平和への祈りと式子内親王



◆◆ニュース◆◆
新刊『日本建国史』発売中。
https://amzn.to/2LuOGgX

Amazonベストセラー1位(古代日本史)


式子内親王の愛と調和を求めた式子内親王の御志(おんこおころざし)は、いまなお日本を覆っています。そしてその御心(みこころ)は、日本人の血肉となって世界から植民地支配を一掃し、さらに戦争のない愛と調和に満ちた世界築こうとしています。ご生前に、「魂の緒よ、絶えなば絶えね」と詠まれた式子内親王御心は、魂魄となってこの日本にとどまり、いま世界を変えようとしているのです。

20210310 式子内親王
画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



人気ブログランキング
応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。

内親王(ないしんのう)というのは、ご皇族の女性のことをいいます。
けれどいまの日本人なら、「プリンセス(Princess)のことです」と申し上げたほうがわかりやすいかもしれません。
12世紀に、式子内親王(しきしないしんのう・のりこないしんのう)という方がおいでになりました。
御心が清らかで、とてもお美しい方であったと伝えられています。

10歳の頃から、10年間、賀茂神社に賀茂斎院(かものさいいん)として奉職されました。
賀茂斎院というのは、お伊勢様の斎宮(いわいのみや)にならってつくられた、賀茂神社に奉職する皇女の制度で、斎院は京都の紫野に置かれました。
いまその場所は、櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)となっています。

賀茂斎院は、かつては東西150メートル四方の敷地に、およそ500名の宮人や女官が仕え、たびたび歌会なども催される、文化の香り高い斎(いつき)のお屋敷(院)であったのです。
ここで青春時代を奉職された式子内親王は、その後叔母の八条院のもとに身を寄せますが、40歳の頃、出家されています。
そして50歳ごろから体をこわされ、源平の争いなど、500年続いた平和な世が崩れていく時代を憂い、病を押して百首歌を読み、そのなかの一首を、藤原定家に見せ、その平和への思いを託されています。
そしてその翌年、53歳で薨去されました。

藤原定家は、式子内親王よりも14歳年下です。
歌人を父に持つ藤原定家にしてみれば、天才的女流歌人でもあった式子内親王は、幼い頃からのあこがれの、そして雲の上の女性であったことでしょう。
そんな式子内親王から、歌を託されたときの藤原定家は、当時38歳。
つまり歌を託された時の藤原定家は、政治家として、まさにあぶらののりきった大物政治家であった時代です。
そしてそんな政治家でる藤原定家は、同時に当代一の歌人として、歌から人の心を察する達人でもありました。

幼少時からのあこがれの雲の上の女性から歌を託される。
そしてその歌を託された定家は、政治の頂点に立つ者であり、歌の意味を察する達人。
達人だからこそ託された、その歌の真意とは、どのようなものであったのでしょうか。



 最新刊
 
それが、次の歌です。
百人一首の89番に掲載されています。

 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
 忍ぶることの弱りもぞする


玉の緒というのは、昔は、肉体と魂(玉)は緒でつながっていると考えられていましたから、「玉の緒が絶える」というのは、「肉体が死ぬ」ことを意味します。
すでに重い病気となり、死を覚悟された式子内親王は、私の生命なんかどうなっても構わない。もう耐え忍ぶ気持ちさえも弱くなってしまいましたわ、と詠んでいるわけです。

だから不倫だ、恋愛だと騒ぐお馬鹿な学者もいるようですが、それでは読みが浅い。
お体の具合を悪くされながらも、それでもなお世の中の平穏を願い続けている。
にもかかわらず世の中では、毎日人と人とが殺しあいをしています。
なんとかして、平和な日々に戻ってほしいのです。
けれど、
「その気持も、もう弱ってしまいそうです。
 私は近く死んでしまうことでしょう」と詠まれています。

藤原定家は、政治家で高級官僚であり、当代一の歌人です。
つまり察することの達人です。
その藤原定家に式子内親王はこの歌を託しています。
つまりそれは、式子内親王は、政治家でもある藤原定家に何かを託した、ということです。

託したこととは、平和を取り戻すこと以外にはあり得ません。
そのことを、武人ではない文官であり、かつ歌人でもある定家に託したということは、殺し合いを続ける鎌倉武士達に、殺さない文化、殺し合いになる前に、互いに察して事態を解決する文化を、是非とも定着させてほしいというメッセージです。

すくなくとも藤原定家は、式子内親王の歌を、そのようなメッセージとして受け止めたであろうことは、論を待ちません。
そしてこのあと藤原定家は、鎌倉の三代将軍源実朝を、自分の和歌の弟子にしています。
定家は和歌を通じて、五百年続いた天皇と大御宝の平和で安定した世が、どのように生成され、形成し、発展し、その結果どのような文化が根付いたのか、そこにある本質とは何かを、鎌倉将軍である実朝に教えるのです。
源実朝は、とても頭の良い、素直な青年でした。
ですから実朝は、ものすごい吸収力を発揮して、定家の教えを吸収しました。

鎌倉では、「こんどの三代将軍は、貴族ボケして歌ばかり詠んでいる腰抜けだ」と悪口を言うものもいました。
けれど、そのように批判したり対立的に物事を考えること自体が、敵対を生み、殺し合いを呼び、世の中を乱すのです。

藤原定家にしても、源実朝にしても、いまさら貴族の世が戻ってくるとは思っていません。
武力をもった武士団という強力な政治勢力がすでに誕生しているのです。
問題は、その武士団という武闘勢力の力を、いかに平和的な勢力に変えていくか。

武を抑えるために武を用いたら、争いは大きくなります。
その典型が源平合戦です。

武を抑えるためには、武を抑える思想を定着させていかなければなりません。
十七条憲法には、第十六条に「古之良典(古の良典を用いよ)」とあります。
混迷する時代を乗り切るためには、古典にその知恵を求める。
歴史は繰り返すものだからです。

定家は、和歌を通じて、実朝に察する文化を、そして十七条憲法にある精神を伝えて行きました。
実朝はそれによく答えてくれました。
これでようやく、世の平穏を取り戻すことができる。
そう定家が確信を持った矢先、その源実朝が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮で刺殺されてしまうのです。
1219年、定家57歳のときのことです。

57歳で最後の頼みの綱が、切れてしまったのです。
後鳥羽院は「もはや鎌倉政権との武力衝突やむ無し」として、さかんに過激発言を繰り返しています。
このままでは、後鳥羽院の要請に応じて地方の武士団が挙兵し、世は再び戦乱の世となってしまいます。
「それでも戦うべきだ」と後鳥羽院はおっしゃいます。

けれど定家は、「それは違う。断じて違う。短慮を起こさず、どこまでも平和の道を築いていくべきだ」と主張します。
後鳥羽院はそんな定家に激怒しました。
「お前の顔など見たくない。二度とオレの前に顔を出すな。歌会にも出入り禁止じゃ!」

この時点で藤原定家は、政界を引退し歌人として、歌の指導などをして生きています。
それが歌会にさえ出入り禁止という。
つまり、後鳥羽院のこのお言葉は、定家に死ねと言っているようなものです。

定家は謹慎処分となりました。
都を事実上追い出され、小倉山に蟄居(ちっきょ)です。

翌年、後鳥羽院は鎌倉幕府倒幕のため挙兵をします(承久の乱)。
けれどその乱は、事前に発覚し、後鳥羽院は隠岐に流されてしまう。

わずか1年前、後鳥羽院と激しく対立し、中央政界を追われた藤原定家は、今度は中央政界と鎌倉をつなぐ政界の実力者として高い官位を得て、政治的影響力を増したのです。

けれど、だからといって調子に乗って政治の世界で権力を揮うことを、定家は望みませんでした。
むしろ、飛鳥、奈良、平安と続いた大和文化を、源氏物語、土佐日記など、様々な作品の書写や評釈を通じて、日本の文化そのものを拡散し、日本の持つ文化性そのものを時代が取り戻せるよう、必死の努力を続けたのです。

このあたりの定家の行動は、非常におもしろいものです。
世の中から、政界への復帰を求められながら、後鳥羽院と政治的に対立しながらも後鳥羽院を尊敬していた定家は、喜々として政界に復帰するのではなく、取り戻すべき日本の文化そのものを取り戻すべく、そのまま謹慎蟄居先である小倉山に篭って、文化の伝承者としての道を選ぶのです。

それから11年、71歳になった藤原定家は、後堀河天皇から、新たな歌集の編纂を命ぜられました。
そしてまる三年をかけて『新勅撰和歌集』をまとめあげます。
その『新勅撰和歌集』の中から、さらに抜き出した百首の歌を、宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めで小倉山荘の障子に貼ったのが、1235年の5月27日のことでした。

これが5月27日が「百人一首の日」とされる根拠になった日です。
けれど、そこに貼りだされた百首歌(『百人秀歌』)と『百人一首』は、似てはいますが、実は別なものです。

翌年(1236年)、75歳になった定家は、『新勅撰和歌集』、そして『百人秀歌』をもとに、彼の晩年最後の仕事として、後世に遺すべき総決戦の歌集として、『小倉百人一首』の選出を開始します。
世の中が、平安から鎌倉へと激動し、明察功過などどこへやら、短慮と短慮が対立し衝突して、すぐに武力衝突になる。
人の生命が奪われ、世が乱れ、悲惨な殺人事件が頻発する。
女達が安心して生きられた時代はどこへやら、武器をつきつけられて着衣を奪われ、強姦され、他人の子を孕ませられたり、あるいは殺される。
毎日のように、悲惨なニュースがもたらされる。

そんな世の中がなぜ生まれるのか。
世の中の価値観が狂い、世の中の秩序が乱れ、日本人が日本人としての文化性を失っている。
だからこそ、考えられないよな短慮な事件が頻発する。
「ならば」、その日本人の文化の根源を、どうやって世間に知らしめ、定着させていくのか。
どうやって日本を取り戻すべきなのか。
そのために何が必要なのか。

理論や理屈をいくら説いてもダメなのです。
頭でわかっても、それは行動にならないからです。
理屈では人は動かないのです。

ではどうしたら良いのか。
人は感じて動くものです。
だから「感動」といいます。

そうであれば、感動のなかに、取り戻すべき日本の姿を浮き彫りにする。
和歌には感動があります。
ならば、その和歌を効果的に配置することで、和歌を順に読み解いて言ったら、誰もが感動し、日本の文化を取り戻そうとする決意を新たにする。
そういう歌集を創ろうではないか。
それは、勅撰和歌集のような長大なものではなく、そうだ。百首くらいがちょうどよい。
百人の歌人から一首ずつ、百首の歌で、大和の文化を全部語り尽くしてはどうだろうか。

いやまて。せっかく歌集にしても、その歌集自体が歴史の中に埋没してしまってはなんにもならない。
それに、五百年続いた平和な日本が、いまこうして音を立てて崩れた今、その日本が、再びもとの美しい姿を取り戻すには、いったいどのくらいの歳月がかかるだろうか。
もしかすると、それは五百年?、いや千年はかかるかもしれない。

であれば、千年の間、歌の意味さえも失われてしまったとしても、その歌だけは生き残る。
そうだ。歌には言霊がある。
その言霊の美しさはきっと生き残るにちがいない。
そしていつの日か、きっとその歌の意味を理解する者が現れる。
それがいつのことかはわからない。
五百年先か、千年先になるか。
けれど、その日まで、歌集が生き残ってくれなければならない。
そのためには、たとえどんなに歌が貶められたとしても、あるいは言葉が失われてしまったとしても、それでも音の美しさだけで口承され、人々に愛され続けるだけの歌を、選ばなければならない。

定家は、それまで自分が学んだ全ての知識と情熱を傾け、晩年最後の仕事として、百人一首の編纂を開始しました。
たった百首の歌を選び、配置するのに、まる4年の歳月がかかりました。

1241年、藤原定家は、79歳で永眠しました。
そして定家が晩年の全情熱を傾けた百人一首は、小倉山荘に残った彼の遺産とともに、彼の遺族たちによってまとめられ、桐の箱に大切に入れられ、藤原家の蔵にしまわれました。
百人一首は、こうして藤原定家の死とともに、完全に倉庫に眠ったままになってしまうのです。

その百人一首が、あらためて世に出てきたのは、なんと定家の死後230年経ったあとの時代のことでした。
応仁の乱が終わった戦国中期です。
この時代、世の中の価値観は混乱し、細川家といえば当時は大大名の家柄でしたけれど、その細川のお殿様のところの家人たちが、貴族である西園寺さんの家を襲い、西園寺さんの娘さんの着ている衣装まで(下着まで)剥いで持ち帰ってしまう。
貴族たちの荘園は、武士団によって片端から強奪され、貴族たちの生活は困窮を極め、その荘園を奪った武士達は、また別な武士達に殺され、奪われる。
そんなことが日常的に繰り返された時代となっていました。

どうしてこのような混乱が起きたのか。
理由は、三代将軍足利義満にあります。
義満は、明国と交易を開始し、明国皇帝から日本国王の宣旨を受けました。

「国非二君(国に二君なし)」とは聖徳太子の十七条憲法の第12条にある言葉です。
義満は、それを破り、国に天皇と、China王朝から柵封を受けた日本国王の二君を形成してしまったのです。
このことが世の中の秩序を乱しました。
そして日明貿易は、巨大な富を足利将軍家にもたらしましたけれど、同時に、China、Korea鮮から大量な人が日本に移住してくる結果をもたらしました。

当時の日本は、秩序が乱れ、人が人と殺し合い、奪い合うたいへんな状況にありましたけれど、それでもChineseやKoreanからしれみれば、日本はきわめて治安の良い安定した国だったのです。
なぜなら、彼らの国では、支配層がただやみくもに、被支配層の人々から、財も女も食い物も衣類も、それどころか生命まで、まるで虫けら同然に殺し、奪っていく。
だから、田畑そのものが育たない。
それどころか、村落共同体自体が育たない。
なぜなら、武器をもった軍隊がやってきたら、村人たちはただ逃げるか殺されるかしか選択肢がない。
彼の国では、軍隊と暴徒と極道は同じものなのです。

そんなChinaやKoreaからみたら、日本はまるで極楽です。
上に述べた西園寺家にしても、なぜ細川家の家人に襲われたかといえば、西園寺家はなんら武装していないのです。ガードマンさえいない。だから簡単に襲うことができる。

そして襲った側も、綺麗どころの娘さんを丸裸にして着衣まで奪って逃走したけれど、娘さんを強姦などしていないのです。
目的は美しい衣類を奪うことにあり、強姦は恐れ多かったのでしょう。

そんな日本に、ひもじくなれば人の肉でも平気で食らうという異人たちが大挙してやってきたわけです。
治安が乱れ、毎日のように、少年が殺害されたり、マンションのエレベーター前で主婦が(子供の見ている前で)殺害されたり、とんでもない事件が相次いで起こる。
いまから500年前のことです。

そんな時代にあって、さしもの藤原家でも、困窮を極め、先祖の遺産を処分することになります。
そして連歌師の飯尾宗祗(いいおそうぎ)に、藤原定家の遺産箱の処分を委託しました。

箱の中をあらためた飯尾宗祇は、そこで百人一首を発見します。
飯尾宗祇は連歌師です。歌の専門家であり、察する文化の継承者です。
「藤原定家は、『新勅撰和歌集』を編纂していながら、なぜ、あえて『百人一首』を編纂したのだろうか。」
この疑問が、すべての答えの手がかりとなりました。

勘の鋭い飯尾宗祇は、瞬く間に『百人一首』が持つ歌の深み、そして藤原定家の「日本を取り戻したい」という強い情熱を見抜きます。
そして彼の主催する連歌会のメンバーを中心にして、百人一首のいわば「研究会」を彼の仲間たちと発足させます。

それは、毎日が驚きの連続でした。
900年前の大化の改新からはじまる日本の大きな改革。
それを成し遂げた天智天皇、それを完成させた持統天皇が、天皇として自ら政治権力を揮うのではなく、むしろ権威というお立場となって、民衆を大御宝(おおみたから)とし、自らは農作業やお洗濯をして、民とまったく同じように労働に精を出されていたこと。

そして平安中期になると、安全で安心な社会の中で、数多くの女流歌人たちがのびのびと人生を謳歌していたこと。

その平安な時代が音を立てて崩れ去ろうとしたとき、どんな気持ちで人々が時代を取り戻そう、時代を支えようと努力したのかということ。

それはまるで、神秘の扉を開けて冒険するような、たいへんな刺激に満ちたものでした。
こうして飯尾宗祗と、その仲間たちは、大名や豪商などを招いた連歌会の席や、あるいは勉強会を通じて、この感動と興奮を周囲に伝えていきます。

そして飯尾宗祗が晩年になったとき、宗祇はこの『百人一首』の全てを、当時、日本における古典の第一人者であった三条西実隆(さんじょうにしのさねたか)に、伝授します。

その三条西実隆は、全国のお大名や実力者たちから、源氏物語の書写などを頼まれていた人でもありました。
当時は、印刷技術などなかった時代です。
本は全部、書写したのです。
そして一流の学者の書写した、たとえば三条西実隆が書写した源氏物語は、いまのお金なら、1冊200万円ほどもする高価なものでした。

そしてこの写本は、使者によって注文先の豪商や大名、その奥方たちに届けられます。
これは、ただ届けるだけでは済まないのです。
使者となった者は、そこで講義を依頼されるからです。

そしてその席で、使者となった弟子たちは、同時に百人一首の伝播を行いました。
百人一首は、こうして全国に広がり、それもただ広がっただけでなく、その内容の凄みの「語り」とともに伝播したのです。

このことがきっかけとなり、戦国大名たちや当時の豪商たちの動きが変わりました。
彼らは、ただ自分の領地が富むことだけを考えるのではなく、積極的に天子様(天皇)を仰ぎ、その天皇のもとで日本をあらためて統一する。そのために働く、という選択を彼らにもたらしたのです。

そしてそのことは、そのまま、どの大名が京の都に登って、新たな日本の政権になるかを、世の中の最大の関心事にまでしていきました。
こうして今川義元が、京に上ろうとして桶狭間で討たれ、信長が天下布武を宣言し、秀吉が関白太政大臣となって政権を担い、日本が再び統一されていくことになりました。

その頃の百人一首評釈を、細川幽斎(藤孝)が書いています。
その評釈は、昨今の百人一首の解説本とは、内容がまるで異なります。
まさに細川幽斎は、藤原定家、飯尾宗祗、三条西実隆と続く、百人一首の本来の意味を、しっかりと学び、伝承した人であったわけです。

その細川幽斎の子が、細川忠興で、その妻が明智光秀の娘の細川ガラシャ夫人です。
その細川ガラシャ夫人の辞世の句が、有名な次の歌です。

 散りぬべき時知りてこそ世の中の
 花も花なれ 人も人なれ


戦国大名たちは、その中期までは、まるで文化性を失ったかのような状態でした。
けれど後期になりますと、ものすごく深い文化の香りが高くなり、そして関が原くらいの時代になると、女性たちも武将の妻として、たいへんな気丈さをみせる女性たちになっていきます。

日本が、大和人としての文化を取り戻したのです。

そして一度、文化の香りを取り戻した日本は、そのまま一気に江戸270年の太平の世を築いています。
日本は、変わったのです。

定家の時代、後鳥羽院は「平和のために戦う」とおっしゃいました。
定家は「平和を願うなら人々の心を変えなければダメだ」と言いました。
二人は激しく対立しました。

結果は、後鳥羽院は破れ、定家の願いもすぐには叶えられませんでした。
定家の願いが叶ったのは、なんと定家の死後374年経った1615年の大阪夏の陣以降のことでした。
定家の志が、なぜすぐには叶わなかったのか。
それは、元寇があったからです。

神々は、定家の時代から、すでに元寇を予見し、日本の武士達に戦いを教えていたのだろうと思います。
そして次の大きな戦いは、植民地支配との戦いでした。これはウシハク世界を相手にする壮大な戦いです。
そして日本全土が焼け野原になりながらも、世界から植民地は一掃されました。

では、次に必要なことは何でしょうか。
真に平和を求めるなら、武器を手にして戦って平和を得るのではなく、武力を行使せずに平和を実現することなのではないでしょうか。

戦後の日本の試練は、ずっとそのためのものであったような気がします。
約6000年続いたウシハク世界を終わらせ、本当の意味でのシラス世界を築く。
いま、そのための大きな戦いが始まっています。

式子内親王の愛と調和を求めた式子内親王の御志(おんこおころざし)は、いまなお日本を覆っています。
そしてその御心(みこころ)は、日本人の血肉となって世界から植民地支配を一掃し、さらに戦争のない愛と調和に満ちた世界築こうとしています。
ご生前に、「魂の緒よ、絶えなば絶えね」と詠まれた式子内親王御心は、
魂魄となってこの日本にとどまり、
いま世界を変えようとしているのです。

すくなくとも私には、そうみえます。
式子内親王の御歌を、ただの歌として読むことも、もちろんそれはそれで良いでしょう。
けれど式子内親王は、乱れていく世の中にあって、御命をかけて、愛と平和を望まれたのです。
この御歌を、その偉大な美しい御魂の叫びの御歌として受け止める。
そして私達自身も、決して戦争の起こらない、そして起こさせない、さらには何があっても国を守り抜く、人類社会を守り抜く、人と人とが殺し合わずに、お互いの対等感を持って生きることができる。
そういう社会を、そういう世界を築くために、いま自分にできる小さな日々を積み重ねていく決意を新たにする。
古典和歌を鑑賞するということは、そういうことだと思うのです。

福沢諭吉も言っていることですが、学問というのは、ただそのような歌があったとか、歌の意味がどうのこうのとか、そういうところに大事があるのではありません。
さらには、それらがこうじて、やたらとこまかなことまで「知っている」と人に自慢したりするためのものでもありません。
そうではなく、みずからすすんで民度の高い臣民となっていくこと。
そうした志を持つ仲間を増やしていくこと。
そうやって社会全体の民度を高いレベルに保つこと。

「愚民を支配するには
 とても道理をもって諭(さとす)べき方便なければ、
 ただ威をもって畏(おどす)のみ。

 西洋の諺ことわざに
 「愚民の上に苛(から)き政府あり」
 とはこのことなり。

 こは政府の苛きにあらず、
 愚民のみずから招く災(わざわい)なり。
 愚民の上に苛き政府あれば、
 良民の上には良き政府あるの理なり。」
  福沢諭吉「学問のすゝめ」より




※本稿は2016年8月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
日本をかっこよく!! むすび大学。


人気ブログランキング
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、
メールでお申し出ください。

nezu3344@gmail.com

 最新刊
 

《塾・講演等の日程》
どなたでもご参加いただけます。
第80回倭塾 2月21日(日)13時〜17時 富岡八幡宮婚儀殿2F
第81回倭塾 3月21日(日)13時〜17時 富岡八幡宮婚儀殿2F
第82回倭塾 4月17日(土)13時〜17時 富岡八幡宮婚儀殿2F



20200401 日本書紀
◆ニュース◆
最新刊『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』2020/9/19発売。
『[復刻版]初等科国語 [高学年版]』絶賛発売中!!
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』絶賛発売中!!
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』絶賛発売中。


『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


             
この記事が気に入ったら
いいね!しよう
\  SNSでみんなに教えよう! /
\  ねずさんの学ぼう日本の最新記事が届くよ! /

あわせて読みたい

こちらもオススメ

コメント

u

もしもし
 先生には、この場、失礼ながら、
誰かさん、週刊誌ネタと変わらないと思う。
クダラナイことを書くなよ。自分のところでやれ。、
先生の却下があっても、伝わるとは思うけどね、よろしく。

かやかや

正治初度百首
> 病を押して百首歌を読み、そのなかの一首を、藤原定家に見せ、その平和への思いを託されています。

このとき内親王が百首を詠まれたのは、院政を始めたばかりの後鳥羽上皇の応制百首(天皇や上皇の下命によって歌を詠進する制度)に応じてのことで、定家が見たのは一首だけはないはずです。定家の日記『明月記』によるとこの時期、定家は父俊成や二条院讃岐の百首も提出前に見ています。逆に定家は自分の百首(とりあえず版)を主家の九条兼実やその次男で左大臣の良経に見てもらっています。

というか、この後鳥羽上皇による『正治初度百首』で詠進を命じられたメンバーに定家は最初、入っていませんでした。定家の父俊成が上皇へ異例の直接上奏(院庁側近に断られ続けたので院女房に宛て書面を通じて)を行い、定家・家隆・隆房・忠良の4名が追加されたのでした。この後、さらに追加下命があって総勢22名の応制百首となりますが、式子内親王は当初の14人(と推定される)に入っています。

この時期の定家は官職は持っていましたが「安芸権介」であって、権限も仕事もありません。この時代の国司は長官である「守」ならば受領として現地の負名を指揮監督できる立場にありましたが(それも怪しくなっていた)、「介」以下は有名無実です。むしろ九条家家司としての役割が大きく、同家歌壇の新進気鋭の歌人として活動していましたが、建久七年の政変(1196年)で九条兼実が関白を罷免され、その兄弟である太政大臣・藤原兼房と天台座主・慈円も辞任という事態になるとそれも停滞気味に。

その突破口となったのが正治の応制百首で、これにより後鳥羽上皇の歌壇(仙洞歌壇)が形成され、和歌所設置、勅撰和歌集(新古今和歌集)の編纂という流れの中で定家は中心的存在として活躍し、大歌人となっていきます。政治家として活躍するのはさらに後です。

式子内親王の立場からすると上皇の求めに応じて詠んだのですから、誰かに何かを託した歌だとするなら、その対象は若き上皇(甥っ子)だったのでは? まあ、題詠歌なんですけどね。
非公開コメント

検索フォーム

ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
E-mail info@musubi-ac.com

スポンサードリンク

カレンダー

08 | 2021/09 | 10
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

最新記事

*引用・転載・コメントについて

ブログ、SNS、ツイッター、動画や印刷物作成など、多数に公開するに際しては、必ず、当ブログからの転載であること、および記事のURLを付してくださいますようお願いします。
またいただきましたコメントはすべて読ませていただいていますが、個別のご回答は一切しておりません。あしからずご了承ください。

スポンサードリンク

月別アーカイブ

ねずさん(小名木善行)著書

ねずさんメルマガ

ご購読は↓コチラ↓から
ねずブロメルマガ

スポンサードリンク

コメントをくださる皆様へ

基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメント、および名無しコメントは、削除しますのであしからず。

スポンサードリンク