどペリリュー島の日本軍最後の拠点である大山が占領される前の日の夜のことでした。

舩坂軍曹は、千メートルを匍匐(ほふく)前進しました。
途中にあった日本兵の遺体の弾丸入れから小銃弾を67発集め、火薬を抜きました。
その火薬を導火線にすると、彼は、米軍の火薬庫に火をつけたのです。

火薬庫は大爆発を起こし、爆発は次々に別の棟の爆発を誘発しました。
こうしてペリリュー島の米軍火薬庫の弾薬はすべて燃え尽きてしまいました。
舩坂軍曹は、火薬庫の爆発を見届けると、こっそりと収容所に戻りました。

収容3日目の夜、舩坂軍曹は、こんどは歩哨を殺して銃を奪おうと、夜陰にまぎれて歩哨の背後に忍び寄りました。
あと5メートルというところで、背後から「ヘーイッ!」といきなりタックルをくらいました。
舩坂軍曹は必死に抵抗しましたが、こちらは重症のけが人、相手は健常な米兵の大男です。
舩坂軍曹はぐるぐる巻きにされて、収容所の柱にくくりつけられました。

米兵の大男は、顔を真っ赤にして
「死に損ないの気狂いめ!」
と英語で罵って舩坂軍曹に銃を向けまました。
「銃殺される。これで楽になれる。」
そう思って舩坂軍曹は、目を閉じました。

ところが目を閉じた舩坂軍曹の耳に聞こえてきたのは銃声ではなく、たどたどしい日本語でした。
「神様ニマカセナサイ。
 自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。
 アナタハ神ノ子デス。
 アナタノ生キルコト、死ヌコト、
 神様ノ手ニ委ネラレテイマス」
日本語を話すその大男は、舩坂軍曹をそのままにしてテントを出て行きました。

翌日、縄を解かれて放置された舩坂軍曹は、懲りずに飛行場炎上計画を練り始めました。
そして炊事係の朝鮮人のおっさんを煙草で釣って、マッチを手に入れました。
マッチがたまったある日、以前自分を捕まえた大男がジープに乗ってどこかへ出かけていくのが見えました。
歩哨にそれとなく聞くと、明日まで帰らないという。

今夜こそがチャンス。
舩坂軍曹はその夜、秘かにテントを出ると、匍匐(ほふく)前進で有刺鉄線を越えました。

「よし、あとすこし!」そう思って頭を上げたとき、そこに例の大男が立っていました。
舩坂軍曹は拳銃を突きつけられ、テントに戻されてしまいました。

「殺せ」という舩坂軍曹に、大男は言いました。
「アナタガ歩哨ニ
 私ノ日程ヲ、タズネタコト、
 私ニ連絡キマシタ。
 アナタガ何カ計画スルトシタラ
 今夜ト思イ、私ハ仕事ノ途中ダケレド、
 切リ上ゲテ帰ッテキマシタ」
そして以前同じ箇所から脱走しようとした日本兵が射殺されたことを話し、こう続けました。
「アナタハ私ガ帰ッテコナケレバ、
 即座ニ射殺サレタコトデショウ。
 私ハソレガ心配デ大急ギデ帰ッテキタノデス。
 無事デヨカッタデス」

さらに大男は、舩坂軍曹の無謀な行動を戒め、
「生きる希望を捨てるな」
「死に急ぐな」と説きました。そして
「アナタニハ私ノ言ウコトガワカラナイカ」と問いました。
舩坂軍曹は「わからない」と意地を張りました。
しかしこのとき舩坂軍曹の心には、その大男の人間味あふれるあたたかさが心にしみていました。

舩坂軍曹ら日本軍の捕虜はハワイへ送られました。
一同を乗せた上陸用舟艇がペリリュー島を離れようとしたとき、いつもの大男がやってきました。そして、
「軍曹、死ンデハイケナイ。
 生キテ日本ニ帰リナサイ。
 私ハ軍曹ガ無事ニ日本ニ帰レルヨウ
 神ニ祈リマス」
そう言って彼は一枚の紙片を船坂軍曹に渡しました。
それには彼の名前が記されていました。
「F.V.CRENSHAW」

舩坂軍曹はその名詞をポケットに入れたのだけれど、次の収容所でMPに取り上げられてしまいました。
舩坂軍曹は、ペリリュー島捕虜収容所から、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々とし、昭和21年に帰国しました。

帰国された舩坂軍曹は、栃木の実家に帰りました。
実家では、舩坂は戦死したものと思われていました。
アンガウル島守備隊が玉砕したのは昭和19年10月19日のことです。
昭和20年12月には、舩坂軍曹の実家に戦死公報が届けられていたのです。

ボロボロの軍衣で帰還した実家で、御先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、仏壇に真新しい位牌があって、そこに「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれていました。
「弘って字があるけど、これ俺のこと?」

舩坂軍曹が故郷に帰って一番初めに行ったことは「舩坂弘之墓」と書かれた墓標を抜くことでした。
村の人々も、帰ってきた舩坂の傷だらけでボロボロの姿を見て、これは幽霊に違いないと噂しました。
それどころかしばらくのあいだは、「もののけ」の疑いで見られていたといいます。

戦後、舩坂元軍曹は、焼け野原となった東京・渋谷駅前のハチ公前の養父の地所に、わずか一坪の書店を開きました。
そしてこの書店が、日本で初めて建物を全てを書店にした「本のデパート・大盛堂書店」に発展しました。

彼は書店経営の傍ら、
『英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記』
『血風 二百三高地』
『ペリリュー島 玉砕戦」
『サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦』
『硫黄島‐ああ!栗林兵団』
『殉国の炎』
『聖書と刀‐太平洋の友情』
『関ノ孫六・三島由紀夫その死の秘密』
などの本を著わしました。

また剣道を通じて親交があった三島由紀夫には、自慢の愛刀、関の孫六を贈っています。
関の孫六は、のちに三島割腹自殺の際の介錯に用いられました。

船坂元陸軍軍曹は、ペリュリューで世話になった大男、CRENSHAW伍長に何とか連絡を取りたいと、米軍関係者になんと110通もの手紙を出しました。
こうしてようやく連絡がとれたクレンショー伍長とは、生涯の友になりました。

舩坂元陸軍軍曹は、他にもアンガウル島に鎮魂のための慰霊碑を建立し、以後、戦記を書いてはその印税を投じて、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立しています。
書店経営の忙しさの中で、アンガウル島での遺骨収骨と慰霊の旅を毎年欠かさず行われてもいます。
さらに他遺族を募っての慰霊団の引率、パラオ諸島原住民に対する援助、パラオと日本間の交流開発などを精力的に行ないました。

舩坂元陸軍軍曹が築いたアンガウルの慰霊碑慰文には、次のように記されています。
「尊い平和の礎のため、
 勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、
 永久に其の功績を伝承し、
 感謝と敬仰の誠を此処に捧げます。」

まさに映画のジョン・ランボー顔負けの戦いをした舩坂弘元陸軍軍曹。
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かつての日本には、こういう男がいたのです。


※この記事は2009年11月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行でした。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
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『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
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